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歴史についてこれまで考えてきたことを書いています


by pastandhistories

伝記と歴史

 自分が研究者としての社会的地位を持てるようになった最大の理由は、ごく少数の何人かの教師が自分にあった潜在的な可能性を評価してくれたことで、その時点での「業績」の質でも多寡でもなかったというのが正直なところです。その意味では、はるかに研究のdiscipline 性が強化されるなかでポストの獲得・保持のために、discipline のなかでの、あえて言えば形式的な業績の多寡を競わなければならない若い研究者は本当に気の毒です。
 たとえば自分たちは、当時の学界に背を向けるかたちで『社会運動史』という雑誌を作ることができました。「同人」による読み合わせは行いましたが、主査・副査による査読を行ったわけではありません。この『社会運動史』に「西洋史」研究者であった自分が掲載した文章の一つが日本の社会主義運動の指導者に対する複数の伝記的研究への書評です。この文章を自分が「業績」の一覧にみずから加えることはありません。「西洋史」という自分の属するdiscipline の外に属するものだからです。しかしそれでもなぜそうした文章を書いたのかというと、その一つの理由は歴史研究という立場から伝記ということの意味を考えてみたかったからです。
 この文章を書いた頃から、伝記(biography)の歴史研究との関係が欧米でも重要なテーマの一つとして理論的に議論されるようになりました。そうしたことについて参考になるのが Palgrave の History and Theory シリーズの一冊として出版された、Barbara Caine の Biography and History(2010) です。近年の伝記的研究の流れの変化をたどりながら伝記と歴史の関係を要約した好著です。
 この本が面白いのは、なんといっても著者がある時期まで「歴史から排除」されてきた女性であるからです。女性(のみならず、圧倒的多数の普通の人々)を排除してきた歴史、権力を作り出している構造や偉人を中心的に論じるという点できわめて政治的なイデオロギー性をもつそうした従来の歴史を批判するものとして、伝記的研究が1970年代頃から、新しい社会史やジェンダースタディーズと関連をもちながら歴史研究のなかで重要な役割を果たすようになったことが論じられているからです(p.105など)。
 もちろんこの本のなかでは、伝記を歴史研究に関連付けることにある問題点も指摘されています。対象となる普通の個々人に対しての史料の少なさから生じる問題(例外的に史料がまとまってある普通の個人を「典型」として抽出する方法がとられることになりますが、それが方法的に本当に妥当なのかという問題)、個人が生きたコンテクストや構造が伝記をとおして本当に理論的に分析できるのかと問題、「この本のなかで提示してきたように、伝記に対する関心が復活したことは、歴史に対する構造的なアプローチが後退したことに多くを負っている。またそのことは、narrative への関心が復活したこと、過去を描写し、説明する方法としてstories の価値と重要性が再認識されていることを示している」(p.124) という結論部の文章が示しているように、伝記にある抜きがたいストリー性をどう考えていくのかという問題などです。
 おそらく伝記に歴史を一元的に集約していくことは、これまでの歴史研究の(とりわけ理論的な)成果に対する、あるいは批判に対する精算主義的な思考であるという批判をうけるでしょう。伝記的研究を新しい角度から考察していこうとする流れ (biographic turn) は、女性を初めとした普通の人々を歴史の主体として位置づけようとする流れから形成されたものですが、そうした批判に対してどのような歴史を構築していくかが今後の問題となるはずです。
by pastandhistories | 2011-06-05 10:59 | Trackback | Comments(0)

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