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歴史の個人化、記憶の共同化⑤

 近代国民国家の一つの大きな特徴は、「国民への統合」がきわめて強固になったことです。その阻害要因となったものは、地域社会において人々を共同化させていたものです。「文化」という言葉をそうしたものとして規定することには、異論も多くあるとは思いますが、あえて言えば「文化」という言葉を適用してもよいものです。
 地域社会固有の言語はその代表です。あるいは風俗、習慣などです。さらには、地域に固有のかたちにあった、とりわけ文字の無い社会においては口述や象徴・儀式・祭礼などで伝えられたいた過去認識、保苅実さんの言葉を借りるなら人々の「歴史実践」などです。そのすべてが近代国民国家の形成に伴って排除されていったと論ずるのはやや極端で、一部そうしたものを利用しながら近代国民国家は形成されたと考える方が妥当でしょうが、便益性や非近代性を根拠としてそうしたものは近代国家の枠組みからは排除されました。
 「歴史実践」もまた排除の対象となりました。「事実性」や「科学性」、そして「非近代性」が、その根拠とされました。人々がそうしたかたちで実践していた過去の知のあり方は、歴史学からは排除され、民俗学や人類学の対象という地位に押しやられていきました。この過程で重要なことは、こうしたかたちで形成された歴史(歴史学・歴史意識)は、「事実性」や「科学性」、そして「近代性」に準拠していることを根拠として、それ以外のものを捨象する西洋中心的なもの、いわゆる近代主義的な傾向をもつものでもあったということでしょう。
 しかし、こうしたモダニティへの一体化は、あくまでもナショナリティへの統合に付随して生じたものでした。「近代の超克」論のような議論が、ナショナリティを根拠として行われたのはそのためですし、また日本語を媒体として「日本人」をオーディアンスとして構築されつづけてきた歴史が、「国史」はもとより、外国史研究もまた比較史的視点を根拠としながらナショナルな要素を深く内在させていたのはそのためでしょう。第三世界への期待が高まっていた戦後のある時期に、アジアやアフリカから世界史をとらえようとする試みが生じたのも、基本的にはある種のナショナリティに支えられていたと考えることができます。
 そうしたことはともかくとして、このようなナショナリティへの準拠は、戦後の歴史学のもう一つの柱であった科学性とは矛盾します。歴史が科学であるなら、国民によって異なることはありえないからです。1+1=2 は万国不変の原理だからです。こうした問題を突き付けられたのが、戦争責任の放棄・忘却が「ナショナリスト」によって持ち出された「歴史認識論争」においてです。ナショナリストの回顧的な主張を批判した高橋哲哉さんなどの議論は、啓蒙主義の延長に位置するモダニティに依拠するものとしてはまったく正しいものでしたが、残念がら戦後期とはおおきく変質した「日本人」をオーディアンスとするという場においては、必ずしも有効なものとはなりませんでした。
 こうしたながで生じていた大きな問題が、グローバリゼーションの進行です。これは歴史研究者にとっては一つの救いとなりました。なぜなら、モダニティとナショナリティの結合という場とは異なる、モダニティとグローバリティの接合という場に自らを位置させる可能性が生じたからです。歴史のトランスナショナル化とかグローバル化、あるいはグローバルヒストリーという言葉が「合言葉」のようにもちいられているのは、あえて批判的に言えば、それは現在の「日本」の国家的方向性とも一致しているという意味でまさに「合言葉」だからです。しかし、これもまた批判的に言えば、それらはリオタールやボードリヤールなどが早くからすでに批判していた近代のメラナラティヴの延長に位置するものです。自分が歴史の個人化という問題に関心を抱いているのは、そうしたものへの批判としてです。(・・・to be continued)
by pastandhistories | 2013-11-23 11:52 | Trackback | Comments(1)
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Commented by 伊豆川 at 2013-11-25 17:18 x
先生は、「歴史が科学であるなら、国民によって異なることはありえないからです。1+1=2 は万国不変の原理だからです」と論じていますが、「1+1=2」という数式が表す事象は、多義的なものだと、私は考えます。例えば、「1+1=2」という数式は、「山田さんと田中さんがいて、2人の人間がいる」ということを示す場合もありますし、「1頭の牛と1頭の馬がいて、2頭の動物がいる」ということを示す場合もあります。先生が主張するように、科学が多義的な事象を抑圧している場合があります。ですが、科学が多義的な事象の間におけるコミュニケーションの回路を開く場合もあると、私は考えます。

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