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歴史の一部

 おとといの会で出版社の人に『メタヒストリー』の初刷りの部数を聞いて少し驚きました。価格が高いので部数を限定したのかと思ったのですが、予想を超えた数でした。今どき人文系の学術書でそんなに刷っていいいのかと思うところもあるけど、かなりの勢いで捌けているようです。
 でも買ったはいいけど読者はどう読むのでしょうか。最初が面倒くさいですね。喩法「トロウプス」の説明。多分以前からあったメトニミーを換喩、シネクドキを提喩と訳すのはこれで定着していくと思いますが(今パソコンで入力したら一発で変換してくれました。すでに十分に定着していたということかもしれません)、いったいなぜそのことをホワイトは問題とするのか。これまでも多くの解説でそれが「誰の考え」に「依拠」しているのかは、説明されてきているわけですが、「どうして」という問題は意外と説明されていないような気がします。自分はこの問題はシンプルに考えています。部分が全体を代表するとして、残りの部分を無視するのはおかしいし、恣意的に選び出された部分をつなぎ合わせれば全体が形成されるという考えも論理的には厳密さを欠いている。逆に全体が措定されれば、それが部分を代表しうるとするのも、飛躍があります。ホワイトの発想の起点となっているのは、そうした安易な立論への批判なのでしょう。
 少し議論がずれますが、ホワイトの歴史学への批判は、部分が全体であると称していることに対するものだと自分は考えています。ホワイトを議論すると、歴史は事実かということに、あるいはどうしてフィクションが事実になるのかというところへ議論が向かってしまう。おとといの議論にもそんなところがありました。こうした議論の仕方は、もっと大事なことを見落としているのではと自分は考えています。
 歴史とされるものもその一部ですが、人々の過去認識には多様な形態があります。そのことは自分がどのようなものを媒体として過去を認識しているのかを考えれば、すぐに理解できることです。現在大学をはじめとする研究機関で行われている歴史研究が事実性を根拠としていることは確かなことです。相当に恣意的な内容が含まれるようになったとはいえ、学校教育における歴史はなお事実性をその根拠としています。その点では一定の虚構を許容するとされる小説や映画とは違いがある、それも確かなことです。
 これからも大学などの研究機関や、専門的な歴史研究者とされる人々の間では、事実性に根拠を置くかたちで歴史が論じられていくはずです。そのことは人々の過去認識を助けるはずです。また文書間や資料館での資料の収集や保存も行われていくでしょう。そのことも人々の過去認識を助けるからです。そうした営為自体を否定する必要はありません。しかし、大学のような本来は開かれた真理の追究の場であるところの歴史が、そのようなかたち限定化されることには大きな問題があります[「文書」館であれば、本来の目的からして、それでも構わないのですが)。
 なぜなら、そうした作業は広く歴史とされるものの一部、広く人々がもつ過去認識の一部にしか過ぎないからです。その一部が歴史研究の可能性を阻害すべきではありません。たとえば現在では圧倒的多くの歴史研究者は、歴史を文字で表象している。ほとんどの大学では、卒業論文を「書かなければ」史学科を卒業できない。歴史研究者になろうとするなら、博士論文を書かなければ歴史研究者になれない。なぜならそうした研究の場を支配している「権威ある」歴史研究者は、それだけを「事実的」な歴史と考えているからです。しかしよく考えればすぐにわかるように、歴史「叙述」というのは、本来的にありうる歴史のほんの一部に過ぎません。事実に沿ったより正確な表象をしようとすれば、映像や音声が伴わなければいけないということは自明のことです。なによりも現代史を対象とするなら、より正確に過去を伝える史料自体が、圧倒的に記録・保存された音声や映像なわけだからです。事実をより正確に表象することが歴史研究の成果であるべきだというのなら、学生や大学院生に課せられるべきは、卒業論文ではなく、卒業映像であるべきでしょう。
 つまり歴史は事実であると主張する現在の歴史学は、文字的な歴史を絶対化している「一部」によって支配されている。したがってそのことに根拠を置くかたちで人々に強いられている過去認識もまた「一部」によって支配されているものでしかありません。「歴史の事実」ではあっても「過去の実在」とはほど遠いものということになります。ホワイトが批判したのはそうしたことだったのだと思います。ホワイトが「過去の実在」自体を否定しているわけではないと繰り返しているのもそのためです。こうした意見は極端でしょうか。自分の経験を振り返りながら、よく考えてください。たとえばテレビニュースと新聞は、どちらがより事実的なのか、どちらがより構築的なのかというようにです。実はそのどちらも構築的です。そう考えた時、フィクショナルなるなものとされる映画や小説から、ある種の現実の社会についての認識を、あるいは過去の実在についての想像的理解を、私たちが作り出していることに気づくはずです。

by pastandhistories | 2017-10-09 21:54 | Trackback | Comments(0)
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