歴史についてこれまで考えてきたことを書いています


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ネットの情報管理

しばらく休みました。プロジェクトの報告集の刊行、ケート・ホジキンを招いてのワークショップの終了、それからカーレ・ピヒライネンの帰国、ということでいろいろな仕事が終わって多少ほっとしたところがあって、少しのんびりしていました。逆にその時間を見て、現在抱えている英文と邦文の二つの整理。英文は随分以前に書いたので、その見直しと注付け、邦文は40枚ほどアウトラインをまず書いて見ました。正直自分には荷の重い内容で、苦労しています。
 以前に書きましたが、VISTAで動かしていたパソコンが不調に。10に買いなおしました。ところが設定にあたって添付されていたオフィスを入力したら、すでに指定されたプロダクトキーは使用済みであるというアクセスエラー。どうもマイクロソフトアカウントがいたずらをしているようです。国民背番号と同じで、これまでのパソコンでのオフィスの使用履歴(アカデミックパックを使うことが多かった)が集約されて、使用履歴に問題があるとされているのかもしれません。ネット世界の一つの怖さかもしれません。この記事は古いノ-トパソコンで入力しています。
 この間衛星波で、Person of Interest を少し見ています。土日に一挙放送をしているけど、全体で103話。全部見続けると仕事ができないので、時間の空いた時に。『相棒』のような構成。テーマはネット社会。ようするに巨大な監視装置を作った本人が、その監視装置を利用しながら、ネガティヴにもポジティヴにも犯罪を防止していくという話です。当然のことながら、より大きな監視装置を作ろうとする側、あるいは監視装置の一人歩きとの対決、ということもテーマとなっています。多分意識して作っているのだと思いますが、会話がハードボイルドタッチでわかりやすく、英会話の勉強にも多少なります。
 個人の記録を中心に、記録を常に書き換えるということもプロットの重要な要素となっていて、『1984年』の現代版みたいなところもあります。デジタル化されたテレビの視聴記録、携帯の通信記録、鉄道カードの使用歴、無意識のうちにパソコンに打ち込んだデータである閲覧履歴、メール、クレジッドカードや銀行カードの記録、もちろんブログやツイッターのすべてがホストコンピューターに記録され、それが監視カメラによるデータと重なり会うかたちで集約され、すべての個人の行動が予見できるという話です。過去のデータを集積すれば、未来を予測できるという話。科学的歴史学の究極の目標が実現しつつあるということかもしれません(?)。
 今回のパソコンの入力上の問題がそうしたことと関係があるかは、今の段階ではわかりませんが、そうした時代に一人一人が今生きているということでしょう。そう言えば今までは簡単だったインターネットの立ち上げ画面からMSNのホームページを除去する作業も今回は結構面倒でした。今話題の女性がいきなり大写しとなるので、それと関係するある新聞社の意図的、誘導的なニュースと一緒に排除しようとしたのですが。

# by pastandhistories | 2017-03-08 16:02 | Trackback | Comments(0)

パブリックな場の歴史とのかかわり

 キャサリン・ホジキンによるラファエル・サミュエルとヒストリー・ワークショップについての話は、コンパクトによくまとめられていて、とてもわかりやすいものでした。院生クラスだけでなく、学生にも聞いてほしいような話でしたが、日程的なこともあってそうした準備ができず、時期的にもいろいろな重なりから参加者が少なかったのは残念です。ホワイト論の時など、今年度のプロジェクトは理論的な問題の時は予想外に多い参加者があったのとはある意味では対照的で、現在の歴史研究者の関心のあり方、とりわけ非アカデミズム的なものに対しての関心の薄さを感じました。
 質疑でも出ましたが、ヒストリーワークショップ運動が提起した問題を考えるときは、practicing history, doing history と、making history, constructing history を少し区別して考えるのがよいのではと思います。前者はすべての人々が行うこと、後者は専門的な歴史家や state にその権限が委ねられているというようにです。そう考えれば、後者に対する批判としての前者の持つ意味が理解できるのではと思います。
 ところで、今日の『朝日新聞』の書評欄では、人類史(ビッグヒストリー)が大きく取り上げられ、クリスチャンやハラリの本が改めて紹介されていました。その理由はきわめて明確です。ベストセラーだからです。つまりパブリックな場でそうした大きな歴史が大きな関心を集めているからです。自画自賛になりますが、このブログはたぶんビッグヒストリー論を日本でもっとも早く紹介したものの一つのはずです。アメリカ歴史学会や世界史学会で行われていた小さなセッションの内容を紹介してきたからです。いずれも参加者は20人足らずで、それがこれほどの広がりを持つようになるとは記事を書いたときは正直予想できませんでした。
 逆にヒストリーワークショップ運動は小さな歴史の試みの一つです。問題は、ビッグヒストリーのような大きな歴史、ヒストリーワークショップ運動のような小さな歴史、そうしたものが伝統的な学問的な歴史の外部に位置するものとして扱われ、アカデミックな場にある歴史がそれを自らの内部にあるものとすることができないことです(実は小さな歴史でも、いわゆるミスロヒストリーとして、その実証性を根拠に学問的世界に位置しているものもありますが)。その点でアカデミックな歴史がパブリックな場での関心とかけ離れたものとなっていることです。
 という議論にはもちろん反論が成り立ちえます。たとえば最近の歴史研究は、戦国期やお城、あるいは武士の日常生活などをめぐる歴史ブーム、ヨーロッパ社会の貴族や庶民の暮らしへの関心、といったようなパブリックな場にある関心と結びついているというような議論です。しかし、そうした関心は何に支えられているのでしょうか。そうした関心の背後にあるのは、ナショナリティに基づく歴史意識、あるいはヨーロッパを日常的な趣味的な関心の対象とするモダニティへの同化意識ではないのでしょうか。
 その意味では同じパブリックな場での関心といっても、ビッグヒストリー論や、普通の人々にとっての歴史への関心は、前述のようなものとは質的に異なるものです。こうした関心にどうかかわっていくのかということこそが、現在の歴史研究にとっては、より重要な問題です。

# by pastandhistories | 2017-02-26 09:04 | Trackback | Comments(0)

大きな歴史と小さな歴史

 今から宣伝してもと思いますが、今日のワークショップで話してくれるキャサリン・ホジキンはすでに来日しています。火曜日に簡単な打ち合わせをしました。今日は近世イギリス史について、25日はヒストリーワークショップ運動の歴史について話してくれます。普通の人から見た小さな歴史についてです。やや専門的な話も入るので、参加者数が心配ですが、午後は天気も良くなりそうなので、関心のある人は参加してください。場所は大学の敷地の中ではなく、正門の向かい5階建ての建物の3階です。
 関心といえば、ハラリの『サピエンス全史』はすでに38万部売れたそうです。いわゆるビッグヒストリーの流れにあるものです。デイヴィッド・クリスチャンも同じように売れたようで、一般の場の歴史への関心のあり方をうかがわせます。このブログで初めてビッグヒストリー論を紹介した際は、自分にも戸惑いがあって、紹介に足りないところがありました。ここまでこうしたいわゆる大きな歴史が高い関心の対象になるとは、予想していませんでした。
 今日の夜は連続番組となったファミリーヒストリーがNHKで放送されるようです。ファミリーヒストリーはかなり難しい問題があるはずで、テレビ番組をとおしてそこまでの厳密な構成はできませんが(これまでの放送でもそうでした)、こうした放送をとおして大きな関心の対象となっていくでしょう。こちらは個人を起点としたいわば小さな歴史です。
 残念ながらこうしたパブリックな場での大きな歴史と小さな歴史への関心の広がりに、現在の日本の学問的歴史はほとんど対応できていません。その理由がどういうところにあるかを考えることは、学問的な場にある歴史にとって重要な問題ではと思うのですが。

# by pastandhistories | 2017-02-23 09:56 | Trackback | Comments(0)

ファミリーヒストリーとグローバルヒストリー

 23日と25日の会で配布する予定の小冊子ができました。この2年間のプロジェクトでの英文報告をまとめたものです。それなりに面白いのではと思います。ジェローム・デ・グルートのペーパーも入っています。
 グルートといえば、ある研究会で彼のことを紹介したら、名前から判断してオランダ系かと質問されました。もちろん名前から判断して一世代前は二分の一、二世代は前は四分の一、三世代前には八分の一ほどのオランダ系のDNAが入っていることは確かかもしれません。実はブラジルでのINTHで彼が行ったキースピーチで、彼がそのことをデ・グルート・エスニシティというかたちで論じたことを紹介したことがあります。円グラフを用いて、オランダ系40%、さらにはフランス系、イギリス系、等々がそれぞれなん%くらいかを図示したのですが、当然会場からはオランダ、フランス、イギリスというように分けるのはおかしいという声が飛んで、グルートももちろんそうだと答えていました。はるかに細分された地域をとおして示すほうがより正確だからだからです。そもそも地域を今ある国家に固定的に連結させるのは、奇妙な歴史観であって、個人的なエスニシティをそうしたものに結び付けるのも、さらに不正確なものだからです。そうした誤った認識を子供に与えるような歴史教育は正されていく必要があるでしょう。 
 このことと関連して思うことは、この間報道された教科書への領土問題の記載という問題です。領土の範囲を「国民」教育で教えることは、確かにそれ自体としては全面的に否定されることではないかもしれません。しかし、その根拠が「固有の領土」であるからという文章はおかしなところがあります。なぜなら「固有」とは何に対するものとして用いられているかわからないからです。「固有」に対比される言葉は「共有」なのでしょうか。「本州は日本の領土である」という表現はあっても、「本州は日本の固有の領土である」という表現はあまり聞いたことがありません。自明のことだからです。だとすると「固有の領土」であるとすることは、「共有地ではない」ということを強調することによって、わざわざ係争地であることを認定しているような印象を受けます。その意味では奇妙な表現です。
 おそらくこれは政治家などがしばしば過って用いる「歴史的な領土」ということが使用しきれないことを誤魔化すものためなのだと思います。いうまでもなく、問題となっている土地は、古来からのという意味でけっして「日本」の「歴史的」な領土ではないからです。そもそも歴史的には、日本という国は、平安期までは北海道も琉球も歴史的に領土としていたわけではありません。したがってその延長にある島も、当時は日本の領土であったわけではありません。
 最近では一部で琉球独立論が主張されるようになりました。その根拠の一つはかつては独立した地域であったという歴史の事実に置かれています。だとするように、同じように、北海道は独立してよいのでしょうか。歴史的には日本の支配にはおかれていなかった地域だからです。しかし、北海道独立論というのは、それほど目立ったものとして主張されているわけではありません。北海道に現在居住している人のファミリーヒストリーをたどると、そのエスニシティを高い割合で北海道に置く人は、きわめて少数だろうからです(このことは和人の現在的な多数派形成を全面的に正当化しうるものではありません。それはアメリカやオーストラリアにおけるネイティヴに対する問題と同じです。しかし、アメリカもオーストラリアもイギリスから独立しました。その意味では北海道に独立権があるという考えも成り立ちえます)。
 こうしたことから言えることは、領土問題というのは、歴史的な問題でも、エスニックな問題でもなく、現在的な政治問題であるということです。歴史的なものとして語られるにしても、それはあくまでも第二次大戦後の歴史に基本的には限定して論じられるべき問題であるということです。
 

# by pastandhistories | 2017-02-16 22:04 | Trackback | Comments(0)

ファミリーヒストリーについての誤解

 昨日寝しなになんとなくテレビをつけたら、『ゴッドファーザー partⅢ』が放映されていました。いわゆる「ファミリー」の話です。グローバルヒストリーの一つのテーマとして論じられることがある、immigration に伴う問題がわかる部分が描かれています。移住に、家族的な結合や、あるいは人種的な、地域的な結合がそのような役割を果たしたのか、というテーマです。もちろんそうしたテーマは、『ゴッドファーザー』に限らずアメリカ映画でしばしば扱われるテーマ。アメリカ社会にある過去認識のあり方、とりわけパブリックな場にある歴史の一つのかたちです。というより、現在の世界的な、つまりグローバルな現象だということでしょう。この映画が多くの観客を集めたのもそのためではと思います。
 しかし、この映画でファミリーヒストリー全体を論じるとすると、それはやや誤りです。先祖をたどるという意味での現在のファミリーヒストリーは、この映画が描いたような「ファミリー」ではなく、より「個人的要素」を重視しているからです。具体的に言うと、ファミリーヒストリーは同じ家族であっても個人によって異なるものです。たとえば夫と妻は家族ですが、それぞれの個人的なファミリーヒストリーはまったく異なったものです。子供たちも、母親側のファミリーヒストリーが混在しているわけですから、彼ら・彼女たちは父親とは異なったパーソナルなファミリーヒストリーを有しているわけです。親戚同士が結婚しあう族内婚ではなく、族外婚であればそういうことになります。個人的ななこととなりますが、自分の父親と母親は出身地が異なるにもかかわらず、血縁関係のない従兄妹でした。こうした婚姻は自分から見ると1~3世代の間では随分と繰り返されていたようです。明治維新以降の都市集中によって、随分と大きな移住のあった時代ですが、そうした移住があったがゆえに、伝統的な血縁的、あるいは地縁的関係を維持するために族内婚的な枠組みが一時的に行われていたのでしょう。しかし、現在の日本ではおそらくはそうした枠組みは薄れて、族外婚的な結合が一般化しているのではと思います。そこでは、パーソナルなファミリーヒストリーは、この場合にファミリーというのは、シンクロニカルな結合関係にある人々ではなく、ダイアクロニカルにジェネティックに辿ることのできる人々を指すことになりますが、それは夫婦間でも大きく異なるものとなります。
 少しわかりにくいかもしれませんが、わかりにくかったら自分の配偶者が外国人である場合を考えるとわかりやすいかもしれません。しかし、それほど極端な例をとらなくても、自分個人のことを考えれば理解できることなのではと思います。


# by pastandhistories | 2017-02-13 11:55 | Trackback | Comments(0)

ファミリーヒストリー

 予告していたようにファミリーヒストリーの話を書きます。理由は、最近NHKの地上波で主として芸能人を素材に取り上げられ、大きな関心の対象となっているからです。またこのテーマは自分が歴史理論の問題をいろいろ考えはじめた時に、基本的なテーマの一つとしたことだからです。
 このブログでも何度か紹介したように、『国境のない時代の歴史』という本を1993年に出版したことがあります。タイトルからもわかるように、グローバリゼーションと歴史のかかわりを論じた本です。その第一章は以下のような文章で始まります。
「私はよく講義で学生に、『両親の名前を言えますか』と尋ねる。もちろんこの段階で『いいえ』と答える勇気のある学生はいない。次に『祖父母の名前を四人とも正確に言える学生はいますか』と尋ねる。ぱらぱらと『答えられない』という学生がでる。実は私も母方の祖父母は居住していた地域が異なり、また早死にしたこともあってよくは知らない。さらに『その上の曽祖父母の名前を八人いる場合は、全部を答えられますか』と尋ねる。多くの学生はこの質問にまずはほとんどが完璧には答えられない。彼らが知っているのは、せいぜい父方の曽祖父の名前程度である。
 このことはいろいろなことを教えてくれる。まず言えることは、認識の対象として男性に比し、女性の方が忘却されやすい、ということである。このことは、現在の日本の社会がなお父系的要素の強い社会であることを物語っている。さらに言えることは、個人が自分の家族を単位として実感としてもつ過去への認識は、せいぜい三世代、時間にして百年前後くらいなものである、ということである。
 こうした質問にくわえて、私は、『それでは三世代前の祖先に中国人や、韓国人、朝鮮人がいる人はいますか。それより遡れば、自分の祖先には中国大陸や朝鮮半島に出自を持つという人はいますか』とも質問する。この質問には、学生はとまどう。すでに混血化し、日本人としての国籍を取得した人にとっては、二重性をもつ自分のアイデンティティをあえて明示することのデメリットが、日本の社会ではいまなお少なくないからである。・・・・現在の日本の社会のなかで、そのルーツを部分的に大陸や半島に持つ人はかなりの数にのぼるはずである。私自身もその一人だと思うのだが、残念ながらその痕跡を明確に過去に辿ることはできない。多くの日本人にとってそうであるように、そうした事実が恣意的に自分の過去から消去されているからである。
 私はまた逆の観点から、『ヨーロッパ系の人が自分の祖先に混じっているいる可能性のある人はいますか』と質問することもある。これには結構『イエス』と答える人もいる。もっともその混入の度合いは、八分の一と十六分の一とか、かなり希薄である場合もあるのだが、にもかかわらず、そうした特殊性をむしろ強調する人も多い。
 しかし、常識的に考えれば、日本の社会では、部分的にそのルーツを大陸や半島にもつ人々のほうが、ヨーロッパにもつ人より圧倒的に多いはずである。にもかかわらず、前者が捨象されがちで、後者がむしろ実際以上に強調されるというところに、現在日本人がいだいているある種の歴史認識が端的に示されている。自分の個人的ルーツという点からもかかわりの深いはずの東アジア世界への認識が希薄であるのにたいして、個人的にみれば直接的関係はけっして密接でないヨーロッパとの結合関係が過度に強調されている歴史意識が、である」
 長い引用ですが、自分が20年前以上に書いていたのはこうした文章です。今週の夏木マリさんのファミリーヒストリーを見た人は思い当るところがあるのではと思います。
 引用が長くなってしまったので、今日はここまでにして、宣伝を加えておきます。『国境のない時代の歴史』(1993)は、日本でもっとも早い時期に書かれた?(世界的にも早かったかもしれません)グローバルヒストリー論として、興味深い本です(自画自賛)。当然もう絶版になっていますが、AMAZONでは「安く」古書として入手できます。一時期ものすごく安くなったのでみっともないと思って、学生に購入してくれたらサインすると言ったら(基本的には抜き刷りや献本には署名をしないのが自分の考え方です)、すぐに買ってくれた学生がいて、値段が持ち直しました。実はいまもかなり値段が下がっているので、もし関心を持って、購入してくれる人がいるとと嬉しいです。直接会わないと、サインはできませんが(笑)。
 ついでにもう一つ宣伝。この間出版した3冊の自著、編著はそれなりに捌けたようです。『歴史を射つ』はんまだアマゾンにはあるようですが、昨年で版元は品切れになりました。残りの2冊も「残部僅少」?だと宣伝しておきます。

# by pastandhistories | 2017-02-11 12:52 | Trackback | Comments(0)

キャサリン・ホジキン

 23日と25日の会は実際の歴史研究者の人たちからそれなりに反応があるようです。講演してくれるホジキンが実際的なフィールドをもつ研究者であるからかもしれません。今は研究者の研究内容はネットで容易に知ることができますので、詳細はそれに譲りますが、キャサリン・ホジキンに関して簡単に紹介すると、今回の企画に関して彼女に来てもらうことになった最大の理由は、主題であるヒストリーワークショップとラファエル・サミュエルをきわめてよく知る人物だからです。
 その一端は当日配布する予定の彼女から送られてきたペーパーでもふれられています。具体的に言うと、ラファエルは彼女の母親であるアナ・ホジキンとちょうど彼女が少女期にあたる時期にパートナーとして同居していました。つまりラファエルの義理の娘であるという時代があったということになります。詳しくは当日話してくれると思いますが(あるいは話す必要のないことかもしれませんが)、そののちの歴史研究者としての活動と合わせて、話の内容には期待してよいのではと考えています。。
 今日も宣伝となりましたが、読むのに多少つかえていた本が今日読み終わったので、明日からは多少書くことに重点を置こうと考えています。もちろん自分の原稿を書くことを優先しますが、ここでもヒストリーワークショップの活動ともかかわりのありテレビでも取りあげられるようななったファミリーヒストリーの話や、これもいろいろな本が出て話題として定着し始めた大きな歴史、ビッグヒストリーについて、少し書いていこうかなと今は思っています。予告してうまく書き進められたことはあまりないのですが。

# by pastandhistories | 2017-02-09 22:45 | Trackback | Comments(0)

2月23日、25日

 当初の予定と変更があったために、準備に随分と時間がかかり告知が遅れましたが、2月のプロジェクトの内容が以下のように決まりました。招聘者は、東ロンドン大学ラファエル・サミュエルセンター所長キャサリン・ホジキンとなります。また全体タイトルは、「すべて人の歴史の歴史」とその方法、です。趣旨はホワイト同様、意外なほど日本では論じられなかったラファエル・サミュエルと彼が中心となったヒストリーワークショップ運動、およびそこから派生した歴史への具体的なアプローチ(今回は self の問題)を議論していくことです。なおこの間その作成作業に追われていたプロジェクトでの報告を中心とした英文報告集完成が間に合いそうなので、参加者には配布する予定となっています。

  日時 223日(木)14:30

  会場 東洋大学白山キャンパス甫水会館301

  報告 キャサリン・ホジキン ※通訳なし

  ‘Constructions of the self: memory, time and space in seventeenth-century English autobiography'

  司会 道重 一郎

  日時 225日(土)1330~ (1300受付開始 ※事前申込等不要)

  会場 東洋大学白山キャンパス2号館 16階スカイホール

  報告 キャサリン・ホジキン ※通訳あり

  ‘Unofficial Histories: Raphael Samuel and the History Workshop movement'、

  司会  道重 一郎  岡本 充弘 



# by pastandhistories | 2017-02-08 12:24 | Trackback | Comments(0)

壁のない教室

 早くからこのブログで宣伝していたプロジェクトの最後の招聘研究会、2月23日と25日のワークショップの内容が最終的に決まりました。たぶん今週末から来週にかけて、遅ればせながらポスターと案内状の配布に入れると思います。早くから日程が決まっていたのに連絡が遅れたのは、当初予定されていた人の都合が悪くなり、途中で招聘者の変更があったからです。といってもいろいろ尽力してくれる人があって、テーマを変更することなく会は催せることになりました。宣伝活動が動き始めましたら、ここでも内容を記すようにします。テーマは「『すべての人の歴史の歴史』とその方法」というものです。気づいた人があるかもしれませんが、イギリスのヒストリーワークショップ運動と、その考えに基づく実際の歴史研究へのアプローチが中心となります。いわば「開かれた歴史」です。
 「開かれた歴史へ」というのは、これも宣伝になりますが。自分の本のタイトルです。人間は親を選ぶことはできないし、受ける教育も自分では選べません。その意味では決して自由な存在ではありません。しかし、自分が運がよかったと思うのは、小学校が戦後の実験教育のモデル校で、様々な当時の「自由」な教育の実験の対象となっていたことです。なんといってもその当時は日本のどこにもなかった(一部のミッション系の小学校を除いては)土曜日は休みという超「ゆとり」教育。教室も特別教室への移動が多く、また授業でもグループ学習が随分と重視されていました。何年か前に同窓会があって、現在の教室を見せてもらいましたが、なんと教室と廊下の間に壁がない。したがって教室が随分と広い空間になっていて、その一部におもちゃなどが置いてある。どうしてそうなっているのかと尋ねると、子供は時間中ずっと授業に集中できるわけではないので、飽きたら部屋(といっても壁はないのですが)の隅で遊んでいてもいいということでした。いわば「開かれた教室」です。実験的な教育を受けた自分にとっても、随分と大胆な試みだなという感じがしました。
 

# by pastandhistories | 2017-02-02 12:13 | Trackback | Comments(0)

世代

自分の世代には映画好きの人が少なくありません。その理由は子供の時に親に連れられて映画館に行くのが、習慣だったからです。その代表的な例が川本三郎さん。直接の知り合いであったわけではありませんが、たしか大学は同学年であったはずです。彼が朝日百科の『週刊世界歴史』に執筆していた歴史映画論は文化論ともしても優れたものです。その理由は『十戒』や『ベン・ハー』といったようなスペクタクル超大作だけではなく、いわゆるB級映画にも結構な目配りがあったからです。その一つの例が自分も親に連れられて見た『悪の塔』という珍作も取り上げていること。本当に愉しい作品。しかし、子供と一緒に見るような映画とは言い難い。この映画に連れて行ってくれた自由な父には本当に感謝しています。

どうして自分たちの世代が子供の頃にそんなに映画を見ているのかというと(長じても映画が自らの文化的枠組みとして大きな役割を果たしていたのかというと)、それは前述したように、親の世代にとっても映画館に行くのが、日常生活の一部だったからです。その理由はなんといっても、親の世代にとっては、映画が大衆文化となっていた時期が、ちょうど青年期に重なり合っていたからでしょう。自分の父親は1909年生まれですが、ちょうど青年期が世界的にも映画文化が大きく発展した時期。それをナチズムが利用したということも、広く論じられていることです。

しかし、自分が父親の趣味として思い出すことは、以前少し書いたことがあるように、レコードの収集家であったこと。これは終生変わらず、少し経済状況がよくなると、サラリーマンの月給の10倍近くになるようなプレイヤーを買ったりしていました。晩年はFM放送をテープに収録するのが日々の生活の一部でした。神保町で育ったこともあって秋葉原に行くのも大好きで、いろいろな電気製品の部品を一緒に買いに行ったこともあります。

自分は兄弟の仲では父親と趣味が一番共通するとことがあったのですが、残念ながら音楽にはそれほど興味を持ちませんでした。特にレコードには「機械」の音というイメージがあって馴染めないところがありました。どうしてこんなに「機械」の音が好きなのだろうという印象もありました。その疑問に対して答えてくれているのが、Conceptualizing Global History, edited by Bruce Mazlish & Ralph Buultjens,1993 に掲載されている John Joyce ‘The Globalization of Music; Expanding Sphere of Influence’ という論文です(この論文はマズィリッシュと入江昭さんが編纂したラトリッジから刊行したグローバルヒストリーのアンソロジーにも一部が掲載されています)。

ジョイスがその中で指摘していることは、電気を媒介とした音の文化の広がりです。彼によれば、1920年にラジオの受信者は1万5千人、それが1927年にはアメリカだけで、700のラジオ局と800万人の受信者があったとされています(前掲書、271頁)。ジョイスはレコードも同じように急速に拡大していったことを指摘しています。日本はこれにやや遅れたでしょうが、父親の青年期にはこれほど大きな文化的変化があった。そのことに父親やその世代の人々が大きな影響を受けたことは、間違いないでしょう。映画や自動車などの出現とその影響は(父親のもう一つの趣味は自動車でした)ある程度想像できることですが、音楽の形態(そして音の文化の形態)もまたこの時期に大きな変化を遂げていたことは、意外と視野の外に置かれがちです。その意味でジョイスの論文は面白く読めるところがあります。

最近は歴史研究でも世代論が随分と注目され始めていますが、自分の一つ前の世代にどうした文化的枠組みがあったのか、それが自分の世代にどのような影響を及ぼしたのかという問題は、普段意外と気づかない日常的なものの中からも見出すことができます。


# by pastandhistories | 2017-01-25 07:22 | Trackback | Comments(0)

1917~19年のイフ

 自分の考え方は、一度決めたことはある程度持続していくということ。プロバイダーも変えないようにと思っていたのですが、転居する以前に使用していたJCOMが利用できるようになったというので、衛星波テレビをスカパーからJCOMへ、ついでということでプロヴァイダーもJCOMに戻しました。ところがセキュリティが結構強化されて、早い話がこのブログもややアクセスがしにくい。普段見ていないものは、認証上の警告が多く、常用パソコンは中古のVISTAヴァージョンだったせいか、動きが急速に悪化、ネットサーフィンがやりにくくなりました。ということでいろいろパソコンをいじっていたら当然のようにフリーズ。セットアップをやり直したら、救済できるはずのデスクトップのデータは、ハードディスクのデータと同じ拡張子.BUT というファイルに。頑固なファイルで当分開けないでしょう。したがってデスクトップにおいておいた10月23日からの原稿がパー。多少は記憶メディアに移してあったけど、書き出しが一番気にいっていた原稿が消えてしまい、それが残念です。 
 もしプロヴァイダーを変えなかったら、もっと気をつけていたら、ということで今日はイフヒストリーの続き。前回の記事に意味が通らなかった部分もある感じがするので、少し補足をしておきます。1918年にボルシェヴィキが権力奪取に成功しなかったらと書いたのは、そうであったならロシア革命は、ドイツ革命と同じように、帝政を倒し、それなりに社会主義的な政策を掲げた、制度的民主主義にもとづくの政治体制を生み出すものとなった可能性があるからです。当然コミンテルンは結成されない。マルクスはともかく、マルクス・レーニン主義といった神格化も起きなかった。日本におけるアナボル論争の結果もかなり異なっていたでしょう。もちろんドイツ革命の推移も違うし、そののちのドイツ政治の流れも大きく変わっていたでしょう。
 もちろんこうした議論への反論も可能です。ワイマール体制が制度的民主主義の脆弱性のゆえにファシズム支配を生み出したように、あの時ボルシェヴィキが断固たる態度をとらなければ、ロシアは極めて反動的な政治状況におかれたはずだ、というような批判です。理のある批判です。二月革命とボナパルティズムの関係からもそうした議論が成り立つかもしれません。
 そうした批判を前提としながら、自分がここで書いているようなイフのことを考えるのは、やはり制度的民主主義の可能性を(もちろんその限界を合わせて)考えることは、現在もなお重要なテーマだと思っているからです。1917~19年の結果の延長として、ドイツにファシズムが生み出されたのは事実だけど、現在のドイツとロシアの政治にあり方を比較すると、やはりロシアにより大きな問題があるからです。

# by pastandhistories | 2017-01-23 22:10 | Trackback | Comments(0)

革命記念日

 今日は革命記念日。どこの国の?もちろんロシアの。と言うと、ロシア革命は11月7日に起きたと日本の世界史教科書では習ったという人がいそうです。そうではなくて11月7日は自分の誕生日。昔は毎日ソ連では革命を記念する軍事パレードが行われて、ミサイルを先頭に自分の誕生日を盛大に祝ってくれました。11月7日は TOKIO の長瀬智也の誕生日でもあって、そのことを授業で言ったら、女子学生が彼に送ったチョコレートの残りを、自分にもくれたことがありました。
 なぜ11月7日ではなく今日がロシア革命の記念日かというと、11月7日は確かに冬宮を襲撃してそれまでの臨時政府を解体し、ソヴィエトがそれに代わる臨時権力となったけれど、そこで国民に対して約束されたことは、憲法制定議会の成立させるための選挙を行うことだったからです。翌年の選挙の結果、第一党になったのはボリシェヴィキではなく社会革命党、当然政権運営と憲法制定の権限を国民は社会革命党に仮託したわけですが、その憲法制定議会を実力で解散したのが、1月19日です。つまり一度はそこに権力を移行することが約束されていたはずの憲法制定議会の権限を剥奪し、ソヴィエト権力に一元化したのは1月19日であって、その意味では1月19日を革命記念日と考えてもいいわけです(あるいは正式にロシア社会主義連邦共和国の設立宣言が行われた1月23日でもよいかもしれません)。
 この意味で今年はロシア革命100年ではないと議論できそうです。しかし、皇帝が退位して帝政が崩壊したのは1917年の3月ですから、その意味ではやはり革命百年となります。でもだとしたら、つまり王政の廃止を革命の年と考えるなら、フランス革命で王権が停止されたのは1792年の8月ですから、フランス革命は1792年に起きたことになります。しかし、フランス革命の記念日は7月14日、バスティーユ襲撃の日です。フランス革命も通常は1789年に起きたとされています。革命記念日の決定(国民の共同記憶の構築)はこうした例からもわかるように、かなり恣意的なものです。ソヴィエト政権が、1月19日ではなく、11月7日を革命記念日にしたのは、自らの最終的な権力奪取の「非合法性」を隠蔽するためでしょう。
 というここまでの話は、しばしば議論される歴史の構築性にまつわる問題です。しかし、このことを今日書いたのは、もう少し重要な民主主義の可能性という問題に関してです。ソ連の公的史観においてばかりか、日本においてもロシア革命が11月7日であるとされていたことによって排除されていたのは、ロシア革命のもう一つの道、つまり憲法制定議会が権力維持に成功していたら、その後ロシアはどういう道をたどったのかという問題です。今度の池田嘉郎さんが書いた岩波新書のロシア革命論はそうした問題に触れているということなので、少し楽しみです。
 もちろんこうした問題は皮肉なことに、ロシアで憲法制定議会からの奪権が行われたその一年後の同じ1月19日に行われたドイツ憲法制定議会の選挙で、社会民主党が第一党となり、ワイマール憲法制定されていく(そしてこの政体において最終的にはナチスの権力奪取が行われた)という過程とも重なり合う現代史にとっても、きわめて大きな問題と重なり合っています。イフヒストリーには批判的な歴史研究者が少なくありませんが、もしロシア革命がドイツ革命と同じような道をたどっていたら、ドイツ革命のあり方も異なっていたものになっていたでしょうし、はたしてファシズムが形成されたかもわかりません。このように、民主主義の可能性を考える素材として、結果論にとらわれすぎることがなく、こうした問題を柔軟に考えていくことは、とても重要なことだと自分は考えています。

# by pastandhistories | 2017-01-19 11:46 | Trackback | Comments(0)

壁の厚さ

 今年は卒業論文を読む必要がなく、その分時間があるはずなのに記事を書いていないのは、この間横文字を読むことが仕事の中心になっているため。時間をとられるので、他のことがしにくくなります。その合間を縫って、先週の土曜日はある人(このブログでは日本人研究者の個人的情報はあまり書かないようにしているので、ここでは実名はあげませんが、もちろんあの人です)の最終講義に行きました。自分と同じセンター入試の日と同日。自分は卒業生中心の行事なのでそれでよいと考えたのですが、同じ考えだったようです。考えてみれば50年以上の知人。昔はキャッチボールをしたり、スキーに一緒に行ったりしました。個人情報をここで書くのはあまりよくないけど、キャッチボールの際の球の回転数はもの凄くボールが伸びてくる、スキーも東京育ちだけど20日程度で準指導員の資格をとったという何をやっても一流の人です。もちろん学問的にも。
 普段はほとんどこうした会には参加しませんが、実は一昨年もある人の(この人もあの人です)会で挨拶を頼まれました。その時に言ったことは(この会は若い研究者が中心でした)、「皆さんおめでとうございます。邪魔者が消えてせいせいしていると思います」ということです。やっと新しい時代が始められるわけですから。と同時に、といっても「彼の壁を超えるのは大変なことだから、頑張ってください」とも言いました。なぜならそのことは自分がいつも先行的な世代に対して抱いていたイメージだからです。
 戦後思想を現在の段階で批判するのは、ある意味では一見簡単に見えます。しかし、以前書いたように、彼らの思想が戦争体験に支えられいたという重さを考えれば、それを越えていくのは本当は大変な作業です。そこには厚い壁があります。自分はつねにそのことをモティーフとしてきました。邪魔者が消えるのは嬉しいいことですが、その嬉しさだけで、「厚い壁」が打ち破れるわけではありません。

# by pastandhistories | 2017-01-15 21:34 | Trackback | Comments(0)

繁忙期?

 正月初めはアメリカ歴史学会に行っていましたが今年はお休み。その大きな理由は、原稿が入っているため。英文が一つと、テーマがやや大きなものが一つ。それが重なって、精神的にはなにか追われている感じです。今日はその準備を兼ねて、少しこのブログの記事を見直しました。あらためて気づいたけれど、2010年正月のアメリカ歴史学会に参加中にホテルで時間があったので何気なく書き始めてから今年で7年目、550をこえる記事数になっているようです。うち2割くらいは、プロジェクトや出版の告知ですが、それを除いてもかなりの記事、よく書いてきたと思います。書き放しでなく、本当はもう少し整理した方がよいのでしょうが、なかなか時間がありません。ということで読みにくいままですが、もし関心があるようでしたら以前の記事を読んでいただければと思います。正直、以前の記事のほうが面白いものがあるような気がします。
 ところで昨年までは1月、2月はいわゆる繁忙期。1月は20本を超える卒業論文、くわえて修士論文を読む作業、2月は入試だったからです。そうした仕事から今年は解放されたのでとは思っていたのですが、けっこう仕事があります。その一つとしてプロジェクトの報告集刊行の準備作業。今日はその一つとして、原稿掲載に同意してもらうための依頼メールを海外の研究者に出しました。さっそく了解したとの返事もありました。来週明けくらいまでに返事が出そろえば、本格的な作業に入れるでしょう。なお次のプロジェクトは以前記したように、2月23日、25日。テーマは「下からの歴史」となります。
 ブログを見直して気づきましたが、以前このブログで同居していた祖父母と別居した経緯を書いたことがあります。父親が倒産して真砂町から本郷6丁目に引っ越した時(1952年、現在の地名では本郷4丁目から本郷5丁目となります)に別居したと書きましたが、引っ越しの時点ではなお一時的に祖父母は同居していました。父親が再起を図って事業を拡張した時、住み込みの人を雇用したためにもともと狭い家がさらに手狭となり、祖父母が雑司ケ谷で間借り生活を始め別居することになったというのが正確ないきさつです。しかしその後老齢の祖父母が雑司ケ谷に住んでいるといろいろ不便だし心配だということで、本郷の家から歩いて10分ほどの森川町(ここも現在では本郷6丁目です)で祖父母は間借りすることになりました。余談ですがこの家は山田太一脚本のテレビドママ「不揃いの林檎たち」のロケ地となった酒屋さん(中井貴一演ずるところの主人公は酒屋、つまり「本郷」の酒屋の次男だけど、大学はあまり有名でない私立大学という設定でした)がオーナーで、その酒屋に隣接した家でした。ついでですが、この酒屋のすぐ近くが「男はつらいよ」のマドンナを音無紀美子が演じたさいに、彼女が中居として働いた「鳳明館」という旅館で、この映画もその旅館の前の坂でロケをしています。
 本郷の道に詳しい人は知っているかもしれませんが、実はこの坂は東大正門から17号バイパスに抜ける最短路(現在では地下鉄春日駅からの抜け道として知られるようになっているかもしれません)。ただし坂は急なので歩くときには注意が必要。とはいっても、アウロプレトの坂はこの道の倍以上に急でしたが。  

# by pastandhistories | 2017-01-05 21:55 | Trackback | Comments(0)

言葉の恣意性

 ヘイドン・ホワイトがホロコーストをめぐって行われた「表象の限界」をめぐる議論のなかで、中動態(middle voice) を説明の素材としてもちいられたことはよく知られています。この言葉についてはホワイト自身が、文字通り 'Writing in the Middle Voice' ( ロバート・ドランが編集したホワイトの論文集である The Fiction of Narrative, 2010, pp.255~262 に所収されています)という文章を書いていて、その理解の仕方をわかりやすく説明しています。要するに主語と動詞の形態との関係は一律的なものではなく、言語によって差異があるものであり、たとえば英語文法では一般的にとられている自動詞と他動詞という区別も歴史的に形成されたものであって、ギリシア語ではその双方の意を含む中動態という動詞の用法があったという議論です。言葉自体にそのような差異があるわけですから、どのような言葉がもちいられるかで、過去の事実もまた差異のあるかたちで説明されてきたし、されうるというのがホワイトの指摘していることですです。こうした問題のよい例は以下の文章です。
 「戦争が終わり、日本が見渡す限りの焼け野原、貧しさのどん底の中で苦しんでいた時、食べるもの、着るものを惜しみなく送ってくれたのは、米国であり、アメリカ国民でありました。皆さんが送ってくれたセーターで、ミルクで、日本人は未来へと命をつなぐことができました。」 
 これは「歴史の事実」を説明した言葉です。ある意味では事実とは異なることは一つも書かれていません。すでに気づいた人もあるでしょうが、ある国の首相が、歴史がコメモレーションされている場所において「公式」に行ったスピーチだからです。しかし、この文章からも、主語と動詞(とその態)がどのようなかたち組み合わされるかが、「歴史叙述」の内容を規定すること、そしてそれは一見事実についての叙述のように見えても、きわめて恣意的な内容を持つものであることが理解できます。
 最初に「戦争が終わり」とありますが、「戦争」は人間が作り出した文化現象ですから、自然現象とは違って人間の意志から独立して「自然」に始まったり終わったりするものではなく、それを引き起こした個人もしくは集団的な行為主体があるはずです。つまりここはでは戦争は自動詞をもちいて記されているわけですが、本当は受動態かあるいは異なるものを主語とした他動詞の目的語として記されるべき出来事です。しかし、そうしたかたちはとられていません。したがって戦争を起こした、あるいは終わらせた主体は、この文章では明らかにされていません。
 次の文章は「日本が」で始まるわけですから、日本がという主語を受けている述語は「苦しんだ」という動詞です。ここも自動詞です。しかし、苦しめた、つまりこの文章の内容に沿って考えると、「焼け野原」にした主語(能動的主体)は誰かと言えば、もちろん直接的にはアメリカ(軍の空襲)、間接的には日本の戦前の政治指導者(の誤り)のはずですが、それは見事にここでは消えています。そしてそのアメリカとアメリカ人が「ミルクとセーター」を送ってくれたという主語を明確にした文章がつづきます。しかし、二つの文章で本当は主語は同一のものであったことは、主語を置換することによって曖昧化されています。主語を置換することによって表現されていることは、アイロニカルな批判をすれば、空襲をしてさんざん民間人を殺戮したけど、そのことは批判(主体を明らかには)しません、ミルクとセーターを頂けたことには(主体を明らかにして)感謝しますという内容です。これが一国の政治指導者の「公式」的な歴史理解なわけです。繰り返しますが、ここで引用したこの短い文章には「事実」の誤りは何処にもありません。
 逆にこうした例から読み取れることは、言語が持つ説明構造が内包する恣意性、ここでは主語と動詞に関してですが、そうした恣意性です。そうした恣意性を内包しがちな言語をとおして事実として語られてきた歴史叙述のあり方を、もう少し厳密に批判的な考えていこうと論じたのが言語論的転回の一つの意味だったわけです。

# by pastandhistories | 2016-12-29 12:23 | Trackback | Comments(0)

二つのホワイト論

 ヘイドン・ホワイトもけっして自分の専門ではないけれど、次に入っている仕事も必ずしも自分の専門ではないので負担が少なくありません。ただ多分それでも注文があったのは、「批判的」にということからでしょう。そのことも重要だと思うので、頑張っていこうと思います。
 逆にホワイトに関しては、ある時期まで一面的に「批判」されることが多く、また一見「好意的」な紹介も、「歴史研究」をしている立場からは随分と違和感がありました。なによりも、ホワイトをめぐる多くの議論の現状がほとんど踏まえられていないということに対してです。23日の会でも少し触れましたが、すでに3ケタにおよぶホワイト論が欧米では出ています。欧米ばかりかこのブログでも紹介しましたが、今年ブラジルで行われた The Practical Past と題された歴史理論、歴史哲学者の集まりには250人もが参加して議論しました。そのことからもわかるように、南米でも、そしてアジアでもホワイトについては多くの議論がなされてきました。そうした議論がほとんど踏まえられず、一面的・図式的な批判が多いのではということへ疑問が、ホワイトを自分の理解の範囲内で紹介したいと思ったことの大きな理由です。
 今回の23日の会も基本的にはそのことが目的でした。あくまでも司会という立場ですので、多くを紹介することは差し控えましたが、ホワイトについては紹介した特集号を含めて本当に多くの議論がなされています。力量のある執筆者が多く、優れた視点を含むものも少なくありませんが、現在の段階でホワイトの考えの全体的流れを簡潔に整理したものとしては、Nancy Partner と Sarah Foot が編集した既に定評のある歴史理論集である、The Sage Handbook of Historical Theory (Sage, 2013) に所収された Robert Doran の 'The Work of Hayden White Ⅰ: Mimesis, Figuration, and the Writing History' とカレ・ピヒライネンの 'The Work of Hayden White Ⅱ: Defamiliarizing Narrative' が一番よいと思います。その大きな理由は、この二人はともに最近出されたヘイドン・ホワイト特集の編集をしていて、ホワイト自身の著作はもとより、様々なホワイト論にも目を通しているからです。
 ドランの論考は『メタヒストリー』から始まって、tropes から emplotment, narrative, mimesis, historical representation, figuralism, そして facticity, discursivity にいたる議論の流れをたどったものです。 最初にヴィーコとの関係が語られ、人間の作り出したものであるがゆえに歴史が人間によって認識されうるものとされたというところから議論が始まりますが、基本的には『メタヒストリー』における議論(喩などの分類)はあくまでも出発点であるとして、そこに強く拘束されることなくその後の考えの流れを説明しています。そのなかで一つのポイントとなっているのは、ホワイトの相対主義は、ニーチェ的なものではなく、あくまでもランケ的な歴史理解の相対化を目指したものであるということです。ここから議論されていることは、ホワイトは歴史が実在に根拠を置くとすることを否定したわけではなく、歴史言説がフィクショナルなものとファクチュアルなものの混在させていることを指摘したのだということです。つまり歴史のハイブリディティの指摘です。その意味で歴史は厳密には科学的ではないと論じたということです。この理解はそれほどおかしなものではないと思います。ホワイトが『メタヒストリー』において喩だけではなく、プロット、イデオロギー、そして議論のあり方といった、必ずしも「科学」とは厳密に対応するものではないものが歴史叙述の要素となっていることを指摘したものはそのためです。にもかかわらず、人々を拘束しさらには抑圧するものとなっているのではないのかというのが、ホワイトの「学問的」な歴史と、それによって支えられている大きな歴史への批判であり、その後の議論のモティーフであり続けたものです。
 ピヒライネンもまたよくある「歴史家」からの批判、会への報告でも触れられていましたが、ホワイトの考えは「歴史修正主義」に組する「相対主義」であって、anything goesであるという「一面的」な議論への批判から議論を進めています。しかしピヒライネンは、近年のホワイトの議論、もちろんホワイトが強く主張するようになった問題は、practicality of the past ですが、そうした議論を重視し、そうした議論が柱としていることは、歴史を rescue することにあると論じています(これもホワイトに対するこれまでの一面的な批判から見れば驚くようなことかもしれません)。何から?。もちろんモダニティとナショナリティと一体化した「歴史学」が作り出した、抑圧的な、一面的な歴史からです。そのことは、128頁から始まるこの論考の後半部分、History goes public という部分で明確に論じられています。この部分では、public history, visual form, audience, practical purposes , という言葉でこうした流れが説明され、客観性を根拠に現実への批判的意識を失っている学問的歴史の歴史的な、かつ現在的なあり方への疑問が提示されています。ここで興味深いのは、批判的な歴史として学問的に受け入れられている女性史、文化史、ミクロヒストリーに対しても、Where 'alternative' histories have found institutional acceptance - cultural, feminist and microhistorical ones, for instance - they have largely done so only by first marginalizing themselves in terms of their subject matter, by directing attention to themes and materials that do not threaten 'history proper' というコメントが加えられていることです。
 こうした理解からピヒライネンは、ホワイトの目指しているものは、(White's goal) then , can be understood as a history that emulates the kind of lived experience we have in our habitual - non-literary and ( I would argue) non -totalizing - engagements with the world であるとし、そのリヴド・エクスペリエンスに関しては、The creation ( or simulation ) of lived experience would, on the other hand, permit the historian to address the private and subjective of the reader: history would, in practice too, begin to communicate with rather than simply to its readers. And in this sense, the need for an author (as authority) would properly disappear という説明を加えています。
わかりやすい説明だと思います。二人の説明からわかることは、ホワイトは過去の実在や歴史そのものを否定したわけではなく、政治や学問に寡占されている歴史を、普通の人々の日常に取り返していくべきだと主張したということです。難解とされてきたホワイトの仕事がようやく翻訳として紹介されるようになったのは望ましいことですが、そのさいに忘れてほしくないことは、ホワイトは自らがそうであったように、普通の人々の立場にたって、そうした人々の経験から歴史を考えることを何よりも重視したということです。その意味ではホワイト自身もまた「学者」の占有物であってはならないと自分は考えています。ホワイトを論じる人は、ぜひ誰にでもわかるようにホワイトを論じてほしい、それが自分の希望です。

# by pastandhistories | 2016-12-26 11:49 | Trackback | Comments(0)

practical, ethics, politics

 「ヘイドン・ホワイトの今」は、昔になりました。今回は本当に疲れました。当初はいよいよホワイトの論文集の刊行が進行しているということで、翻訳されるそれぞれの論文の個別的内容を紹介・論評するようなかたちでの議論という「少し手軽」な内容を考えたのですが、用意された報告は、それぞれ言語の本源にさかのぼる考察と、近年ホワイトがあらためて強調している倫理的・政治的問題を論じた本格的なもので、そのかみ合わせが難しく、それぞれ別個のものとして議論して最後にまとめと考えたのですが、予想外の参加者と予定された通訳の不在ということもあって、進行にミスがありました。参加していただいた方には申し訳なく思っています。
 もっともその最大の理由は予想を超えた参加者。正直10人内外なら、日本語・英語ちゃんぽんでもそれほど円滑を欠かない。何よりもその程度の人数であれば、英語を使用する際に多少のよどみがあっても、お互いさまなところもあり多くの人が積極的に発言してくれますが、50人近くになると、英語での質疑に少し構えてしまうところがあって会場からの発言がなかなか確保できない、かつ通訳作業の間も生じてしまうというところがあります。いつものことなのですが、今回もそうした部分がありました。ただペーパーはそれぞれ力作でしたので、改めて読んでもらえれば、それなりに有用な議論の素材を受け取ってもらえるのではと思います。実は議論の参考にということで、ホワイトのインタビューのいくつかを翻訳し、会場に配布する予定だったのですが、下訳は終わったけれどもチェック作業が間に合わず今回は断念しました。それはまたいずれの機会にと思います。といっても内容が全然異なる少し大きめの仕事の予定が入ってしまったので、今日からはその作業ということになります。
 ということなのですが、最後に昨日は紹介できなかったホワイトの最近の議論を簡単に紹介しておきます。ダントー、ハルトゥーニアン、スピーゲル、アンカースミットらのホワイト論を集めた Philosophy of History After Hayden White, ed. by Robert Doran (2013), にホワイトが寄せたコメントの冒頭部分です。
 Although I have learned a great deal about historical discourse ・・ from・・philosophers ,・・ I have been more interested in a discourse-analytical approach to the study of historiography than in a strictly philosophical one. This is to say that I regard modern historical studies as a product of a reflection which is more practical than theoretical, and by practical I mean ethico-political rather than epistemological and ontological in kind.・・・ (p.209)
 本のタイトルとは異なって、自分の関心は哲学的なものより、言説分析であると記した部分です。またプラクティカルという言葉を、(ピヒライネンのペーパのタイトルにもあった)倫理的・政治的なものと結びつけるかたちで説明している部分です。

# by pastandhistories | 2016-12-24 14:29 | Trackback | Comments(0)

figure

23日のピヒライネンのペーパーは何とか下訳を終えました、きちんとしたものとして仕上げるのは難しいかもしれませんが、明日一日をかけて手を入れるつもりです。短いものでも意味を伝えるものとして訳そうとすると、随分と苦労するところがあります。ホワイト関連のまとまった訳書がなかなか出ないのも、当然かもしれません。figure という用語も意味を正確に伝えようとすると訳に難しいところがあります。通常は figure は「形象」と訳され、関連する figuration, prefiguration はそれぞれ「形象化」「前形象化」と訳されるわけですが、とりわけ近年はホワイトは figure を fulfillment に対置するかたちで、『岩波哲学・思想事典』においても説明されている(418頁)「予示的微標」の意味で使用することが多くなっているからです。
 この考えは、物語文は必ずしも過去の事実を伝えるものではないことを指摘したものとして引用されることの多い、「1618年に人々は30年戦争が始まったとは語らなかった」というダントーの指摘と関わり合うものです。「1618年に30年戦争が始まった」というのは事後的な説明であって、1618年当時にはそうした記述は成り立ちえなかったということですが、 figure, fulfillment に関しては(もともとは旧約聖書と新約聖書の関係を述べたものですが)ホワイトはギリシャ文化とルネサンスの関係などを例に挙げてこの両者の関係を論じているわけです。(多くの歴史家が無批判的に論じるように、あるいは教科書的な理解としてそのことが常識化しているように)「ギリシャ文化がルネサンスを引き起こすことになった」という歴史的な説明が成り立っているとしても、ギリシャ時代の人々は自らの文化をルネサンスを引き起こすために形成したわけでもないし、ましてややがては自分たちの文化の影響を受けてルネサンスが誕生することを予想することはありえなかった、その点でこの両者を原因-結果として関係づけることは、かつての figureーfulfillment の関係に類似していて、厳密に過去の事実を論じるものとはなっていないというのがホワイトの主張です。
 ホワイトがこうした指摘をしているのは、歴史の叙述が「科学」であればそのことが必要とされる厳密な因果関係には拠っていないことを批判するためです。そうした立場からホワイトは自らの主張を根拠づけるために、最近は歴史の系譜的説明には genetic なものと genealogical なものがあるとしばしば論じています。 genetic というのは、多くの生物の運命がそうであるように、遺伝子に左右されるもの。つまり先行的なものが、事後的に生じるものを決定的に規定するものです。逆に言えば、現在が過去を決定することができないものです(個人の血統譜は既に完全に決定された所与のものです)。これに対して genealogical なものは、上述の例のような事後的なかたちで先行的なものが選択されているものです。実は多くの歴史叙述はこうした  genealogical なもので、現在から恣意的な祖先選びが行われているとホワイトは論じています(この問題は『国境のない時代の歴史』という本で、遡行的な歴史の蛇行性として自分も触れたことがあります。・・37-39頁)。
 ホワイトは歴史に対する自由を何よりも論じている歴史家です。しかし、実は彼はこのように歴史の恣意的な解釈、恣意的な祖先選びにはきわめて批判的です。なぜならそのことが、モダニティやナショナリティを枠組みとする抑圧的な歴史の大きな根拠となっているからです(そのもっとも代表的な例が日本における西洋史偏重、さらに厳しく批判的に言えば、日本の西洋史研究者の多くに見られる思考のパターンです)。そしてこうした考えを根拠としてホワイトは、figureーfulfillment と同質的な説明構造をもつ、場所も違い、時代もかけ離れたギリシャをルネサンスと結び付けるような、歴史の説明の仕方にある厳密な論理性の欠如を批判しているわけです。
 ホワイトは、望ましい未来を生み出すために、歴史に対して自由な意思をもつことを何よりも重視しています。しかし、そうした自由の延長に措定される未来は、かつてマルクス主義者が論じたようにそのあり方が予め決定されているものではなく、あくまでも人間の自由な意思によって作りだされていく、その意味ではまだどこにもない、そうした想像上の世界、ユートピアとして措定されるものです。このことは別におかしな議論ではありません。合理的な議論を推し進めたギリシャの思想家は、自分たちの思想がルネサンスを生み出すことを予想してわけでも、目的としたわけでもなかったからです。

# by pastandhistories | 2016-12-21 22:43 | Trackback | Comments(0)

「喩」について

 23日のホワイトの会の前に、ホワイトの基本的な考え方について思うことを本当にメモ的に書いておきます。ただ他の仕事も多く、今日は当日のピヒライネンの報告の翻訳をしました。半分ほどの草稿を何とか作成、なんとか当日まで間に合わせるつもりです。
 翻訳もそうですが、自分のためのメモであるならある程度大雑把なかたちでもよいわけですが、会場配布となるとやはりそれなりの精度が必要とされます。あくまでも参加者への補助なわけですが、かならずしもそうした「好意」が「好意的」に受けとられるとは限らない。そのあたりのことは、いつも苦労します。
 このブログも基本的には自分のためのメモですが、公開している以上色々な反応があり、そうしたことを前提に書くことには、やはり難しいことがあります。とくにホワイト論となると本当に難しい。そうしたことを前提としながら、ホワイトの基本的な思考の枠組みについて、本当にメモ的に今日は書きます。
 ホワイトについては難解に論ずる人が少なくありません。その大きな理由は、活動が長期にわたっていて、リチャード・ヴァンが指摘したように、ホワイトを論じる際には、 which White という問題があることがあります。また造語的なものを含めてかなり語彙を自由に使用するので、その点でも難しい。もちいられている基本的タームが、歴史的な、本来的意味で使用されているのか、他の学問分野で使用された際と同じ意味内容のものとして使用されているのか、あるいは独自のコンテクストの中で意味を与えられているのか、ということの判断が難しいという問題もあります。
 しかし、ホワイトがもちいているもっとも重要な用語は何かと言えば、初期・中期の論文集でタイトルとしてもちいられた、つまり、The Tropics of Discourse (1978), The content of the Form (1987), Figural Realism (1999) にもちいられている tropes, discourse, content, form, figure, realism (reality) であると言えそうです。
 このうち、form と content は比較的わかりやすい。日本語でも基本的には形式、内容と訳されていて(外形、内実と訳したほうが意味が取りやすい場合もありますが)、歴史が形式、過去が内容にあたるということになります。ホワイトは現前しているのは、歴史という形式であって、過去はそうした形式をとおしてしか見ることができない、したがってそうした形式を分析することが重要だとして、その分析を進めたわけです。
 またreality は古くから議論されていたことであって、 言説と訳される意味での discourse も相対的には新しいとしても、最近ではきわめて一般化しています。しかし、tropes と figure には難解なところがあって、翻訳にも多少の混乱があるようです。この点はホワイトも認めていて、たしか tropes に関しては、この言葉をもちいた原稿を読んで編集者が地理的な概念( tropic 回帰線・熱帯地方 )と取り違えたというエピソードを、ホワイトがどこかで書いていたはずです。
 このことからも理解できるように、tropes はそれほど一般的な言葉ではありません。その意味では日本語で、「喩」もしくは「喩法」と訳すのもそれほどおかしくはなく、おそらくこうした訳語が定着していくはずです。そしてヴィーコの考えなどにしたって、ホワイトはこれを、metaphor(隠喩)、metonymy(換喩)、synecdoche(代喩)、irony(反語)に分類しているわけです。metaphors という言葉を、比喩一般を総称するものとして使用してもよいわけですが、そうするとこうした分類において「隠喩」を指すものとして区別される metaphor との間に混乱が生じるので、議論を厳密にするために tropes という言葉をもちいたのだと思います。
こうした分類法の正確さ、あるいはそうした分類法をもちいてホワイトが行った議論が正確なものであるかは、今後とも議論されていくことになるでしょう。しかし、自分が関心があるのは、ホワイトはなぜ比喩(ここでは日本語で一般に使用されている総称的な意味でもちいます)の問題が歴史を考える際に重要だと考えたかということです。もちろんそれは比喩が、物語という形式をもちいた歴史の重要な要素となっているからです。そして何故そうなのかというと、現在のオーディアンスに現在とは異なる時代であった過去を説明するためには、現在のオーデイアンスが了解できることを媒介にして、それを喩えの材料として使用することが、過去の理解を容易にするからだということになります。もちろんそうした喩えの媒介物は、現在において了解可能なものであっても、過去にあったものとは「異なる」ものです。過去の実在ではありません。比喩は比喩であって、説明されるもの相互の差異を前提とするものであって、厳密な同一性を根拠として成立しているわけではありません。厳密に同一なものなら、そもそも比喩は必要とはされないからです。
 つまり物語という形式をとおして、比喩をもちいて叙述される過去は、つまり歴史は、論理的に考えれば過去実在とは厳密に一致したものではないということが、ホワイトの論じた一つの問題だということになります。

# by pastandhistories | 2016-12-21 00:14 | Trackback | Comments(0)

行間を読む想像力

 今日からは23日の会に備えてヘイドン・ホワイトのもちいている言葉について本当に基本的なことを二、三メモ的に書いていく予定だったのですが、昨日渡辺賢一郎さんと見市雅俊さんが「歴史とマンガ」についての報告をした「歴史と人間」研究会に参加したので、それへのコメントを書いておきます。
 まず会でしたコメントについての補足と訂正。『少年マガジン』『少年サンデー』がオリンピックと共に刊行されたというコメントがあったので、それは1959年だということを発言しました。実はこの経緯は一週間ほどの『朝日新聞』の特集記事でも丁寧に書かれています(この記事には、一時期450万部を超えていた『少年マガジン』ンも発行部数は現在では100万部前後、『少年サンデー』は35万部前後だという興味深い事実も書かれていました。なお『少年マガジン』の発行部数が100万部を超えたのは、大学生を読者層にした1960年代後半です)。
 その時、女性の歴史家と同じように女性漫画家は当時はいなかったと述べましたが、これは誤り。長谷川町子さんがいたからです。あるいはそれ以前には上田とし子さんという漫画家もいたはずです(『あんみつ姫』は倉金章介という男性作家でした。訂正しておきます)。しかし、現在のように多くの女性漫画家がいなかったのは事実。渡辺さんの報告にもあったように、花の49年代といわれる女性漫画家が輩出するようになったのは、これはコメントでふれましたが雑誌『COM』(1967~1971)の新人賞への公募者の中から、竹宮恵子さんをはじめとする漫画家が育ったからです。その審査員の一人だったのが水野英子さんだったと思います。水野さんはトキワ荘グループの一人で、手塚治虫との関係が深く、画風も似ていた人です。
 これもコメントでも話しましたが、当時は仕事のない新人が少女漫画を描くということがありました。その代表が、赤塚不二夫が『秘密のアッコちゃん』を描いたことです。それ以外にも大物男性漫画家が少女漫画を描いた例があります。いうまでもなく手塚治虫の『リボンの騎士』、横山光輝の『魔法使いサリー』です。こうしたことが起きたのは、やはり既にふれたように、女性漫画家が少なかったこと、そしてなによりも少女漫画というジャンルがそれほどの読者層を持っていなかったからです。新人が少女漫画を描いたのは原稿料を安く書かせることができたから、著名漫画家が描いたのは、少女向け漫画雑誌の部数を拡大するための出版社の政策によるものです。
 なぜこうしたこと、つまり女性漫画家が少なかったのか、というとそれは簡単な話です。なお差別の対象下にあった女性歴史家の場合とは違って、女性漫画家の場合は、なんといっても「少女」の読者層が少なかったからです。一般の家庭の「女の子」はあまり漫画を読まなかったからです。実は「中産階級以上」の「男の子」も。ここから先はシァルティエにならって行われていくはずの漫画の「読書空間」の研究が明らかにしていくでしょうが、上・中層の家庭、いわゆる教育ママのいる家庭では漫画はあまり読まれていませんでした。エロ本と同じ悪書で、一部家庭では買ったりしたのが見つかると、大弾圧を受けました(幸いにして我が家は手塚治虫を発見したことで知られる有名な編集者であった加藤謙一さんの近所で、息子さんが中学・高校で同窓であったので・・・大学に合格したときには、翌日夫婦でお祝いにきてくれました・・・そういうことがなく漫画を読むことができました)。実は昨日帰宅後40年来の同居人に確認したところ、同居人は地方の労働者の家庭の出身ですが、大学に入るまで漫画を読んだことがなかったと言っていました。漫画は「悪書」だったからです。事実PTAを中心とした漫画追放運動が行われ、そのなかには子供から取り上げた漫画を学校に持ち寄り校庭で焼却するなどということすらありました。
 なぜ漫画が悪書だったのかというと、その論拠の一つは、文章とは違って、漫画は子供の「想像力」を育てないからというものです。文章であれば、具象化されていませんから、行間にある「事実」を想像する力を養うことができる。しかし、具象的な表現である漫画にはそれがないので、子供の知的発展を妨げるということです。このロジックをそのまま歴史に採用すると、文章によって構成された歴史(多くの歴史研究者が使用している手法)は、過去への想像力を育てるがゆえに優れているということになってしまいます。随分と奇妙な議論です。想像力にもとづくものにより意味があるというのは、多くの歴史家が嫌うヘイドン・ホワイトの議論と同じになってしまうからです。しかし、こうした議論のあり方は、ふだんそれほど疑問なく用いられ、社会的にも実体化することもあるロジックが、いかに厳密性を欠くのかということ一つの例証でしょう。漫画はこうした批判を潜り抜けて1960年代後半には、社会に大きく定着することになります。女性も読める漫画、女性が描ける漫画へとおおきく飛躍し、少女漫画、さらには女性漫画というジャンルが明確に確立したわけですが、ここいらのことは渡辺賢一郎さんの方が、はるかに詳しいでしょう。
 長くなりましたが、最後に渡辺さんの結論、歴史の多元化・パーソナライズに対して出された疑問と、見市さんが話した「日本」の歴史的まとまりということについて少し作品の例をとって補足しておきます。手塚治虫の『火の鳥』はライフワークとしてあまりに有名な作品ですが、その初期の作品である「ヤマト篇」は、歴史の本来的多様性がその一つのテーマになっています。それはこの物語が、確立期のヤマト朝廷の王子(オグナ)が大王から命じられて、ヤマトが作り上げようとしてしている歴史(『COM』に連載された最初の作品では、大王が歴史編纂を命じたさいに部下がタイトルはどのようなものにしたらよいかと尋ねると、『古事記(こじき)』でも『ヒッピー』でよいと答える個所がありましたが、この部分は後の単行本では削除されています)とは異なる歴史を書き残そうとしているクマソの王、川上タケルを征伐に行くというところから話が始まっているからです。ここに示されているのは、歴史の本来的多様性と、そうしたものを暴力的に解体することによって共同化された物語が構築されたという問題です。
 ヴィジュアルな媒体と歴史については、オーディアンスやその技術的形式を含めて本当に緻密な議論が必要でしょう。その一歩として昨日の話には興味深いポイントがありました。

# by pastandhistories | 2016-12-19 08:36 | Trackback | Comments(0)

マルクス主義と実存主義

 ヘイドン・ホワイトをヘルマン・ポウルが、社会変革への意思、実存主義からの影響という点から論じていることを紹介しましたが、実はそのことはホワイト自らが語っていることです。今日はそのことが自身によって明確に語られた文章を紹介します。 Literary & History (Spring 1998) に掲載されたキース・ジェンキンズとのインタビューの最初の方の部分です。英文そのままでもいいのですが、簡単に日本語に直しておきます。
「労働者階級として、私はつねにマルクス主義・社会主義の伝統に共鳴していました。デトロイトで私の父は流れ作業で働きました(もともとはテネシーに住んでいてホワイトはそこで生まれたが、大不況で父親が職を求めてデトロイトに移った・・・訳注)。私自身も工場で働きました。私たちは皆労働組合(labor union)の人間でした。しかし、あなたも知っているように、アメリカの労働組合は、イングランドの労働組合のようなものではありませんでした。大学にいた時、私は『ニュー・ステーツマン』を読んでいました。そしてイギリスの社会民主主義の影響を受けていました。しかし、強力な共産党はなかったので、マルクス主義は大学の学問的な世界のなかにおいてだけ影響を保っていました。私にはそう思えたし、今でもそう思っていますが、マルクス主義はそのなかで人々が彼らの意味を見出し、生涯それを貫くまとまった実践として歴史について考えるもっとも重要な試みであったし、いまでもそうしたものとしてとどまりつづけています。このことが弁証法的唯物論の弁証法的側面だと私には思えます。さて、(私の)実存主義的な要素については、これは世代的なことです。私が17歳の時に戦争が終わり、突然カミュとサルトルの著作が合衆国に溢れだしはじめました。このことは、18歳から19歳の学部学生にとっては大きな興奮を引き起こすものでした。この要素は異なったものでした。私は当時哲学に興味がありました。しかし、合衆国の哲学のすべては、論理的実証主義か分析的哲学のどちらかであって、このことは私にはあまりに退屈なものでした。社会的な、道徳的な問題を扱うことはできないと思えました。そこで私は、マルクス主義を実存主義的に解釈することへと向かったのです。あなたも知っているように、私はマルクス主義が社会についての本当の科学を打ち立てたとはけっして考えませんでした。マルクス主義の主要な力は、その労働者階級のために正義への要求、倫理的な社会主義への要求にあると私には思えました。そしてそれゆえ(自らの自身の)選択と責任に強調を置く実存主義が私にアピールしたのです。」
 きわめて明確な説明です。実はこのインタビュー全体をとおしてホワイトは、自分が「大学」などとはほど遠い労働者階級の出身であって、海軍をへて、兵役経験者の優先枠で地方の小さな大学(ウェイン州立大学)に入ることができたこと、このことが自分の立場の基本的な出発点であることを述べています。既に何度か指摘しましたが、こうした出自と世代的経験がホワイトの思考の原点です。およそ「ファシズム」とはほど遠いものです。そのことはこうしたホワイトの思想的出発点からも理解できるはずです。

# by pastandhistories | 2016-12-15 22:14 | Trackback | Comments(0)

1960年代の意味

 ヘイドン・ホワイトは1928年生まれですから1960年代は彼がほぼ30代の時期ということになります。すでに学生の時期は終えていたわけですが、'The Burden of History' が1966年、Metahistory は1973年に刊行されているわけですから、やはりこの時期がホワイトの歴史家としての転換点となったと考えてよいでしょう。
 1960年代の運動は広く文化的な要素を考え合わせれば実に多様な内容を含んでいたわけですが、政治的なレベルに焦点を当てれば、公民権運動やフェミニズムのように差別されていたものへの「権利」付与の要求、そしてヴェトナム戦争に対する反戦運動がその軸となります。さらに大学の問題に焦点を絞れば、学問の中立性や客観性をたてまえに制度化された研究・教育に生じていた権力的なものとの癒着、それを支えたものの一つが専門化と、専門化をとおしての学問的世界の階層秩序化であったわけですが、そうしたものへの批判でした。
 このように考えればホワイトの議論が、1960年代に多くの若者が受け入れた political engagement を継承し、そうした立場から「学問の中立性や客観性をたてまえに制度化された研究・教育に生じていた権力的なものとの癒着、それを支えたものの一つが専門化と、専門家をとおしての学問的世界の階層秩序化」を批判するものとして進められた、時代の情況にきわめて対応したものであったと考えることができます。それがなぜ日本では受け入れられる事が少なかったのか、それは日本の歴史研究が、もちろん「下から歴史」として一部では女性史研究の活発化、あるいは一時的には社会運動史の活性化のような進展を示したにもかかわらず、その多くが「既存の進歩主義的思考」をそのまま無批判に継承するかたちで、実証に沈潜化していったためでしょう。カーが受け入れられつづけ、ホワイトの問題提起がほとんど議論の対象ともならなかったのはそのためだと自分は考えています。
 ホワイトがこうした現状に強い批判意識を抱いていることは、最近ではpractical past 論をとおして、'history, practice left out' を強く批判していることからも理解できます。ヘルマン・ポウルはこうした理解からホワイトを論じているわけです。自分もまたそうした立場から、ホワイトの提起した問題を歴史研究者はもう少しきちんと議論していくべきだと考えています。

# by pastandhistories | 2016-12-13 18:07 | Trackback | Comments(0)

liberation historiography

 ヘルマン・ポウルのヘイドン・ホワイト論の紹介の続きを書くと、この本の大きな特徴の一つは以前も紹介したことがあるように、ホワイトに対するカミュやサルトルなどの実存主義の影響を重視していることです。時代的にはこのことは別にそれほどおかしなことでありません。1960年前後にはカミュ、サルトル的な実存主義がリベラルな思想や批判的マルクス主義と結び合うかたちで、世界的に様々な領域で影響を与えていました。日本でも、たとえば丸山真男はサルトルの戯曲を素材にした政治論を書いていますし、やや揶揄的な響きをありましたが、「マル存主義」という言葉も語られていました。個人の意志的自由を何よりも重んじる立場から、ホワイトもまたそうした立場に立っていたととポウルは考えているわけです。こうした理解から、ポウルは「解放の神学」(liberation theology) をもじって、「解放の歴史学・歴史叙述」(liberation historiography) がホワイトの目指したものであったと繰り返しています。
 またポウルは、もともとはヨーロッパ中世史の研究者でありマックス・ウェーバーの考えを取り入れてその分析をしていたホワイトが次第に歴史理論に関心を移して行く過程のなかで、彼に大きな影響を与えた歴史家としてクローチェの名をあげています。さらにはコリングウッドの名をあげています。さらにはアメリカの歴史家であるベッカーヤビアードの名前も挙がっていますが、同じように彼らの影響を受けた歴史家の代表的人物と言えば、もちろんE・H・カーです。
 その意味ではホワイトとカーは同じ系譜上に位置していると考えることができます。随分と意外感を感じさせる話です。なぜならカーの『歴史とは何か』にいまだに日本の大学で20世紀後半を代表する歴史研究の入門書として取り上げられているように、多くの歴史家に「肯定的」に受け入れられているからです。ホワイトの理解のされ方とは随分と異なります。
 ポウルがホワイトの考えを liberation historiography と呼んでいるように、ホワイトの考えは現状への批判を内在させた、ある意味では「進歩的」なものです。にもかかわらず、なぜ日本ではホワイトとカーとの間にこれほど大きな受け入れられ方の違いが生じているのだろうかという問題はきわめて興味深い問題ですが、この問題についてはまた明日書きます。

# by pastandhistories | 2016-12-12 22:50 | Trackback | Comments(0)

社会変革への夢

 11月は海外に行ったわけでもないのに、久しぶりに随分と記事を書きました。12月はこれまでのところ、12月23日の会、「ヘイドン・ホワイトの今」について書いた程度ですが、随分とアクセスがあります。その反応に対応するかたちで会への参加者が多いことを期待していますが、それ以上に質の高い議論ができればと考えています。その準備としてホワイトについて、会の予想される内容にそう記事を事前に二、三書いていくつもりです。最初は、単著のホワイト論としては現在の段階では評価されてよいヘルマン・ポウルの White (2011) の紹介からと思います。今日はこれから昼過ぎに会合が一つ、それが終わるとピヒライネンとの打ち合わせ(報告内容の確認など)があるので、その前に先週報告したことに関係させながら簡単に書いていきます。
 先週の報告のタイトルはもともとは「下からの歴史の今」というものでした。話の内容を準備していた時にディペシュ・チャクラバルティが昨年行った Scale of History という話の内容を知ることができたので、それをベースに予定を少し変えてマクロヒストリーとミクロヒストリーに関わることを論じてみました。
 そこでも触れましたが、一方ではデイヴィッド・クリスチャンらのビッグヒストリー論、他方ではギンズブルグの論文集が翻訳され、そのそれぞれが新聞の書評欄で紹介されているように、マクロヒストリーとミクロヒストリーをめぐる議論は、現在の歴史研究の一つのトレンドです。もっともチャクラバルティはこうしたかたちで議論を整理することにやや批判的です。その理由は、両者が結局はいずれも「欧米的な歴史研究」における議論だと彼は考えているからです。こうした批判に対しては当然のことながら現在の新しい流れは、欧米中心的な視点を反省し、それぞれ、よりマクロ的な、あるいはよりミクロ的なパースペクティヴを持つものである、という批判がでそうです。しかし、チャクラバルティの立場はそうした予想される批判をふまえるかたちで、それらに対して agency の問題を対置し、あくまでも社会を変革する可能性のある歴史学という視点から議論を進めています。そのさいにそうした立場を支える議論としてあげているのが、E・P・トムスンとヘイドン・ホワイトです。
 日本ではそうした議論が受け入れられることはあまりありませんが、ポストコロニアルな歴史論の代表者であるチャクラバルティのこうした認識にあるように、ポストコロニアリスムと批判的マルクス主義、そして言語論的転回はきわめて親和的なものです。実はヘルマン・ポウルのホワイト論の結論の一つは、White showed his continued indebtedness to a 1960s New Left kind of Marxism ・・・ White did not stop believing that history ought to inspire dreams of social change (p.149) というものです。そうした社会変革の主体を、構造化された歴史認識の内部に置くのでなく、より幅広い人々であると考え、下から、あるいは周辺から歴史に関わる問題を考えていくということが、チャクラバルティ、トムスン、ホワイトに共通していることです。違いはホワイトがもっとも強く個人という問題を前面に出しているということです。
 ホワイトの歴史論というのは、個人を単位としたきわめてミクロ的なものです。ギンズブルグとの違いは、ホワイトの力点が歴史を認識する側に、つまり「現在」の、パーソナルな、historical consciousness におかれているのに対して、 ギンズブルグの力点は「過去」に生きたミクロ的な存在に対する認識に置かれているという点です。過去の事実を実証するということが歴史学の目的なら、歴史学という場においてはギンズブルグは優位にあります。逆に実証的な歴史家として出発したホワイトがなぜ研究対象を理論的な問題へと移していったのかというと、それはヘルマン・ポウルの指摘にしたがえば、ホワイトが1960年代の経験を前提に、現状への強い批判意識、社会変革の可能性への夢を生涯持ち続けた研究者であったからです。
# by pastandhistories | 2016-12-10 07:43 | Trackback | Comments(0)

ホワイトからのメッセージ

 12月23日の会に対して、ホワイトに可能であれば short message を送ってほしいと依頼したところ、さっそく以下のようなメッセージを送ってくれました。やや個人的な内容も含まれていますが、「会」へメッセージとして頼んだものですので、ここに公開しておきます。23日は多くの人の参加を期待しています。

  Thanks you for your kind note. It is a great honor that your colleagues are holding a conference on my humble work. I am also pleased to learn that your colleagues are translating certain of my works. I hope that this work is not already outdated. Anyway, I am honored and pleased to know of your interest in the topics on which we are working. I think that globalization has eroded much of the basis of traditional Western historiography as a foundation of national identity. I will be much interested to know of the outcome of current work of historical theory in Japan. Please convey my thanks to your colleagues; and thank you as ever for your friendship in our common work. Sincerely, Hayden White
# by pastandhistories | 2016-12-05 09:51 | Trackback | Comments(0)

12月23日

 すでにここで予告してあった12月23日(金)に関して、先週半ばからこれまでの参加者や各方面へのポスターの配布をしました。すでにペーパーの一部は届いていますが、当日の討論を十分に期待できるものです。以下、その通知内容を貼っておきます。なお開始時間は13:30(開場13;00)、場所は東洋大学白山校舎2号館、16階スカイホールです。

  東洋大学人間科学総合研究所の招きに応じてヘイドン・ホワイトが来日して以来、7年がたちました。以後もヘンドン・ホワイト自身は積極的な著作活動をつづけ、その成果を2014年に刊行された最新論文集 The Practical Past や、『思想』2016年11月号において訳出された「歴史的真実、違和、不信」などをとおして明らかにしています。海外でのホワイトに対する評価も活発で、欧米を代表する歴史理論研究者のホワイト論を集めた Philosophy of History : After Hayden White, edited by Robert Doran が2013年に刊行され、また単著としては、Herman Paul, White が2011年に刊行されました。また2014年65-1号のStoria della Storiografia においても、ヘイドン・ホワイトについての特集が組まれています。
2009年の来日講演、さらに翌年刊行された『思想』特集号(「ヘイドン・ホワイト的問題と歴史学」2010年8月号)は、歴史研究者を刺激することが多く少なからぬ反響を生みだすことができました。今回東洋大学人間科学総合研究所は、平成28年度井上記念大型研究助成プロジェクト「歴史研究の新展開とグローバルシティズンシップ」の一環として、「歴史的真実、違和、不信」の訳者であり、またホワイトの代表的論文、’The Burden of History’, ‘The Historical Text as Literary Artifact’ などを集めて来年3月に作品社から刊行される予定のホワイト論文集『歴史の喩法』の訳者でもある上村忠男氏、Storia della Storiografia のホワイト特集号の編集者であり、来年8月にホワイト論の刊行がラトリッジ社から予定されているカレ・ピヒライネン氏を招き、「ヘイドン・ホワイトの今」と題した公開セミナーを同封のポスターの内容で開催することとなりました。議論を充実したものとするために、賛否を含めてヘイドン・ホワイトが提起した問題に関心のある多くの方々の参加をお待ちしております。
なお本研究所では、プロジェクト「歴史研究の新展開とグローバルシティズンシップ」の今年度最後の試みとして、2017年2月23日(木)、25日(土)の両日に、第二次大戦後の都市建築史の研究者であり、同時にヒストリーワークショップ運動の新しい担い手として期待されている若手研究者ニック・ビーチ氏(クイーンメアリー大学)を招いての公開研究会を予定しております。詳細は後日となりますが、この機会にあわせてお知らせする次第です。


# by pastandhistories | 2016-12-03 18:54 | Trackback | Comments(0)

トランスナショナルヒストリー

 この間グローバルヒストリーの言語的意味について少し書きました。この言葉は本当に盛んに使用されるようになっています。他方トランスナショナルヒストリーという言葉の使用は、むしろ下火になっているようです。インターナショナルという言葉と同じく、「ナショナル」という枠組みが前提とされるからでしょう。
 実は自分は運営していたプロジェクトには「トランスナショナル」という言葉を使用していました。グローバルヒストリーという言葉を個人的に使用したことがありますが、それは批判的な意味内容においてです。
 トランスナショナルはカタカナ語ですから、どう訳すのかを考えたことがあります。色々な訳し方を探していたところ、「越」国家的という訳に出会いました。厳密にこの訳が適合的かは今後議論があるでしょうが(といっても、実際にはトランスナショナルという「訳語」がそれほど議論なく受け継がれていくと思いますが)、この訳し方は、トランスナショナルという言葉をもちいて今、何を議論していくべきかを示唆しているところがあります。
 グローバルヒストリーをナショナルヒストリーに対して図式的に用いるのは、「現実」との関係を考えれば、大きな論理の飛躍があります。グローバルという言葉をもちいたからといって、いきなりそうした枠組みに、個人の存在や思考が全面的に移行するわけはないからです。
 たとえば研究者の多くは、なおナショナルな枠組み、自分を取り巻く社会的・文化的環境の中で、日本語を媒体として思考を組み立てています。ときおり英語で文章を書くからといっても、それは自分を拘束していたものを「越えて」他の座標軸をもつ場に多少の移行を試みたにすぎません。そのようなかたちでナショナルな枠組みを「越えた」としても、いきなり普遍的な場に入れるわけではありません。
 現在では多くの外国史研究者は留学というかたちで、国境を「越えて」います。その期間は、1年、3年、5年、あるいはそれ以上かもしれません。しかし、それでもなお、長い研究生活において「数量的な評価をすれば」、ナショナルな枠組みを一時的に「越えた」に過ぎません。そのわずかな経験が、自らをグローバルな存在とさせていると論ずるなら、そこにも論理の飛躍があります。実際には、自分が研究対象とした「ナショナル」な枠組みと、自分の出自である日本というナショナルな枠組をあわせた、かつ後者になお力点が置かれたトランスナショナルな場に、自らが位置するようになったということでしかないからです。
 別に研究者に限らず、個々の人間とグローバルなものとの関係は、個人個人が少しづつナショナルな枠組みを「越える」経験をするなかでで成立しているものです。人々は、いきなりグローバルなものに全面的に対峙しているわけではありません。その意味では、トランスナショナルヒストリーという考え方は、グローバルヒストリーより地についたところがあります。ナショナルヒストリーの現在的意味、そしてそれがドどのようなかたちで、相互的に交錯し始めているのかということを、問題として取り上げるることができるからです。もちろん、現在ではグローバルヒストリーとして総称されるようになったものも、実際にはナショナルのものの、比較(comparison )と結合(coneection)をその議論の前提としていることも事実ですが。
# by pastandhistories | 2016-12-02 11:00 | Trackback | Comments(0)

グローバルヒストリーの言語論的意味

 言語論的転回の意義は、言語が指示する対象(あるいは事実とされるもの)を必ずしも忠実に表すものでなく、その言葉が使用されるコンテクストや使用する人々の意識によって規定されたものであることを明らかにしたことです。
 たとえばこのことは、昨日も少し触れた global history の訳され方でも理解できます(というよりほとんどの言葉の訳され方にも共通しているかもしれません)。 global history はグローバルヒストリーと訳す(?)のが定訳化しましたが、中国語では全球史と訳されています。つまり日本語で地球史と訳すこともできます。地球は日本語を理解できる人なら誰でも知っている言葉ですから、むしろ地球史と訳したほうがいいかもしれません。グローバルヒストリーではそれを理解できる人は少なくとも高校生以上に、一般には大学生以上に限定されます。その意味ではグローバルヒストリーはあえて対象を限定した言葉です。
 グローバルヒストリーは対象を限定しているばかりでなく、実は意味内容を限定しています。地球史であれば、本来 global history が含意していた、地球の歴史、たとえば環境や気候の歴史、他の生命体との関係の歴史といったニュアンスが前景化し、逆に政治史・経済史的要素は後景化します。後者の問題は world history (世界史)としてこれまでも十分に論じられてきたことだからです。それをあえて global history として論じる必要は本来はあまりないからです。
 昨日も書きましたが、そうしたなかで world history に代えてあえて global history がもちいられ始めたのは、自己中心的な傾向のあった world history (欧米においては当然西洋中心主義的な世界史観)に代えて global な、つまり「地球」の歴史という言葉をもちいて、自らを相対化しようという意識が欧米の歴史研究者に生じ、それが一般的にも受け入れられるようになったからです。欧米のglobal history の研究者の少なくない人々が、本来はアジア研究者’であったり、イスラーム研究者であるのはそのためです。日本でもグローバルヒストリーの論者に、(英語のできる)アジア研究者、イスラーム研究者、さらにはアジア地域の世界経済における役割を強調する研究者が多いのも、そうした欧米側からの関心とマッチするところがあるからでしょう。
 しかし、現在の日本における global history 論におけるアイロニーは、それがグローバルヒストリーとして語られることが定着したことです。より以上に定着しているグローバリゼーションという言葉が、現在の日本の社会というコンテクストの中でどのように用いられているのかを考えれば容易に理解できるように、カタカナ語であるグローバル、グローバリゼーションという言葉は、欧米的なものへの同調を含意しています。たとえば「大学のグローバル化」は、英語授業を50%にすべきだとか、教員採用は英語での講義能力を条件とすべきだというような拙劣な議論(というよりそれがすでに実行されていること)と結びついています。つまり、 global history がグローバルヒストリーとして定訳化されるようになったことには、欧米的なものを前景化し、地球的なものがものを後景化するという、現在の日本の歴史研究者の意識が映しだされています。
 これは global history が本来意図していたものとは異なっています。その意味ではグローバルヒストリーは誤訳であるかもしれません、しかし、同時にグローバルヒストリーという言葉は、そうした言葉が一般化するようになった現在の日本の社会というコンテクストや、それを使用する歴史研究者の意識を反映するものとなっていると言ってよいかもしれません。だからこそ、この言葉を使用したほうが、本を売りやすいし、研究費も取りやすいわけです。残念なことですが自戒を込めて。
# by pastandhistories | 2016-11-29 09:37 | Trackback | Comments(0)

グローバルヒストリーという言葉の連れ合い

 先日「グローバルヒストリーズ」の会合に参加してくれたドミンクザクセンマイヤーに指摘によると、グロ―バルヒストリーという言葉の初出は、1962年のハンス・コーンによるものです(Dominic Sachsenmaier, Global Perspectives on Global History, p.68)。グローバリゼーションはより一般的な言葉で、現在の意味内容とは異なる意味で早くからもちいられていたという例を指摘できますが、一般的にもちいられ始めたのは1960年代、その使用が本格化するのは1980年代から1990年代にかけて、グローバルヒストリーという言葉の使用はもっと遅くてその使用が一般化するのは1990年代、本格化は2000年代としてよいでしょう。何度か書いてきたように、新しい言葉です。その意味では新しい「状況」に対応したものです。
 グローバリゼーションとかグローバルヒストリーという言葉は、これらと同じ時期に使用され始めた新しい言葉は何であったのかということを考えると、その言葉が内包している問題を理解することができます。ほぼ同じ時期に用いられ始め、その使用が一般化した言葉は、意外と普段は気づきませんが、オリエンタリズム、ポストコロニアリズムという言葉です。このことが意味していることは、グローバリゼーションとかグローバルヒストリーという言葉は、(それが英語であることからも分かるように)欧米の側が、西洋中心主義な視点を内在的に批判するものとしてもちいはじめたものであるということです。
 したがってグローバリゼーションという言葉と同様に、グローバルヒストリーはその本来の言葉の意味として、西洋的な視点だけではなく、非西洋的視点を歴史理解に取り入れようとする視座を含むものです。ザクセンマーヤーが、グローバルヒストリー論にも内在するハイアラキカルな不平等性を問題としたり、言語論的なアプローチをとるグローバルヒストリーの論者が、グローバルヒストリー研究を英語に一元化したり、あるいは翻訳にある不平等を問題とするのも、そうした流れがグローバルヒストリーがその立脚点としたものとは乖離する方向にあることに批判的だからです。
 実は早い時期にグローバリゼーションに関する教科書的な本を翻訳したときに、最初の原稿ではそのすべてを地球化と訳しました(したがって最初のゲラはそうなっていました)。地球化と訳せば、日本語ですから個別性、つまり globalization という言葉が前提的に内在させている多様性をそこに含意できる、グローバリゼーションでは結局は西洋中心主義的な思考への同化を含意することになってしまうと考えたからです。しかし、日本社会のあり方から考えて、結局は圧倒的に(かつ無批判的に)定訳化するであろうというグローバリゼーションという訳語には逆らえないだろうと判断して、最終的にはそれを採用することにしました。
 このことはグローバルヒストリーについても同じです。グローバルヒストリーを論じるさいには、この言葉が出発点においてもっていた意味、つまり西洋中心的な世界理解、アカデミックラダーへの批判を持ち続けることが必要だと思います。「世界史」に代えてどうしてもグローバルヒストリーという言葉をもちいたいのなら、そのことは最低限の前提です。
# by pastandhistories | 2016-11-28 12:34 | Trackback | Comments(0)

歴史の地位

 おととい歴史研究に関する小さな会合があり、少人数ということで気楽に色々なことを話しました。その時話題として提示したことの一つは、歴史(学)の地位という問題です。
 ヘイドン・ホワイトの初期の有名な論文は「歴史の重荷」(The burden of history・・・「歴史の負荷」と訳してもよいかもしれませんが)) というタイトルです。このタイトルは、この論文が書かれた頃(1966)に歴史が人々の「重荷」であるほどの高い地位にあったことを示唆しています。ちょうどこの頃自分は学生で、学友会という名称であったサークル連合の仕事を手伝っていました。9人の理事によって運営され、サークル連合の組織ということですから、文化系サークルから3人、運動部系から3人、くわえて一般学生からの代表ということで各クラスから選挙人を選び、その選挙人によって選ばれる3人、のあわせて9人が理事です。完全学生自治の時代ですから、各サークルに分配される予算の作成権やサークルが使用する施設の利用割り当てなど、現在の大学では考えられないような強い権限が、わずか9人の学生によって構成される理事会にありました。
 実はこの理事に関して、文科系サークルから選ばれる理事の3人のうち2人は、歴史学研究会と社会科学研究会からということがなかば恒常化していました。運動部も一つは、これは伝統もあり、予算がかかるということで、ボート部からの選出が慣例となっていました。それくらい「歴史学」と名のつくものは、権威があったということです。当然のことのように、各大学(さらには各高校)の「歴史学研究会」「社会科学研究会」の集合体である「全国歴研」「全国社研」という組織もあったはずで(今はもうないかもしれませんが)、そのの知的権威はかなりのものであったはずです。
 これはその当時の政治運動にも反映されていました。このブログで法学部学生であった山田洋次監督が学生時代には歴史学研究会に所属していたことに触れたことがありますが(本人自らが時々語っています)、また同じくこのブログで触れたことのある『されど我らが日々』も作者の柴田翔さんは文学研究者ですが、扱われているのは歴史学研究会です。なによりも歴史学研究会は、たとえば東大ではそこから運動の実質的な最高指導者(その当時では共産党学生細胞の指導者)が輩出する組織でした。ここでは名前を上げることを避けますが、その中から後に高名な歴史研究者となった人もいます。したがって学生歴研での議論の対立は、しばしば左翼的運動の分裂の契機ともなりました。それくらい歴史学には権威があったわけです。そうした権威を支えるために、歴史学は「全世界の発展法則」を問題とせざるをえませんでした。同時に歴史学は文化的領域の中では、そうしたビッグテーマを議論しようとする、あるいはすることのできるもっとも優秀な人材が競い合う場所でした。
 はたして現在の歴史学がそういうものものであるかというと、そうではないと断言できます。歴史学が人文的分野で占める地位はおおきく後退しました。正直言って中堅若手研究者に関しては、社会学分野の方がはるかに優秀な人材を要しています。彼らがそれなりの対社会的発言権を確保しているのに対して、現在の歴史研究者の役割は、個別的な事件に対してせいぜいエピソディックな解説を加えることだけでしょう。こうしたなかで、「歴史学」の歴史のなかで占める地位も後退しています。そのことは教科書問題などをとおしても明確です。
 自らを権威化することは必ずしも望ましいことではありません。しかし、歴史に関わる人々は、やはり社会の中における自らの地位の後退にもう少し自覚的であるべきでしょう。そしてそうした後退が、自らに内因したものかどうかを考え、もしそれが自らに内因しているものなら、その克服する方法を考えていくべきです。
# by pastandhistories | 2016-11-27 10:22 | Trackback | Comments(0)

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