歴史についてこれまで考えてきたことを書いています


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目次②

 二つほどお知らせです。以前お伝えした1月13日の会に関して、報告をしてくれるデヴィッド・ディーンからペーパーが来ました。タイトルは、Public History: Past,Present,Future というものです。自分が近世イギリス史研究から研究を始めたことに始まって、パブリックヒストリーへの関与の、その国際化の流れ、affective and performative turn に至る最近の歴史研究の流れ、そしてディーンが編集する A Companion to Public History の内容紹介となっています。いつもと同じに希望者には英文ペーパーを事前に送りますので、希望する方は伝えてださい。

 それから書き下ろしの校正にめどが付き始めました。引用が多かったので、原点との対照が結構大変でした。年内には校正を終えます。出版は出版社の都合によると思いますが、来年3月頃までには出るのではと思います。

 この仕事に目途がつきそうなので、来年からは新しい仕事を出来ればと考えています。今日は少し時間があったので目次の続きを作りました。


研究の根拠2011/03/28、歴史学研究・報告集2011/03/22、コメモレーション2011/03/21、真実の制度2011/03/19、中止2011/03/13、トランスナショナルカルチュラルヒストリー2011/03/09、今日の日記2011/03/03、「場」の制約性2011/03/02、プロジェクト報告書2011/03/01、生きていたことへの不安2011/02/28、単系説・複系説2011/02/26historicized2011/02/25identitary2011/02/24、間主観性・客観性2011/02/23、英語読み英語書き2011/02/22、コンテクスト・事実の固い芯2011/02/21、ワールドヒストリー

2011/02/20、グローバルヒストリー2011/02/183142011/02/17、今日の日記2011/02/15、事実性と構築性2011/02/12、テレビと歴史2011/02/07、しばらく再開します2011/02/06、実在の権利、フィクションの機能2011/02/02、サウスゲートとウィンドシャトル2011/01/31、プロフェッショナリズム2011/01/30、発表への責任2011/01/29、変化と規則2011/01/28、研究の前提としての教育2011/01/27、ある種の抵抗感2011/01/26、繁忙期2011/01/16、消去されたホームページ2011/01/15、ガンとヴァーノン2011/01/13、象徴化すらされえないもの2011/01/12、東部と西部2011/01/10transnatinalization, visualiza...2011/01/09、外国研究、外国での研究2011/01/08climate change2011/01/07reflexivity2011/01/06、歴史の言語負荷性2011/01/05,全世界2011/01/04,「過去」2011/01/03,歴史を「歴史的」に考える2011/01/02,

社会歴史2010/12/31,歴史知のハイアラーキー,2010/12/30,他者についての知2010/12/29,商業道徳2010/12/28,言葉の理解2010/12/27,電子的な研究2010/12/26,歴史への回帰20111/12/19,国語とナショナルヒストリー2010/12/12,文化の複層性,2012/05constructedness2010/11/28,読み方2010/11/21,ナショナルヒストリーと国語の形成2010/11/14,12112010/11/07、まとまりませんが2010/10/30、理由2010/10/29 、おしまい2010/10/28、イフヒストリー2010/10/27、同一性、同時性という錯覚2010/10/26

事実への近似性2010/10/25、カナダの歴史研究2010/10/24、前提として想像されているもの2010/10/23ization al history2010/10/22、ホブズボームについて2010/10/21、なぜ「歴史の死」なのか2010/10/20、歴史をもつ2010/10/19、経験・記憶・想像2010/10/18

相対性の考え方2010/10/17、プロジェクトの再申請2010/10/16、記憶の集合化・歴史2010/10/15


by pastandhistories | 2017-12-14 20:03 | Trackback | Comments(0)

目次①

 しばらく記事を書いていなかったら、またアクセスが増えてきました。不思議なブログです。更新していなかった理由は、校正に追われているため。徐々に目途がついてきたので、集中的に処理しています。引用箇所の再チェックでだいぶ苦労してしまいました。ということなので、初めてのことですが、目次を作成してみました。集中的に書いていた2010年の分です。整理していないので読みにくいですが、以前の記事を見るときの参考にしてもらえればと思います。時間がある時に次の分も作ります。


認識の構造・対象の構造/10/14、D・カーとミンク/10/13、同一性/10/12、第三者からの理解/10/11、先生が教えた嘘/10/10、プロフィール①/10/09I knowed/10/08、アーサー・ペンと『小さな巨人』/10/07、二つの家系図/10/06artifacts/10/05、史料の多様化/10/04、ホライゾンタル・ヴァーティカル、/10/03、文化的断絶/10/02、個人の変化・世代的要素/10/01、書くということ/09/30、メモの整理として/09/29、時間性/09/28、授業とテキスト/09/27、形式・内容/09/26、残余の復讐/09/25、鏡の中の姿/09/24、通時的な思考の意味/09/23、価値としての客観性/09/222時間ドラマの文法/09/21、記号の事実化/09/20、その当時の真実/09/20、「民衆」の「怒り」/09/19、パブリック・スペースの歴史/09/18、スポーツと映画/09/17、記号への還元/09/16、近代科学と歴史/09/15、魔女の実在/09/14、事実と主観/09/13、ネットの辞書的機能/09/12、ノンフィクションと歴史/09/11、グレグ・デニング/09/09、歴史の抑圧性/09/08、自己の歴史化/09/07、モダニティ・ナショナリティ・オーディアンス/09/06、コンテクスト性と個人性/09/05、「日本では」「日本での」という枕詞/09/04、英語と差別化/09/03、グローバリゼーションと歴史/09/02、概念の遡行性/09/01、ホワイトのペーパー/08/31、次回開催地/08/30practical past/08/28、歴史のキャノン/08/27、死者の権利・記憶の構築/08/26、発表と著作権/08/25、歴史のトランスナショナル化への疑問/08/24、ラウンドテーブル/08/24great men と common persons/08/23、歴史のミクロ化/08/22、パソコン不調/08/22Globalization and its Disconte/08/21History, Science, and Practica/08/20、自閉性と国際性/08/19、フランス革命の歴史化/08/18nationalという言葉の象徴化、nationalなものの/08/16、クラシカルなものの象徴化/08/15、象徴と言語/08/14、言葉の循環性/08/13、返事/08/12、歴史を消費する/08/10、機械の利用/08/09、歴史を聞く/08/08、ハワード・ジン/08/07、「下から 」と「下へ」/08/06、時間がない/08/05、ヘイドン・ホワイトと西川正雄さん/08/04、マイクロフィルム/08/04、アラン・マンズロウ/08/03、電子化の中の歴史/08/01、ヘイドン・ホワイトの件/07/31、ロンドン/07/30、ヒストリオグラフィカル・ターン


by pastandhistories | 2017-12-05 23:40 | Trackback | Comments(0)

エピソード

 今日の朝日新聞の書評欄は一番目目立つところにか柄谷行人さんによる『メタヒストリー』の書評。びっくりしました。話題になりすぎている感、なきにしもあらずという感じですが、ネットでも書評者が妥当か、あるいはその内容が妥当かということで早速コメントがあるようです。今日はこのことについて一言だけ。
 ヘンドン・ホワイトが日本に来る前に、ホワイトに日本人の思想家・歴史家で誰が知っている人物はあるか、また著作を読んだことがあるか、聞いたことがあります。その時、一人だけ名前を挙げたのが柄谷行人さんです。どうしてかと聞いたらスタンフォードに来たからだと言っていました。本も読んだことがあるということで、褒めていました。
 以前書いたことがありますが、その後日本に来る準備として英語で読める色々な人のものを読んだようですが、ホワイトが自分に対し最初に名前を出した日本人は柄谷行人さんです。、

by pastandhistories | 2017-11-12 20:09 | Trackback | Comments(0)

短期主義への批判

 『メタヒストリー』『実用的な過去』という初期の著作と最新の著作が相次いで訳出されたことでヘイドン・ホワイトへの関心が高まっている感じです。ネットを見ても随分と反響があるようです。歴史研究者によるものだけではないという感じもしますが、ホワイトの議論の意味を歴史の立場から考えてほしいということで、このブログでもいろいろと紹介してきた立場からすると、時代が多少は変化しているのかなという感じもします。
 しかし、自分としてはやや意外なのは、ほぼ時期を同じくして訳出されたデヴィッド・アーミテイジとジョー・グルディの『これが歴史だ』への反響が意外なほど小さいことです。ホワイトの訳出本に比較すると安価だし、内容を読みやすい。なんといっても海外では歴史研究者の間では、その出版形態もあって大きな反響を呼んだ本なわけですから、もう少し大きな反応があってもよいはずです。
 内容はきわめてシンプルに短期主義への批判。研究対象をきわめて限られた時間と場に限定した詳細な実証に歴史が陥っていることへの批判です。歴史に特有な長期的なパースペクティヴを生かした歴史研究を行うべきだし、コンピューターの発展によってビッグデータの利用が可能になった現在こそ(あるいは今後は)そうした方向性に歴史研究は向かうべきだという主張です。そのことが歴史の社会的有用性を取戻し、人々の関心を呼び寄せるものになるはずだということです。念のために捕捉すると、こうした主張をしているからといって、実証的な研究やミクロ的な歴史をそれ自体として否定しているわけでありません。
 先日文化功労者に高名な歴史研究者が選ばれました。自分でもさすがに驚いたのは、この人物は昨年か一昨年かに刊行された本の中で、「筆者自身以外は誰も読まないような論文」が大量に生み出されていると書いていました。他の歴史研究者はこんなことを書かれて悔しくないのでしょうか。といっても、この批判に反論できる歴史研究者はどれくらいいるのでしょうか。
 そうした問題を考えるためにも、この本は歴史研究者の間でもう少し話題になってもよいような気がします。よい解説的な紹介が出るという話もあるので、それを期待しています。


by pastandhistories | 2017-11-05 21:08 | Trackback | Comments(0)

1月13日

 今日は会の告知となります。
いつもここでお知らせしているプロジェクトの招聘セミナーは, Blackwell から今度でる(来年3月) パブリックヒストリーのアンソロジー(Companion to Public History)の編集者である David Dean を招いておこなうことが決まりました。日時はセンター入試とぶつかる1月13日(土)です。この時期は既に予定が入っている人も多いのではと思いますが、都合がつくようならご参加ください。予定としては、上記の本の序文の執筆を終えていると思うので、パブリックヒストリーの現状と今後について総括的な話をしてもらえたらと考えています。多分テーマとしては、博物館、サブカルチャーと歴史、デジタルヒストリーというようなことを話題にしてくれるのではと思います。
 それから以前プロジェクトで招聘したカレ・ピヒライネンの本が9月に立て続けに出たようです。リシンキングヒストリーへの投稿を集めて編集した編著が2冊、それからヘイドン・ホワイトの議論をふまえてパプリックヒストリーへの流れを論じた単著が1冊です。単著はキンドルでも読めますが、それぞれまだハードカヴァーだけなので、値段は高めです。予算がある人には購入できるかもしれません。


by pastandhistories | 2017-11-02 16:57 | Trackback | Comments(0)

二時間ドラマの構造③

 久しぶりに二時間ドラマについて書きます。二時間ドラマで重要な役割を果たしているのは過去の出来事。しばしば登場するのが、20年前の出来事への怨念とか復讐心というものです。そうした筋立ての中で過去はどのように登場するのかというと三つの形式。
 一つは、大体が子供の時期に、親兄弟や知人が自殺に追い込まれた、あるいは殺害された事件を目撃した、あるいはそうした人々の死の間際に「恨み」「怨念」を伝えられた、というものです。
 もう一つは、そうした事件についての記憶や、あるいは真相は知らなかったけど、それを伝える証拠を偶然見つけた、証言を偶然立ち聞きしたことによって過去の事実を知るにいたったというもの、
 さらには、前の二つが重なっているような場合。具体的には記憶はおぼろげだったけど、その記憶を蘇らせる何らかの事件があったというものです。
 いずれにせよ、二時間ドラマにおける犯人の動機は、とりわけ美人女優が主役なら、多くの場合はその殺人の動機はほとんどが「過去」の事件に基づくものとして説明されます。「謎」を作り出すための文法です。しかし、歴史研究者の立場からすると、過去がこんなに殺人を正当化していいのかという疑問があります。逆説的に言えば、過去への知識である歴史は、そうした行為を正当化するためにもちいられてきたのかもしれません。
 二時間ドラマの場合は、そのように過去に根拠を置いて行われた行為、つまり殺人は必ず発覚し、犯人は自殺するか、罪を悔い改めるために逮捕されます。なぜなら、それは個人的行為だからです。個人的行為としての殺人は、いかに過去に基づく正当性を保持していようとも、処罰の対象となります。
 しかし、集団で学ばれる過去認識、つまり歴史がそうした行為を正当化するものであった場合は、その行為者は処罰されません。個人として過去を認識し、それに基づく行為を行えば処罰の対象となる。しかし、集団として過去を認識し、それを行っても処罰の対象とはならない。二時間ドラマ(サスペンスドラマ)と戦争映画の違いです。

by pastandhistories | 2017-10-25 21:56 | Trackback | Comments(0)

政治指導者の理性

 このブログにはどの記事にアクセスが多かったということを示す機能があります。昨日それを見て驚かされたのは、今月は「政治の逆説的転回」という記事に一番アクセス数が多かったことです。そこでも書きましたが、自分の本来的関心は政治の問題ですが、このブログは基本的には歴史に対する考え方が中心。読んでくれている人の関心が政治にあったことは意外でした。
 そこで今日は政治の逆説的転回という問題から書いてみます。最近そうした角度から政治史を分析した本が出ました。長谷川貴彦さんの『イギリス現代史』[岩波新書)です。この本の内容はまずは、第二次世界大戦期に労働党が内閣に加わり、そこで作成した戦争遂行のための経済統制プランが実は戦後の福祉国家の起点となったということが指摘されています。社会民主主義政党の戦争協力は第一次世界大戦に関してはレーニンが強く批判したことなわけですが、戦争協力が福祉国家の起点となるという逆説的な転回が、政治にはこのようなかたちで生じることがあります。
 同じような逆説的転回は現在の日本政治にも見られます。たとえば経済政策としてはネオリベにもっとも近いはずの自民党の安倍首相がしきりに強調してしているのは、幼児教育の無償化であり、維新の松井党首が主張しているのは、大阪府では高校教育を私立も含めて無償化したということです。つまり彼らは、ネオリベとは必ずしも結び合わない福祉の実績を強調しているわけです。
 実はこうしたアイディアが日本の社会に本当に定着したのは、戦争直後の社会党政権においてではなく、美濃部都政に代表される革新自治体によって本格的な福祉政策がすすめられて以降です。以来、福祉政策は保守派ですら選挙において無視できな社会的合意となっている。そうした逆説的な転回の一端が今回の選挙でも見られています。
 それにしても昨日の秋葉原の状況は酷かったですね。日の丸を振って、安倍万歳。森友学園の幼稚園と同じ光景だということで、ネットでは安倍晋三記念秋葉原幼稚園と揶揄されている。それ以上に問題なのは、気に入らないメディアを取り囲み、攻撃したということです。そういう支持者が一部に出ることはあったとしても、それを諌めるのが理性的であるべき政治指導者の役割。それが先頭に立って気にいらないメディア攻撃を煽っている。本当に残念です。
 残念と言えば、ホワイトの会で成蹊大学で教えたことがあると言ったけど、それを依頼してきたのはナチズムの問題に本当に誠実に取り組んだ村瀬興雄さんです。村瀬さんの授業に、間違いなく安倍首相は参加していたはずです。安倍首相の頭の中には村瀬さんの誠実な訴えは入らなかったのでしょうか。

by pastandhistories | 2017-10-22 10:55 | Trackback | Comments(0)

praciticality

前回書いたのが10月10日。ということで久しぶりということでもないけど、久しぶりという感じがします。その理由はこの10日ほどは、原稿書きに集中していたから。以前少しふれたことのある書き下ろし。どうしてもまとめられないところがあってずっと棚ざらし。もう断念しようかなと思っていたのですが、外語の会が終わったのでとりかかりました。ある出版社が企画に載せてくれていてその締切が11月15日。ただそこまで延ばすと他の仕事ができない。ということで一気に。全体で400字詰め、486枚。かなりの量です。まだ締め切りは先なので、もう少し見直しますが、それが今日終わったので、ほっとしているところです。これだけ一気に書きあげられたのは、外語の会で触発されることがあったから。研究会というのは、物を考えるきっかけになるということで、役立つところがあります。
 その外語の会にちなんで『メタヒストリー』の翻訳についての話題。自分が大学院生だった頃、指導教員がある本の訳書のコピーをとってくれないかと依頼してきたことがありました。有名な本。原書を持っているはずだし読んでいるはずなので、どうしてですかと聞いたら、授業のノートを作るには訳書の方が早いという返事。変に納得した記憶があります。そうした点で訳書は便利です。人によって違うとは思うけど、自分の場合は原書と訳書だとかかる時間は5倍以上。それ以上のこともあります。時間を節約してくれるという点で訳書は便利。その点で訳者のことをいつもリスペクトしています。要するに訳書にはプラクティカリティがあります。
 自分はそうした点で翻訳はある種のサーヴィスだと考えています。ただ訳書をめぐっては、訳語や表記の問題で批判が繰り返される。そのなかには随分と虚しく感じさせるものがあります。ということで自分が専門のチャーティスト運動に関しては、訳書を出すのなら同じ専門的研究者と一緒にということで古賀秀男さんとずっとその候補を探していました。幸いにしてもっとも代表的な研究者であるドロシー・トムスンがゲラの段階で原稿を送ってくれて、さらにはある人が出版社を紹介してくれて、500頁ほどの本で二人で訳語を統一しながら作りました。そうした協力が、訳書をさらにプラクティカルなものとすると考えたからです。
 そうした考えからすると今回のアマゾンのブックレビューはすごく残念です。断っておきたいことは、自分は監訳者である岩崎さんとは、ほとんど会ったことはありません。ヘイドン・ホワイトを招いた時にセミナーに参加してもらったのが初めて、その後一回あったような気がしますが、それから今回外語の会に招かれるまでまったく会ったことがなく、連絡をしたこともありません。いわば部外者です。そういう立場からこのブログは書いています。自分が研究者として一番大事だと思うのは、プラクテカリティ。このブログもそうした意味で書いています。読んでいる人の実際的な参考になればいいということです。
 今回のアマゾンへの書き込みは一部を取り上げるかたちで匿名で行われた。それでいいのでしょうか。少なくとも、名前を明らかにしてさらに具体的に内容を示す。可能であればそれを今回の訳者との協議で、もし再版される機会があれば、それにいかす。それが読み手が求めるプラクティカリティに対応するものです。ホワイトの本を読んでいてわかることは、随分と論争的に見えるけど、学者的な論争をけっして自己目的化はしていないということです。あくまでも読者が問題をさらに考えていくための問題提起、そうした読者に対する姿勢です。
 あえて厳しく言いますが、学問は学者同士の自己目的な論争のためにあるのではないということが、ホワイトのもっとも基本的な考えだと自分は考えています。もっとお互いにリスペクトしあうべきです。

by pastandhistories | 2017-10-19 22:33 | Trackback | Comments(0)

19世紀的な形式

 昨日少し長く書きました。この記事には多分こんな反論があると思います。「資料自体が映像を媒体としたより事実的なものである以上、現代史を対象とした再現前化・表象を行う場合は、文字的ではなく映像的なものですべきだという議論はわからないでもない。でもその場合、封建制とか資本主義、あるいは上部構造や下部構造、歴史の発展法則というようなことは、どうやって論じることができるのか」という問題です。
 実はこのことは現在ではすでに「折衷的」に行われています。歴史を「教育」している人は、そのことに自覚的であったか、非自覚的であったかはともかくとして、パワーポイントなどを駆使しながら、図像的な、あるいは映像的な資料を媒介として、「言語的」な論述を行ってきているからです。啓蒙的な一般「書」において現在図像的資料が用いられていないものはまずは見当たりません。最近ではもちろん「図像論的転回」というように、図像的資料をもちいた学術的論文も出現し始めています。
 しかし、そうした「折衷的」な方法で事足れりとしていいのかというと、そこには大きな問題があります。実はそうしたさいにもなお使用されている概念の多くは、19世紀的な歴史、つまり文字的なものを媒体として成立していた歴史にあったイデオロギーや論証の形式を多くは継承したものだからです。とりわけ歴史叙述の一部が歴史学としてディシプリン化されるにともなって生み出されてきたものを継承したものだからです。
 ホワイトが批判しているのはそのことです。20世紀に入ってからいわゆる近代的技術の発展、さらにはそれに伴った人々の意識の変化によって芸術においても、科学とされるものにおいても、大きな変化が生じました。たとえは小説を例にとれば、意識の流れやアンティストーリーといった形式、そのことは小説というジャンルを例にとった一つの例なわけですが、芸術一般においては対象を忠実に模写するのではなく、直観的な、抽象化した表象を通しての対象をむしろ解体・分解していくという表象形式がとられるようになりました。ホワイトが19世紀的なリアリズムに対してモダニストというかたちで論じているものは、そうした形式をもつ芸術や、あるいは科学のあり方です。あるいは人々の意識のあり方です。
 おそらくそうした技術的・知的革新を受けて生ずるべきものは、別の言い方をすると、形式の変化を受けて生じるべき、内容(歴史の場合は過去の実在)への理解は、これまで支配的なものであったものに代わる幅広い可能性を持つべきものだ、というのがホワイトの主張です。ホワイトの議論をめぐって、それでは事実はどのように認識できるのかと議論することも、重要なことかも知れません。しかし、自分がそこだけに議論を集約してはならないと思うのは、そうした議論は結局は問題を「学者」の間の議論にとどめてしまうからです。ではなくて、普通の人々の間にある過去認識のことをもう一度考えてみる。自分が最後に『歴史実践」ということを提起したのもそのためです。ホワイトが「歴史学的過去」(historical past・・・この訳語は佐藤啓介さんが付けてたものですが名訳だと思います)に対して、広く人々の間にある実用的な過去に立ち返ることを主張しているのもそのためだと自分は考えています。

by pastandhistories | 2017-10-10 09:43 | Trackback | Comments(0)

歴史の一部

 おとといの会で出版社の人に『メタヒストリー』の初刷りの部数を聞いて少し驚きました。価格が高いので部数を限定したのかと思ったのですが、予想を超えた数でした。今どき人文系の学術書でそんなに刷っていいいのかと思うところもあるけど、かなりの勢いで捌けているようです。
 でも買ったはいいけど読者はどう読むのでしょうか。最初が面倒くさいですね。喩法「トロウプス」の説明。多分以前からあったメトニミーを換喩、シネクドキを提喩と訳すのはこれで定着していくと思いますが(今パソコンで入力したら一発で変換してくれました。すでに十分に定着していたということかもしれません)、いったいなぜそのことをホワイトは問題とするのか。これまでも多くの解説でそれが「誰の考え」に「依拠」しているのかは、説明されてきているわけですが、「どうして」という問題は意外と説明されていないような気がします。自分はこの問題はシンプルに考えています。部分が全体を代表するとして、残りの部分を無視するのはおかしいし、恣意的に選び出された部分をつなぎ合わせれば全体が形成されるという考えも論理的には厳密さを欠いている。逆に全体が措定されれば、それが部分を代表しうるとするのも、飛躍があります。ホワイトの発想の起点となっているのは、そうした安易な立論への批判なのでしょう。
 少し議論がずれますが、ホワイトの歴史学への批判は、部分が全体であると称していることに対するものだと自分は考えています。ホワイトを議論すると、歴史は事実かということに、あるいはどうしてフィクションが事実になるのかというところへ議論が向かってしまう。おとといの議論にもそんなところがありました。こうした議論の仕方は、もっと大事なことを見落としているのではと自分は考えています。
 歴史とされるものもその一部ですが、人々の過去認識には多様な形態があります。そのことは自分がどのようなものを媒体として過去を認識しているのかを考えれば、すぐに理解できることです。現在大学をはじめとする研究機関で行われている歴史研究が事実性を根拠としていることは確かなことです。相当に恣意的な内容が含まれるようになったとはいえ、学校教育における歴史はなお事実性をその根拠としています。その点では一定の虚構を許容するとされる小説や映画とは違いがある、それも確かなことです。
 これからも大学などの研究機関や、専門的な歴史研究者とされる人々の間では、事実性に根拠を置くかたちで歴史が論じられていくはずです。そのことは人々の過去認識を助けるはずです。また文書間や資料館での資料の収集や保存も行われていくでしょう。そのことも人々の過去認識を助けるからです。そうした営為自体を否定する必要はありません。しかし、大学のような本来は開かれた真理の追究の場であるところの歴史が、そのようなかたち限定化されることには大きな問題があります[「文書」館であれば、本来の目的からして、それでも構わないのですが)。
 なぜなら、そうした作業は広く歴史とされるものの一部、広く人々がもつ過去認識の一部にしか過ぎないからです。その一部が歴史研究の可能性を阻害すべきではありません。たとえば現在では圧倒的多くの歴史研究者は、歴史を文字で表象している。ほとんどの大学では、卒業論文を「書かなければ」史学科を卒業できない。歴史研究者になろうとするなら、博士論文を書かなければ歴史研究者になれない。なぜならそうした研究の場を支配している「権威ある」歴史研究者は、それだけを「事実的」な歴史と考えているからです。しかしよく考えればすぐにわかるように、歴史「叙述」というのは、本来的にありうる歴史のほんの一部に過ぎません。事実に沿ったより正確な表象をしようとすれば、映像や音声が伴わなければいけないということは自明のことです。なによりも現代史を対象とするなら、より正確に過去を伝える史料自体が、圧倒的に記録・保存された音声や映像なわけだからです。事実をより正確に表象することが歴史研究の成果であるべきだというのなら、学生や大学院生に課せられるべきは、卒業論文ではなく、卒業映像であるべきでしょう。
 つまり歴史は事実であると主張する現在の歴史学は、文字的な歴史を絶対化している「一部」によって支配されている。したがってそのことに根拠を置くかたちで人々に強いられている過去認識もまた「一部」によって支配されているものでしかありません。「歴史の事実」ではあっても「過去の実在」とはほど遠いものということになります。ホワイトが批判したのはそうしたことだったのだと思います。ホワイトが「過去の実在」自体を否定しているわけではないと繰り返しているのもそのためです。こうした意見は極端でしょうか。自分の経験を振り返りながら、よく考えてください。たとえばテレビニュースと新聞は、どちらがより事実的なのか、どちらがより構築的なのかというようにです。実はそのどちらも構築的です。そう考えた時、フィクショナルなるなものとされる映画や小説から、ある種の現実の社会についての認識を、あるいは過去の実在についての想像的理解を、私たちが作り出していることに気づくはずです。

by pastandhistories | 2017-10-09 21:54 | Trackback | Comments(0)

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