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look at, look into

 やっとアクセス数は落ち着いてきて、分相応ということでほっとするところがあります。この間記事が途絶えたのは、以前ここでも何回が記したことがある書き下ろしの結論部分を書いていたためです。着手は随分と以前でしたが、結論部分がなかなか書けない。結論として書こうとしたことが、いつの間にか個別論文として発表されてしまう。そのうちにプロジェクトや別の本の出版計画が相次いで、そのままほったらかしになっていました。
 今回その結論部分の下書きをやっと書きました。まだ全体を見直してはいませんが、結局全部で400字詰め500枚強。下旬に出版社の人と会うので、大枠はこれでよいということになったら、もう一度見直して年末までには書き終えようというのが、今日段階での計画です。もっとも枚数も多いし、現在の出版状況ですので、出版に至るかはわかりません。内容は歴史論。本当の自分の関心は他の所にあって、時間ができるようになったらそれに取り組みたいと思っていたので、やっとそうしたことにも時間が割けるようになりそうです。
 歴史論と言えば、9月13日、14日のイーサン・クラインバーグを招いて会は、随分とネットに情報が流れているようです。まだそれほど宣伝をしていないのに、助かります。歴史理論、史学史の会ということですが、これについて今日は一言書き添えると、たしかフランク・アンカースミットは、歴史へのアプローチを、look at と look into に整理していたと思います。look at というのは歴史という形をとって著されているもの(書かれたものにとどまりませんが)を検討するということです。look into というのはそうした歴史によって表象されているもののを、内在的に見ていくということです。歴史理論、史学史というのは基本的には前者ということになります。いずれにせよ、過去は、そうしたものを look at することによって、look into しているものです。 

by pastandhistories | 2017-08-18 14:07 | Trackback | Comments(0)

ボーダースタディーズ

 先週参加したのはボーダースタディースをテーマとした研究会。会での報告の具体的な内容に関してはそれぞれの報告者によって行われていくと思うので、ここでは自分の感想を書くにとどめます。個々の発表については内容的にも細かいことがあるのでそれは避けて、最後の総括的なパネルについて書くと、報告者はクリス・ロレンスとイム・ジヒョン。ロレンスは自分の問題関心からボーダースタディーズということでそれと関わるナショナリズムの問題を取り上げたのですが、本人も認めていたように、参加者の関心とはややマッチしないところがあり、あまり議論は進みませんでした。イムもこのテーマが専門ではないでしょうが、議論は巧み。問題を五点に要約したけど、まずはつかみの議論で南半球と北半球では季節が違うという話から。普通に南北問題と言ってもいいわけだけど、季刊雑誌の「季節」を取り上げてそれを最初の持ち出したのには、彼らしいところがありました。またアイデンティティをアイデンティフィケーションという言葉で置き換え、アイデンティティは固定的なものではなく、つねに過程的に構築されているものだと論じたけれど、このあたりにもイムらしい議論の巧みさを感じさせました。もう一つ彼が指摘した重要なことは、ボーダーをアクターから捉えるということです。
 この問題はこのブログでも論じたことがあります。確認してみたら、2012年3月の「境界の形成、越境者の増大」、同じ年の9月2日の「野ばら」という記事でした。読み直してみると意が足りないところもあるようですが、そこで論じたようとしたことは、そもそも「ボーダー」というのは「国家」が構築されるに伴って同じように「構築」されたものであるということです。構築された「中央」から見れば「周縁」となるけど、歴史的にはそれ自体として主体です。したがってこうした地域をボーダーとして扱うのは、現在的な視点であっても、歴史的な視点ではありません。歴史的にはそうした地域はあくまでも主体として理解されるべきだからです。
 シュテファン・バーガー(彼の呼び方についてはこのブログで彼を最初に紹介して時に、ドイツ人なわけなのでベルガ―と書くべきかという記事を書いたことがあります。今回本人に確認したら、基本的にはそうだと言っていました。しかし、会ではすべての人がバーガーと呼んでいたので、バーガーと書いておきます。ボーダーレス化した人々に通有するインターナショナルネイミングです)も最初のキースピーチやその後のコメントで、ボーダーは(つねに構築され、変更されるものであり、またゾーンであったりラインであるという点で)プロセスであることを強調していました。
 その通りだと自分も考えています。たとえば16世紀までは大西洋がヨーロッパとアメリカ大陸のナチュラル・ボーダーであったわけですが、18世紀には13植民地がイギリスとネイティヴ・ステーツのアーテフィシャル・ボーダーゾーンであったわけです。国家を欧米のみに存在したものとはせず、アメリカンネイティブが保持していたシステムをステートとみなせばそうなります。ルイジアナ地域はある時期までイギリスとフランス、ネイティヴズのボーダーゾーンであったわけだし、テキサスもカリフォルニアもボーダーゾーンであったわけです(この二つは、考え方によれば今でもボーダーゾーンかもしれません。だからこそ人為的に壁を構築するという考えが生じたわけです)。
 どうしてもボーダーには国家、それも近代国民国家や大国が前提とされるところがあり、ボーダースタディーズにそのことは反映されがちですが、やはり歴史的には、そして現在的にもそう呼ばれている地域に住む人々を主体として考えていくことが当たり前のことだけど、必須です。

by pastandhistories | 2017-08-09 11:48 | Trackback | Comments(0)

今週の予定、今後の予定

 今日から三日ほど研究会で東京を離れます。今回は、シュテファン・バーガー、モリス・テッサ・スズキ、クリス・ロレンス、イム・ジヒョンらが参加するとのことで、楽しみです。ただ自分のプロジェクトではなくエキストラ参加、内容についての報告などは主催者側によって行われると思うので、多分ここでは紹介できないのではと思います。少し残念です。
 自分が関係しているプロジェクトでは、すでに記してきたように、9月13日、14日に『歴史と理論』誌の編集長であるイーサン・クラインバーグを招いての会が、9月13日、14日にあります。13日に日本の研究者による4本の報告があります。イーサンがコメントしてくれますが、彼には英語のサマリーを事前に渡しますので、発表は日本語です。14日はイーサン自身が報告してくれます。ほぼポスターを作成してあるので、その発送作業に入れるのではと思います。それぞれ面白いと思いますが、13日は若手の研究者、14日はイーサンとディベートをしたいという人は参加をしてください。
 もう一つは11月26日に、近刊の Companion to Public History のこれも編集者であるデイヴィド・ディーンを招いて、パブリックヒストリーの現況と今後についての議論をする予定です。ややフライトの切符の手配にややこしいことがあって調整にもう少し時間がかかりますが、多分この日程で開催できるのではと思います。
 二つの会の報告者はともに編集者として、現在の歴史研究の状況についての幅広い理解を持っている人たちなので、いろいろ参考になることが聞けるのではと考えています。自由な討論形式で行う予定なので、多くの人が参加を期待しています。

by pastandhistories | 2017-08-02 09:12 | Trackback | Comments(0)

プロフィール②

 何気なく始めたブログが随分と積み重なってしまいました。最近は一日平均三ケタ前後のアクセスがあって、それだけの数の人に何を書いていいのか戸惑うところがあります。「そもそも」誰が読んでくれているかがわからない。「いわば」暗闇に向かって書いているような感じです。
 ネットへの発信ですが、匿名というかたちをとらず確か最初の頃にプロフィールとして執筆者の名前を明らかにしたことがあったはずです。その時、時々は個人的情報を書いていくということも明らかにしてそれに類する記事をいくつか書きました。その後も多少は書いていますが、基本的には自分が参加しているプロジェクトなどの情報が中心となっています。歴史研究者であれば、その内容で執筆者が誰かはわかっているとは思いますが、格別歴史研究者ではない人や、新しい読者もいると思うので、今日は改めて執筆者のプロフィールを書いておきます。
 名前は岡本充弘です。職業は、現在は庭園管理、果樹栽培、ママチャリ自転車ロードレーサーですが、そこから収入があるわけではありません。東洋大学の史学科に教員として勤務していましたが、現在は退職しています。ただ歴史理論のプロジェクトには参加していて、主としてその企画を手伝っています。他人が自分をどう理解しているのか、それはわかりません。ただ自分が一番気に入っているのは、ある人からもらった「人格温厚、思想極端」という評価です。実際には、「人格極端、思想温厚」のような気がしますが、そうであるがゆえにこの評価は嬉しいところがありました。
 結構宣伝の多いブログですが、今日も宣伝をしておくと、このブログの内容に関わる出版物としては、単著である『国境のない時代の歴史』(近代文芸社、1993年)、『開かれた歴史へ』(御茶の水書房、2013年)、共編著としては『歴史として、記憶として』(御茶の水書房、2013年)、『歴史を射つ』(御茶の水書房、2015年)があります。今年の初めの頃、これらのアマゾンでの販売状況の関して、ここで宣伝的な記事を書いたことがあります。
 『国境のない時代の歴史』はアマゾンでの古本価格が安いので誰か買ってほしいと書いたら売れたらしく、現在では在庫がないようです。実はこれは自分の手元にもありません。この本の内容は自分では気に入っていて、自画自賛ですが「幻の名著」と呼んでいます。
『開かれた歴史へ』は版元ではほぼなくなっているようですが、アマゾンでは中古品が安く出回っているようです。『国境のない時代の歴史』に関しても書きましたが、機会があればサインをしますので(普段は献本にも絶対にサインをしないのですが)、値下げを食い止めてくれる人がいると、嬉しいところがあります。
『歴史として、記憶として』は一時品切れでしたが、現在ではアマゾンに在庫があるようです。これも自画自賛ですが、この本は豪華執筆陣で、貴重な証言も含まれていて、有用ではと思います。
『歴史を射つ』は版元では完売になったようです(返本が多少あるかもしれないけれど)。新刊の値段が高くて自分では心苦しいところがありました。古書としても妥当な価格であってほしいと考えています。
 最後になりますが、自分はフランクな性格で、老若男女誰に対しても分け隔てなく付き合えるのではと思います。最初にも書きましたがブログの不便なところは、誰が読んでいるのかがわからないことです。いくらでも個人的なコミュニケーションには応じますので、気兼ねなく連絡してください。メールは tsyokmt@hotmail.com です。メールのアドレスを公開すると、年齢のせいかヴァイアグラの宣伝が毎日のように入ってきます。もっとも最近は養毛剤の宣伝はまったく入らなくなりました。

by pastandhistories | 2017-07-30 10:10 | Trackback | Comments(0)

比較史②

 昨日は少し落ち着いたけど、相変わらずアクセス数は減らず、先週は一日平均が3ケタ。随分と多くの人がアクセスしてくれるようです。そうした期待に応えるほどのことは書けませんがませんが、今日は一回で中断した比較史の続きを書きます。
 ①で書いたことは、ユルゲン・コッカも指摘している「比較史の非対称性」という問題です。歴史家は自らが現前する時間的な、空間的な場に対する認識を前提に過去を論じる。同時にその論じられた過去が提示される場もまた彼が現前する時間的な、空間的な場です。そうした彼が現前する場に対する知識は、歴史家が議論の対象としている過去についての知識と比較すると、質的にも量的にも非対称的なものです。もちろんオーディアンスは、歴史家以上に非対称的な知識しか持っていません。
 逆説的なことですが、そうした非対称性のうえに、比較史は成り立っているという部分があります。しかし、比較史には歴史家の拠って立つ時間的な、空間的な場をともに離れた二つの対象を設定するという方法もあります。たとえば19世紀の南米と、13世紀の中東との比較というようなテーマ。もちろんそうしたテーマでも同一性と差異は論じられますし、歴史家から見れば対象はともに自己に疎遠であり、知識の質も量も似たようなであるという点でパラレルなものとなります。実はこの場合でも、歴史家の問題意識が前提とされていて、その意味では非対称性は内在していますが、外見的には比較される対象そのものは対称性を留保していることになります。しかしこの場合は、テーマの随意性がかなり高まることになります。
 比較史の問題は、結論が前提的に措定されがちだということです。結論は二つ、もしくはも三つ。比較するものに、①同一性あるいは類似性がある。②差異がある。そして③同一性・類似性もあるが、差異もある、という結論です。それほど単純ではないという批判があるでしょう。検討の結果、当初の措定とは異なる結論が導き出される場合も多いという議論の仕方です。しかし、そうした議論もまた、最初の予測とは異って、「意外にも」同一性があるとか、差異があるという議論をしているわけで、やはり結論は前提的な措定から導き出されたものです。

by pastandhistories | 2017-07-25 10:18 | Trackback | Comments(0)

周縁と歴史

 昨日はプロヴァイダーの点検作業ということで、自分からはアクセスできませんでしたが、アクセスが3ケタを超えたようです。おとといもということで、この間アクセスが高止まりの傾向にあるようです。期待してこのブログを開いてくれる人がいるということでしょうが、正直そうした期待に応えられるかと思うと、気持ちが重くなります。ただ読んでくれる人にとって参考になればということで、今日も思いつくことをメモ的に書いておきます。最初に断っておきますが、あまりまとまった話ではありません。
 その一つは以前授業で自分が用いた史料についてです。「歴史は史料に基づく実証である」ということで、大学の史学科には「史料購読」「史料研究」のような科目が置かれています。自分が担当していた西洋史の場合、この授業のためのテキスト選択には以前は結構苦労しました。しかし、ネットはその改善を随分と助けてくれました。海外の史料が学生にも直接利用できるようになったからです。その一つとして用いたのが、ダクラス・リンダ―という人が作成した Famous Trials (http://famous-trials.com/legacyftrials/ftrials.htm)というサイトです。あくまでもアメリカの学生向けという点で、欧米中心で英文が中心となりますが古今東西の有名な裁判の記録が、そのアウトラインについての説明とともにアップされていて、便利なサイトです。
 もちろん、裁判資料などの公的資料を中心として歴史を組み立てることには、批判があります。史料そのものが本来は社会の統制を目的として作成されたものでしかないからです。しかし、そのことを逆用して斬新な歴史研究が、ミクロヒストリーとしてナタリー・ジーモン・デイヴィスやギンズブルグによって試みられたことも事実です。これらが評価されたのは、従来は歴史の周縁に置かれていた人々を取り上げることを通して、その時代の社会のあり方を合わせて論じたからです。
 厳密には論じていることの意味内容は異なりますが、歴史の周縁という問題をテーマに鋭い指摘をしているのが、今年に入ってから翻訳出版されたラナジット・グハの『世界史の脱構築』(原題は、History at the Limit of World-History )です。欧米に起源をもつ World-History が植民地支配とともに南アジアに入ってきた、そしてそのことを前提として「歴史となりえるもの」は何か(このことは逆に「歴史になりえたもの」は何で、「なりえていないもの」何かという議論でもあるわけですが)を論じたものです。
 面白く読める本ですが、そのタイトルの訳に関してに訳者の竹中千春さんは興味深い指摘をしています。それはタイトルの訳として採用された脱構築という言葉は、原書の中では一度しか登場しないということです。しかし、竹中さんがこの訳語を採用したのは明確な理由からです。グハはサバルタンやポストコロニアリズムの立場に立って、そうしたものを排除するかたちで機能してきた世界-史を脱構築する立場に立っている、と竹中さんが考えているからです。
 今日の話はあまりまとまりませんが、無理に結論すると、同じ周縁に議論を立脚させていても、ギンズブルグとグハは立場を異にしています。ギンズブルグは周縁から歴史を構築することが可能だと考えているわけですが、グハは周縁から歴史そのものへの疑問を提示しているということです。これは重要な論点だと自分は考えています。

by pastandhistories | 2017-07-19 10:56 | Trackback | Comments(0)

セミ・グローバリゼーション

 気づいた人があるかもしれませんが、昨日書いたことは過去に生じた事実を踏まえていないという点で、きわめて非歴史学的な文章です。最大の誤りは、今後の300年の予測として、一家族についての子供数を二人、一世代を30年としていることです。この推定は、歴史的事実に照らして、明確に誤りです。たとえば、日本で出生者数が一カップルあたり二人を切ったのは、20世紀後半に入ってからであって、それ以前は一カップルあたりの出生者数ははるかに大きいなものでした。これは外国でも歴史的には同じで、また現在でも高い出生者数がある地域が存在しています。さらに、一世代が30年というのも固定的なものではありません。はるかに速い世代交代が行われた時代、地域が歴史的にはありました。そればかりか、DNA操作の医療技術が飛躍的に発達して人間の老化が制御されるようになれば、平均寿命が200歳というようになり、人口を調節するために、出生者数を極端に制限するという社会が、意外なほどの近未来に生じるかもしれません。その意味では、人間の社会が同じような文化的枠組みで維持されつづける考えるのは、きわめて不正確な予測です。
 またグローバル化がさらに促進されるというのも、傾向性としてはかなり確実な予想に思えますが、本当にそうなっていくかについては、なお議論の余地があります。そうした問題を論じたものとして、少し興味深いのは、Pankaj Ghemawat が World 3.0: Global Prosperity and How to Acieve It (2011) で論じた現代の世界を 'semi-globalized' という段階にあるものとして捉える考え方です。実はこの本はまだ入手してはいませんが、その紹介はダグラス・ノースロップが編集した Companion to World History (2012) に、ノースロップ自身が付した最後の要約的文章で紹介されています(同書、500~1頁)。
 Ghemawat の主張の要点は、ノースロップによれば、セミグローバライズドという言葉にも示されているように、現在の世界をグローバリゼーションが全面的に行きわたった社会とは考えてはいないということにあります。そしてネオリベラリズムのようにそのさらなる進行を擁護するのではなく、そこから生じる問題を制御する有効な手段が現在の段階では明確ではない以上、国家による規制を支持する立場から Ghemawat は、現在の世界の状況をセミ・グローバリゼーションとして捉えているようです。
 その具体例として Ghemawat は、たとえば現在でも出生した国で死亡する人は人口の90%を占めることをあげています。またネットを経た情報も、国家的枠を超えて流失しているのは20%以下に過ぎないことを指摘しています(ネトウヨが出す情報はまさに国内限定的なものです)。トレンディ化したグローバリゼーション論に釘を刺した主張としてやや興味深い主張です。普通の人々の日常的生活や言語的な制約を考えれば、グローバリゼーションがさらに進行していく場合でも、それは全面的なものとはなりえずに、ローカリティやナショナリティが残されていくということは、大いにありうることでしょう。それがネガティヴなものではなく、いかにポジティヴなものとして機能していくかが大事です。

by pastandhistories | 2017-07-15 17:38 | Trackback | Comments(0)

未来の歴史

 昨日は旅券の更新に行きました。身分を証明する書類はもちろん(現在の旅券があるので)、戸籍抄本も住民票もいりません。どうしてかなと思っていたのですが、受付でその理由がわかりました。その場で一瞬にして住民票のコピーが出てきたからです。
 考えてみれば当たり前の話ですね。各市町村にある原簿を大型のコンピューターに入力してあれば、それがどの端末からも出力できるからです。現在では住民票や戸籍のある特定の市町村にだけ、(かつては文字的な形で保存されていた)データがあるわけではないからです。 
 このことで気づいたことは、ある世代以降の戸籍はすでにビッグデータの一部になっているということです。それが今後も延々と累積していく。つまり自分も含めて戸籍制度のある現代社会に生きている人間の子孫については、たとえば300年後には、子供が平均二人、一世代が30年とすると2の10乗である1000人程度存在しているわけですが、データが消失しない限り、そのすべてがわかるということになります。別の言い方をすると、300年後の人間は300年前にいた1000人近い祖先のすべてを記録上は認識できます。
 おそらく今後の300年というのは、グローバル化の進展に伴い、人々の流動化、それに伴う混血化が一層促進されていく時代でしょう。そうした社会にあって、個々の人々は自らにあるハイブリディティを、明確な記録をとおして認識しえるわけです。そこでは、歴史をナショナルな単位で論じるべきだとする考えは、きわめてナンセンスなものとなるはずです。カーが論じたように歴史を未来から見るという考えが正しいのだとするなら、ナショナルヒストリーから歴史を語り、それを永続的なものとして絶対化しようとすることは奇妙です。未来に生きる人々は、自らに関して残された史料を踏まえて、自らのハイブリディティを認識していて、ナショナリティに帰一化されるような歴史観を抱いてはいないだろうからです。
 このことが示していることは、もちろん相対的には現在のような流動性の高い社会ではなかったことは事実かもしれませんが、ナショナルな枠組みに歴史がある時期まで画一化されがちだったのは、300年前に生きていた1000人ほどの祖先が可視的なものではなかったからです。そうしたものを丹念に可視化していけば、現在の歴史のあり方も少しは変わっていくかもしれません。繰り返し指摘してきましたが、ファミリーヒストリーの意味はそうした点にもあります。

by pastandhistories | 2017-07-14 12:25 | Trackback | Comments(0)

いくつか

 7月に入りました。日本の大学はまだまだ授業が続きますが、海外ではすでに休みに入りかけているところが多く、この時期には海外の研究者からのメールが結構来ます。返事をほおっておくとあっという間に溜まってしまう。ということで、今日は朝からその返事書きをしていました。自分に問い合わされてもとは思うのですが、いろいろな問い合わせがあります。
 その一つに、日本でのファミリーヒストリー研究の現状について教えてほしいというものがありました。普段はあまり意識したことがなかったけど、早速ネットで検索してみたら、いくつか本はあるようですが、この領域についての専門的研究者による論及がほとんどないことを知りました。少なくとも、それを専門的課題としている大学所属の研究者は見当たらないようです。だとしたら本当に驚くような話で、日本の歴史学のあり方を考えさせられる話です。 
 この問い合わせとは別に、インドの女性研究者から、インドではかつては男系も女系も含めて個々の人の先祖を樹形図的にたどることが行われていたが、それは現在ではなくなってしまった。日本でも同じだとしたら、それは何故だと思うかという問い合わせがありました。単純化すればナショナリティや共同性が近代国民国家の成立以降は歴史の重要な要素になったというのが自分の考えなので、かつてそれについて書いた英文を添付で送りました。
 カレ・ピヒライネンからはヘイドン・ホワイト論を中心にした論文集のインデックス作成が終わって、7月10日から印刷に入るという連絡が来ました。ラトリッジから出版されます。そのホワイトからは、版権についての問い合わせを出版社に依頼されその連絡をしたら、簡単な内容の返事がすぐに来ました。元気なようです。この翻訳出版は10月頃ということで予定されているようです。
 それから9月13日、14日に予定されているイーサン・クラインバーグを招いての研究会に関して、7月5日締め切りで発表予定者を公募していましたが、数的にも質的にもバランスのよいかたちで応募がありました。研究会はなるべく「開かれた」ものとして行うというのが自分の考えですが、せいぜいこのブログと研究所のホームページで宣伝しただけなのに、こうした形での応募があるとは考えていませんでした。いろいろ調整しながら、月末までには具体的な内容をつめていく予定です。
 なお予算が少しありそうなので、パブリックヒストリーの中心的メンバーを招いての研究会を企画していますが、この件に関してはその一人から11月末頃に滞日したいのでどうかという問い合わせがありました。この時期で開催が可能か、これから検討していく予定です。

by pastandhistories | 2017-07-07 09:53 | Trackback | Comments(0)

7周年

 昨日は97件、おとといは104件のアクセスがありました。歴史に対する映像的・図像的表象の意味を随分と強調しているこのブログは、アイロニカルなことに一切図像や映像を用いず、文字だけで構成されています。いまどきのブログとしてはあり得ない作り。さらにツイッターのような短文ではなく、数えたことはありませんが、多分それぞれの記事が1000~2000字程度で書かれているのではと思います。 
 読み手を無視したとっつきにくい形式。さらに内容的にも基本的には歴史研究者を対象としたもの。それでも一日に百件近いアクセスがあるということに対しては、読んでくれている人には感謝しています。もっともアクセスが多いのは、誰かがブログかツイッターにリンクをはって紹介してくれているためのような気がします。
 読み手が増えた時に、時々このブログが書かれ始めた由来を説明しています。もともとは、2010年にサンディエゴのアメリカ歴史学会に参加した時に、時差で朝早く起きたのでその時間を利用して書き始めたもの。その後同じ年のアムステルダムでの国際歴史学会議に参加した時に、またその準備でロンドンに滞在していた時に、同じような理由から本格的に書き始めました。それまでいろいろ考え、メモを記していたことや、国際会議の動向、あるいは最近の国際的な歴史研究の流れで注目しておいてよいことを気ままに書いています。ブログということで、自分が関連している研究プロジェクトの紹介や、自分がその時々に取り組んでいる原稿の内容などについても。まとまったものでなく、あくまでも自分のためのメモというかたちで書いてきましたが、今年で7周年ということになります。書いた記事数は途中までは数えていましたが、最近では面倒くさいので数えていません。多分600記事から700記事程度。合計するとかなりの量になってしまいました。
 このブログには月間記事別アクセス数がわかる機能があって(一日毎のアクセスもわかります)、それを見るとどのような記事が読まれているかがわかるようになっています。不思議なことは、どうしてそのことがわかるのかなとという、自分でもそれなりにわかりやすく書かれているなという昔の記事が、よく読まれているようです。「魔女の実在」「アーサー・ペンと小さな巨人」「明示性と構築性」「複雑系の考え方」「COM」「全世界」「生きていたことへの不安」「ノンフィクションと歴史」「I knowed」「死者の権利」「オバマは最初の黒人大領領?」「二時間ドラマの構造」「民主主義への憎悪」「想像する」「御用学者」「世界史教科書の写真」といったような記事です。これらの記事が必ずしも歴史研究者だけを対象とするものではなく、一般的な内容を含んでいるためかもしれません。

by pastandhistories | 2017-07-02 06:32 | Trackback | Comments(0)

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