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書くということ

 ロラン・バルトの「作者の死」という主張は、テクストが作者の意味させようとしたものとは異なるものとして、読み手によって永遠に自由に解釈されつづけていくことを指摘し、テクストには「正しい」読みがあるという議論への根底的な疑問を提示したものとして、その後の議論に大きな影響を与えてきました。この議論は、「読み手」の立場に立てば、自由に作品を読んでいいという権利の付与を意味します。しかし「書き手」から見れば、文字通り「死」、つまり将来的な不在化を意味することになります。
 ものを書くことにあるアイロニーです。いまブログとしてこの文章を書いているということには、当然読み手が措定されています。しかし、同時に明らかにこの文章は自己に対しても書かれているものです。なぜなら「作者の死」という言葉が正しければ、この文章の意を正確に理解しているのは書き手である自分以外には存在しないからです。しかし、自己との合意は、けっして他者による自己への合意を保証するものではありません。本来は他者とのコミュニケーションを目指すものが、結局は自己の中に回帰的に循環していくということが、書くという行為にはあります。
 多くの文学作品を読めばわかるように、書くという行為にはそうしたナルシスティックな要素があります。しかし問題は、バルトが指摘したように、書くという行為は自己の存在を立証するものではなく、むしろ自己の不在化を確認するものでもあるということです。こうした中で、自己の不在化への不安を回避する行為が、多くの書くという行為にみられる共同性への同化です。もともと言語は、他者とのコミュニケーションという共同性の媒体として構築されたものです。共同性の中にアイデンティフィケーションをも見出していくものとして、言語を媒体として構築されたものが重要な役割を果たしているのもそのためです。
 言語によって構築されたものが、「正しい」解釈を求めるのは、共同性を保持していくためであり、共同性によって維持されているアイデンティティを擁護するためです。そうした共同性の「正しさ」の中に自己を同化させるのか、もともと永遠の不在でしかない自己を確認するのかが、何をどのように「書く」のかを定めています。
by pastandhistories | 2010-09-30 10:16 | Trackback | Comments(0)

メモの整理として

 「ここに一枚の写真がある。」・・・いずれここで書き終えたその最初の部分を紹介してもいいのですが、これはチャーティスト運動についての書下ろしを書き始めた時の冒頭の文章です。
 この書き出しは自分でもすごく気にいっています。19世紀に写真技術が広まって、写真による模写性の高い情報がpublic space で用いられるようになる、そのことが人々の意識を共通化させ、新しい社会的統合のきっかけとなっていった。そういうことを象徴的に示す文章です。 もっともこの文章が扱っている1848年のロンドンでのチャーティストの集会を写した写真自体は、当時はその存在が一般には知られてはいませんでした。20世紀の後半に発見されたものです。しかし、写真の発見によってわかったことは、この集会は当時London Illustrated News という挿絵入り新聞に版画絵を伴って紹介されましたが、その版画絵がこの写真をもとに集会の画像として、きわめて精度の高いものとして作成されたということです。London Illustrated Newsは様々な出来事を豊富な図像を用いて伝えましたが、その多くはそうした手続き(写真-版画化-印刷)をへて作成されたものでした。
 というように、この書下ろしは19世紀の中ごろの図像的な情報空間が果たした役割から書き始めたのですが、ある時期にこの仕事は完全にストップしてしまい現在にいたっています。このブログにも示されているように、歴史理論へ研究の重心が移るようになったからです。その理由は、今から10年ほど前の在外研究です。最初の半年は、本当に毎日のようにソルフォード大学に隣接した労働者階級運動史図書館に通ってノート作りをしていましたが、空いた時間に1993年に書いた『国境のない時代の歴史』を英訳しているうちに、そこで書いた問題をもう一度考えてみたいと思うようになったためです。
 本来は帰国後はノートを整理してチャーティスト運動関係の文章を書かなければならなかったのですが、イギリスでは読めなかった日本語の理論関係の本を読んでいるうちに、理論的なことへの関心が先行し、こちらの原稿をまず書き始めました。驚くほど進んで全体を8章構成で計画し、最初の5章ほど(400字換算400枚ほど)が本当に短期間で書きあがりました。
 問題はそれからです。結論とその結論につながる章がどうして書けない。その理由としては色々な要素がありますが、やはり大きな理由は、この間次から次へと出されていく欧米での理論的研究の進展に追いつけない、こうした研究で示されている問題設定は、たとえばポストモダニズム的な議論はその一例ですが、日本ではほとんどフォロウされておらず、参考になるような日本語文献も少なく結局は欧米の文献を一人で読まなければいけない、ということです。加えて言えば、つなぎの部分として書いたものを個別的な論文として発表したので、同じものを継ぎ足したくはない、ということも原稿が止まってしまった理由です。ただメモだけが膨大に蓄積して、それが処理できないという状況におちいってしまいました。
 ということで、書きはじめにも説明しましたが、このブログはそうしたメモを整理していくために、個人的な状況を含めてかなり私的なものとして書かれているものです。同じことはあまり書きたくないので、まだ原稿化できていない部分について自分のアイディアを文章化しているものです。あまりまとまりはありませんが、定期的にアクセスしてくれる人もいるようなので、大学が始まって時間的余裕がなくなり、また他の原稿も書かなければならないのですが、これからもできるだけ毎日書いていくつもりです。
by pastandhistories | 2010-09-29 09:22 | Trackback | Comments(0)

時間性

 いま8時50分です。8時50分という時間は、宇宙の中の絶対的時間としてあるわけではなく、人間が人間社会にとって必要なものとして作り上げたものであると指摘したのは、プラグマティズム的な相対主義を論じたローティーです。世界は絶対的真理によってではなく、人間の作り上げた言葉によって、社会と言葉との相関的な変化のなかで、つねにそうした変化に対応するかたちで描き直されていく(redescribe)という主張です。
 時間ですら絶対的なものではない、と言われると確かにその通りですが、実はこの議論には宇宙という言葉がある種の永遠性をもつものとして措定されているところがあります。そうした宇宙の絶対性に時間概念を媒体に疑問を呈したのが、バートランド・ラッセルの「5分後の宇宙の実在は証明できない」という主張です。おそらくこの文章を書き終えるころには、その5分後は過ぎているでしょうから、なんとかそのことは事後的には証明されそうですが、実はそうした議論はまだ経験されていない未来への推測を媒体に成立しています。
 しかし、ラッセルの議論で大事なことは、哲学的には未来はその実存を厳密なかたちでは証明されているものでないということです(・・・いま証明されたようですが・・・)。同じような意味で、過去の存在も厳密な意味では哲学的には証明されえないと言えるかもしれません。少なくともそのように存在の論証ですらあやふやなものが、厳密な意味で正確に表象されることはありえないというのが、歴史の脱構築論の一つの要素です(すべての脱構築論者がそうした立場に立っているわけではありませんが)。
 ラッセルもローティも系譜的には自由主義的な立場に立つと言えますが(さらには社会民主主義的な思考があったとも言えますが)、彼らがこうした議論をしたことの一つの理由は、時間性というものが、しばしば人々を支配する媒体となってきたためです。個人としては経験したことのない過去、経験することのない未来を措定することをとおして、時間は個を、個を超越した時間を管理するものに従属させてきました。宗教の多くは人間を死後ばかりか、生前という個が認識しえない時間性の中に位置させることによって人々を支配してきましたし、多くの集団は家族・一族から国家にいたるまで、長期的な時間性を持つものであると称することをとおして、そうした集団に個を従属させてきたわけです。歴史というナラティヴの多くには、とりわけcollectiveな歴史には、そうしたものとして「歴史的に」機能してきたという側面があります。
 もちろん正しく歴史を認識することによって正しい時間性の中に自らを位置づけるという議論も可能ですが(近代歴史学はそうしたものとして成立しています)、時間性の中に自らを位置づけることへの疑いもまた議論としては大事なことです。
by pastandhistories | 2010-09-28 09:19 | Trackback | Comments(0)

授業とテキスト

 ブログというかたちでこれまで考えてきた理論的なことをずっと書いてきましたが、今日から授業ということで、大学での授業について触れると、いちおう1年生から4年生、大学院にいたるまでの一通りの授業を担当しています。教養科目(地域史)が一つ、専門科目が基礎演習(1年)、史料研究(2年)、卒業論文指導演習(3.4年)、それから大学院の演習と特殊講義となります。
 地域史は自分の専門ということでイギリス近代史の概説となります。講義は苦手でいつまでたっても上手にはならず、頭の痛い授業です。基礎演習は色々試みましたが、この間はE・H・カーの『歴史とは何か』を英文と和訳で購読し、英語の小テストを重ねるという形式です。こうした授業は学生の学力を比較するのに便利ですが、現在の大学1年生にカーの本は相当に難しいようで、英語は翻訳があるので少しはわかるけど、という感じです。正直言って歴史の方法論、とくにカーの議論のような相対主義的な議論を1年生に紹介するのは年々難しくなっている感じがします。その意味ではこのブログの内容も、1年生ばかりか、大学生には難しいかもしれません。
 史料研究という授業は、直接史料を読むということで、何年か前からコンピュータールームを使用して、ネットからそれぞれの関心のある史料を訳してもらい、添削するという方法を試みました。学生全員が関心をもつものとはいえない「同一」のテクストを読むという形式に疑問があり、また史料の入手もネットを通せば学生でもできる作業になったのでそうした形式を取り入れたのですが、この方式も授業としてはかなり難しいところがありました。他の学生の読んできた史料への関心が教室全体のものとはならないためです。逆にこちらの負担は大変で、労多くして実りが少ないところがありました。ということで、今年は前半はOxford University Pressから出ているWriting History ( by W.H.Storey, 3rd ed. 2009)の冒頭部を前半は読みました。このテクストは英文もやさしく、ネットの利用から入っていきますので ( googleの検索をどう利用するかが、結構議論されています)、現代的で学生にもわかりやすいよいテキストだと思います。後期は M.Dobson & B.Ziemann, Reading Primary Sources, Routlege, 2009を読むということで、夏の課題として3章から6章(Letters, Surveillance reports, Court files, Opinion polls)を割り当てましたが、これはかなり英文も学生には難しいのではと思います。
 卒業論文や、大学院の演習は学生の報告が主です。ということまで書いたところで、客人が来ました。
by pastandhistories | 2010-09-27 12:35 | Trackback | Comments(0)

形式・内容

 今日はさわやかな日で、文章も気持ちよく書けてこのブログも丁寧にかなりの量を書き終えたのですが、最後のクリックで大失敗し、文章を消してしまいました。かなりきっちり書けたので書き直してもいいのですが、同じ文章を書き直すのも気持ちが重たいので、少しメモ的なことを書いておきます。最もタイトルを見ればわかるように、扱うことはかなり基本的な重要な問題ですが、あくまでもメモ的なものですので、その点は了解してください。
 断るまでもなく形式(form)、内容(content)はヘイドン・ホワイトが重要なキータームとして用いたものです。歴史と過去に関して言えば、歴史(form)によって示される過去(content)は、過去そのものを忠実にrepresent(再現)したものではなく、その媒体となる歴史にあるformの決まりによって、過去そのものとは異なるものとしてrepresent(表象)とされているという考え方です。つまり過去が歴史として、学問的な記述として、あるいは小説とか映画などによって表象される際には、それは歴史学とか歴史小説とか歴史映画にある形式にしたがって表象されている、さらにいえば言語とか映像にある形式にしたがって表象されているということです。
 ここから提起された問題は、そのような形式の規定性を前提とすれば、歴史は過去と厳密に一致するものではないということですが、さらにこれに付随するかたちで問題とされるようになったことは、事実を表象するものとして形式的には優位にあるとされていた学問的な歴史に対して、小説的な映画的な手法や、あるいは日常的な場にある認識の中に、むしろ過去のリアリティをより正確なものとして認識する可能性があるのではということです。
 それはどういう問題なのかが本当は大事なことですが、今日は最初にも書いたような理由から本当にメモ的なことだけを書きました。日曜日ですが、これからいよいよ明日から始まる授業(1時間目から始まります)の予習をします。
by pastandhistories | 2010-09-26 11:27 | Trackback | Comments(0)

残余の復讐

 古いメモをチェックしていたら「残余の復讐」という言葉が出てきました。この言葉はお気に入りの言葉だったのですが、YAHOOで検索したら一つもヒットしませんでした。自分の造語であったという記憶はないのですが、多分岩波から翻訳されている『パリコミューン』の中で「パリコミューンは祭りである」と書いたフランスの哲学者アンリ・ルフェーヴルの『総和と余剰』(La somme et le reste)を読んだ時に、メモしたのだと思います。物事を総合化・全体化するものに対して常にそこには収まりきれない余剰が生じる、そして総和から排除された余剰が結局は全体の解体をもたらしていく。読んだのは随分と昔のことですからこの読み方がルフェーヴルの考えに忠実かはわかりませんが、読後感としてそうしたことを書きとめたのが、「残余の復讐」という言葉だと思います。
 この言葉は好きな言葉です。というのは自分の中には、つねに全体性とか総体性(歴史研究では全体史というような議論となりますが)ということへの疑問があるからです。その中に権威的・権力的思考を感じるからです。もちろん多くの「全体」という議論は必ずしも閉ざされたものではなく、新しい発見を取り入れて全体を常に革新していくものとして提示されています。しかし、そうした議論にある論理は、「発見」された他者を統合して形成された「近代」の論理と同一のものです。そこでは新しく発見された「他者」は、新しく形成される「全体」に包摂されるものとして位置づけられてきました。
 しかし、他者は異和的で全体には取り入れらることのない剰余として、全体を破壊する危険性を持つものであるからこそ他者なわけです。そうした要素を剥ぎ取られてしまえば、それは全体の一部ではあっても、他者ではありません。少し論理が飛躍するかも知れませんが、全体史というものは、そうした本来的な他者性を除去することをとおして成立しているという側面があります。
 たとえば「狂気」ではなく、「狂人」の歴史ということを例にとってみるとこの問題がよく理解できます。「狂人」の歴史には二つの描き方があります。正常者が狂人の歴史を描くというものと、狂人自身によるものです。この二つは異なるものであってけっして交じり合うものではありません。正常の側は、フーコーがそのことを指摘したように、正常も狂気も構築されたものであるということを説明する包括的・全体的(もちろん正常からみてですが)な説明を加えることはできます。しかし、狂人の側が自らの歴史をどう認識しているかを「内在的」に描くことは、正常の側にはできません。そもそも認識の構造が本来的には異なるものだからです。他者が理解できると考えるのは、その他者性が全体によって補完的なものとして構築されたものだからであり、本来的な他者とは異なるものだからです。
 正常と狂気、中央と周縁、全体と個別、権力と民衆、あるいは西欧とオリエンタルというような議論をとおして他者の問題が随分と議論されていますが、そうした議論にある問題は、議論自体が既に所与の全体として構築されていて、他者的なものとされるものがそうした全体を補完するものとして構築されているということです。他者というのは、本来はそうした全体には収まりきれない剰余として、つねに全体を脅かすものとして存在しているもののはずです。
by pastandhistories | 2010-09-25 10:39 | Trackback | Comments(0)

鏡の中の姿

 昨日は石塚正英さんが中心として続けてきた歴史知研究会がありました。現在では若い研究者を中心とするようにということで、10人ほどの若い研究者が執筆するかたちでの論文集の出版が予定されていて、掲載予定の2本ほどの原稿の読みあわせをしました。「歴史知」についてのかなりヴァライアティに富んだ論文集になりそうです。
 昨日書いたことの補足を少しすると、認識の相対性という問題は、「鏡に写った姿」という例をとるとよくわかります。たとえば鏡に映っている姿を見た場合、そこに映し出されている自分は、けっして他人が普段見ている自分と同一のものであるとは言い切れません。なぜなら自分の認識と他人の認識が完全に同一のものであるとは言えないからです。それが同一のものであるためには、種としての人間の視覚的認識が同一のものであるという議論が必要になります。しかし、人間の五感は、成長にしたがって身体的にあるいは「社会的」に形成されるものですし、またかつてはしばしばそれを排除するかたちで論ぜられていましたが「色覚異常者」(もちろん異常でもなんでもありません)という人たちが多く存在しているように、遺伝的にも異なるもので完全な種としての同一性があるわけではありません。
 認識の相対性という問題は、自分と猫が一緒の鏡を見ている場合のことを考えるとよりはっきりと理解できます。自分が鏡の中に見ている猫の姿は、視覚が人間とは異なる猫自身がみている猫の姿とはまったく異なるものですし、同じように猫が見ている自分の姿は、自分の見ている自分の姿とはまったく異なるものだからです。
 生物の個々の認識器官自体も種の進化の過程のなかで形成されたということを明らかにした進化論的な議論は、このように神と人間を類似化し、そのことをとおして神の認識≒人間の認識ということを根拠にした認識の唯一性という決定論的な思考を批判する根拠ともなりました。コリングウッド、クローチェ、E・H・カーの歴史相対主義的な議論はそうした流れの中で形成されたものでしょう。その意味では近代的な議論です。
by pastandhistories | 2010-09-24 10:06 | Trackback | Comments(0)

通時的な思考の意味

 (日常的なものとして観察できる)経験的事実を、(時間性などを大きく拡大した)法則などの非経験的なものへと拡大したことが近代科学の重要な要素であるということを、1週間ほど前に「近代科学と歴史」という文章で書きましたが、そのことを少し補足するとダーウィンの進化論もまたその一例です。それまで存在していた観察に基づく分類学(種の区別)を、時間的な流れ(種の発展)から法則化したものが進化論だからです。別の言葉で言うと、シンクロニカルな認識をダイアクロニカルな認識へと置き換えたことということです。
 実は国際歴史学会議で結論的に主張したことは、ダイアクロニカルな視点からではなく、シンクロニカルな視点から歴史を見ることの意味です。もちろんこうした主張は、文化人類学などの構造主義的な視点から生じたものです。多様なかたちで存在するものを、厳密な観察・描写の対象とすることによって、対象を優劣において捉えるのではなく、それぞれ存在意味をもつ等価的なものとして理解していくという考えです。
 こうした考えから「進歩」という枠組みで個々の事実の優劣を価値づけるという点で通時的な議論は批判の対象となったわけですが、実は共時的な方法にもまた個々の事実の優劣を価値づけるという面があります。たとえば神を人間の似姿とし、そのことを通じて文明化された人間を絶対化してきたのは、西洋をはじめ多くの文化の中でおこなわれてきたことです。なによりも人間の認識を絶対化し、そこから基本的な議論は組み立てられてきました。観念論と唯物論という区分はそうした議論の典型的なものでしょう。
 人間をもダイアクロニカルな枠組みの中で過渡的なものとして位置づけた進化論は、神中心的な思考ばかりでなく、人間中心的な思考を打ち破ったという点では、法則性を媒体としながらむしろ相対主義的な思考をすすめていくのに重要な役割を果たしたといえます。リチャード・ローティーは「ネアンデルタール人の叫び」と「現代人の言語」は同じものなのかという問いを立てることをとおして、言語によって構成された対象認識の相対性、プラグマティックなものとしての知、という問題を指摘しました。19世紀以降大きく発展した精神分析学や発達心理学もまた人間の個としての知が、認識の出発点として絶対化できるほど確たるものでも、共通したものでもなく、言語などの対象認識の媒体が社会的に獲得されていく過程にしたがってダイアクロニカルに獲得されていくものであることを明らかにしました。ダイアクロニカルな思考が西洋中心主義的な歴史理解の根拠となったことは事実ですが、また一方ではそれが相対主義的な思考の根拠ともなったということを無視するするなら、そうした議論もまた奇妙なものとなります。
by pastandhistories | 2010-09-23 07:54 | Trackback | Comments(0)

価値としての客観性

 映画には、夢や幻想や錯覚・想像を通常の画面構成とは異なるものとして示すという手法があります。カラー映画の中でそうした場面を白黒化したり、セピア色としたり、あるいはオフフォーカスで描くという手法です。すべてを通常の画面として描くと、「事実」と「想像されたもの」の区別がつかづ、観客に混乱を生じさせるからです。2時間ドラマでも、回想をそうしたかたちで映し出すこともおこなわれますが、犯人の告白による「事実の再現」の多くは、基本的には通常の画面構成を通しておこなわれます。そのほうが告白の「事実性」を視聴者に印象づけることができるからです。
 昨日も書いたように、告白はテクストなわけですから、本当はこれはおかしいところがあります。告白の現場という事実は通常の画面構成をとってリアルなものとして示されてよいわけですが、告白そのものはあくまでもテクスト化された回想であって厳密な事実性については確定し得ない要素があるわけですから、画面として示す場合でも、おぼろげな曖昧なものとして示すのが、より忠実な表現様式なはずです。
 しかしそうした表現様式をとらないのは、昨日も書いたように映画の文法的問題であると同時に、くわえて2時間ドラマがテーマとしているような犯罪行為の確定・犯人の逮捕・処罰ということについて、現実の社会においては過去の事実の正確な認識ということが重要な要素とされていて、そのことがフィクションの形式にも反映されているためです。
 実際の社会において、多くの人々は日々報道される犯罪について、報道自体としてはテクストに過ぎないにもかかわらず、そうしたテクストをつうじて報道されることを事実として認識しています。その事件についての当事者的真実、つまり犯人とされた人物の多くがおこなっている無実の主張を受け入れることはあまりなく、犯人への処罰に暗黙の同意を与えています。つまりテクストによって示されたものを、事実として承認しているわけです。そのようなかたちで、テクストがいつのまにか確たるものとして「事実として共同化」されているわけです。
 もちろんこうした「共同化された事実」は、「過去の事実そのもの」と完全に一致したものではありません。社会が求める価値としての「客観性」にもとづくものであっても、映像としてありのままに再現できるような厳密な客観的な事実では本当はありません。「歴史」もまたそのようなものとして共同化されているものです。
by pastandhistories | 2010-09-22 10:36 | Trackback | Comments(0)

2時間ドラマの文法

 2時間ドラマには事実認識についての文法があります。様々な職業の推理者(たち)が犯人を探り出すということをプロットの基本として、ストーリーは、証拠の発見-推測-犯人の(現場もしくは断崖での)告白、というように展開していきます。そうしたストーリーの流れで「事実の確定」に関してもっとも重要なことは、犯人の告白が「映像によって再現され」、そのことをとおして犯人はもちろんのこと推理者や関係者、さらには視聴者によって「過去の事実」が認識されることです。
 しかし、よく考えてみればわかりますが、こうした枠組みが実際の過去認識において用いられることは基本的にはありません。なぜなら「犯人の告白」は、文字通り「告白」、つまり語られたものであるにせよ、記されたものであるにせよ、テクスト化されたものでしかなく、けっしてドラマのように「過去の現場」を完全なリアリティとして再現するものではないからです。したがって、実際には、話されたこと、記されたこととしてしか(一部にはもちろん映像的な記録が証拠として残されている場合もありますが)過去は、現在的には存在していないわけですから、2時間ドラマが現実に忠実な構造をとろうとするならば、エピローグもまたせいぜいが推理者の推理と犯人の告白のみにとどめるべきであって、「事件の映像による再現」を加えるのはおかしいということになります。そのそれぞれの告白(テクスト)を異なるものとして具象的に(想像的な映像として)示した『羅生門』の方が、第三者がそうした差異のあるテクストをもとにそれぞれ異なった過去を想像しているという「現実」の過去認識のあり方をより正確なものとして示している点で、よりリアリズムの方法に立っているということです。
 しかし、こうした問題について言えることは、「リアリズム」にもとづいて2時間ドラマからその重要な要素である「犯人」の「告白」にともなう「過去の事実の忠実な再現」という場面を削除したら、おそらくそのドラマは視聴者の支持を得ることができないだろうということです。多くの視聴者もまた「テクスト」は「事実」との相互関係において初めて成立するものであり、「テクスト」だけでは事実性を示すものではないと考えているからです。もちろん脱構築論的な議論もそうした立場に立っているわけですが、脱構築論的な議論がさらに問題としたことは、2時間ドラマにある文法がそうであるように、あるいは実証にもとづく忠実な過去の再現という議論もまたそうであるように、「テクスト」にもとづく想像でしかないものが、なぜ実際にはありえない「過去の事実の忠実な再現(representation)」を伴い、しばしば受け手に対する強制力をもつものとして立ち現れているのかという問題です。そのことはもちろん「過去の事実の存在」や「想像力」そのものを否定しているというわけではありません。
by pastandhistories | 2010-09-21 09:16 | Trackback | Comments(0)

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