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生きていたことへの不安

 この春休みにしなければいけないことの一つは、ネットに掲載されている研究者データです。自分では見ていないし、ずっとほったらかしにしていてデータがどんどん古くなっているので、そろそろ更新しなければなりません。この件について思うことは、この5年間自分が書いてきたことが、はっきりとそれまでのイギリス史から歴史理論に大きく重点を移したことです。そのきっかけは2005年のシドニーの国際歴史学会議に参加したことです。
 多分この頃ですが、年賀状に「やり残したことがまだあるという奇妙な充実感がある」と書いたことがあります。ある意味では「仕事をしてこなかった」ということを自己正当化する文章でもあったわけですが、この時にある親しい知人(誰でも知っている歴史研究者です)に「生きていることへの不安というより、生きていたということへの不安を感じるような年になりました」と添え書きをしたという記憶があります。
 ド・セルトーの文章に「(歴史家は)過去の死による不在を欺くために歴史を作り出している」というニュアンスの主張があったと思いますが、「死による不在化」=「歴史をとおしての再現前化(representation)」というのは、人間の文化のなかに歴史が存在していることについての基本的なテーマの一つです。ここで重要なことは、歴史によって人間がダイアクロニカルな時間軸に位置づけられていることです。しかし現存のみによって生が意味づけられているということを前提とするなら、個的な生というのは瞬時的なものであって、そうした個的な生が結び合うことによって作り出されているコミュニカティヴな空間は、実際にはシンクロニカルなものでしかありません。
 歴史が証明するというあまりにもしばしばもちいられる言葉は、シンクロニカルな空間における孤絶を、ダイアクロニカルな時間に自己を位置させることをとおして未来における自己の再現前化を志向するものです。そこで前提されていることは、ある種のダイアクロニカルな、あるいはシンクロニカルな共同性です。国家や民族、あるいは普遍的な人間(?)、絶対的正義(?)、そして理性や人類の進歩などがそうした共同性として措定されているわけです。
 歴史を考えるときに重要なことは、歴史を成り立たせているそうしたシンクロニカルな、ダイアクロニカルな共同性とは何かということです。それがどのようなものであるのかはあらためて書こうと思いますが、そうした「幻想的」な共同性を成り立たせるものの一つは、「生きていたことへの不安」です。
by pastandhistories | 2011-02-28 09:51 | Trackback | Comments(0)

単系説・複系説

 一週間ほど前に紹介したStearn の World History で議論の柱になっていることは、人類は地球上のあらゆる種のなかで、もっとも大きな世界的広がりをもった生物であるということです。もちろん現在では犬の猫も細菌もそしてヴィールス(生物と言えるかはわかりませんが)も世界的な広がりをもっていますが、それは人間の広がりに付随したものであると言えなくもありません。スターンはそのことを、世界のある箇所で生じた人類が「大陸を移動し」「七つの海を越えて」世界へと拡大していったと説明しています。人類の誕生を局部的なところに求めるいわゆる単系説的な考えです。
 こうした推定が事実であるかはさておいて、しばしば最初の人間をイブと名づけたりすることからもわかるように、こうした考えの背後にはキリスト教的な思考があるわけですが(もっともそうであるならアダムでもよいのではと思います)、これに対して以前有力であったのが複系起源説、たとえばモンゴロイドやネグロイドは別の起源をもつという考えです。もちろんこれは人種主義的イデオロギーと関連したものです。
 単系説だとすると大陸間の移動はともかく、ベーリング海峡をいつどうやって越えたのかという問題がありますし(越えたとする議論の根拠の一つが、日本人・アメリカインディアン同祖説です)、またそもそもすべての種の変化は単系(動物で言えば一匹の個体)から生じたのかという問題があります。
 対して複系説の根拠は、放射線やヴィールスなどの遺伝子に影響を与える条件によって、ある時期にそうした影響を受けた生物が集団的に変化をして、新しい種が誕生したというものです。これだと新しい種の祖先は単一ではなく、集団的なものとなります。小惑星の衝突などによる被曝、あるいはジェット気流などによるヴィールスの飛散(昆虫や鳥類が出現してからならばそれらの移動による媒介)という条件を考えれば、同じ与件のもとで種(というより類)の変化が同時的に世界で生じたということも説明できます(環境的な与件によって地域毎の固有な種となりますが)。
 しかし、この議論の欠点は、だとすると人間以外にも世界的な広がりをもつ種がもう少し多く存在しているべきだということです。もっとも遺伝子構造が類似した類としてなら存在しているという反論をすることはできます。
 しかしいずれにせよ、遺伝子構造の変化は外的な要因によるはずですから、それが特定の単体(一匹)のみに影響を与えたとする議論より説得的かもしれません。問題は遺伝子に影響を与えるような外的要因が特定の地域のみにあったのか、それとも複数の地域にほぼ同時にあったのかということでしょう。
 以上のようなことにも、歴史の説明が歴史的にはイデオローギー的な要素と関連してきたことが示されていますが、今日こんなことを書いたのは以前書いたように自分は植民地化された地域で人口の減少の根拠を「疫病」に求めることには疑問を抱いているからです。たしかに一部の細菌は人間の移動とともに移動しているかもしれませんが、ヴィールスは渡鳥、昆虫、気流をとおして常に世界に広がっているものであって、人間の移動によってはじめて移動するものではありません。鳥インフルエンザはその代表的なものです。
by pastandhistories | 2011-02-26 09:18 | Trackback | Comments(0)

historicized

 昨日少し紹介したDaviesのImprisoned by Historyは序文は、序文で本の意図を以下のように書いています。その内容は原文を紹介すると、
Imprisoned by History elicits the coercive character of totally historicized culure from its most striking manifestations: the historian-function,-what historians as historians actually do, be it intentionally or unconsciously, rather than what they say or what they do; history-focused behaviour ,- a coerced form of behaviour and thinking organized on behalf of state authority by managerial, professional, and academic elites and induced in the wider public through the workplace and through leisure activities as the comprehensive framework of reality; and identitary thinking .- the logical principle, the sufficient reason, for categorizing social phenomena historically, for thereby imposing a pacifying political order, particularly by generating the "common place" to which people and their everyday existense can be confined.
The book presents historicized thinking as the ideological expression of totalitarian capitalism and the political system that endorses it. Historical knowledge reinforces them by making them culturally indispensible:
というものです。
 かなり癖のある主張ですし、読み進んでいかないと正確なことは言えませんが、全体として予想できることは、historisize,historicizedという言葉をキータームとしてもちいながら、国家とかかわりをもつ歴史家によって作り出された歴史が一般の人々に提供され、それが資本主義社会やそれと関わる政治システムを支えているという主張をしているのだと思います。時間が多少できたので丁寧に読んでいこうとは思うのですが、、読み終わるのには少し時間がかかりそうです。
by pastandhistories | 2011-02-25 08:50 | Trackback | Comments(0)

identitary

 原稿も書き出し始めることがきたので、今日は時間のある時にしか読めないような英語の本を読み始めてみようと思い作業をはじめましたが、早速悪戦苦闘してしまいました。読み始めたのはM.L.Daviesの2冊の本、Historics(2006)とImprisoned History(2010)、現在の社会に対する歴史の拘束性を批判した本です。内容もかなり独自ですが、それ以上に使われている単語が一般的でないうえに独特の使われ方をしていて、読みくくなかなか進みません。
 とくにわかりにくいのはidentitaryという単語で、identitary thinking, identitary logic, identitary illusion というように使われています。早速辞書を、ということなのですが自宅の手元の辞書にはなく、それではということでwiktionaryへ、ここにもentryがまだありません。それならばということで以前書いたyahooでの検索、「語順が正確」で検索すると1万以上の文例がヒットし、すでに一般化している言葉であることがわかりました。もちろんこれを丁寧に読んでいけば大体の意味はわかるのでしょうが、多分それだけで2-3日はかかってしまいますからそれは断念。ギリシャの出身の(正確にはトルコ出身かもしれませんが)哲学者のコルネリュウス・カストリアディスがわかりやすく使用していることがわかった(何語で原文を書いたのかまだ確認してません)ので翻訳ではどう訳されているのか見たかったのですが、これも自宅では無理、ということですっかり時間がかかってしまいました。Imprisonedのp.10には括弧でself-referencialとあるので、それを手がかりで読んでいこうとは思うのですが、単語一つで随分と時間がかかってしまいました。
 日本語の文章の場合もそうですが、文章を装飾的に書くのか、論理的にシンプルに書くのかはかなり議論の分かれるところです。歴史はともかくとして文学の場合は、修辞的な技巧も必要でただやさしく書けばよいというわけではもちろんありません。しかし、以前三島の『仮面の告白』と太宰の『人間失格』という似たようなプロットの作品の両方を英訳で読んだ時に、日本語で受ける印象とは違って太宰の方がはるかに論理的だと思い随分とびっくりしたことがあります。文章をどう書くかは本当に難しいですが、日本語で書く場合でも、日本人以外の読者を想定したり、他の言語に訳出される場合のイメージを前提に書くということが、これからは大事なことかもしれません。
by pastandhistories | 2011-02-24 21:55 | Trackback | Comments(0)

間主観性・客観性

 昨日は日本語の論文を書き始めたので、今日は英文の論文を書き始めてみました。昨年発表したものをベースに、それにさらにいくつかの議論を加えて3倍くらいの長さにしていく必要があります。これは何日前に書いた依頼原稿ではなく、投稿原稿です。
 べース部分があるので、書き出しは意外とスムーズに書き出せました。書きながら考えたことは当たり前のことなのですが、間主観性は即(第三者的という意味ではなく、普遍的な立場と言う意味での)客観性を意味はしないということです。歴史認識の例をとれば、たとえばそれぞれ異なった主観をもつ日本と中国の間に共通の歴史認識が成立しても、それはアジアにおける共同化された別の主観的な歴史が形成されるだけであって、全世界的に普遍的に受け入れられる客観的な歴史認識が成立するわけではありません。一般的に言えば、AとBという主観の間に間主観的な同一の認識が成立しても、それはCの主観とも、CとDの間に成り立つ間主観性とも異なるということです。つまり間主観性も結局はもう一つの主観性であって、主観性をすべて包摂したような間主観性が成立しない限りは、問題は個々の主観性がどのような場において成立し、それがそのようなかたちで間主観性の根拠となっているのかということになります。
 このことは歴史学にある主観性の問題を考えるにあたっては重要なことのような気がします。様々な日本の歴史研究者の間に間主観的な合意が成立しても、批判的に考えればそれは客観的なものではありませんし、また学問的な場での間主観的な合意が成立してもそれだけでは必ずしも客観性が保証されるものではないということです。単純な議論なのですが、しかしこのことは、科学的な歴史というような問題を考えていくさいには、意外と重要な基本的前提になるような気がします。
by pastandhistories | 2011-02-23 20:48 | Trackback | Comments(0)

英語読み、英語書き

 昨日は国際歴史学会議報告の校正とプロジェクト報告の完成稿を終えることができました。前者は4月、後者は3月に出る予定です。
 ということで次の仕事に入りました。時間がとれる数少ない時期なので、これから3月末までに、できれば英語の論文と日本語の論文を一つづつ、それから書下ろしをまとめていく作業のめどをつけられればと考えています。早速昨日は日本語の論文を書き始めました。というより、書き直し始めました。原稿はすでに二年ほど前にあらかた書いていたからです。基本的内容は英語で一昨年台湾で報告しているからです。
 ある時期までは理論関係の文章は、最初に日本語で書いたものを英文化していましたが、最近は英文が先で、日本語のほうが後というようになりはじめました。国際歴史学会議の原稿もそうですし、書き直しはじめたものも、発表や要約の活字化は英文の方が先になりました。
 別にそれほどの理由はありません。英語で報告したり書くのは英語でしかわからない人のためですし、このブログもそうですが日本語で書いたり報告したりするのは、日本語でしかわからない人のためです。であるなら同時に書けばという反論もありそうですが、そこまでバイリンガルな能力はありませんし、それほどの時間的な余裕もありません。もちろん世界には日本語も英語もわからない人が多くいるわけですから、そうした人たちにも通用するものとして、自分の議論は書いたり話したりしているわけでもありません。その意味では大変限定的な議論です。
 ただ最近英語でいくつかの文章を書くようになって思うことは、「英語読み」と「英語書き」という問題です。多くの外国研究者がそうであるように、自分も長い間基本的には「英語読み」「日本語書き」というかたちで仕事をしてきました。翻訳もいくつかやってきました。多くの人たちが気が付いていると思いますが、こうした仕事の仕方にあることは、西洋的な文化や知を上位においた知的ハイアラーキーを前提とした啓蒙的な作業です。つまり自分の日本語の文章(あるいは翻訳は)は「蒙」を対象として作り出されているということです。
 これに対して英語で書くということには、もちろんそうした知的ハイアラーキーを前提として、自らが上昇を遂げる(たとえば海外での学位の獲得)という要素があります。そのことは残念なのですが、そうした作業がまったく無駄というわけでなく、批判的な要素を含みこむことによって一定の役割を果たしつつあることも事実です。かつてはコロニアリズムの支配下に置かれた人たちによる、ポストコロニアリズムの主張は、その多くは英語をとおして書かれていて、英語で読むことができるわけですが、その代表的な事例です。このことが示していることは、もし英語で書くのならモダニティに身を摺り寄せるのはなく、モダニティにあったハイアラーキーを批判するような視点が大事だということです。それは「日本人」にとっても大事な課題なのかもしれません。
 話は戻りますが、昨日書き直し始めた論文や、書下ろしが途中で止まってしまったのは、たとえ同じような議論でも、日本語で書くとそこに啓蒙的な要素がどうしても内在してしまい、そのことへのある種の疑問が生じてしまったからです。しかし、そうした問題を突き詰めようとすれば、おそらく完成には至らないでしょう。そのあたりのことを考えながら書き進めていくつもりです。
by pastandhistories | 2011-02-22 09:45 | Trackback | Comments(0)

コンテクスト・事実の固い芯

 最近ずっと考えていることは、歴史小説とか歴史映画とは何だろうかということです。ある意味では古典的な議論なわけですが、本格的な議論はびっくりするほど少ない。小説家や映画監督も、そして歴史研究者もこの問題を本格的に議論しあうことは最近ではあまりありません。にもかかわらず確かなことは、歴史映画や歴史小説は一定の史料や時代考証にもとづいて作り出されたものであるということです。
 この問題を考えるときに前提としてよいことは、ファンタジーとか神話と呼ばれるジャンルとの対比です。まずファンタジーは、登場人物はもちろんそのコンテクストも架空のものです。『ロード・オブ・ザ・リング』などを例にとるとわかりますが、そもそもいったいいつの時代が扱われているのかさえわからない自由で混沌とした物語です。いっぽう神話は、時代は人類史の前史、つまり神と人間がまだ混淆していた時代として措定されています。その多くは口承によって伝えられていた、その一部は過去の実在にもとづく伝承が、統合されたり、あるいは逆に拡散していく中で、次第に一つのかたちをとるものになったものです。事実的要素がまたっくないわけではありませんが、事実が起きた時間や空間、あるいはそれを行った個人や集団は伝承の過程のなかで大きな変形をこうむっています。
 ファンタジーはともかく神話は広義の歴史小説に加えることができるかもしれません。これに対して狭義の歴史小説、あるいは歴史映画は、虚構の事件や人物が登場する一方で、ある程度過去の事実や実在に根拠を置いています。見落とされがちなことですが重要なことは、戦国時代とか、徳川時代、明治維新といったようなコンテクスト、さらには1945年8月15日に玉音放送がおこなわれたという事実(いわゆる事実の固い芯)がそのナラティヴやプロットの基本的な要素を構成して、それにもとづいて作者か監督が史料にもとづいて、あるいは想像にもとづいて作り出した様々な要素が加えられているということです。
 このように考えると理解することができることは、よく歴史研究者は歴史研究は「確たるコンテクストや固い事実にもとづいている」と主張しますが、それだけでは歴史の事実性を証明したことにいうことにはならないということです。その点は歴史小説や歴史映画も同じだからです。問題はそうした同一のものを根拠としながら、その過去についての表現のあり方がどのような点で異なっているのかということです。その違いについての代表的な議論は、多くの議論をとおして延々と繰り返されている「解釈」や「想像」がどの程度介在しているのか、あるいはそうしたものの介在がどの程度許容されているのかという問題です。しかしもう一つの問題は、やはり事実性の問題、とりわけ歴史研究における事実性とはなにかという問題です。それが歴史小説や歴史映画の事実性とどのように違うのかという問題です。証明されているようで証明されていないこの問題を、歴史研究者は考えていく必要があるような気がします。
by pastandhistories | 2011-02-21 07:50 | Trackback | Comments(1)

ワールドヒストリー

 昨日は土曜日でしたが大学院の入試。受験生は少ないのですが結構時間を取られました。その間に国際歴史学会議についての報告文の校正。以前書いたように自分は「校正ウツ」で、校正原稿がきてもなかなか点検し始めません。今度もあまり見たくなかったのですが、幸いにして編集の方で参考として多少の手を入れてくれていたので、それにしたがってをそのまま赤を入れました。「著者の死」というのはオーバーですが、どうせ読み手はそれぞれの読み方をして、他人の書いた文章には違和感を抱くわけですから、その最初の人物であり、読み手との媒介者である編集者の意見にしたがうというのが、自分の原稿にたいする基本的な考えです。
 その原稿にも書いてあることの一つは、以前も少し書いたと思いますがグローバルヒストリーとワールドヒストリーの使われ方の違いです。基本的にはグローバルヒストリーというのは、グローバリゼーションの進行に対応して、というよりグローバリゼーションという言葉の使用が一般化したことに伴って使用されはじめたものです。つまり現代的な世界の統合化が前提とされていて、それを遡行させるかたちで過去の歴史が論じられているということです。これにたいしてワールドヒストリーは、ワールドという自己意識に基づくものです。つまり自分の住む世界、あるいはそれが拡延されたものをワールドとみなし、その形成に至る過程を歴史的に説明していくものです。つまり世界の各地で、自己を中心としてその自己意識に収められた対象的世界を歴史的に説明するものとしてもちいられてきたものです。対比的に類型化すると、グローバルヒストリーは基本的には単数形でもちいられ、グローバル化の起源を求めるという点で系譜的な傾向があります。対してワールドヒストリーは、ワールドヒストリーズとして世界各地に様々なかたちで歴史的に存在してきたもので、現在においてはその統合化がグローバリゼーションの進行とともに議論されるようになっているということになります。
 いずれにせよグローバルヒストリーという言葉が新しく、ワールドヒストリーという言葉が古くから使われてきたことは「世界史」と「グローバルヒストリー」という言葉が日本でどうもちいられてきたかでもわかりますし、国際的な学会のそれぞれの形成時期からもわかります。この間少しP.N.SternsのWorld History:The Basic(2011)を読みました。この本もそうですが(教科書的な本ですから仕方ないこともありますが)ワールドヒストリー論というのはグローバルヒストリー論より議論が一般的で、最近ではあまり魅力を感じさせないところがあります。もちろんその理由は、地域性や個別性を重視する歴史学の流れが優位に立ちはじめているためでしょう。このブログもまた歴史を全体的に捉えたり、普遍的に論じることにたいして批判的な立場から書かれています。しかし、それはあくまでもone of world histories のそれぞれが自らを過度に普遍化しようとしてきたことへの批判からです。グローバリゼーションのなかでworld histories がworld historyへと向かっていくなかで、そのあり方をネガティヴにもポシティヴにも論じていくことが現在の歴史研究のなかで様々なかたちで論じられる必要のあることもまた否定できない事実です。
by pastandhistories | 2011-02-20 08:20 | Trackback | Comments(0)

グローバルヒストリー

 昨日書いたスヴェン・ベッカートから3月14日(月)のタイトルが送られて来ました。The Empire of Cotton: A Global Historyというものです。国際歴史学会議の報告でも彼が指摘していましたが、1990年以降グローバルヒストリーをうたった文献は膨大になっていて、日本でも今やトレンドになりつつあります。ベッカートはその先頭に立つ研究者ですので、多くの人に彼の話を聞いてもられえればと思うのですが、自分はあまりそうした方面の研究者とはコンタクトがないのでその点が心配です。グローバルヒストリーという議論に関心のある人が多く参加してくれるとよいのですが。場所は東洋大学の甫水会館(白山校舎の向かいにある建物です)、時間は14時からです。
 今日はこれ以外にも最近読み始めたいくつかの本の内容を紹介する文章を書いたのですが、最後の入力で失敗して記事が全部消えてしまいました。午後は原稿書きがあるので、もう一度書き直す時間が今日はなさそうです。後日その内容は書き込むつもりです。いきなりブログに打ち込むとそうしたミスがどうしても出てしまうということがあります。けっこう量を書いたので、少し残念です。
by pastandhistories | 2011-02-18 11:29 | Trackback | Comments(0)

3月14日

 先月末にサンフランシスコで本を買った本屋(Borders)が倒産したようです。全米第二位ということだったようですが、活字的な世界の危機を象徴する一つの出来事ということでしょう。昨日はStoria della Storiografiaの新しい号がが送られてきました。イッガースが巻頭論文を書いていて、その次がフローニンヘン大学のRek Petersという人のホワイト論、自分の原稿はエドワード・ワンの南京虐殺事件の記憶化論などとともに、A Forum on Comtemporary Historyという小特集に収められていました。実際にどの程度目を通しているのかわかりませんが、Editorial Board のメンバーを見るとこうした人たちの目に触れる機会が少しでもできたということは、やはり嬉しいところがあります。
 昨日はこれに加えて多少のお金が入ったので、教授会それから論文審査の後に院生と飲みに行きました。考えてみれば忙しくて飲みに行ったのも久しぶりです。ということでブログを書く時間はなかったのですが、家に帰ったら国際歴史学会議で同じパネルをやったスヴェン・ベッカート(ハーヴァード大学)からメールが来ていました。一月のAHAでも会って、もし日本に来るようなことがあったらプロジェクトでレクチャーしてくれないかと頼んであったのですが、3月に日本に来る用事ができたようなので、そのおりに講演を引き受けてくれるという話です。
 いちおうそうしたことに備えて3月14日(月)14時~17時に東洋大学白山第一校舎の向かいにある東洋大学甫水会館というところに場所はとってあります。今までプロジェクトの公開セミナーはキャリアのある人を中心に呼んでいましたが、今回のベッカートは現役のバリバリ、その意味ではこれまでとは違った期待ができるのですが、歴史理論を中心としたこれまでのものとは違って、具体的なグロ-バルヒストリー論ですので、どういう人に参加してもらえるか少し不安です。実は今朝もメールのやり取りをしながら時間やタイトルを最終的に決めている(このメールを書き終わる頃にはタイトルが送られてきそうです)最中で、それが決まり次第宣伝に入ります。関心のある人にはぜひ参加してもらえたらと思います。
 ということでまた日記風になってしまいました。今日はこれからプロジェクトの扉文の最終的書き直し、自分としてはかなり内容に納得する部分もあるので、もう少し手を入れて完成させる予定です。
by pastandhistories | 2011-02-17 09:26 | Trackback | Comments(0)

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