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パラドクス

 今日は台風ということでしたが、明日地方で行う講演の要旨を作成していました。タイトルは「映画と歴史」。以前同じテーマで講演したことがありますが、その時のデータが大学においてあって手元になく、あらためて作りなおし、夕方現地に送りました。
 テーマは個々の映画に論評を加えるというものではなく、普通の人々を歴史を認識する媒体はテレビや映画、あるいは小説(そして漫画)なわけですから、そうしたプロセスでアプローチされる過去への認識の意味みたいなことを話す予定です。過去認識は個々人それぞれが様々なかたちで持つもので、けっして歴史研究者が語ることのなかにだけ「正しい」事実があるわけではないという話です。こういう話をすると最近では歴史研究者のなかには同意をしてくれる人も出てきましたが、あまり一般受けはしない話です。その最大の理由は、やはり凝集性をもつナショナリティが作り出した歴史や歴史への理解が、一般に強く浸透しているためです。
 この話は政治にまつわることと似ている部分があります。批判的な政治学が基本的に問題とすることは、統合的な政治権力が個人を抑圧し、疎外するものになっている、したがって社会を考えるにしても、個人の側に重心を置いて考えるべきだというものですが、こうした考えは一般に支持されることは意外なほどありません。ナショナリティをはじめとした統合的なイデオロギーが、意外なほど多くの人を拘束しているからです。そこから逸脱してもう少し自由に思考していくべきだという主張は、多くの「近代」小説の中で繰り返し取り上げられてきたように、かえって孤立しがちです。
 「近代」社会にあるパラドクスの一つです。そもそも近代批判の立場に立ちながら、こうしたことを近代のパラドクスとすること自体がパラドクスかもしれません。自分はそのことを批判すべきだと考えているのですが、歴史家は近代を媒体として、意外なほど一般に根をおろしています。
by pastandhistories | 2011-09-21 21:17 | Trackback | Comments(0)

ギャップ

今日は9月17日。ということは丸一週間原稿を書く仕事に集中していたことになります。何度か紹介しましたが、4月初めには下書きが終わっていたもの。もともとは3年前に英文で報告したものですが、原稿として書き直したら悪戦苦闘しました。歴史理論は聞き手や読み手が違うと意外と難しい。理論的なことなのですから本当は一般性や普遍性があるはずなのですが、とりわけポストモダニズム的な問題は、日本語で書くのと英語では相手の理解の仕方がまったく異なってしまうので、難しいところがあります。日本の受容の仕方に大きな偏りがあるためです。その偏りを少しでも正そうという原稿なのですが、そうした原稿を書くのは本当に難しい作業になってしまいます。
 それでもなんとか今朝完成させました。朝食抜き、個人的なことですが孫の運動会にも誘われましたが、それも断って書き上げました。後は註入れと英文レジュメという作業で、これはさほどの時間はとらないでしょう。もっとも読み直して結局ボツにしてしまうかもしれません。繰り返すことになりますが、ある程度の了解のなかで議論することはそれほど難しくないのですが、基本的な立場が異なる読み手に対して説得力のあるものとして書くのは難しく、それができたかは疑問だからです。もう一つの原稿でそれを補っていく予定なのですが、その作業もうまくいくかはわかりません。
 そうしたなかでも海外での議論は、本当に急速なスピードで進んでいる。そのギャップをなんとか埋めなければならない。そのことができる若い優秀な研究者がいるとよいのですが。
by pastandhistories | 2011-09-17 10:46 | Trackback | Comments(0)

歴史のハイアラーキー

 この3日間ほどは集中して原稿に取り組んでいます。締め切りは一つが今月末、もう一つは12月、前者はメモを見たら4月2日に下書きが完成していて、後者も夏の早い段階で下書きを完成させました。ということなのですが、完成稿を作ろうとしたらまとまリません。大体原稿というのはそういうものですが、昔書いたものは見直せば必ず不満足。後から書いたものに気持ちがいってしまって、締め切りが早い方は段々間に合いそうにもない感じになってきました。どうせ出るのは同じ時期だから、発表するのは一本だけでよいという怠惰な気持ちが出てきてまとまりません。
 もっとも結論の文章ははできています。「過去は様々なハイアラーキーをもつ歴史として私たちの前に立ち現れている」というものです。意味するところは違いますが、ISCHで一緒になったアルツォークの『歴史の体制』からヒントを得たもの。彼とは宿が一緒で(他に一緒の人はいなかったようです)、朝食の時に何度か見かけました。帰国してから向こうで渡した新しいペーパーについて、謝礼のメールが送ってきました。正直言って彼の議論はややこしいところがあり、ここで紹介するのはもう少し時間が必要です。
by pastandhistories | 2011-09-14 21:12 | Trackback | Comments(0)

事実・ナラティヴ・共同化

 今日は9月11日、自分は「9.11以降」という表現には疑問があって使用することはありません。それでも新聞にはそれに関する記事が。同時に今日は3月11日からちょうど6ヶ月、ということで地震と原発事故についての特集も新聞やテレビで組まれているようです。
 と言っても自分はテレビの地上波のニュースはまったくといってよいほど見ませんので、そこでどういう報道がされているかはわかりません。新聞に関しても最近はほとんど読みませんが、同居人から『朝日新聞』が事実の流れを時系列にたどった特集を組んでいることを教えられました。それを見てびっくりしたのは、1号機から4号機の爆発の時間という「事実」が記されている一方で、その爆発という事実が「イラスト」でつけられていたことです。
 19世紀ではないのですから「事実」をより正確に伝えるのなら「写真」を用いたほうがよいのは自明のこと。それがなぜかイラスト、しかもそのイラストはよく見ないとそれぞれの爆発の違いがわからないものとなっています。なぜ爆発の、とりわけ「ニュース性」というのなら最大の規模であった、ある意味では原発事故の深刻さをもっとも象徴する3号機の爆発という「事実」が、写真として伝えられないのかよくわかりません。
 他の新聞やテレビを見ていないので、3号機の爆発がどのように報じられているかはわかりませんが、少なくとも爆発直後の早い段階から、この「事実」についての映像はネットでもほとんど見ることができないようになっています。9.11の映像が、なお伝えられつづけ、共同記憶化していることとは対照的です。
 対照的といえば、安田講堂事件の映像も繰り返されつづけ、異なった世代の人々にとっても共同記憶化しています。このことは、「事実」とか「共同記憶」というものが「歴史」認識とどう関わるのかという問題に大きな意味を持っています。「安田講堂事件」と「3号機の爆発」のどちらが重要かということはともかくとして、片方は気がつかないうちに、過去を語るナラティヴのなかに象徴的な「事実」として組み入れられ、もう一方の「事実」は、ある恣意的操作をもって本来は組みたてらるべきナラティヴから除外されつつあるという問題です。
 過去認識における「事実」と「ナラティヴ」の関係、共同化される記憶や歴史の背後にあるもの、今さらここで論じなおすような問題ではないかもしれませんが、今年の9月11日という日は、そのことを現実の問題としてまざまざと認識させられた日であったような気がします。
 
  
by pastandhistories | 2011-09-11 19:55 | Trackback | Comments(0)

エルンスト・ブライザッハ

 今月になって初めて記事を書きます。別に健康を害したわけではありません。前の記事でも書いたように、原稿の締め切りが近づいてきたので、それに集中しようと思ったからです。すでに3月に下書きを書いてあった原稿なので簡単に書けると思ったのですが、いざ締め切りが近づくと見直す気にもなりません。ということで一日一日が過ぎている間に、読み始めた本が面白く、この時期にしか読めないということで、そちらに気持ちが入ってしまい、ブログや原稿に割く時間が気持ち的に取れないということです。しかし締め切りも近いので、今日あたりから原稿を書き始めようと思い、そのきっかけをつくるためにこのブログを書いています。
 今読んでいる本は、Ernst Breisach, On the Future of History: The Postmodernist Challenge and Its Aftermath (2003)という本です。以前読みかけ始めて途中でやめてしまいずっとほったらかしてありました。活字が細かい上に名前でわかるようにドイツ系の人のようで、英語が、とくに単語がくどいところがあって(たとえばpoststructurist postmodernismという言葉がキータームとして頻用されています)読みにくい。少し食いつきにくい本だったからです。
 しかし一連の関連本を読んだ上で読み直すと、意外なほどよくできた本です。感心するのは著者のBreisach(西ミシガン大学名誉教授)という人が、1946年にウィーン大学で学位をとった人だということです。ここから想像すると、1920年前後に生まれた人。本が出たのが2003年ですから、80才を過ぎてから出版された本ということになります。
 副題からもわかるように扱われているのは、主として1960年代以降の歴史理論の変化。つまり彼が大学で一定の地位を占めるようになってきてから登場した新しい(彼より若い世代の)研究者の議論を受け止めて、かなりの高齢になってからこの本を彼は書いたわけです。そうした知的好奇心、誠実さは評価されてよいでしょう。
 一見読みにくいところがあるのですが、読みすすめるとポストモダニズムの歴史理論の基本的な枠組みをきわめて整理されたかたちで簡潔に理解していて、参考になります。たとえば、signifier, signified, referent,さらにはfigurationとかsublimeといった、バルトやホワイト、アンカーシュミットがもちいたキーコンセプトの説明は的確でわかりやすいものです。申し訳ないのですが、今日は時間がないので英文を紹介しますが、それぞれはこんなふうに論じられています。
Historians had illegitimately abbreviated the signifier(word)-signified(concept)-referent(reality) triad into the wrong dyad: signifier-referent. The proper dyad was to be sginifier-signified. In any case, traditional history had not produced the true image of reality but only "reality effect" or the "referential illusion"(p.74)
Figuration, in the sense of free literary interpretation, must be the primary process. After all, "telling" was "explaining". For these narrativists, the true purpose of the elaborate research and documentation apparatus was not to yield the elements for the construction of the true image of the past reality but only to conjure up the "reality effect" or the "referential illusion"(p.79)
White's views on history supplied the key point of a new political programme: the avoidance of oppressive authoritarian truth claims. ・・・ White spoke of the wide-open, fully contingent, even chaotic world as "sublime". The adjective sublime indicated freedom, choice, and possibility for creativity. And the affirmation of that "sublimity" against essentialist notions must from now on guide historians. The rhetorical structures, although limiting, were not seen interfering. The denial of sublimity by utopians, modern ideologies, and historiographies in the scientific mode had been the reason for the spectacular and decisive failures of previous nexuses.(p.81)
by pastandhistories | 2011-09-10 11:06 | Trackback | Comments(0)

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