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作られた記憶?

 真砂町の家には、真砂小学校に隣接して店舗の建物があり、そこから庭を隔て家族の住む母屋がありました。なぜこうした配置になっていたのかというと中層(3階建て?)の小学校が南側にあるので、そちら側は日照が悪かったからです。店舗として用いられていた建物は事業用ですから、応接室を備えていました。この応接室には当時の父の趣味であった電気蓄音機(レコードプレイヤー)とレコード棚が置いてあって、多くのレコードアルバムが置いてありました。といっても若い人にはわからないかもしれませんが、要するに1枚3分程度(裏表で6分)のLPレコードが10枚とか20枚ほど、硬い表紙の部厚のアルバムに収められているものです。
 レコードの種類はフルトベングラー全集からアルゼンチンタンゴ(父は藤沢嵐子という歌手のファンでした)まで多種多様、それにまじって戦前のレコードが随分とありました。浪曲から落語、戦前の流行歌、そして軍歌などもありました。たとえば昔々亭桃太郎(柳家金悟楼の弟です)の『興亜奉公日』という落語。落語というより国民の意思統一を目指したお話なのですが、戦前には落語家もこんなことをしていたのだなということで、妙に記憶に残っています。
 しかし、もっとも記憶に残ったのは、「アッツ島玉砕の歌」です。この文章を書くにあたって確認したら1943年に玉砕を顕彰するということで公募され、当選した歌詞に山田耕筰が曲をつけたということです。その歌詞も歌も現在ではネットに載せられているようですが(そればかりか、玉砕や歌を礼賛することも行われているようです)、不思議なことはこれが自分の記憶していた歌とはまったく違うものであるということです。自分の記憶では「天皇陛下万歳と、アッツの島に木霊する」という歌詞が、異様に甲高い声で始まるというものなのですが、それとは当選歌詞はまったく異なっています。
 アッツ島玉砕についてはこの歌を聞いた方が多分先で、その後『文芸春秋』の戦後10年特集号を読んでそのことを明確に知るようになりますが(10歳の時ということになりますが、この本はそれを読んだことが自分の記憶の中に明確にある本です)、この曲を聞いたということは、自分の脳裏に明確にあります。なんといっても「天皇陛下万歳」という歌詞が、異様なテンションで歌われはじめるからです。しかし、歌詞が異なっているとしたら、なぜ自分にそうした明確な記憶があるのでしょうか。その理由がよくわかりません。裏面に入っていた別の曲なのかもしれません。しかし、そうでないとしたら、今も残されている明確な記憶はいったい何なのでしょう。もしそうした記憶が作り出されたものであるとしたならばと思うと、本当に不思議な気がします。
by pastandhistories | 2011-11-27 08:37 | Trackback | Comments(0)

拡大家族

 坂の下の初音町から転居した坂の上の真砂町の家は、かなりの広さがありました。多分300坪くらいあったのではと思います。もっともこれは偶々の話で、当時は東京の多くの家屋は借地権、沢村貞子さんのエッセイにありましたが、土地を買うなどというのは、「縁の下まで買うのかい」と馬鹿にされた時代の話です(今では都心のこれだけの広さの家に住んでいれば大金持ちということになりますが)。
 そもそもこの土地には記憶にあるだけで4軒の家が建っていました(防空壕を含めると5軒)。今考えるともう1軒あったのかもしれませんが、記憶は定かでありません。初音町の階段転落事件のせいか、いずれも平屋。真砂小学校との境に敷地内に木戸口から入る路地があってそこを延々と歩いてさらに左に曲がったその奥に今でいえば2kの建物があって、そこに歌舞伎役者の付き人の家族が住んでいました。男4人と女1人の5人兄弟、家族構成と子供の年齢がほぼわが家と同じで、一緒の家族のような関係。その家と防空壕をを隔てたその前には1kの家、ここには当時50代くらいだったと思いますが、祖父の末弟が中年の女性と同居していました。この祖父の弟は戦前はまったく行方不明で、戦後ひょっこり我が家に現れたという人物。それでもなぜか駐留軍に出入りをしていて、この人が時折持ちよるハーシーの三角チョコのおかげで、自分はgive me chocolateなどという単語は憶えずにすみました。戦前はどこにいて行方不明であったのかは、我が家では語られない謎でした。
 他にもいろいろな人がいました。もちろん祖父母、母親が出産のさいに死んだ祖父母の初孫、父の会社で働いている人、お手伝いさん、さらには中卒で働いていた人の郷里の友人で大学進学して東京に出てきた人、たんなる居候、そうした人々が始終入れ替わるということで、子供心にもよくわからない家族でした。ようするに拡大家族なのですが、戦後の居住条件の悪い時代には、そうした人が同じ敷地に暮らしていたということです。疎開と同じように、必ずしも親族でない人たちがが相互扶助的に暮らしていた時代であったということです。
 結局この真砂町の家にいたのは数年間。父は当時医療器械卸業を経営していましたが、朝鮮戦争特需で売り上げが大きく拡大した(戦争は医療品に対する爆発的な需要を生み出します)にもかかわらずその売り上げ金の回収が滞って、今では想像もつかないような巨大な負債を抱えて昭和27年に倒産。自分にはあまり記憶はないのですが、2歳上の姉の記憶による箪笥や勉強机にまで差し押さえの赤紙を貼られて、この家から転居することになりました。大家族は解体、祖父母は雑司ヶ谷で間借り暮らしとなり、我が家は親子だけの核家族として再出発することになります。膨大であった負債は、その後の経済成長と物価の上昇により次第に相殺されていき、自分が大学2年の時に完済されることになりました。
by pastandhistories | 2011-11-26 10:13 | Trackback | Comments(0)

坂の上と坂の下

 個人的な記憶の続きを書くと、真砂町の家に住む前に戦後に両親が住んでいたのは初音町です。現在の小石川二丁目。本郷方向からいうと言問い通り(東大の本郷校地と農学部の間の通り)を西に下って17号バイパスを超えたあたり、すぐにT字路となってそこから千川通りに入るその手前です。千川通りはその名のとおり元の千川上水にそって作られた通り、つまり昔は川であったということで、このあたりは地形的には谷になります。文京区や台東区を散歩すると戦前からの古い建物が残っているので気づきますが、上野や神田、そして本郷、小石川はその一部が空襲にあわなかったところ、その理由は皇居や東大に近かったからだといわれています。両親が戦後そこに住んだのは多分そのことに理由があったのだと思います。
 この家の記憶はまったくありません。大きな事件は、まだ歩けるかという時に2階に置かれていたベッドから母親の目のすきをみて脱出を試み、そのまま階段から転げ落ちてしまったことです。両親によると一言も発せず、泣き声もあげなかったようです。父親は家人には絶対に手を上げるようなことはなかった人ですが、母親によると父親に手を挙げられたのは生涯この時だけだったそうです。結果的には膝を痛めただけでしたが、この治療は意外と長引き成長期に足が曲がってはいけないということで、小学校の高学年までずっとマッサージ治療を受けることになりました。膝にほとんど力が入らないということで、運動会の短距離徒競争はいつもビリ、走り幅跳びと立ち幅跳びの距離測定が同じという変な少年時代で、プロ野球選手への夢はそうそうに絶たれてしまいました。現在でも自転車はママチャリに次々と追い抜かれてしまいます。
 そのことはともかくとして、ここである程度事業に成功していた両親が真砂町へ引っ越したのは、要するに低地から高台へと移ったということです。本郷台地を中心とした文京区は坂の多い地域です。坂が多いということは、地域が坂の上と坂の下に分かれているということを意味しています。どこの地方でもそうしたことがあるのではと思いますが、南側が丘になっている地域は当然日が当たらず、住環境の悪い地域となります。樋口一葉がいた菊坂、そして『太陽のない街』で描かれた氷川下がいずれも南西側が崖ですのでそうした地域となります。つまり文京区には喜安さんが描いた西片町とは対極的な町が、崖の下には存在していました。
 両親が初音町から真砂町へと移ったのは、低地にあった初音町がたびたび水害に見舞われたということもありますが、もう一つはやはり子供の教育条件ということにもあったようです。しかし、坂の上と坂の下は、本当にわずかな距離の坂でしか隔てられていない。子供は自由に行き来します。。坂の上では当時急激に浸透しはじめていたアメリカ的な文化の模倣が行われていても、坂の下での子供文化は東映の時代劇に加えて、メンコやベーゴマをはじめとしたもろもろの賭け事、さらにはアカ線拾いやクギ拾い(一定の世代までしかこの意味は分からないと思います)。そうした文化の二重性ということを感じさせられながら、自分は育っていくことになりました。
by pastandhistories | 2011-11-25 09:21 | Trackback | Comments(0)

選択

 昨日書いたことに少し関連しますが、西洋史を研究することの出発点には図式的には二つの立場があります。欧米に好意や憧れをもつ立場、この立場は欧米をモデルとして日本を批判的に考えるという立場につながります。その逆にあるのが、欧米への批判をその出発点とするというものになります。これもまた図式的に言えば、前者は(日本社会の)近代化を肯定的に考えるものですが、後者はむしろ近代のモデルである欧米も批判の対象とするという点で、ポストモダン的な考え方です。
 最近は後者的なものが、皮肉なことに「欧米における」内在的批判をうけて、もちろん同時に外在的な批判も踏まえて影響力を拡大しています。とはいえ丸山真男が「近代に達してもいないのに、近代を批判するのはおかしい」と論じたように、前者的な思考の意味が現在の日本からまったjく喪失してしまったのかという問題は、思想的にはなお検討していくべき重要な課題でしょう。
 基本的には自分はかなり後者的な立場に立っています。欧米が嫌いだから、正確には欧米的な思考を批判したいから西洋史の勉強を始めた、と言うことがよくあります。その理由の一つとなったことが、学生時代の体験です。ヴェトナム戦争の時代ですが、たまたま学生食堂で出会ったアメリカ人の学生と話をしたら、その彼がヴェトナム戦争は「正義の戦争」であると頑くなに主張し、言い合いになってしまったという出来事です。
そうした「正義」を擁護する論理を相手を説得するかたちでどのように批判できるののか、そのためには彼の主張を支えている根本にあるものを「内在的」に批判していく必要があるのではということが、自分が考えはじめたことです。少しいきがって言えば、「正義」の暴力を駆使している人間に対して、その暴力を駆使することは絶対に間違っているとしてそれを停止させるためには、相手の行為の根拠にある論理をきちんと批判できなければならないということです。
 歴史が実証に根拠をおく学問であるとするなら、外国史研究に対する日本史研究の優位性は否定できません。それは自明なことです。いかなる学問も自明なことはその重要な前提の一つです。ネットをとおして情報網が形成されたことによって、従来西洋史研究にあった史料に対するアプローチの困難さが急速に是正されつつあることは事実です。しかし、厳密な実証的研究を目指すなら、「日本人」研究者は日本史研究を目指すのが、自然なことです。このことは自明なことです。
 しかし、自分が西洋史研究者となったのは、欧米を内在的に批判するにはそのことが必要だと考えたからです。最近英文での仕事を意識的に増やしたのも、欧米的な価値の中に入り込むためではなく、オーディアンスを拡大し、批判を有効なものとしたいと考えたからです。その意味では昨日ここで取り上げた與那覇さんの本は自分には少しショキングなところがありました。自分にもっとも身近な世界(つまり日本)への認識を日本史研究者として徹底的に積み上げていけば、現在の世界を構築してきた言説や論理を批判する可能性が生まれ、またそれを相手に対して説得的なものとして提示することができるということが示唆されているからです。歴史研究者にとっては、そちらのほうが選択すべき自然な態度であったということが、示されているからです。
by pastandhistories | 2011-11-24 10:00 | Trackback | Comments(0)

中国化という視点

 プロジェクトの7月のセミナーで話をしてくれた與那覇潤さんから新しい本が送られてきました。奥付では11月20日発売の『中国化する日本』、さっそく読んでみました。安富歩さんの下で行われていた日本通史の研究会などを踏まえながら、最近の歴史研究の流れを整理することをとおして日本史や世界史の再検討を目指したものです。再検討というよりパラダイムの全面的な転換、自分には共感できる部分も少なくありませんが、この本が歴史研究という業界でどう取り扱われていくか、興味があります。
 これまでも世界の中心は歴史的にはヨーロッパではなく、ヨーロッパが支配的地位についた近代から現代にかけては特殊な時代であるという議論は随分とありましたが、宋代の中国に起きた変化が、現在のグローバリズムにつながる大きな変化であって、そうした変化と日本の社会の関係が、日本の歴史のなかではつねに問題となってきたし、また現在の日本のなかにある問題を規定しているという議論は、視点としては十分に考察の対象としていくべき問題だと思います。
 必ずしも学問的体裁をとった本ではありませんが、グランドセオリーを作り出そうという試みとして、海外に対しても積極的に発信してほしいですね。
by pastandhistories | 2011-11-23 19:11 | Trackback | Comments(0)

トラウマ的記憶

 本来は昨日書かなければならなかったのですが、19日のプロジェクトの内容について、世界史研究会の運営ブログで紹介をしてくれました。本当に丁寧な紹介でそれぞれの内容がよくわかり感謝しています。それをご覧いただくとわかりますが、参加者はそれほど多くはありませんが、それぞれの発表は問題意識が鮮明な意欲的なもので、またそのオリジナリティについては高く評価してよいものでした。この企画は立ててよかったと思います。次は12月10日となります。
 こちらのブログのほうは、多少パーソナルナラティヴを書き始めました。昨日の最後の部分については、自分ではかなりそれを話したり、書いたりすることに随分と迷いのある事柄です。自分が最終講義のようなことを行うのならその時話すかもしれないと思っていたのですが、やはりその時も話さないかもしれません。そうした気持ちがこの問題に関してはあります。
 ということで、今日は少し異なる話を記します。それは自分にあるトラウマの話です。最近また話題の人物となった元巨人の江川投手も同じだという話を聞いたことがありますが、自分は大学に入るまで鶏肉を食べませんでした。文字通り鳥肌が立ってしまうからです。その理由は真砂町の家では鶏を飼っていたからです。もちろん食用と鶏卵のためなのですが、東京のど真ん中でも戦争直後は庭に鶏小屋のある家がありました。庭にあったのは、防空壕だけではありません。
 この鶏小屋に関して記憶にあることの一つは、東京で日食があった時、その終了にしたがって真昼間に鶏が一斉に鳴き声を上げたことです。確認してみたら1950年の9月、欠食の割合は最高で38%だったそうです。それでもいったん周囲がだいぶ暗くなって、それから再び明るくなりだしたので、鶏が勘違いしたのでしょう。自分は5歳でまだ日食などということを知識としては知らなかったはずですが、「昼間なのに暗くなった」ということと、「鶏が鳴いた」ということへの記憶がなんとなくあります。
 しかし、自分が鶏肉をずっと食べなかったことの原因、もちろんそれはいわゆる「鶏の首を絞める(切断する)」という行為を見たからなのだと思いますが、その記憶は全くありません。後年映画などでそうした場面をみて、おそらく自分が見たのはそうした光景なのだろうということはほぼ想像できますが、記憶が全くありません。にもかかわらず大学に入るまでは鶏肉を受け付けることは一切ありませんでした。いわゆるトラウマだったのでしょう。これには後日談があって、大学院に入ってからゼミの後の飲み会で焼き鳥を食べている時に、「焼き鳥の原料はスズメのような小鳥なのだろうけど、どうやって飼育しているのだろうか」と知人に質問して、誰でもが知っている高名な歴史研究者であるその知人を本当にびっくりさせたことがあります。形状からずっとそう思っていたわけです。それほど鶏肉に関しては自分は無知であったということです。
 今日こうしたことは書いたのは、自分が関与したことに関しても、確実に記憶されないこと、あるいは想起されない記憶があるということです(ただし精神的にはであって、身体的には記憶されていて自分の行動を制御しているわけです)。自分にとってはそれは他人が行った「鶏の首を絞める」という行為だったわけですが、このことは自らが行った行為についても確実にいえることです。
 たとえば殺人です。人間がそうした行為をきちんと記憶できるかは本当は疑問です。いつも思うことですが殺人というきわめて緊張を強いられる行為を人間はどれだけ正確に記憶できるのでしょうか。多くの死刑囚が無実を主張するのは、おそらく自分が行ったとされる行為へ(正確な)記憶がないためかもしれません。過度な緊張を強いられた行為はけっして正確には記憶されることはないということは、ホロコーストに伴う事例にかぎらず、大岡昇平の『野火』をはじめ多くの文学作品のなかでずっと論じられてきたことです。
by pastandhistories | 2011-11-21 22:28 | Trackback | Comments(0)

1945年生まれ

 1945年に生まれたということには重要な条件があります。それは父親が戦争の末期になっても徴兵されていなかったということです。父がなぜ軍隊に行かなかったかは正確には判りません。その理由をかすかに伺わせることは、箱根駅伝に出場した(さらには6人抜きで区間新記録を出した)ほどのアスリートであった父の弟も兵隊にはならなかったということです。母の弟二人はいずれも出征し、そのうちの兄はフィリピンで終戦後も敗走を続け、その弟の方はソ満国境で捕虜になったということとは好対照です。
 父も陸上競技をしていてそれなりの運動能力がありましたので、このことは本当に不思議です。おそらく兄弟がともに徴兵されなかったのは、昨日も書きましたが祖父母と多少の関わりがあるのだと思います。その理由は1884年生まれの祖父には日露戦争への従軍経験があったからです。その時にすでに祖母と結婚していて子供もいました。そうした経済的理由からだと思いますが軍隊に入り、戦地にも赴いたようです。祖父や父の説明では衛生兵だったということなのですが(このあたりのことは軍籍簿などでいずれ確認するつもりです)、いずれにせよ戦争の悲惨さを痛感したのでしょう。そのことが父とその弟が何らかの方法で徴兵を忌避した(祖父母が忌避させた)理由だったのではというのが、自分の想像です。いずれにせよこのことについての明確な理由を父から聞いたことはありません。
 しかし。1945年生まれ(あるいはそれ以前の出生者)には1946年以降に生まれたいわゆる団塊の世代とはおおきく異なることがあります。それは例えば野球選手でいえば野村元監督や土井正博(西武コーチ)のように父親が戦死し、そして「靖国の母」によって育てられた人も少なくなかったということです。真砂小学校から転校し、卒業することになった小学校にもそうしたクラスメートが何人かいました。自分が1945年生まれであるということを強く意識するようになったのは、このクラスメートをめぐって起きたある事件です。この事件に対して子供心に感じた怒りは、今でも消えることはありません。
by pastandhistories | 2011-11-20 14:43 | Trackback | Comments(0)

出生地

 歴史理論に関してのブログですが、自分の記憶を書いてみたらいくつか思い出すこともあるので、閑話休題ということで自分の心象に残されている戦後の記憶をしばらく書いてみようと思います。喜安さんほどの問題意識があるわけではなく、たんなる雑感ですが、多少はパーソナルナラティヴ的なものとなります。しかし話の根拠はほとんどが両親から聞いたオラルヒストリーであって、史料的根拠を確認したものでもありません。またこうしたことを長期にわたってネット空間にさらすことには疑問もあるので、いずれは削除するつもりですが、それを前提に気ままに記してみます。
 昨日何気なく書いていて、戦前も戦後も父は都内に住んでいたと記しました。ネットでは自分は栃木県生まれとなっています。ある本を書いた時履歴にそう書いたら、それを根拠にネットではすべてそう紹介されています。自分の出生地についての活字化された数少ない史料だからです。孫引きで書いた人は、もちろん戸籍まで確認してはいないでしょうが、実は戸籍がそうなっていて、自分もそれに倣っただけです。だからといって栃木県が母親の出身地であるというわけではありません。出生年から想像できるかもしれませんが、母が栃木県(烏山)に疎開していたからです。
 喜安さんの本にも似たようなことが書いてありましたが、母が烏山に疎開したのは、親類がいたからではなく、父方の祖母と、疎開を受け入れてくれた夫婦が偶然知り合いであったためです。なぜ知り合うことになったかというと、疎開先の夫婦は教員同士だったのですが、戦前に既婚者の女性教員が、未婚者の独身教員と恋愛関係となり、そのことが周囲からは大きな問題となった時に、それを祖父母がかばったといういきさつがあったためです。その時のことのお礼ということで、今度は男性教員の出身地である烏山に妊娠中の母と祖母を受け入れてくれたのが、自分の出生地が栃木県である理由です。
 さらに言えば、祖父母が戦前ではおおきな社会的批判にさらされるような行動に対して、なぜそれをかばったのかというと、その理由は貧乏士族から商家への養女として引き取られ、そこで育てられた祖母には、決められていた許婚との結婚を嫌って、その家に働きにきていた祖父との生活のほうを選んだという経験があったからです。
 この祖父母の生き方は、自分が1945年に生まれたということとも少し関係しています。
by pastandhistories | 2011-11-19 11:38 | Trackback | Comments(0)

防空壕

 このブログは基本的には歴史(理論)にかかわる問題についての考え方や情報について書かれているものです。基本的にはなるべくあまり個人的なことは書かないようにしていますが、それだけではどうしても書き続けることは難しく、かなり日記的なものが入り込みます。時々息抜きにということで、随分以前にプロフィールを時々は書くということで、その時は自分の子供時代のあだ名が吉永小百合さんの理想の男性であった「ジャガイモ」であったということを書きました。
 今日は昨日の話の続きとして、その「ジャガイモ」以前の時代のことを息抜きに書きます。昨日書いた文京区立第一幼稚園を卒業して自分が進学したのは同じ文京区立真砂小学校(後に転校したので卒業はしていません)です。現在は何年か前の学校統合で本郷小学校となっていますが、その建物の中に女性センターのある高層の公団住宅(本郷真砂アーバンハイツ)のななめ向かいにあります。真砂小学校に進学した理由はきわめて簡単で、この小学校が自宅の隣だったからです。
 自分の家の正面向かいの建物(つまり現在の本郷真砂アーバンハイツ)は、当時は小笠原長生さんの屋敷で、実はこの家には東條英機の未亡人が住んでいたと子供の時には聞いていました。もちろん自分は子供だったので、それが本当であったかはわかりません。ただ自衛隊を巻き込んだ三無事件というクーデター未遂事件で逮捕された川南豊作という人はたしかこの屋敷に住んでいたはずで、後にこの報道を聞いた時は随分とびっくりした記憶があります。
 真砂町(現在は本郷4丁目)時代の記憶でなんといっても鮮やかなのは、小学校と自宅の間に張られていた鉄条網をくぐろうとして、鉄条網に耳をひっかけ大出血したことです。多少の段差はありましたが正門から入るよりなんといっても近道なので、家の建物を出てそのまま匍匐前進をして学校に入ろうとしたのですが、大失敗してしまいました。もう軍事教練などない時代です。訓練不足だったわけです。それでも小学校の周囲に鉄条網が張られていたというのは、終戦後という時代を反映していたのだと思います。
 時代を反映していたといえば、実はこの家の庭には防空壕がありました。といっても地面や崖を掘ったものではなく、いわゆるシェルターです。総コンクリートの地下に埋め込まれた長方形の建物、二つの入り口だけが地上に出ていて、この入口は建屋に対しては垂直に作られていて、二か所の地上部は横から見ると垂直3角形になっていました。ようするに滑り台のように見えます。事実その部分を滑り台としてよく遊びました。
 実はこの家は父が戦後に買ったもので、防空壕も父が作ったものではないと思うのですが、戦争中に住んでいた家(駒込)にも同じようなものがあったという話を父から聞いたことがことがあります。だとするとそうした建造物が当時都内でどの程度、いつから作られるようになっていたのかは興味深い話です。
 何年か前の学校統合で、自分が住んでいた場所は学校用地として買収され、その時まで残っていた父が建てた建物も取り壊されてしまい、一緒に防空壕も壊されてしまったのではないかと思います。個人的にはいわゆる現代考古学の史料としてあの防空壕は残してほしかったですね。防空壕が自宅の庭にあったということは、自分の精神形成に少なからぬ役割を果たしました。
by pastandhistories | 2011-11-18 12:05 | Trackback | Comments(0)

ポリフォニックな記憶の表象

 12月10日の会の準備として『天皇の影をめぐるある少年の物語』を読んでみました。喜安さんは1931年生まれ、これは『瀬戸内少年野球団』を監督した篠田正浩監督と同じです。その篠田監督が、阿久悠さんが亡くなった時だったと思いますが(あるいはそれ生前の特集だったかもしれませんが)、『瀬戸内少年野球団』の制作の経緯をNHKの番組で語ったことがあります。
 ある時面識のなかった阿久悠さんから電話があって、映画の監督を依頼された。しかし、原作を読んでいなかったので本屋にいって自ら購入し、それを読んでみた。その時感じたことは、阿久さんと自分の間にある敗戦や戦後についての大きな記憶のあり方の違いだった。そのことを自分は映画で表そうと思った。という趣旨の話だった思います。わずか6歳しか違いがないのに、敗戦にある種の悔しさを感じた自分の世代と、敗戦にむしろ新しい価値や文化の到来、たとえばチョコレートや、ジャズの響きや香りを感じ、むしろそれを歓迎した世代の間にあった記憶のギャップです。
 喜安さんの本からもわかるように野球は実は異なる世代の共通の架け橋であったけれど(だから郷ひろみ演ずるところの傷病兵は子供たちに野球を教えられたわけです)、異なる世代にあった認識の違いは、傷病兵を恋人にもつ夏目雅子が英語を子供たちに教えるさいの涙、そのことに気づくことなく無邪気に教えられた英語を復唱する子供たちの姿というシーンにもっとも典型的に示されています。
 こうした含意を伝えることができるのは、映画にはポリフォニックな表現を可能にする様式が備わっているからです。「事実」を表象する手段としての映画の利点の一つです。
 最後に書くと、この本に出てくる本郷區立第一幼稚園は自分も卒業した幼稚園(戦後は文京区立第一幼稚園)です。残念ながらその当時やその後の自分の記憶は喜安さんとはだいぶ違うのですが、そのことは必要におうじていずれ書くかもしれません。
by pastandhistories | 2011-11-17 22:39 | Trackback | Comments(0)

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