歴史についてこれまで考えてきたことを書いています


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もう一つのセミナー

これから電車に乗りますが、時間が少しあるのでお知らせ。
Berger招聘セミナーはすでにここでも記したように3月16日(金)ですが、もう一つのセミナーが以下のようなかたちであります。
 「再び『戦後史学と社会運動史』をめぐって」
 (報告)「戦後史学と社会運動史・再考」小田中直樹
 (コメンテーター)藤本和貴夫・谷川稔、(司会)岡本充弘 
3月17日(土)15時~18時、場所:東洋大学白山キャンパス6号館6207教室
です。今日Berger招聘セミナーの内容をかねた連絡をポスターやメールというかたちで行います。多くの人に参加いただけたらと思います。
by pastandhistories | 2012-02-28 10:21 | Trackback | Comments(0)

文化という視点

 文化という言葉との関わりから歴史の問題について考えていることをいくつか書いてきましたが、このことと関連して最近思うことは、collectivization of memory と personalization of history という問題です。日本語に直せば、記憶の集団化・歴史の個人化となります。
 前者については、集団記憶、コメモレーション、記憶の場というように、欧米での議論を基軸に最近は随分と議論の対象になっていますが、後者についての議論は少ない。歴史のグローバル化ということが議論されても、歴史の個人化とか私化とかいう議論はあまり議論されません。しかし自分は文化という視点から(記憶とか歴史という)過去認識が議論されるようになったのは、過去認識が多様な、さらには個人的なものとしてとらえられるようになったからであって、その集合性だけが重視されるようになったからだとは考えない方がよいのではと思っています。
 考えればすぐに気づくことですが、そもそも歴史が明確なかたちで、かつきわめて大きな単位で共同化される(自分はこれを commonization of history と呼んでいます)ようになったのは、近代国民国家の形成や、歴史のグローバル化をすら可能にしたメディアの現代的な革新であって、それ以前に人々がいだいていた過去認識は、一定の共同性が伴っていたにしても、あくまでも個別性の度合いが高かったはずです。
 巨大建造物などのモニュメンタルなものや様々な象徴をとおしての記憶の共同化や、統治エリートが支配の正当性を根拠づけるため占有していた過去認識の被支配者層への浸透(percolation)が試みられていたとしても、人々がそうした過去意識を共有していたかというとそこには大きな疑問があります(こうした問題は今後の実証的な研究の一つの課題です)。
 そう考えると単一のものとして commonize された過去認識(それがしばしば歴史と呼ばれてきたわけです)というのは、過去認識の特殊なあり方である。過去認識というものはきわめて多様なものとして、個々の人々によって相違のあるものとして存在していたというのが自分の考えです。そのことがこれまでの歴史に代わって、過去認識を集団化された記憶、さらには個人の記憶として説明していく流れを生み出している。それが文化という言葉を媒体として、歴史や記憶を論じていく流れを生み出しているのではということです。
 なかなか説得力のあるかたちでは議論できませんが、そんなことをまとめて書くことができたらというのが、最近考えていることです。
by pastandhistories | 2012-02-27 09:09 | Trackback | Comments(0)

文化史・プロジェクト詳細

社会史「から」文化史「へ」という記事をおととい書きましたけど、社会史と文化史を対比的に論ずることはすごく難しい。正直言って論文のテーマであって、ブログのテーマではないですね。それも十分に用意して周到に書かないとというテーマです。
 そんなわけでまた記事が止まってしまいました。ただ「ブログ」という場を利用して自分の考えを書くと、自分としては「社会史」には研究者的視点、あるいはeuro-centricな視点があって、それに対して「文化史」という議論が出てきたという面があるのではと考えています。たとえば視点はなお研究する側にあるという点で、あるいはそれが受け入れられる場が欧米にあるという点で、社会史に影響を与えた諸社会科学・人文(科)学は、人類学なども含めてなおそうした制約をもっていた。それに対してたとえばカルチュラルスタディーズには、従来客体とされていたものを主体としていくという転換があった。それを示すためにカルチャーという言葉が強調され始めた。文化史という言葉にもそういうニュアンスがあるのではということです。この辺りは本当に難しくて、なかなか考えがまとまらないのですが、そうした問題をこのブログをとおしていくつかの視点から試論的に議論してみます。
 なお途中に個人的なことや別の仕事が入ってシュテファン・べルガー(ステファン・バーガー)を招聘しての公開セミナーの準備が遅れていましたが、東洋の会は以下のようなかたちでおこなわれます。知名度はまだまだですが、彼の仕事は注目に値しますから、多くの人の参加を期待しています。なおこれ以外に共立女子大で13日に(事前予約制・ドイツ語での講演)会があり、現在関西での会を最終的に調整しているところです。

公開セミナー
「文化と歴史」
報告 山本秀行(御茶の水大学名誉教授)
     「ドイツのナショナルアイデンティティと人種的純潔性」
   Stefan Berger (ボーフム大学)
  “Let a Thousand Flowers Bloom”:
  The politics of “everything goes” and the future of history as an academic discipline
司会 岡本充弘(東洋大学)
日時 3月16日13時~17時(開場12時半)
場所 東洋大学白山第一キャンパス6号館2階(6212教室)
参加費 無料(通訳あり)
主催 東洋大学人間科学総合研究所プロジェクト
「トランスナショナル/カルチュラルヒストリーの今後」
by pastandhistories | 2012-02-23 10:28 | Trackback | Comments(0)

社会史「から」文化史「へ」?

 やっと時間ができ始めたので、2月中旬からはこのブログをテーマにそうかたちで再開できると考え、またそうした予告もしていましたが、その矢先からまた中断してしまいました。
 その理由は、あるテーマでの本作りの仕事が入って、その準備でいろいろな人と会ったり、またメール・電話で連絡を取っていて、それに忙殺されていたためです。意外なほどその仕事はスムーズにすすんで今日からまたやっと自分の時間がもてるようになりました。ということで、記憶・文化・歴史いうテーマについて最近自分が考えていることを書いていきます。
 今日の見出しは、社会史「から」文化史「へ」?、というもの。これには疑問を感じる人がいるでしょう。そもそも社会史と文化史の違いをことさら取り上げることへの疑問、さらにいえば両者に差異があるとしても「から」「へ」という議論をすることは、歴史学を進歩主義的な枠組みから理解するということになりますから、そもそも進歩主義的な視点への疑問をもつならそんな議論を立てること自体がおかしいという批判です。さらに言えば「我々が紹介し、研究してきた社会史」が歴史研究の究極的な到達点であるなどという、あるいはそれを修正した「新しい歴史研究の視座に我々はすでに立っている」という、まさかとは思いますがそんな反論があるかもしれません。
 そうした自明の反論があることを前提としながら、なぜこうした見出しの記事を書くのかというと、理由は以下のようなことです。まず大事なことは社会史がその立論にあたって基本的にはどのようなことを論じたのかということ。もちろんすべての社会史論がそうした立場に立ったわけではありませんが、社会史論の整理に仕方として代表的なものは、基本的には二つの枠組みがあるという考え方です。つまり、一つは、経済学や政治学ばかりでなく社会学をはじめとして地理学・人類学etc.の諸社会科学・人文(科)学の「方法」を歴史研究に援用していくこと、もう一つは前者とも関連しますが、従来の歴史研究の中では看過されがちであった、たとえ普通の人々の日常的な場のありかた、その心性や習慣や行動様式や価値などに歴史研究の「対象」を拡大していくということです。
 きわめて常識的な説得力のある議論で、こうした議論がそれまでの歴史研究の問題点を明らかにし、歴史研究を革新したことは事実です。事実そのことを根拠として、実に多くの「新しい歴史学」が作り出され、「学問的な進歩」に貢献してきました。
 しかしこうした議論には大きな問題があったというのが、自分の考えです。それは「方法」の革新にしても、「対象」の拡大にしても、それは研究者という視点からのものでしかないからです。別の言い方をすれば歴史の主体を研究者であるとすることによって、「方法」の革新や、「対象」の拡大は意味を持ちえたということです。しかし歴史の主体は研究者なのでしょうか。そうかもしれませんが、そうではないとも言えるはずです。だからこそ、歴史に代わって記憶ということが論じられるようになり、「社会」という言葉に代わって「文化」という言葉が用いられるようになってきた。社会史「から」文化「史」へという流れはこうした中で形成されているのではというのが自分が最近考えていることです。それが今日の見出しに社会史「から」文化史「へ」という言葉をあえて用いた理由です。 
by pastandhistories | 2012-02-20 09:56 | Trackback | Comments(0)

cultural memory

歴史と記憶につぃて、さらにこれとcultureという言葉を関連付けて自分が少し考えていることを試論的に書き始めようと思ったら随分とアクセスがありました。まだそれほど考えがまとまっているわけでもなく、次に書いていく文章のためにあくまでも試論的な枠組みを構成するために書くだけなので戸惑いがありますが、いつでも削除できるブログということで、続きを書いていこうと思います。
 こうした問題に自分が関心をもっているのはISCHの会の紹介にも書きましたが、最近は(歴史に代わって?)cultural memoryという言葉がかなり使用されるようになっているからです。自分は見落としていましたが、実は2009年に刊行されたヘイドン・ホワイト論の論集(Re-figuring Hayden White)も、Cultural Memory in the Present という叢書の一冊として刊行されたものです。
 以前ここでも書いたようにcultural memoryという言葉は狭義にはJan Assmanによって用いられ始めた言葉で、これも以前紹介したトロント大学のホームページの記事では、Cultural Memory is a concept introduced to the archaeological disciplines by Jan Assmann. Assmann defines cultural memory as the "outer dimension of human memory", embracing two different concepts: "memory culture" (Erinnerungskultur) and "reference to the past" (Vergangenheitsbezug). Memory culture is the way a society ensures cultural continuity by preserving, with the help of cultural mnemonics, its collective knowledge from one generation to the next, rendering it possible for later generations to reconstruct their cultural identity. References to the past, on the other hand, reassure the members of a society of their collective identity and supply them with an awareness of their unity and singularity in time and space—i.e. an historical consciousness—by creating a shared past. These two concepts may or may not coincide. というように説明されています。
 この記事は短文ですがcultural memoryという言葉が簡潔に説明されていて、アスマンの議論を前提としながら、cultural memoryは、「異なった過去についての集団的な理解、もしくは構築なのである」、「現在という特定のコンテクストにおいて過去についてのmeaningful statementを作り出している」、と定義され、さらにこうした議論を前提として「記憶をとおして過去は特定の社会的・心的な条件に依拠しながら能動的に(actively・・・主体的にと訳してよいかもしれません)構築されている」と論じられています。
 ここで問題なのは、なぜこのような過去認識を論ずるにあたってhistoryではなく、memoryという言葉がもちいられているのかということです。このことはcultural memoryという言葉の出現に対応して、memoryとhistoryを合わせたmnemohistoryという言葉が使用され始めるようになったのと関連しているわけですが、この続きは明日また書きます。
by pastandhistories | 2012-02-11 10:27 | Trackback | Comments(0)

memoryとhistory

 予告したとおりこの間の個人的な状況についての記事は削除しました。ブログの長所は不要なものはいつでも自分の意志で削除できることです。ネットの時代になって一番困ることは、自分の書いた古い文章がいつの間にか研究者データとしてあげられていて、簡単にアクセスできることです。今となっては随分と不十分さを感じるものでも自分の意志では削除できない。その点ブログは内容や文章が不十分であると思えばいつでも書き直せるし、削除することができるので便利です。
 最近の大学では、春休みは本当に貴重な時間です。数少ない原稿書きに集中できる時期だからです。さらに言えばこの春休みはここ数年間とは違ってとりたてて締め切りの原稿がないので、久しぶりに自分の仕事ができそうです。ということで予定は(あくまでも予定ですが)、書き下ろしの完成(やっと結論部分のイメージができました。それにあわせてこれまで書いたものを書きなおして完成するつもりです)、英文の原稿、それから簡単なアブストラクトを中心とする予定です。他にもしたい仕事はありますが、さしあたってはそのあたりに焦点を絞って仕事をしていきます。そうした仕事をしながら、一昨年の夏から秋にかけてのようにメモやノートを見直しながら、このブログも試論的な議論を中心に書くことができたらと考えています。
 ということで今日からは文化と歴史というテーマについて。昨年8月にISCHの会の紹介を書いた時に最近ではcultural memoryという言葉がよく用いられているということを紹介しましたが、それをどう理解していくのかは歴史の問題を考えるにあたって少し重要な感じがします。
 内容的な理解に誤りがあればこの記事もいずれ削除してしまうということを前提に大胆に書くと、重要なことはcultureとmemoryがなぜ合わせて用いられているのかということですね。別の視点から論ずるなら、memoryとhistoryの違い。さらに言えば過去認識であるという点では同一のものとも言うことも可能なmemoryとhistoryはどのように区別されるのかという問題です。
 そのあたりのことがcultural memoryという言葉が用いられるようになったことの重要な前提になっているような気がするのですが、そうした問題を考えてみたいなというのが、自分の最近の関心です。
 
by pastandhistories | 2012-02-10 11:47 | Trackback | Comments(0)

ドストエフスキー的体験

 今「無事」ではなく、実は病院にいます。 といっても子供もかかる誰でもがよく知っているのがその病名。先々週末の腹痛がその症状であったわけですが、繁忙期ということで試験や予算などの整理が終わってからと思ったところが進行が急で、結局金曜日に入院し、即手術という判断が下されました。
 検査も終えて、同意書も書いて、夕方6時からということで待機、看護婦が迎えに来てさあ手術室へというときに、担当医が駆け込んできてもう一つ緊急手術が入ったので輸血医師が足りないので、延期に同意してくれないかということになりました。執行の直前延期は歴史には[映画にも)よくあること、ドストイエフスキーになったような気分でしたが、翌日の話もまた結局延期で現在は手術そのものの停止・延期が議論されているようです。
 歴史研究にも共通するところがありますが、新しい技術や機械と、その時々の対処的処置をどうとるかは難しいところがあって、経験のある医師と若い医師で、若い医師でも積極的に外科的な実験的な試みをしたいとする医師とそれに批判的な医師の間で意見の対立があるのだと思います。
 開頭や開腹をすれば明確な視認ができその分手術も容易でですが患者へのダメージは大きい、であるなら新しい機械を用いて遠隔的に患部を特定し、レザーなどをあてればよいという考えもあるわけで、そのあたりの考え方の違いです。
 いわばアナログ型とデジタル型の違い。もちろんアナログも記号ですが、どちらかといえばアナログ的なものは直接的な経験や視認に認識の根拠を置くもの、それに対してデジタル型は本来は見えていないものがあたかも実際に見えているかのように認識できるということでしょう。自分が実際に医師だったら、やはりアナログ的な世代ですから、すぐに開腹したほうが早いと考えると思いますが、現在では若い医師はデジタル的なデータをヴァーチュアルなものとして理解する能力が非常に高く、できるだけ物理的な措置を回避しながら治療するという考え方の人の方が多いようです。
 ところで先月はほぼ半分ほど予告の上で休みましたが、その間のアクセス数が一定して高かったのにはびっくりしました。治療のほうは今日の検査しだいですが、結果が順調であれば来週までにいったんは終わるのではないかと思いますので、繁忙期が終わったらこのブログも再開できると思います。
 なおバーガーを招聘してのプロジェクトは3月16日(金)に、山本秀行さんを招いて行うことで準備がすすんでいます。
by pastandhistories | 2012-02-02 08:06 | Trackback | Comments(0)

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