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ネガティヴな実用性

 『極端の時代』でホブズボームが指摘したことは、20世紀は(国民国家間の)戦争で1億5千万人が殺戮されたということ。そのことにナショナライズされた歴史(意識)が果たした役割は決して少なくはありませんでした。にもかかわらず反省なく領土問題や民族間の対立が煽られ、そのことに歴史が様々に持ち出されているのを見ると、本当に残念です。
 歴史に肯定的な意味で本当に実際的な意味があるのかというと疑問も生じますが、否定的な意味では確実に実際的な意味はあります。それは歴史とナショナリズムがどのように結合してきたのか、どのようなマイナスの影響を生み出したのか、を考えれば容易に理解できます。問題は国家主義的なイデオロギーとしての歴史にだけではなく、尚古趣味的な歴史にもそうした側面があること。民俗学的なものもまたそうした役割を果たしたことも否定できない事実です。なぜそうなるのかというと、共同化された言語を媒介に、共同化された集団をオーディアンスとしているため。そのことが容易に「日本」とか「日本人」とは何かといった言説を生み出し、恣意的な共同性の媒体となってしまうからです。
 何度か書きましたが、「国家的」なものを批判しようとする歴史もまた、共同化された言語を媒介に、共同化された集団をオーディアンスとするものに多くがとどまっていたために、同じ轍にはまり込んでしまっていたというのが自分の主張です。そのことから脱却するためには、異なるオーディアンスを設定しなおしてみるとよい。そしてそのことは「外国史」研究よりも、構造的にナショナリティと一体化しやすい「日本史」研究にこそより必要なことです。
 日本人だから日本語を媒体として日本という言説空間に対して発話する。そのことは自己正当化としては自明のことかもしれません。しかし、たとえいかに批判的な内容を持っているにせよ、そうした枠内にとどまり続ける限りは、ナショナリズムとの相補的な関係でその存在を認められても、ナショナリズムを批判する有効な媒体とはなりえないでしょう。自明さが生み出してきたあまりにも大きな問題点と弊害、そのことに対して歴史研究はもう少し自覚的であるべきです。歴史が辛うじてネガティヴな実用性から脱却していくことができるのは、そうした自覚によってです。
by pastandhistories | 2012-08-27 23:50 | Trackback | Comments(0)

国家の過剰

 高橋哲哉さんなどによって「歴史認識」についての優れた考察を論じられてからもうずいぶん経つというのに、新聞やテレビでは歴史教育と領土についてのお粗末な言説のオン・パレード。従軍慰安婦の例一つをとっても、大事なことはそうした主張を日本語ではなく、英語で、あるいは中国語、韓国語、あるいはアラビア語でもいいけど、他の言語で表現した時、どれだけ議論として通用するのかということです。そう考えれば、新聞やテレビで識者と称する人たちの行っている議論が、日本語が通有する狭い空間にのみ辛うじて通用するものであって、まったく説得力のない非論理的な議論であることがわかります。
 ということを書いたのは、そうした人々の空しいほどの愚かさを批判するためではなく歴史研究への自戒をこめて。歴史研究が近代以降、近代国民国家の庇護を受けて、そうした空間の中で成立してきたということは最近では常識的に議論されることですが、そこで生じたことは、肯定的な意味でも、批判的な意味でも近代国民「国家」の役割を過剰に位置づけたことです。前者は、国民の教科書問題に典型的なように、歴史を国家や国民に結びつける主張。いっぽう後者は戦後の学問的な歴史学においては基本的な要素を構成してきました。都市国家にはじまり、古代国家、中世国家、近代国家等々、国家という言葉は、歴史の中で時間的にウビキタスなものとして使用されていて、逆に概念的にはおおきな混乱がありました。
 最近思うことは、というより多くの人によって議論され始めていると思いますが、歴史認識における国家の過剰さを近代以降も含めて見直していくということです。二つの世界大戦を中心とした20世紀前半に国家の役割が肥大化したしたことは事実ですが、一方では国家的枠組に完全には拘束されえない、文化・経済そして人々の移動・交錯は古代から現在に至るまで多様なかたちで存在していたこともまた事実です。こうした点を重視するような視点、たとえばネットワーク論的な視点は(まさにウェブ空間のあり方にヒントを得たもものです)は、おそらくは今後の歴史研究の重要なトレンドになっていくでしょう。
 話を最初に戻すと、自分がたまたま偶有している言語を媒体とした空間に発話対象を限らなければ、実に多様なそれでいて異他的な空間にも通有性を持つ議論が可能になります。逆に言えば、日本語が通有する狭い空間にのみ辛うじて通用する歴史は、ある意味では新聞やテレビで通有している言説とオーバーラップしているところがあります。
 批判的な意味で国家的なものを問題とすることが現在的に重要なことは確かです。しかし近代国家の枠組みの中で形成されたために、国家を過剰に論じている、そのことが議論をいつまでも狭い(国家的な)言語空間に閉じ込めている部分が現在の「日本」の歴史研究にはあります。もちいる言語を変えて、発話対象も変えてみる、そうしたら歴史はどのようなものとして論じられるようになるか、そうしたことを考えることも今後の歴史研究には必要なのではと思います。そのことがナショナルな言説の問題を明らかにし、自らの議論の説得力を高めていくはずです。
by pastandhistories | 2012-08-26 15:20 | Trackback | Comments(0)

reality effectにある問題点

 書きはじめないとどのくらいの長さになるかはわかりませんが、今日書こうと思うのはミクロヒストリーの話。以前国際歴史学会議に関してヘンドン・ホワイトがミクロヒストリーには批判的であると述べたことを紹介しました。自分としては『歴史評論』でも書いたように、ミクロヒストリーが歴史学の現在的なトレンドの一つであることは認めていますし、またいわゆる「厚い記述」(thick description)を個別的な対象に対して行うことにそれほど否定的なわけでもありません。 しかし、前々回の記事はそのことの前提として書きましたが、現在の社会のなかで日常的なものとして常識化していることと結びつけて考えると、「個別的なことについての詳細な叙述」には問題があることにも気づきます。
 歴史の問題を論じるのにこの例が持ちだされるのは唐突かもしれませんが、、一つの例をあげると、O市における自殺を引き起こしたとされる事件。これもまた唐突かもしれませんが、あえて大胆に事件の将来的な結末を予想すれば、メディアがどれほど過大に報道しても加害者とされる少年たちが起訴されることは難しいでしょうし、また仮に起訴されたとしても、本人たちが徹底的に否認している以上、裁判では無罪、仮に一時的に有罪とされても、数十年後には冤罪として無罪とされるでしょう。「客観的」事実がそうだということではなく、例えばかつてY市で起きた同様の事件に無罪判決が下されたように、地域で起きた集団的な少年犯罪(?)は本人や家族が否認を貫けば、最終的に有罪となる可能性は低いというのが、現在の社会の通則だからです(客観的事実であると主張しているわけではありません)。報道もまたそうした通則を頭において行われるべきでしょう。ましてや、加害者とされる少年たちの実際が、報道されていることと大きく食い違うなら、まだ少年である本人たちや家族を具体的に特定する詳細な「厚い記述」を行っているメディアの責任は、いかに批判されてもされすぎではないといってよいほど重いいものです。
 ではなぜメディアはこうした詳細な個別にかかわる報道をしているのかといえば、それはもちろんそのことに「商業的な効果」があるからです。O市の事件に関わらず「犯罪」とされることの報道は、加害者はもちろん、被害者の氏名を含めて事細かに報道されます。しかし、被害者となったということを除けば無名の市井に生きていた人間や家族について詳細な報道がなされることは、むしろきわめて大きな実際的な精神的、物理的苦痛を本人たちに与えますし、加害者に関してもその家族などが受ける報道「被害」はきわめて大きなものです(中世と違って連帯責任性の世界に人々は生きているわけではありません)。そもそもこうした事件を防止したいのなら、構造的な要素を取り上げて論じればよいのであって、そのマイナス面を勘案すれば、トリヴィリアルな事実についての報道は必要ではないとも言えます。にもかかわらず、ディテイルにまで及んだ報道がなされるのは、「A県B市でCがDを殺害した」では毎日記事の内容が同じになって誰も買わないし、読まないからです(同じということは、構造的な問題であることを示しているので、本当はそうした構造をこそ問題として解決策を論じるべきなのですが)。ようするに詳細な叙述によるreality effectは、問題の解決を提示するものではなく、商業的理由のためだということです。さらに言えば社会をあるかたちで統御するためのイデオロギー的理由に基づいています。あるいは記者たちが、読者に対して特権的な知識を保持していることを誇示するためのものです。
 今日は、構造と個別の問題について、ミクロヒストリーの問題を派生させてあえて逆説的な議論をしてみました。歴史は事実に基づく具体的な叙述であるとされています。構造から個別へという流れは、現在の歴史学の一つのトレンドです。その点ではその叙述がディテイルに及ぶことを学問的な進歩と考えることは、それほどおかしな議論ではありません。しかし、同時に事細かに叙述される事実とされるものを、自分はなんのために、どのようなものとして提示しているのかを、歴史研究者はつねに考えていく必要があります。商業的な理由、イデオロギー的理由、あるいは自らの社会的地位の保全のために行われてきたという側面が歴史(研究)にもあることは、残念ながら否定できないからです。
by pastandhistories | 2012-08-20 21:01 | Trackback | Comments(0)

10月14日

 前回も書きましたが、ピーター・バークの10月の会は、バークからペーパーが来て、準備がある程度整い始めました。学会シーズンなので早く宣伝を始めた方がよいのですが夏休み。10月に会を設定すると、事前の準備が夏休みに食い込んでしまい、告知が遅れてしまいがちです。ポスターはこれから作りますが、内容は以下の通りとなります。
日時 10月14日(日) 13:00-17:30 (受付開始12:30)
会場 東洋大学白山キャンパス円了記念ホール
報告 ピーター・バーク ’Information Scarcity and Information Glut’
コメント 長谷川貴彦(北海道大学)、下田啓(早稲田大学) 通訳 松原俊文(早稲田大学)
司会 道重一郎(東洋大学)、岡本充弘(東洋大学)
問い合わせ先 東洋大学人間科学総合研究所(渡辺賢一郎)
メール okamoto.toyo.university@gmail.com
なおあわせて、10月20日(土)午後15:00~18:00 青山学院大学ガウチャーホール礼拝堂、という日程で
’Diglossia in Early Modern Europe’ 通訳 原聖(女子美術大学) という講演を行います。関西は16日ということで準備を進めています。いつものようにそれほど大きくない場所でアットホームにとも考えましたが、少し立派すぎる会場で、そのあたりは進行で工夫していくつもりです。なお懇親会は13日夜に予定しています。せっかくの機会ですので、参加希望の方はお問い合わせください。
 お盆休みなので最終的な原稿は郵送で提出、今日は別の仕事の打ち合わせで人と会って、明日・明後日はオープンキャンパス、という感じで日々が過ぎていきます。
 ところでオリンピックの話ですが、メディアの報道をみると本当に気づかされるのは型にはまった報道。あえて言えば、「嘘の文法」にはめ込んだ物語です。歴史にもそうした「嘘の文法」は少なくないということを改めて感じさせられました。
by pastandhistories | 2012-08-16 09:04 | Trackback | Comments(0)

政治・経済・社会・文化

 仕事が一つ終わって次の仕事のために本を読み始めようとしたら、それぞれ区別して積み上げていたはずの、読み終えた本と読んでいない本の区別がつかない。「読書は忘却なり」という感じ。テレビで松本清張リヴァイヴァル放送をやっているのでそれを見たら、案の定「二時間ドラマを繰り返し楽しめる」状態。間違いなく前に見たという記憶がかすかにあるにもかかわらず、最初から最後まですっかり楽しんでしまいました。犯人もトリックもまったく憶えていないからです。
 この間メールもすっかり貯めていましたが、週末にかけて整理できました。ここで書いていた方がよいことは、ピーター・バークからメールがきてペーパーを送ってきたことです。招聘はペーパーが早く来るのと来ないのでは大違い、10月14日(日)がセミナーの日なので、丁寧な準備ができそうです。と思ったら現代史研究会のシンポと総会が同じ14日にあるという通知が来ました。参加してもらえそうな人が重なるところがあって、もう少し早くポスターを作るべきでした。どうしても学会・研究会シーズンですが、少し残念です。
 次に書こうと思っていることは、ミクロヒストリーに少し関係すること。今日はその前提として平凡なことをメモとして。それは政治史・経済史・社会史・文化史という区分について。学問的流れとして「意味ありげ」に論じられることが多いけど(自分もそうした文章を時々書きます)、これが何と共通しているのかということです。
 共通しているのは、新聞の構成。新聞は昔から「政治欄」「経済欄」「「社会欄」「文化欄」そして「スポーツ欄」という区別で編集されているからです。そう考えると、政治史・経済史・社会史・文化史といった議論の仕方は、別に「新しい」ものではなく、むしろ長い間「制度化」していたステロタイプな思考を反映したものともいえます。
 なぜこんなことを書いたのかと言うと、ミクロヒストリー的なナラティヴへのある種の疑問があるため。それは次に書く予定です。
by pastandhistories | 2012-08-12 23:44 | Trackback | Comments(0)

アトムは二度死ぬ

 前回書いたように、先週末から今週初めかけては作っている本の原稿の最終的整理、ほぼ出来上がったので水曜日に出版社と打ち合わせました。手を入れてもきりがないし、校正では自分からは手を入れない主義なので(編集者や校正者の指摘には従うけど)、もう自分の手は離れた感じ。ほっとしました。予定より10日ほど遅れたけど、これで次の仕事が始められます。ということで昨日は部屋の片づけ。今日は明日から大学の事務が休みに入ってしまうので、大学に行って事務的な書類を整理して、提出しました。ブログも多少は書く時間ができそうですが、それは明日から始める仕事次第。たまっているものを片付けたいし、そのためにどのくらい時間がとられるかはどのような仕事をするかによりそうです。
 今は比較的のんびりしているので、少し無駄話を書きます。タイトルにもあるように、鉄腕アトムの話。記憶では手塚治虫がアトムの死を描いたのは、1960年代の末。『COM』が刊行されて不死の問題を取り上げた『火の鳥』連載開始の少し後です。テーマ的にオーバーラップしていたということでしょう。
 よく知られているのは、アニメの最終回、太陽に突入するという話です。もう一つが『アトム今昔物語』(これは後から付けられたタイトルではないかと思います)で、ストーリーはややこしいのですが、ベトナム戦争にタイムスリップしてそこで死ぬという話です(正確には最後は現代にタイムスリップしたかもしれませんが)。
 後者は(水野成夫との関係で)産経新聞に連載されていたもの。産経新聞にヴェトナム戦争を批判した手塚治虫の作品が掲載されていたというのは現在では信じられない話ですが(時間的にはあまり変わっていない時期にアカハタに『ハトよ天まで』が連載されたのではないでしょうか)、今と違って「寛容」な時代であったということです。
 現在的に興味深いのは前者。手塚治虫が犯したとされるミス(この文章は最初に書いたものを変えました。ブログの便利な点です)は酸素を使うジェットエンジンが宇宙空間では使用できないということ。そのあたりはどう処理されているのかは確認していませんが、アトムが太陽に突っ込むというのは、現代的には使用済み核燃料の処理への寓話とも解釈できます。地下にいくら穴を掘っても、最終処理はできない。だったらロケットに積み込んで太陽に向けて発射すればよい。太陽はそもそも核爆発をしているわけですし、太陽系の引力の中心なわけですから、それを目標に打ち込むのは技術的にはそれほど難しくない、原発の使用済み核燃料程度であれば、文字通り大海の一滴ですから、太陽の活動に影響を与えることはない。ということを原発推進派なら将来考えつきそうです((もう考えているかもしれませんが)。
 以前書きましたが吉本隆明的発想、火を燃やすことならサルにもできたというアイディアです。でも自分なら、使用済み核燃料を満載し太陽に向けて発射ざれたロケットが大気圏内で爆発し、人類が終末を迎えるというディストーピア的SFを書きますね。
by pastandhistories | 2012-08-10 21:05 | Trackback | Comments(0)

映像資料と文字による説明・解釈

 どうもこのブログはオリンピックの開催とともに、書かれなくなったようです。もちろんオリンピック観戦に忙しいためでなく、仕事とくに本の完成に追われているため。昨日は博物館実習の挨拶回りでつぶれてしまいましたが、今日は朝から頑張って「後書き」の部分を完成させました。あとは「前書き」だけ。これはそれほど長くは書かない予定ですし、構想も大体できているので、今日・明日には終えられるでしょう。最後の全体チェックをして火曜日までには仕事を終えるつもりです。
 卒論指導でいつも学生に言うことは、「サンドイッチは中身から」ということ。論文は資料を読んだことを中心に本体をまず作る、そうすれば序文と結論の部分は後から書くことはできる。序文には「これからこういうことを議論する」と書いて、結論は「こういうことを議論した」と書けばよい。それぞれ5枚、合わせて10枚は枚数が稼げるなどと伝えたりしています。最悪なのは書き出しに力を入れすぎること、問題設定が大きすぎるとそれにとらわれて進まない。何も中身がないままに、結論が「今後の課題は以下のようなものであり、それを今後検討していきたい」などというものになってしまう。「今後の課題を書く」のが論文ではなく、「課題への解答」を書くのが論文なわけであって、こうなると最悪。研究者も結構そうした文章を書くことが多い。自戒の念をこめて言えばなのですが。
 話を戻すとオリンピック関係でネットで話題になっているのは、開会式で日本選手団が入場行進はしたもののそのまま会場には残らず姿を消してしまったという事件。映像で世界の数十億人、日本でも数千万人が目撃した事件です(自分はテレビはまったく見ていませんでした)。翌日の新聞では報道されなかったようですが、これがおおやけになったのは(もともと数千万人が目撃していたという点ではおおやけであったはずですが)、ロンドンにいて会場で直接観覧した人のブログ。この文字資料は最初は小さなポータルサイトで自分もたまたま見ましたが、それがYAHOOにも取り上げられて問題が広がったようです。
 このことはいろいろなことを考えさせます。テレビ局のクルーも含めて、現場にはおそらくは数百人の日本人記者がいて、しかも中継までしていたわけですから、この異様な出来事に気づかなかったわけがない。それを報道しなかったとなると考えられるのは、やはり報道統制ということになります。数千万人が目撃したことでも報道を統制すれば隠蔽できる、妙な自信を統制する側が持っている。おそらくは3号機の爆発についての映像統制から得た自信なのでしょう。
 という批判を書くのが今日の記事の目的ではなく(批判が大切でないというわけではありません)、注意すべきことはこの記事が開会式の映像資料を媒体として書かれているわけでなく(自分は目撃したわけではなく、おそらくは3号機の爆発と同様に開会式の日本でも放送内容は、二度とネットも含めてそのすべてを閲覧できることはないでしょうから自分がその映像を今後見る機会は少ないでしょう)、もっぱらその後にネットに提示された文字資料、文字による説明や解釈をもとに書かれているということです。
 そうした文字による説明や解釈は、意図的な歪曲(をした公式の説明)を含めてすでに多岐にわたっていますが、 それらをつうじて事実についてのある程度の推測も可能です。映像はそれだけでは事実を説明するものではない。説明や解釈がいかに「虚実を含めた事実」?を作りだそうとするのか、それに対して説明や解釈をとおしていかに正確な事実を認識するかが大切だということを、示唆している事件なのだと思います。
by pastandhistories | 2012-08-05 13:14 | Trackback | Comments(0)

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