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言語の単一化・複数化

 今日は土曜日なのに早く起きてしまい、食事まではまだ時間があるので昨日のメモの続きを書きます。つづけて記事を書くのは、外国にいる時を除けば本当に久しぶりです。
 先週の会は多言語論の研究会メンバーも多く、そうした話題も出ましたが、その時に話題として例示されたのが井上ひさしの『国語元年』です。明治の初期にはまだ日本が多言語的状況であったことを鋭く指揮した本。それはその通りなのですが、この時期の「日本」が多言語的状況であったことはある意味では常識的なものとされても、「多民族的状況」であったという言い方はほとんどされません。国語の形成によって国民国家が構築されるのが19世紀であったとしたなら、それ以前にも単一の「国民」がいたという考えは奇妙なことになります。それ以前の状況は、なぜ「多民族的状況」としてはとらえられないのでしょうか。「民族」と「言語」は異なるといえばそれまでですが、逆にそうした考えには、「方言」というかたちで言語の多様性や分割は認めても、あるいはアイヌや琉球のなどの「民族性」は認めても、それ以外の差異は認めないという明治以降の「日本」という「国民国家」のあり方が反映されているのかもしれません。
 それぞれの地域に固有の言語が以前からの存在していたものであったとしても、同時に「方言」が「国語」の形成に対応して新たに「構築」された要素をも持つものであったことは、以前紹介した下田さんの鋭い指摘にもあることです。その意味では「国民」のなかでの多言語性というのは、意外と根強く残存しつけるものですが(その代表的なものが関西弁です。関西弁だけではなく、北海道方言が明治以降に創り出されたり、それ以外にも方言が地方社会のコミュニケーション手段としてなお有用なのはそのためです)、それは基本的にはオーラルな領域においてであって、リテラルな領域にではありません(井上ひさしはこのことをも痛烈に皮肉りました。それが『吉里吉里人』に『雪国』の東北弁訳として登場します。たしか「国ざけえのなげえトンネルを越えると、そこは雪国だっちゃ」というような文章だったと思います)。
 言語の問題は、以前書いたことがありますが、社会的ハイアラーキー・社会的上昇と深く関係していることです。たとえば方言の放棄・矯正は、単一化への志向をもつ社会においては、社会的上昇の媒体として求められるものです。逆に現在の大学研究者に求められるようになった複数言語能力(英語の使用能力)もまた、現代世界、そして日本社会の、知的・権力的ハイアラーキーのあり方と深くかかわっています。多言語論の研究者が研究している地域の規範的言語である現代英語、現代フランス語、あるいは現代スペイン語での発表能力を求められるというパラドキシカルな状況が生じているのも、そのためかもしれません。
by pastandhistories | 2013-06-29 06:48 | Trackback | Comments(0)

オーラルヒストリーについて

 前回書いたように、先週の研究会ではヒントになることが少なくなく、だいぶメモを取りました。そのいくつかを忘れないうちにとここに書いておこうと思ったのですが、時間に追われてもう週末になってしまいました。明日は自分の所属する大学の学会があります。
 ということでまだ考えは整理できていませんが、表題(オーラル・ヒストリー)についてメモ的に書くと、オーラル・ヒストリーへの関心の一つの根拠が、人類学(や社会学)の基本的な手法からの影響にあることは事実でしょう。しかし、自分がやや疑問を感じるのは、オーラルヒストリーを(これはヴィジュアルヒストリーについても言えることですが)、伝統的な歴史研究に対する補助的なものとするような考え方です。
 歴史を「研究」に固定すればそうした議論は十分成り立ちますが、それぞれの人のそれぞれのかたちの過去認識のあり方(保刈実さん風に言えば歴史実践となるのかもしれませんが)からみれば、オーラルヒストリーは、文字が発明される以前だけではなく、文字が広く使用されるようになってからも、むしろ通常のものだからです。たとえばこのブログでいくつか家族にかかわることを書いたことがあります。その根拠として自分が用いたのものは、オーラルなかたちで伝えられたものです。こうした例に示されるように、多くの人は、自分のアイデンティティにとって(本当は国家の歴史より大事な)家族のことは、オーラルなものを媒体として認識し続けてきたし、現在もしています。学校教育が、そして歴史研究の成果の伝達が、文字的なテクストを媒体として行われているのでつい錯覚してしまいますが、自分をパーソナルな単位として考えれば、過去認識のかなりがなおオーラルなものを媒体として行われていることに気づくはずです。
 こうしたオーラルな歴史実践が歴史研究の場から排除されたのは、それが固定化された文字資料に比較して、野家啓一さんが解釈的変形と呼んだものが加えられやすいからだということになります。しかし、この議論にも変なところがあります。あらゆる歴史は現代史であるという指摘を待つまでもなく、その時々の時代に応じて文字化されたテクストは、その代表的なものが教科書ですが、そして教科書だけではなくあらゆる歴史の研究書や論文は、常に時代に応じて解釈的変形をし続けているからです。変形を繰り返すのはオーラルなものだけではありません。リテラルなものもそうしたことをつねに繰り返しています。
 こう書くと、テクスト化された解釈は時代によって変化していくけど、すでに固定的なものとして記された史料は変化しない、その意味で文字的なものは確かである、という反論が生じます。こうした議論への反論は、もちろんそれば資料として文字化される際に、どのような形の変形が加えられたのかということです。この問題もまた、学問的な歴史研究の補助的手段としてさかんになった現代史にかかわるオーラルヒストリーの収集・整理にあたっての基本的な問題として、論じられていることです。
by pastandhistories | 2013-06-28 22:59 | Trackback | Comments(0)

「現在」という時間の空間性

 このブログの本来の目的の一つは、歴史理論についてのアイディアをメモ的に書きとめていくこと。しかし、いつの間にか海外学会の参加録、プロジェクトや作成していた本の案内が中心になって、理論t的な問題はあまり書きこまなくなってしまいました。
 にもかかわらず、あるいはだからからなのか、この半年はかなりのアクセス数。アクセスが増えるとますます身構えて書けなくなってしまう、という悪循環だったのですが、本の仕事が片付いたし、プロジェクトについてもそれなりのことはできたと思うので、時間のできる夏休みの前に、いくつかメモ的なことを書けたらと思います。
 といった矢先から二つの話。前回書いたように、一つは、プロジェクトから派生した原稿。翻訳の草稿を先週編集者に送りました。多分週明けから手直しの仕事が入るでしょう。もう一つは、プロジェクトの国際招聘セミナー。西洋史学会での大シンポジウムのテーマを他のアジア出身の歴史研究者、日本史・東洋史研究者を交えてさらに議論するというコンセプトです。海外からの2名、国内からの1名の最終的な承諾と日程確認をもらうことがができました。招聘に関する予算措置を伴うので、週明けに大学に書類を出します。企画が承認されれば、具体的なプログラム作成に入ります。日にちは7月21日(日)となりますので、関心のある方は予定を空けておいてください。
 話を元に戻すと昨日は川田順造さんが報告の多言語論、文化史の研究会に参加しました。川田さんのこれまでの研究の概要を中心に、当然のことですが、人類学と歴史学の交錯する部分について、(多)言語論をふまえた議論があり、議論に参考になる部分が多く、けっこうメモを取りました。そのメモをもとにいくつか文章を書いていきます。
 まずは基本的なことから。これは質疑の中でも出ましたが、人類学と歴史学の差異を図式的に整理すれば(あくまでも図式的にですが)、人類学は空間的な、歴史学は時間的な差異を対象とする学問ということになります。差異ということだと、歴史学で問題になるのは、過去と現在の差異。時間軸を媒体としてそのことが議論されるわけです。しかし、こうした差異を歴史学においても時間的なものに限定をしてはいけないというのが、自分の考えです。
 この問題は、以下のように考えると理解できます。「歴史は過去と現在の対話である」といった主張はE・H・カーの主張としてしばしば引用されますが、この「現在」はたんに時間的なものではありません。というのは、ここでイメージされている「現在」は、本が書かれたのは1960年頃ですから、第二次大戦後のある程度の地球的まとまりが前提とされた「現在」だからです。つまり「現在」は空間的なものでもあるということです。
 基本的には「時間」を軸としているはずの歴史を考える時に大事なのは、「あらゆる歴史は現代史である」という言葉が事実であるとしたら、同時にそうした現代(現在)がどのようなシンクロニカルな空間であるのかということです。なぜなら「現在」のシンクロニカルな空間のあり方が、歴史認識を大きく規定しているからです。
 そうしたシンクロニカルな空間に、過去は歴史として表象されています。その表象の媒体として重要な役割を持っている言語のことを考えると、そうした歴史に対する現在のシンクロニカルな空間が持つ意味はよくわかります。歴史研究者が言語を媒体として現在「歴史」として表象しているものは、主として帰属する母国の言語とグローバル(?)に通有するされる英語によっています。そうした歴史は「時間」を軸とした差異を確認するものであるより、「空間」を単位とした認識の共通性に向かう傾向を強く持っています。ナショナルヒストリーの根拠にあったものはそうした「時間」と不可分の「空間性」であったわけです。グローバルな歴史にもそうした要素が潜在しています。
by pastandhistories | 2013-06-23 16:30 | Trackback | Comments(0)

7月21日

 『歴史として、記憶として』の合評会が終わりました。ほぼ予定していた通りの参加者。内容的にも予定していた通り、というより出版後3週間もたっていないなかであれ程の分量の本を丁寧に読んで、かつ今後の論点を提示してくれた戸邉秀明さん、内田力さん、長野壮一さん、そして池田嘉郎さんには本当に感謝しています。意図としてはもう一つの外部的な議論、本のなかの第3部に続く第4部ということでしたが、十分そうした内容になっていたと思います。本は書き終えてしまえば読者のもので、自分が考えていたものよりはるかに進んだ読み方に、自分にも随分と発見がありました。おそらくは参加してくれた他の執筆者についてもそれは同じだったのではないでしょうか。とにかくそれぞれの報告は内容的に参加できなかった多くの人にも伝えたいもので、もちろん報告者の同意が必要ですが、その方法を少し考えてみます。
 この間ブログを止めていましたが、その理由は会の予告がすぐ目に入るように優先したから。実をいうと一週間前に記事を一つ書いていました。よくあるように、最後の入力ボタンの押し違いでパー。その時に書いたのは、プロジェクトの次の会の設定準備が進みつつあるということです。昨日も少し伝えたように、日にちは7月21日(日)、内容的には5月の西洋史学会の大シンポジウムを継承したものになります。「グローバル化時代におけるアジアから見た歴史研究史の再検討」といったようなもので、中国・韓国から各一人に来てもらい、議論する予定です。ある程度参加者の了解は得ているので、今週からは最終的な連絡をとって、実務的な準備をします。
 ということで一つの会が終わっても忙しさは変わらないのですが、昨日の会の二次会で頼まれていた原稿の締め切りが過ぎていたことを、同じ企画に執筆する人との話で初めて知りました。6月末と思い込んでいたのですが、6月10日だったということのようです。今週は急いでそれを完成させなければなりません。
by pastandhistories | 2013-06-16 06:26 | Trackback | Comments(0)

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