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歴史を敵に回す

やっと大学は試験週間へ、しかしまだ7日に補講があるという状態です。さらに夏休み前の雑事。奨学金授与式、サークル顧問会議なるものが月・水とあります。いずれもおそらくは、「奨学金の支給に際し、使用上の注意を学生に行っているか」「とか「課外活動に関して、十分な注意を行っているか」などという点検評価に対して、「行っている」という答えの根拠づけの会議。踏絵的な内容を持つ会議と言えなくもありません。
 踏絵といえば、すっかり常識化し始めた、「尖閣問題」をめぐる画一的な議論の強制。「さかのぼり除名」をすべきだという珍妙な議論にたいして、鳩山元首相が「歴史的な事実に基づいて発言している。歴史を敵に回さない方が良い」という手紙を海江田党首に送ったという記事が、小さくではあるけど、新聞で紹介されました。
 この話で思い出したのは、以前小さな文章で紹介したことのあるアントニス・リアコス(アテネ大学)の議論。リアコスはこのブログでも何度かの機会に紹介したことがある歴史理論研究者。国際歴史学・歴史理論学会(ICHTH)の会長で、HIstorein 誌を中心的に進めている人物です。
 リアコスの議論というのは、ギリシアにおける歴史教科書を巡る問題。オスマン帝国の時代を、保守的な政治グループだけでなく、共産党を含めた左翼的なグループも、その時代は、ギリシアにとっては否定的な時代であった描くべきだとして、必ずしもそうした一面化されたかたちでその時代を理解すべきではないとする歴史研究者と対立していることを指摘したものです。歴史修正主義が右翼的な立場からだけではなく、左翼的な立場からも出される、それは左右両派ともに、ナショナルな枠組みにその根拠を置いているからであるとするものです。
 そのようなかたちで、現在の政治は、左右を問わずナショナルな枠組みに大きく左右させられています。歴史についてもそのことは同じです。しかし鳩山元首相の「歴史を敵に回さない方が良い」という主張は、主張としては、妥当なものでしょう。こうした妥当な思考が、ナショナルな枠組み思考の影響を受容しがちなパブリック・スペ-スにある歴史にどのようにして切り込むのという問題が、リアコスの議論の大きな前提となっています。
by pastandhistories | 2013-07-28 23:50 | Trackback | Comments(0)

INTH⑨

 結局9回にわたることになたINTHの報告は今日でおしまい。実は最終日の午前中に、昨日書いたラウンドテーブルの前にもう一つの会合に出ました。同じ時間にサンディ・コーエンが話すセッションがあったのでこれに出たかったのですが、彼とはホテルの前にいたところそこでタバコを吸っていた彼と会い、結構長く話をでき、ペーパーのやり取りをすることを約束したし、また会う機会もあるだろうと思い(彼は今年の半分ほどをタイで過ごしているようです)、今回の実務的運営の中心となった若手研究者によるworkshopに参加してみました。そもそも今回のINTHの会合がどういう目的で行われ、今後がどのようなかたちで計画されているのかを、知りたいと思ったからです。結論的に言えばこの会は本当に参考になりました。会の意図もわかったし、今後の歴史学の国際的な方向性が(若手研究者によってどのように論じられているのかが)わかるところがあったからです。
 そもそも自分が学期中にもかかわらず今回のINTHに参加したいと思ったのは、基調報告者をはじめとしたその参加メンバー、国際的には現在の歴史理論研究の最先端を行く人々が網羅的に参加することが予定されていて、そのことに魅力を感じたからです。一体どうしてこのような会が計画できたのだろうか、とたいへん不思議に思いました。
 しかしワークショップに参加してわかったことは、この会がゲント大学を中心とする若手研究者によって、本当にボランタリーなものとして計画され、運営されたものであったということです。ネットに載った案内では、会の呼びかけは(多くの学会にもしばしばあるような)三層構造になっていて、著名研究者がそろった30名ほどのadvisory board, 若手実務者6名にによる実行部隊(INTH team), そしてその中間に、会の国際的組織化を担当したであろう10名ほどのambassadors によって行われていました。
 実際に多くの学会的なものでありがちなことは、advisory boardは名目的なものであって、いわば権威づけのための名前貸し。しかし、今回のINTHの大きな特徴は、そうしたビッグネームの半数以上が多忙さにもかかわらず実際に参加していたことです。形式にとらわれずに歴史研究を革新しようとする、若手研究者のボランタリーな努力に、じぶんたちもまたボランタリーに協力しようとする、そうした人たちがadvisory board を構成していたことが、その理由だったのだと思います。会議での議論が本当に熱のあるものだったのもそのためでしょう。
 またそのことはambassadorsの構成にも反映されているのですが(詳しくはホームページを参照してください) 、今回の会議のもう一つの特徴は、欧米の大国(さらにはそうした国の権威ある大学における権威のある研究者?)を軸とせず、東欧や北欧、南欧、そして南米などの研究者への呼びかけを重視した(これまでの報告で発表者の所属大学を記さず、国名を記したのはそうした会議の性格を理解してもらうためです)ことです。当たり前のことなのですが、その点でも刺激を感じさせられるところがありました。この点は国際文化史学会にも似た傾向があり、国際文化史学会と重なるメンバーがいたのもそのためなのだと思います。
 そしてこの会議の実務を担ったのが、INTH teamです。その中心がもう何度も登場したカーレ・ピハライネンとアントン・フレイマン、そしてゲント大学のlecturer のBerber Bevernage です。彼はすでにHistory and Theory, History Workshop, そしてシュテファン・バーガーなどが編集したConsuming the Nation に論文を書いている(History, Memory. and State Violence, 2011 という本があるようですが、まだ入手していません)研究者です。
 ワークショップに参加してわかったことは彼が実際には会議をもっとも中心的に推進したというです。さらによくわかったことは会議のコンセプト。ネットワークという言葉が用いられたことの意味です。もうかなり長く書いたので、これ以上煩瑣に書くことは避けますが、最近国際的にも、あるいでは日本でも盛んなのは学会づくり。なにか目新しそうなテーマがあると学会を作る、定期的な会合を開く、そして雑誌を出す、その多くが論文は査読付きであるとして、あるいは権威化された出版社と結託して、自らの権威化をはかる。しかし、学問はそれでよいのでしょうか。おそらくそうしたことへの問が、INTHがネットワークという言葉を用いたことの理由のようです。
 アナログ的なものよりはるかに(グローバルな)拡がりのある、そして誰もがイージーに参加でき、アクセスできる、そうした場を作り出していくことが、歴史についての理論を大きく革新していくのではないのかということが、INTHの基本的なコンセプトのようです。ワークショップではその第一歩として国際的なビブリオを作る、研究者のディレクトリーを整理していく、そして今回の会議では不十分であったアジアへのネットワークの拡大が話し合われました。このことに賛同する若手の研究者がいたら、是非このネットワークに参加してほしいと思います。
 最後になりますが、実はこうした問題が改めて提起されたのが、すでに紹介した最終日のパネルでのジェンキンズの発言に対する応答です。これを受けて最後に発言したのが Berber Bebernage, いかに議論が緻密化されていったとしても、歴史は歴史家によって占有されている訳でなく、その意味で本当に有効な議論を自分たちはしているのかということを熱を持って論じました。これを受けて同じくボランティアの女性が発言。それが会議の最後となったのですが、現在の歴史研究の動向だけでなく、歴史(学)のあり方を今回のINTHはいろいろな形で考えさせてくれました。
by pastandhistories | 2013-07-24 10:57 | Trackback | Comments(0)

INTH⑧

 久しぶりの休み、INTHの続きを書きます。まず書かなければいけないのが、ゲイブリエル・スピーゲルの報告。三日目の最後。スピーゲルはいくつかの会議で同席したことがありますが、なんといってもビッグ・ネームですので話かける機会はこれまでありませんでした。幸いなことに今回は二日目ではと思いますが、食事の時に自分の前に座ったので小1時間ほど話ができた、それだけでも会jに参加した意味がありましたが、この講演(事実上の会議のconcluding speech)も本当に意味深いものでした。
 この講演のノートは3頁にも及んでいて、そのすべてをここで紹介するのは大変なので、アブストラクトの一部をここで紹介すると、
The paper will examine revisions to theories of "linguistic turn" historiography in order to show the ways in which those revisions have created a path for the return of individual agency and perspective in and on history, changes that I believe constitute a form of neo-phenomenology as the governing philosophical orientation in historiography. To the extent that this is correct, it establishes a philosophical and theoretical basis for the integration of memory and memorial testimony into the study of the past. The paper will then take up the metholodogical and ethical implications of the rise of memory studies in contemporary history.・・・・・・At the same time, it is clear that memory is no longer the sole vehicle for the promotion of a new ethical orientation in history, as recent work by Hayden White, Keith Jenkins and Frank Ankersmit, among others, suggest. Precisely how these different approach to history, memory and ethics can be combined to constitute a viable and coherent mode of historiography remains an open, debated, question.
というものです。
 ここからもわかるように、スピーゲルの議論の内容は、言語論的転回を議論の出発点において、そこから記号論的な理解や主体の問題、また文化を言説によるものと理解する文化的な研究、現象論的な議論、そしてメモリースタディースといったような歴史研究にとって現在問題となっている様々な問題を、代表的な論者の主張を例にとりながら全体的にサーヴェイしたもの。いずれこの内容はINTHの会議報告としてオンライン化される可能性があると思うので、見ておくとよいでしょう。またこの後に開催されたディナーで彼女に会ったので、日本語に翻訳されるとよいのではとも伝えておきました。
 少し長くなるけど一気に書くと、最終日はクリス・ロレンスが司会をして、エヴァ・ドマンスカ、エリザベス・アーマース、ウルフ・カンスタイナー、アラン・メギルが簡単な報告をしたラウンドテーブルに出ました。少し順番が逆になりますが、紹介しやすいものから記事を書くと、ドマンスカは社会科学や人文学全般のあり方について、歴史をde-descilinize する傾向がポストモダニズム的な議論にあるのではないかとして、人文学の可能性を肯定的に論じました。アーマースは今回自分がその話を聞くのを一番期待した参加者の一人。専門的な歴史は危機にある、歴史はeveryone のものでなければならない、そのための方法がなければとしつつ(自分の考えと同じです)、彼女の持論である時間の中立性への批判、時間の多様性を論じました。メギルは今回の会議で共通語で用いられた英語は一つのコンテクストであるとして、英語を使用しない人々にとって英語を媒体として自らの一定の考えを正確に表すのは困難であって、そのことが学問的知識のハイアラーキーを生み出していることを指摘しました。実はメギルは今回の会議で朝食もほぼ同席、レセプションでもかなり長く話しました。自分と話していてそうしたことを考えたのかもしれません(彼は自分が英語で書いたものは大体読んでくれているようです)。
 しかし、このラウンドテーブルで一番楽しかったのは、カンスタイナー。何度か彼の話を聞いたことがあります。とにかくプレゼンテーションの上手な人(同時に論理的にも非常にきれる人です)。今回も手品師が着るような真緑(こうした表現があるかはわかりませんが)の派手なジャケットで登場。まずはその理由を説明。ヴィジュアルがいかに大切なのかということです。それだけでももうう結論がわかるように、テキストからプラクティスへという議論。デジタル的なもの、ヴィジュアル的なものにある、歴史の文化的(?)認識における重要性を論じました。
 このラウンドテーブルの最後は既に紹介したようなジェンキンズの発言をめぐる議論で終わりますが、それにはある伏線がありました。そのことはINTH報告の最後としてまた明日書きます。
by pastandhistories | 2013-07-23 10:00 | Trackback | Comments(0)

無事(?)終了

 日曜日の招聘セミナーは無事終了。今朝はホテルで一緒に食事、イム・ヒジョンはその足で帰国、エドワード・ワンは京都の日本文化センターに向かいました。
  会に関しては、日本での知名度という点で、また本当に色々な会合が重なったので、参加者数に不安があったのですが、予想をやや越える数、内容的にも自分としては満足しています。アジア出身者として積極的に国際的な活動をしている歴史研究者が、どのようなことを議論の根拠としているのか、またどのような議論が同じアジア社会で受け入れられているのか、あるいはさらに国際的に有効なものでありうるのか、ということがそれなりに伝わったのではと思います。以前からこうしたアジア的な視座に立つ議論を紹介したいと考えていたのですが、多忙なヒジョンとエドワードの日程が調整できて、これまた多忙な成田さんも参加してくれて(いつもながら見事な議論の整理をしてくれて)、本当に良かったと思います。
  もっともいくつかのバッティングがあったため通訳が確保できず、エドワードとは普段話していて別に意思の疎通を欠くこともないので安易に通訳を自分が担当したのが大間違い。聞いていてノートは取れるけど、それを見直してもうまくまとめられないということで、会場には迷惑をかけてしまいました。7割の人は英語が理解できても、(自分も含めて)聞き取れない人がいるならそれに合わせて通訳を用意するというのがこれまでの会の運営の仕方、そうした方針をきちんと維持するには準備不足でした。
  先週のゲントに続いてこれで今学期の大きな仕事は終わりました。今日は最後の授業が3コマありますが、それが終わるといちおう夏休みです。といっても出張の報告書もまだ書きあげていないし、その他書類と会議があるでしょう。このブログのINTH報告もまだ少しあります。
 それでもやっと本を読んだり、原稿を書いたりできる時間が少しは出来ます。プロジェクトも今年が最終年度。日曜日に報告したように、1月の最終週に最後の招聘セミナーをやって、おしまいです。アジア的視座からの議論にもう一度チャレンジするつもりです。
by pastandhistories | 2013-07-22 10:06 | Trackback | Comments(0)

INTH⑦

 INTHの内容について書くのも7回目、読んでいる方も飽きてきたでしょうが、書いている方も飽きてきました。もう報告書に必要な字数も書いたので、ここでやめてもいいのですが、もう少しなので最終日まで書きます。
 三日目の午後に参加したのは、Time and Temporality 2 というセッションです。ここもピハライネンが司会をして、クリス・ロレンスがコメンテイター、報告者はMaria Ines Mudrovci(アルゼンチン), Leon Ter Scure(オランダ), Sinkan Cheng(中国・香港), そしてエヴァ・ドマンスカ(ポーランド)の4人。比較的中堅・若手なのですが、なぜか教室は満杯になっていました。おそらくほかの場所での報告との関係だったのでしょう。
 報告者の年齢的なこともあって、内容的には既に議論として定まっていることをなぞらえるという傾向があり、Mudrovki の議論はアルトーグの議論を踏まえたもの、history of the present という言葉を用いて時間性の中における過去意識の意味を説明しました。この言葉が、現在も結局は過去となり、歴史化されるのだから、その現在によって構成されている現在の歴史は限定的なものだととればよいということなのか、そのあたりのことをどう考えるかということなのかもしれません。
 Ter Scure はベルグソンに焦点を当てるということだったのですが、むしろアーマース的な時間の複相性ということを議論しました。時間の複相性はブローデルも議論したことで、この報告も最後にそのことに言及しましたが、自分はむしろニュートンとライプニッツのあいだの時間観念の違い(前者はempty or mathematical time, 後者はembodied or organic time )をふまえて近代の自然科学的的思考の前提となった前者に対して、歴史を含めて人文的な思考の要素とされるべき後者の意味を論じた部分を面白く思いました。
 Cheng の報告は、ベンヤミン、コセレック、ラカンなどの議論を踏まえたもの、多分言いたかったことは現在の歴史は勝者が作り上げたものだが、時間的なパースペクティブを長くとればvanquished された側の視点が(別の言葉で言うと、progress の側ではなくdeclineした側の視点が)弁証法的な視点からは意味を持つということだったのだと思いますが、とにかく早口。日本人研究者にもある共通点として自戒を込めて言えば、英語でのプレゼンテーションは別に英語能力を競っているわけでなく、大事なことは自分の言うことが様々な出自に研究者に対してどれだけ内容的にオリジナルなものとして理解されるかということ、その点が残念でした。
 比較しては申し訳ないのですが、ドマンスカはいつも思いますがプレゼンテーション能力は高く、内容的にはポストヒューマニズムという問題を、デリダやフーコーなどの近代的ヒューマニズム主義への批判(啓蒙主義への批判)とは異なるものとして、環境や動物をも取り入れた歴史の形成を生み出す流れであると論じました。具体的にはマクニールやダイアモンド(最近ではチャクラバルティもこうしたものを取り入れていることをドマンスカは指摘していました)などの歴史に代表される方向性です。彼女は引用も巧みで、最後をラトゥールの to create knowledge 'how to live together' and ' to compose a world that is not common' という言葉で結んだとメモにはあります。
by pastandhistories | 2013-07-21 09:53 | Trackback | Comments(0)

INTH⑥

 INTH 三日目は、最初はフランソワ・アルトーグの基調報告。彼とはいくつかの機会に縁があって、最初は『史学雑誌』の「回顧と展望」の歴史理論を担当した時。ちょうど年末に彼の『歴史の体制』の翻訳が出て、なんとか原稿のなかに入れようとしたけど、今一つ分からないことがあってカット、二度目はオスロの文化史学会の時。この時も彼が基調報告者の一人、この時も話の内容がつかみづらく、帰国後ネットに出されていた報告を何度か聞きなおし記事にしようと思ったけど、またしてもカット。そして今回。
 母語でないといっても英語はゆっくりと丁寧に話す人で内容も難しくはないと思うのだけど、紹介しづらいところがあります。今回も大文字のHで始まる歴史と小文字のhで始まる歴史の話から始めて(彼の話が自分にとって分かりにくいのは、こうした用語を他の人とはやや異なるニュアンスで使用するからだと思います)、過去、現在、未来という時間軸を中心に、大文字の歴史が西洋文明の発展の延長に存在し、未来との関係で現在を空間的に位置づけるという抑圧性をもつものであるという話をして、セルトーなどを用いながら歴史が後退し、(共同)記憶の問題が重視されるようになったことの意味を話しました。メモにはancient regime of historicity,modern regime of historicity,とかsingularity of present という言葉が残っているのですが、時間があればもう一度訳書を読み直してみます。
この基調講演のあとはThe Journal Historein という会に参加しました。ピハライネンが司会をして3人のギリシア人歴史家が報告、その理由はこのセッションはギリシアで出されているHistoreinという雑誌の内容を報告するものであったため。この雑誌は今回会場で販売していたので、全部ではありませんがバックナンバーを購入してきました。とはいっても実はこの雑誌はオンライン化されているので,ネットで自由に見ることが出来ます。内容はギリシア人の歴史家にくわえて、たとえばホワイトのpractical pastをはじめ、歴史理論の現在の流れを代表する論文が掲載されているという優れもの。おそらくこれは実質の編集にあたっているアントニス・リアコスのバランスの良さと、彼の人格的魅力によるものでしょう(多くの歴史家がボランタリーに協力しているのだと思います)。
 報告はEfii Gazzi, Pothiti Hantzaroula, Liakos という順番。Gazzi が10号を中心に歴史への批判理論を、Hantzaroulaが8、11号の内容を中心に、affective turn ,emotion の問題を取り上げ、リアコスが総括的な報告をしました。Gazziは最新のStoria della Striographia にも寄稿していますがバランスのよい注目してよい歴史研究者、emotionも歴史研究の現在的トレンドの一つです。リアコスは学問的な歴史とナショナリズムん影響を強く受けたポピュラーな場にある歴史との関係を取り上げている人、それぞれの発表も的確な問題意識に支えられた興味深いものでした。もしこの記事に関心を持つ人がいたら、だまされたと思ってHistoreinを読んでください。
by pastandhistories | 2013-07-20 11:42 | Trackback | Comments(0)

INTH⑤

 ゲントに滞在中は会の内容について書きこめましたが、帰国してからは火曜日が4コマ(補講のためです)、水曜日が1時限目に授業、その後は卒論指導面接、そして午後は教授会と学科会議ということで、記事を更新する時間はゼロ。今日はこれからエドワードとおちあい、夜はヒジョンを交えて3人で21日の内容の相談をします。
 その間に少し時間があるので、大会二日目の午後のセッションのことから記事を書き足そうと思ったのですが、メモをみても内容がよく思い出せない。参加したセッションは、Walking the Boundaries of History: Form and Function というもので、報告者はカーレ・ピハライネン、ナンシー・パートナー、ジョナサン・ゴーマン、ヴェロニカ・トッツィで既に一定の評価のあるメンバー、司会もサンディ・コーエンですから、自分も期待したセッション。参加者も多く、基本的なメンバーがほぼ集まっていました。
 ところがこの内容がメモを見てもよく思い出せません。カーレは自分と同じで少し口の中に言葉がこもるところがありますが、他の3人の英語は明瞭。自分では内容を理解できたつもりだったのですが、多分疲れのピークだったということなのでしょう。自分の思い込みと記憶とは随分ずれるということを改めて思い知らされました。
 ということで内容にはあまり自信はありませんが、一応順を追って内容をたどると、ピハライネンは歴史を事実かフィクションかという議論に一面化することに疑問を呈し、materiality とされるものを軸に問題を考察すべきだという主張、パートナーはヨーロッパと一つのまとまりを持つ主語としてナラティヴに組み込むような考え方を批判しました。つまり統合的なものとしてではなく、主語を多様化すれば、歴史もまた多様なものとなるという考え方。当然の主張です。ゴーマンは自分のメモによればメタヒストリーを素材に博士論文を書いたとして、歴史の哲学の違いを論じました。トッツィの主張は基本的にはローティの考えを継承したもので、偶然性のあるコンテクストの中で歴史は再記述されていくというものでした。
 かなり明瞭な議論であったはずなのに、自分の記憶があまりないのは[メモが少ないのも)、自分の考えと似た内容が多かっらからなのかもしれません。又このセッションではcausalityやnarrative[の閉鎖性)について面白い質疑がありました。こうしたことについては今後独自の記事で書ければと思います。
 今思いなおすと疲れたという意識があったのでしょう。この日は基調報告は聞かず、この後はある研究者と会の内容や今後の方向性を食事を交えて相談しました。もっともこれが9時過ぎまでかかってしまったのですが。
by pastandhistories | 2013-07-19 13:40 | Trackback | Comments(0)

INTH④

 INTHは今日が最終日。朝に最初に残されたセッションがあって、昼に総括的な全体パネル。帰った人もいてさすがに参加者は減ったところがあったけど、大会全体の盛り上がりを反映してか、それなりに興味深い議論がありました。自分も最後に発言しようと思い、メモも作ったけど、フロアからの発言に対してもカメラが回っている。そのことについては別に書きますが、ネットをとおしてのパブリサイズがかなり意図されているようなので、つまらない発言が全世界に流されてもと思いやめました。そうこうしている間に広い会場の一番後ろの一番端にいたキース・ジェンキンズが(彼のこうした性格については「末席」という記事で紹介したことがあります)彼らしいラディカルな発言、演壇からはこれに対する反応がなくそのままお開きかなという雰囲気になったのですが、逆に一番前の真ん中にいた大会でのボランティアを務めていた若手研究者がジェンキンズの意見を受けてこれを支持する内容の熱のこもった発言、同じくボランティアの女性がこれを補足して、(自分にとっては)感動的な幕切れ。
 その具体的な内容はまた順を追って紹介することとして、今日は前回の続きの二日目のことを書くと、リューゼンの基調報告に続いてあった午前中のセッションに関しては、The Narrativist Tradition Reassessed 2 とされた会に出ました。理由はこれも紹介したことのあるホワイトについての注目してよい本を書いたヘルマン・ポウルがコメンテイターで予定されていたため。ところが会場に着くと、議長が間違いなくどこかで見たことのある人物。誰だったのかと考えていたら、随分と昔チチェスターでアンカースミットを呼んで行われたポストモダニズムについての会合にいた人物で、その後ジェンキンズがロンドンのパブ(かなり前衛的な感じのところでした)で話をした時、会場まで自動車で送ってくれた人物であることを思い出しました。当時は院生、現在はジェンキンズの後を受け継いでチチェスターの教師になったようで、マーク・メイソンという人物です。
 このセッションでの発表はキャンセルが一人出て3人。最初がUlrich Timmer Kragh(オランダ)、韓国に二年いたことのある人物で、その間日本にも来たことがあるようです。そうした人物がもつ資質(ある種のインテリジェンス)だと思いますが、本当にクリアな英語を話せる。論旨もきわめて明快。史料批判をめぐるドロイゼンとベルンハイムの間の論争などを紹介しながら、歴史は結局はテキストを通して表わされているのだから、原理的なテキスト批判にとどまるよりも、テキストをartefact として捉え、具体的なテキストの形態を論じるべきだと主張しました。sub-text, epi-text, hyper-textというのがそこから彼が論じた三つの区分。サブテクストというのはテクスト以前的なもの、empiricalな過去の実在(彼は歴史という言葉を使ったとメモにはあります)、となります。epi-textはそれを書いた作者に帰属するもの、hyper-text はover, beyond なものでアブストラクトに論じられるものです。たぶんこの議論の意図は、歴史のテキスト論を、史料を媒体として記されるもの、歴史家が書くもの、テキストについて論じるものというように分ければ議論は整理された行くのではという主張で、そうしたものが議論の総合化の前提だという主張です。したがってその結論は史料批判、フィロロジー、文芸理論の統合というものです。
 次の発表者はJianzhang Zhou(中国)。この人もどこかで会ったことがあるはずと思ったら、たぶん上海のICHTHの時に話をした人物だということに気づきました。アモイ大学の人で、ヘイドン・ホワイトの著作を中国語に訳した人物ではなかったかと思います(正確にはネットで確認すべきですが)。関心はanalytical philosophy of history とnarrative, analytical discourse とrhetorical discourse lの関係ということにあるようで、歴史はナラティヴだけど、同時に科学的要素をf組むことによって特徴をもつナラティヴとなっているというのがその問題意識のようです。それなりにまとまった議論をしようとする意識は感じさせますが、日本の社会科学、人文科学で繰り返されている解説文的な議論にある特徴を自戒を含めて感じました。
 最後はChristophe Bouton (フランス)。ヘーゲルやマルクスの歴史哲学への批判がどのように行われたのか、とか、このブログのタイトルと同じに、さまざまな形の歴史があるということをhistories 遠いう言葉を用いて強調したというメモは残っていますが、内容はあまりよく思い出せません。フランス人らしく、結構基本的な単語をフランス語風で発音することがあって、その基準や使い分けはどうなっているのかという変なことに興味を持って聞いているうちに話が終わったという印象があります。ハーマン・ポールのコメントはアジア的な視点の欠如とか、新しいことと古いことの区分を強調しすぎているのではというやや図式的なものでしたが、切れを感じさせる人物でした。この会が終わって食事の際に通りかかったので隣席を勧めていくつか話をし、名詞を交換したら、早速今日メールがありました。行動的な人物のようです。彼のホワイト論はすでに中国で翻訳が予定されているとのことでした。
by pastandhistories | 2013-07-14 07:11 | Trackback | Comments(0)

INTH③

 今午前4時少し前といったところですが、INTHは 今日が四日目。まだ少し日程を残していますが、昨日ガブりエル・スピーゲルの総括的な講演があり、また(お別れ)ディナーが遅くまであったので事実上は終了した感じです。
 とにかく200人を超える参加者のほとんどが一度はペーパーを読む会なので盛りだくさん、50枚のレポート用紙に書いていた各セッションのメモが書ききれず、裏に入ってしまいました。これだけいろいろ話があると、報告者の顔も思い出せないところもありますが、内容を忘れないうちに書いていきます。
 二日目の最初はリューゼンの講演。ホワイトが参加しなかったので(イスラエルで別の会に出ているとメールがありました)おそらくは参加者のなかで最年長。前日もそうでしたが(というより彼の話を聞く機会はこれまでも何度かありましたが、基本的にはそうした内容を繰り返していて)、古い世代に自分を位置づけて、そこから新しい流れにある問題点を批判するというものです。一言で言えば、非常にヒューマニスティックは、かつエシカルな人で、おそらくは多くの人がそのことは認めるでしょう。(西洋的な)ヒューマニズムがモダニティによって構築されたものであり、それゆえ批判される要素を多く含んでいることを認めながら、なおかつモダニティのプロジェクトの意味を今後も決して失ってはいけないという議論です。今回もまたポストモダニズムやオリエンタリズムを例にとりながら、そうした議論がむしろ批判の対象として設定されるもの(近代)を新しく他者化するものであるとして、そうした対立軸の設定への疑問を繰り返しました(赤子をタライと一緒に流してしまうものだという議論です)。論理的にはこの議論は間違ってはいない部分もありますが、そこだけに議論を集中してしまうと、せっかく提起されている問題までもが元に戻されてしまうという部分があるはずですが、その問題はここではスペースがないので、別の機会に書いていきます。
 二日目のことをここまで書いたところて昨日少し書いたように、初日の午前の内容についてabstract を踏まえて少し書き足します。まずGreciaの報告で基本的な枠組みとなっていたことは、narrative discourse はa contingent cultural product であることです。こうした偶然的(ローティの議論です)なnarrative discourse に対しては、Ironic acceptance とromanntic rejection という二通りの対応があり、そうしたことを論したのがホワイトとアンカースミットであったというのが彼女の基本的な主張です。van derr Akker の報告はreassessing Louis Mink's Philospphy of History というもので、タイトルどおりホワイトが歴史とフィクションの区別を曖昧にしたのに対して、彼はnarrativist truth ( ナラティヴの真実性)とindeterminateness past を論じたのであって、そうした考え方はアンカースミットやドナルド・ダヴィッドソンに受け継がれていることを論じようとしたものです。
 こう書いても上にあげた人々についてはもう顔を思い出せないのですが、議論の二極的な対比の間のtoggling( スイッチをつけたり、消したりすること・・・この議論は授業でよく学生に説明します。たとえば藤岡信勝(?)のような人は、左翼であった学生時代には、スイッチをオンにして南京虐殺事件の実在を支持し、転向してからはスイッチをオフにしてその実在を否定している。そのことは多くの日本の「国民」にとっても同じであって、結局の過去の事件の実在性は、認識する側のtogglingによって左右されている。それはは今この授業を聞いている学生の一人ひとりにとっても同じことだというようにです)を論じたハンス・ケルナーとはディナーで同席しました。セッションでもそうしたところを垣間見せましたが、茶目っ気いっぱいので、ユーモアに満ちた人。そうした人がこうした主張をすることに歴史認識に伴なう最大のアイロニーがあるのだと思います。
by pastandhistories | 2013-07-13 11:22 | Trackback | Comments(0)

INTH②

 今日も夜中に起きたけど、そのまま寝直したら5時過ぎまで眠れました。INTHは昨日が二日目。面白いことは面白いけど、だいぶ疲れが出て、途中寝てしまったりして、あまり頭に入らないところもあります。しかし、帰国してからではもっと忘れてしまうでしょうから、報告書用のメモとして、記事を書いていきます。
 まず昨日残した初日のイーサン・クラインバーグの講演について。これはよかったですね。クラインバーグは話す機会があったので聞いたら、まだ40歳代(のはじめ)。特筆されることはその若さでHistory and Theoryの編集者であること。キアヌ・リーブスを知的にした感じといったら言い過ぎかもしれないけど、それほど外れていない感じです。長身で颯爽としていて、話も本当に明快。その地位からしても、国際的に歴史理論の世界を将来的に担っていく人物でしょう。来年本が出るようです。
 したがって内容はおそらくそうした本や公表される論文などをとおして発表されるでしょうから(というよりもすでに発表されたものを要約したという部分が報告にはあったようです)ここであまり不正確なことを書いてはと思いますが、発表はカフカの『城』からはじまって、最後はディケンズの『クリスマスキャロル』で結んでいくというかたちで、存在していたことが確認できないものの存在がそうした作品ではどのような形で扱われているのかということを軸に、歴史家は存在が自明ではない部分のある過去をどのように扱えるのかという話を展開していきました。編集者らしく、マンズロウ、ホワイト、ミンク、コセレレック、アーマース、ゴードン、デリダの論点を的確に指摘しながら議論をしていきましたが、自分の考えとずいぶん共通したところがあって、その意味でも楽しく聞けました。
 その一つは、歴史(過去の表象)におけるフォームの役割をを強調したこと、とくに文字的なフォームにのみ限定されることへの批判・疑問を明確に指摘したことです。彼はこれをアナログ・シーリングと呼んでいるようですが、デジタル化が進行する時代においては不適切な要素が多くあることを強調しました。彼は今回の会の組織者の一人でもあるようですが、自らが印刷媒体の雑誌の編集者という地位に立ちながら、彼は歴史をめぐる今後の議論や実際的な研究がいつまでもそうしたものを基軸としてはいけないという問題意識を鮮明に表明しました。
 もう一つ自分と共通するものを感じたのは、これもフォームの問題とかかわりますが、歴史は近代以降(そうしたニュアンスとして自分は聞きました)宗教にとって代わって大きな役割をするようになったという議論が彼の報告から聞き取られたことです。そこから逆に宗教にあった神の目、「全体」への見方が近代以降の歴史には伴っていること、そうした問題が宗教と近代以降の歴史との間にある過去や未来に対する捉え方の差異と共通性になっているという議論を展開したことです(と自分は理解しました)。
 さらに過去の多様性とそこから生じる歴史の不確定性、当然それは過去を歴史として表象していく現在を多様なものと認識することによっても生じる問題ですが、そうした問題をmultiple temporalities, no synchronisity という言葉で表現していました。そのあたりも共感させられるところがあり、この報告を聞けただけでも、参加して意味を感じさせるところがありました。もっとも彼の講演に対してはリューゼンが最後に猛烈に噛み付いて、混乱のうちに会は終了、やや後味は悪かったけど、これは現在の歴史研究における論点の違い(これはこの日だけではなく、会議全体でも繰り返されています)を象徴するものだったのでしょう。
by pastandhistories | 2013-07-12 13:42 | Trackback | Comments(0)

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