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歴史の個人化、記憶の共同化⑧

 「歴史の個人化、記憶の共同化」というテーマでメモ的にことを書いてきました。一気に書いて11月いっぱいで終えるつもりだったのですが、いくつか新しい本が入ってそれを眺め始めたら、そちらに関心が移って、記事が止まってしまいました。その1冊が、期待していた Ethan Kleinberg がポストコロニアル的な立場に立つ Ranjan Ghosh と編集した Presence: Philosophy, History and Cultural Theory for the 21st Century という本です。序章と最初の章をクラインバーグが書いているようです。タイトル通り、presence という立場から書かれた本。おそらくは経験的な世界は現在であって、意味や解釈を過去に与えるものとして歴史は構築されてきたものであるとして、それに拘束されることへの疑問を提示した内容なのではと思います。献本されてくる本を含めて新しく入手する本が多すぎて「つんどく」状態。いつ読めるかはわかりませんが、面白そうです。
 「歴史の個人化、記憶の共同化」というテーマに話を戻すと、グローバリゼーションの進行によってナショナルヒストリーの紐帯が緩みつつあることは否定できません。その延長には歴史論としては当然、包括的なグローバルヒストリーへの収斂化と、すでに指摘したような、地域など個別的なものへの拡散が生じることになります。しかし、前者の問題に関しては、「輸入」の代行をしても、現在の日本では多くの歴史研究者はそうしたグランドセオリーは論じませんから、流れとしてはどうしても個別実証が有力になります。
 しかし、問題はそうした個別実証が、ある種の全体的な「構造」を所与のものとしているという傾向があることです。全体的な構造を前提としない個別実証への細分化は、学問的世界では批判の対象となるからです。構造と個別の関係は、アカデミックな場での共同の了解において成り立っています。
 おそらくは歴史の個人化という流れが生じたのは、そのようなかたちで個別を全体的な構造との関係に位置させるのではなく、より自由な主体として捉えていくべきだという問題関心が世界的にも生じたからでしょう。 Presence という問題の立て方と関係するかは性急には論じられませんが、確実な個人の経験知から歴史を論じられていくべきだという考えです。そこからメモリースタディーズに歴史を関連付けるという問題関心も生じているのだと思います。
 記憶は、基本的には個人の直接的経験であっても、同時に集合的なものともなりえます。すでに触れたような記憶の媒体となっている言語の共同性によっても、常に他者に対して「外化」されていくという側面によっても、記憶は集合化されています。外化された記憶は、それを受容した他者との間主観的な認識として、共同化され、そうした共同性が個人の社会的アイデンティティを構成しています。
 歴史の脱構築論が問題としたことは、このようなかたちの確実な経験的知識が自らのアイデンティティの十分な根拠を提供できるものなら、なぜ歴史という膨大な時間や空間を対象とした、対象が膨大であるがゆえに本来はその多くが想像を根拠として構築されたものであるはずのものが、「事実」として「特定」の言説空間に「メタナラティヴ」として存在し、人々を拘束してきたのかという問題なのでしょう。
 メモリースタディーズと並んでメディアスタディーズが歴史に関連付けられることが多くなっているのも、おそらくは構築された共同性の媒体となっているものは何なのかという問題関心からなのだと思います。 (to be continued ・・・・もう一回でやめます)
by pastandhistories | 2013-11-29 14:32 | Trackback | Comments(0)

歴史の個人化、記憶の共同化⑦

 歴史の共同性ということに関して、ナショナルヒストリーとグローバルヒストリーの関係について重要なのは、カーが「あらゆる歴史は現在の歴史である」という言葉を引用して論じた現在主義的な視点、いわゆるpresentist view です。カーにしたがえば「歴史は現在と過去の絶えざる対話」であるという主張、歴史を考える際に重要なのは、現在が過去をどのようなものとして認識しているのか、だという議論です。
 カーの優れたところはこうしたpresentist view を、過去・現在・未来ということを軸として、つまり時間的経過の中でとらえたことです。ここからあくまでも現在は過渡的なものとされ、現在の中にある未来の萌芽から現在を批判的に認識し、過去を捉えていくべきだとカーは主張しました。この議論は、ナショナリティを過渡的なものとしてとらえ、より普遍的な未完のモダニティの可能性から現在を批判的にとらえていくことを可能としたという点で多くの人の共感を集めることになりました。ナショナルヒストリーの偏狭性を批判し、グローバリティを媒体としてそれを批判することへの論拠としても、カーの議論は役に立つ部分があります。
 しかし、カーの議論の問題は、彼の論じる「現在」とか、「未来」とはいったいどのようなものか、という点にあります。問題は「現在」とか「未来」とは、いったいどんな「現在」であり「未来」なのかということです。この点でカーの議論から印象付けられることは、彼がいわゆる啓蒙のプロジェクトの延長(理性の拡大)に、現在、そして未来を措定していることです。
 それ自体としては極めて理知的な議論なのですが、この議論の問題は現在に対して過去を、そして現在自身を、きわめてハイアラキカルな枠組みでとらえていることです。「現在」にある多様性を無視しているわけではありませんが、しかしそうした多様性はやがてより合理化された包括的なものへと収斂されていくであろうと考えがカーの議論からは読み取れます。いわゆる収斂論的(convergence theory)な議論です。 
 これに対して現在の多様性はレシプロカルな相互関係の中で、むしろ拡大・拡散していくという議論が拡散論(divergence theory)です。おそらく実証的なグローバルヒストリーでは個別的な地域をグローバリティとのレシプロカルな関係の中で特有の性格を持つものであった、というような議論がむしろ主流を占めるでしょうから、その意味ではグローバルヒストリーを歴史の共同化という点からのみ論じることには批判が出そうです。しかし、歴史のグローバル化という議論は、未来の共同性を媒体として現在の共同性を特殊なものとしてとらえる議論であると論じることは、それほどおかしな議論ではないような気がします。
by pastandhistories | 2013-11-26 00:37 | Trackback | Comments(0)

歴史の個人化、記憶の共同化⑥

 今朝は書き終えた記事をまた入力ミスで消してしまいました。テーマはグローバリゼーションが進行する時代になぜ、歴史の「個人化」とか、「記憶」の共同化が論じられるようになったのかについてです。
 ここで何度か書いてきましたが、グローバルヒストリーというものは、ナショナルヒストリーがナショナライゼーションに伴うものであったのと同じように、グローバリゼーションに伴って形成された歴史論です。国民国家の形成に伴って構築されたナショナルヒストリーがその始原を、近世のみならず中世、さらには古代に求めたのと同様に、グローバルヒストリーもその始原を早い時期に求める傾向があります。と同時にグローバルヒストリーは、直近の時代、つまり国民国家が構築されていた時代においても、国家的な紐帯を弱いものであったとみなす傾向があります。グローバリゼーションの進行が、従来のナショナルヒストリーがそれまで依拠していたものへの批判を生じさせたのは、ある意味では当然のことです。
 そうした議論の代表的なものが、国家に対して地域を対置するという議論です。「地域からの世界史」といったような議論です。このようにグロ-バリゼーションとローカリティへの関心の結合は、「グローカル」「グローカリティ」という造語に端的に示されているといってよいでしょう。
 このようなデュアリスティックな議論の立て方は、くわえて中央と地方、中心と周縁、上からと下からというようなかたちでも議論されてきましたが、その中に含意されてきたことは、ナショナルヒストリーへの(そして西洋中心主義への)批判でした。ここで重要なことは、中央といったような前者が一元的なものとして理解されるのに対して、後者の側は多様な、多元的なものとして捉えられていることです。
 社会史という議論が日本で1970年代以降大きな広がりを見せたのは、上述のような枠組みにおいてでした。ここから先の議論は難しいのですが、問題はそうした社会史が構造や全体の再構築を目指すものであったのかということです。自分の見解は日本における社会史は、構造や全体を所与のものとしたうえでの地域的な実証の深化にむかった、そのことが言語論的転回やカルチュラルスタディーズ、そしてこれから触れていくようなメモリースタディーズやメディアスタディーズの看過を生じさせたというものです。
 そのことはともかくとして、グローバリゼーションの進行は、現実の問題(現在の日本でも進行しているような国家の全体性の一面での強化)と裏腹に、少なくとも歴史認識においては、脱国家的な流れを生み出してきました。
 (まとまりませんが、また消してしまってもいけないので、to be continued としておきます)
by pastandhistories | 2013-11-24 22:41 | Trackback | Comments(0)

歴史の個人化、記憶の共同化⑤

 近代国民国家の一つの大きな特徴は、「国民への統合」がきわめて強固になったことです。その阻害要因となったものは、地域社会において人々を共同化させていたものです。「文化」という言葉をそうしたものとして規定することには、異論も多くあるとは思いますが、あえて言えば「文化」という言葉を適用してもよいものです。
 地域社会固有の言語はその代表です。あるいは風俗、習慣などです。さらには、地域に固有のかたちにあった、とりわけ文字の無い社会においては口述や象徴・儀式・祭礼などで伝えられたいた過去認識、保苅実さんの言葉を借りるなら人々の「歴史実践」などです。そのすべてが近代国民国家の形成に伴って排除されていったと論ずるのはやや極端で、一部そうしたものを利用しながら近代国民国家は形成されたと考える方が妥当でしょうが、便益性や非近代性を根拠としてそうしたものは近代国家の枠組みからは排除されました。
 「歴史実践」もまた排除の対象となりました。「事実性」や「科学性」、そして「非近代性」が、その根拠とされました。人々がそうしたかたちで実践していた過去の知のあり方は、歴史学からは排除され、民俗学や人類学の対象という地位に押しやられていきました。この過程で重要なことは、こうしたかたちで形成された歴史(歴史学・歴史意識)は、「事実性」や「科学性」、そして「近代性」に準拠していることを根拠として、それ以外のものを捨象する西洋中心的なもの、いわゆる近代主義的な傾向をもつものでもあったということでしょう。
 しかし、こうしたモダニティへの一体化は、あくまでもナショナリティへの統合に付随して生じたものでした。「近代の超克」論のような議論が、ナショナリティを根拠として行われたのはそのためですし、また日本語を媒体として「日本人」をオーディアンスとして構築されつづけてきた歴史が、「国史」はもとより、外国史研究もまた比較史的視点を根拠としながらナショナルな要素を深く内在させていたのはそのためでしょう。第三世界への期待が高まっていた戦後のある時期に、アジアやアフリカから世界史をとらえようとする試みが生じたのも、基本的にはある種のナショナリティに支えられていたと考えることができます。
 そうしたことはともかくとして、このようなナショナリティへの準拠は、戦後の歴史学のもう一つの柱であった科学性とは矛盾します。歴史が科学であるなら、国民によって異なることはありえないからです。1+1=2 は万国不変の原理だからです。こうした問題を突き付けられたのが、戦争責任の放棄・忘却が「ナショナリスト」によって持ち出された「歴史認識論争」においてです。ナショナリストの回顧的な主張を批判した高橋哲哉さんなどの議論は、啓蒙主義の延長に位置するモダニティに依拠するものとしてはまったく正しいものでしたが、残念がら戦後期とはおおきく変質した「日本人」をオーディアンスとするという場においては、必ずしも有効なものとはなりませんでした。
 こうしたながで生じていた大きな問題が、グローバリゼーションの進行です。これは歴史研究者にとっては一つの救いとなりました。なぜなら、モダニティとナショナリティの結合という場とは異なる、モダニティとグローバリティの接合という場に自らを位置させる可能性が生じたからです。歴史のトランスナショナル化とかグローバル化、あるいはグローバルヒストリーという言葉が「合言葉」のようにもちいられているのは、あえて批判的に言えば、それは現在の「日本」の国家的方向性とも一致しているという意味でまさに「合言葉」だからです。しかし、これもまた批判的に言えば、それらはリオタールやボードリヤールなどが早くからすでに批判していた近代のメラナラティヴの延長に位置するものです。自分が歴史の個人化という問題に関心を抱いているのは、そうしたものへの批判としてです。(・・・to be continued)
by pastandhistories | 2013-11-23 11:52 | Trackback | Comments(1)

歴史の個人化、記憶の共同化④

 昨日書いたことを少し補足すると、文字的な歴史は歴史的には、「治者」、もしくは「治」のありかたについての知であって、その単位とするものは「治」が構想するところの共同性でした。したがってこうした知は、そうした共同の場における、統治グループへのcandidates にとっての必要な知とされ、また非文字的な象徴によって「治」の対象とされる人々によって共同化されるという面もありましたが、そのようなかたちで共同化された過去認識は、近代国民国家の形成以降に構築されたものとはかなり異なったものであったと考えてよいでしょう。
 近代以前の社会において、人々の過去についての共同の認識を構成していたものは、やはり家族、血縁集団、近縁・・・・地域的な共同体、といったはるかに小さなものであったと考えるべきでしょう。そうした知は、すでに指摘したように、口伝えによるオーラルなもの、さらには様々なもの(日常的なものや、特定の意図をもって作り出されたもの)をとおして、直接触知できるもの、visualなものとしても伝えられ、人々の間に過去についての知識、さらには共同の心象といってもよいようなものを作り出していました。あるいはそうしたものを共同記憶と呼んでいいのかもしれません。
 と同時に、過去の人々の間に集団的な過去意識を作り出していたものは、宗教的なものでした。多くの宗教は、過去だけではなく、未来をも含みこむ時間観念に基いていました。個人の生前・死後にある時間という意識です。そうした時間は自分以外の他者によって構成される以上、こうした考えは当然のことながら、自己を連続的な時間のなかで他者との関連で位置づけるという共同性の根拠となります。もちろんその共同性の軸におかれたものは、宗教の場合は神です。したがって「神についての物語」、神話が過去認識のもっとも大きな基本を構成することになります。ここで注意しなければいけないことは、現在の世界ではキリスト教やイスラーム教、仏教といったメガ宗教の影響が大きく、また現在の歴史教育や歴史研究で、とりわけヨーロッパ史中心的な歴史観ではそうしたメガ宗教の歴史上の役割の強調されていますが、本来人々の間にあった宗教的な意識は、国家、民族、言語といったもの以上に多元的なものであって、その意味では神話的な過去認識も、文化人類学的な研究が示唆しているように、おそらくはきわめて多様なものであったということです。
 しかし重要なことは、近代以降の世俗国家が、こうした神話的な過去認識に対して相補的なものとして、一方では対抗的なものとして、他方ではある種の親和性をもつものとして形成されたことです。事実性を根拠として神話的なものを批判しながら、他方ではそれぞれの統治空間にあった歴史的なものを根拠としながら「共同性」を「国民」の間に構築していく、そうした近代国民国家のあり方が、歴史を共同化し、そうした歴史のあり方を大きく規定していくものとなったわけです。(・・・to be continued)
by pastandhistories | 2013-11-22 10:20 | Trackback | Comments(0)

歴史の個人化、記憶の共同化③

 歴史の共同化は、ナショナリティとモダニティによって作り出された近代国民国家形成以降の特殊な現象であるという議論はかなり唐突な印象を与えます。確かに議論としては極端ですが、しかし、このことは現在受け入れられている「日本史」とか「世界史」のことを考えると、それ程奇妙な考えではありません。江戸時代以前に現在受け入れられているような「日本史」や「世界史」を「日本人」なるものが受け入れていたわけではありませんし、さらには近代以降の歴史「学」を媒体とするとされる「過去の事実」を、人々が共同のものとして受け入れていたわけでもありません。
 話を戻すと、現在共同化されているこうした歴史は、ヘロドトスやトゥキディデスをその祖であると自己主張しているように、文字を媒体に散文化されたものを、依拠する史料としても、表象の形態としても、そのもっとも基本的な要素としてきました。それは文字的なものが言語を媒体とした統治技術(国民や民族という共同性の形成)にとって重要なものであると同時に、文字が歴史的には支配層によって寡占されてきたという点で、伝統的な支配・被支配の継続にとって有用性を持っていたからです。近代以降の歴史が、一方では学校教育、さらには大衆文化を媒体とするパブリシティの拡大を目指すものであると同時に、他方では「文字を媒体とした知」を特権的に占有する専門的な集団・知的社会層によるものであったのは、おそらくはそのためでしょう。
 しかし、ここで忘れられてはならないことは、文字は歴史的には少数の知的な支配層が寡占するものであったということです。したがって文字を媒体とした共同性(読者空間)は限定的なものであったということです。寡占していた層の社会的影響力を考えると、その影響力のポテンシャリティは過小評価しすぎるべきではありませんが、また過剰に評価しすぎてもいけないでしょう。逆に、歴史的には普通の人々の共同性を支えていたものは、圧倒的にオーラルなもの、そしてマテリアルなものであったはずです。そうしたオーラルなもの、マテリアルなものを媒体として、人々は過去についての共同化された認識を保持していました。そしてその共同性の単位は、基本的には小さな家族・血縁集団・近隣・・・・・といったものでした。かつ現在の歴史がその根拠とするものとは、大きく異なるものでした。(・・・to be continued) 
by pastandhistories | 2013-11-21 11:02 | Trackback | Comments(0)

歴史の個人化、記憶の共同化②

 タイトルのテーマについてメモ的に書きはじたら、パソコンの操作ミスで随分と以前の記事が間に入ってしまいました。修正のし方がわからないので、そのままにしてありますが、その一つの前の記事の続きです。今度は歴史の共同性について。
 個人的だと思われがちな記憶に対して、逆に歴史は共同的であると思われがちです。しかし、この理解は近代以降の「特殊」な歴史のあり方を「一般化」しているためです。たとえば、しばしば「歴史」の祖はヘロドトスであるとかトゥキディデスであるとされていますが、彼らの記したものは分類するなら見聞録とか目撃談に属すもの。その後残された著作の扱われ方や意味は大きく変化していきますが、記された時点では本来的にはきわめて個人的なものであったと言えます。そもそも散文的なものは、識字能力の低い時代にあっては、識字集団は限られたいたわけですから、それを共有していた集合体もかなり限定的なものであったはずです。
 これに対して韻文や、定型的な文体は、記憶を口述を通して伝承していくためのものであって、おそらくはこちらの方がより広い人々によって空間的にも時間的にも共同化されていたと考えることができます。つまり古くは、現在の歴史学によって「歴史」とされているものよりも、現代の歴史学からは「神話」とされているものの方が過去認識(?)としてはははるかに共同化されていたということです。
 なぜこうした事実が忘れ去られて、いつの間にか歴史が共同的なものと考えられるようになったのかというとおそらくその理由は、とりわけ近代歴史学の形成以降、歴史の共同性が常識化される枠組みが生じたからです。その代表的なものが、国民国家を単位とした歴史、あるいは学問的枠組みに支えられた歴史、ということになります。そのことを基準として歴史を考えるから、どうしても歴史が「本来的」に共同的なものであったと錯覚してしまう。逆に国民国家や近代的な学問的枠組みを前提としない歴史という問題を考えると、歴史は必ずしも共同的なものではなかったという考えが浮かび上がることになります。つまり歴史がとりわけ集団化されたのは近代以降の「固有」な現象であって、それはとくに「国家」と「モダニティ」を媒体として進んだということです。・・・・・・
(これだけではあまり説得的ではなさそうですが、当然この議論はto be continued となります)
by pastandhistories | 2013-11-19 00:01 | Trackback | Comments(0)

本質的なこと、現実的なこと

 昨日は年賀状書き、今日の午前中はメールの整理をしました。なかでも主要な作業は今後のプロジェクトで招聘する研究者への連絡、航空切符などの最終的確認です。もし何かの都合で穴が開くようになると大変なわけで、招聘はそのことに一番気を遣います。
 招聘を予定している Stefan Berger は、論理的に非常に構成力のある人物だというのが自分の印象です。彼には本質的な問題と、現実的な問題を、バランスをとって議論するところがあります。たとえばメインテーマの一つであるnationalizationの問題。もちろんこの問題に対する彼の考えは本質論的には批判的なものですが、しかしそれを一面的に批判しているわけでもありません。その根拠として彼はたとえば、ヨーロッパにおいて近代国民国家が分立的に形成される以前は、ヨーロッパという包括的なアイデンティティがあったわけで、それはむしろ一体的なものとしてそのほかの地域に対する支配や進出を生み出す根拠ともなったのではないかと論じています。この議論は、おそらくは現在のヨーロッパ統合という流れが、かつてと類似した他の地域に対する区別化や抑圧性を再び生み出すものとなっていること(最近ではギリシア問題にみられるように、ヨーロッパ内部(?)の周縁的な地域にも向けられていますが)への批判意識に基づいているのでしょう。
 グローバル化とかトランスナショナル化という議論を立てることは(あるいはそれを批判することも)、議論としてはそれほど難しいことではありません(というよりある意味ではきわめて安易な議論にすぎません)。歴史的に形成され、現実的に存在しているnational space の形成のされ方やあり方にこだわることが重要だという意識が彼にはあるような気がします。重要な問題意識だと思います。
by pastandhistories | 2013-11-18 12:15 | Trackback | Comments(0)

歴史の個人化、記憶の共同化①

12時も大幅に過ぎ、明日ではなく今日は3コマ、早く寝た方がいいけど、土曜日の会で言い残したことがどうしても気になるので、このブログを利用して、タイトルのテーマについて、試論的なことを書いてみます。全体を作成してからアップという方がよいでしょうが、すでに枠組みはできているし、あくまでもメモ的なものなので、気に入らなければ消せばいい。むしろ書きながら、考えを整理した方がいいのではということで、書き始めてみます。
 まず基本的なことから。タイトルは「歴史の個人化」が先ですが、記憶の問題から書きます。そのあたりも説明が不十分でしたが、記憶は基本的には身体的記憶と精神的記憶というように分けることもできます。前者は神経回路や脳細胞による作用。19世紀以降はしばしば心理学などをとおして物理的(医学・生物学などを含む)な分析の対象ともされています。後者ももちろん厳密には神経回路や脳細胞の働きによるものですが、同時に社会学や哲学といった人文学的なアプローチの対象にされています(こうした分類をした場合、精神分析学や心理学を人文学に含むかという問題が生じますが)。
 身体の問題は最近では歴史研究の重要なテーマでもあって、そのことを無視すべきではありませんが、基本的には歴史学に関連づけやすいのは後者です。というのは精神的な記憶は記憶の社会性という問題と関連づけやすいからです。会でも話しましたが、精神的記憶においてはある段階からは言語が重要な役割を果たしています。このことは個人的記憶の想起という例をとるともっともよくわかります。記憶の想起は、自己に対して語るときでも、他者に対して語るときでも、言語を基軸とします。だからといって、こうした精神的記憶が言語の習得以前には存在しないのかというと、これは身体的記憶との関係からも難しい問題です。そのことを留保して議論を進めると、精神的記憶は社会的な枠組みが重要な役割を果たします。
 まずは繰り返しますが、言語による想起という問題。言語は他者との共有において初めて機能するものですから、言語を用いること自体が自己の孤絶性へのアンティテーゼ。言語的な想起というのはきわめて社会的な行為です。つまり言語をもちいて想起されることは、たとえモノローグであっても、本来的には社会化されている記憶です。
 それでは社会化された記憶はどのようなかたちで形成されていくかといえば、それは幼児期から取りまく準拠集団によって作られていく、まずは親子、家族、近隣、・・・・ということになります。考えてみれば当たり前のことですが、常識的には個人的なものであるとされがちな記憶のこうした社会性・共同性を指摘したのが社会学者であるアルブバクスの集合記憶論。しばしばこの議論は1925年に形成されたけれど、1970年代~80年代に至るまでは、歴史学との関連においてはそれほど注目されなかったと議論されています。同時に最近では共同記憶論の始まりをアルブバクスに一面化すべきではないとし、ベルグソンやデュルケムなどとの関係を強調する指摘もあります(The Collective Memory Reader,2013,のintroduction).
ここまでで確認しておきたいことは、以上のように記憶の共同性というのは、ある意味では自明の議論であるということ。記憶は、それを所有している人間が死ねば喪失されるという点で自己完結的・個人的なものであっても、その内容自体は基本的には社会的に規定されているという面が少なくないことです。
 一方記憶に対しては共同性・集団的が強調されがちな歴史において、なぜその個人化ということが議論されるようになったのかというと、その一つの理由は、歴史が現在のようなかたちで集団化されたのは、「歴史的には」極めて特異なことであったからです。・・・・・(to be continued)
by pastandhistories | 2013-11-18 01:19 | Trackback | Comments(0)

敗戦投手の弁

 ここでは具体的にそのことには触れてこなかったと思いますが、昨日はある大学の学会の「例会」で「歴史の個人化、記憶の集団化」という話をしました。このブログを読んでくれている人には理解してもらえるように、自分がかなり最近テーマとしている事柄です。ボーフムの国際歴史叙述・歴史理論学会での話も、内容はかなり違っていますが、タイトルは同じものでした。
 しかし、ずっとメインテーマとしていたとしても、この話はかなりの蓄積と準備がなければ難しい。加えてそれをこなすだけの力量も必要。自分にとっては人前で話すのは正直いって難しい。最初の滑り出しは良かったのですが、途中で即席の冗談を言ったらかえって緊張してしまって、レジュメの内容をかなりとばしてしまい、話がまとまらなくなってしまいました。昨日のことも含めて今年は何をやっても「調子が悪い」感じです。もっとも「調子が悪い」というのは、「実力のない」スポーツ選手の常套句。要は実力不足ということなのでしょう。それでも言い訳をすると、やはり昨年から今年にかけての本作りやプロジェクトの準備とその整理で、「実力」を向上させる時間がなかった。このブログを見ても、その間は海外の学会の紹介やプロジェクトと出版の準備が中心になって、なかなか他のことが書けなかったところがあります。
 「敗戦投手」の言い訳となりますが、今度は頑張ろうと思います。幸いにして時間はあって、次のローテーションは12月27日。こんな日に研究会をしても人はほとんど集まらないでしょうが、新しい本が少しづつ入手できているので、その紹介を中心に報告しようと思います。その一つが、ナンシー・パートナーとサラ・フットが編集した The Sage Handbook of Historical Theory, Sage, 2013 という本。2段組みで何と507頁。大変な分量ですが、全体としては、1. Foundations: Theoretical Frameworks for Knowledge of the Past, 2. Applications: Theory Intensive Areas of History, 3. Coda. Post-Postmodernism: Directions and Interpretations という3章に分かれていて、さらに最初の1章が、Modernity and History: Professional Discipline といういう部分と、Postmodernism and Linguistic Turn という部分から構成されています。こうしたタイトルを眺めた限りでは自分の現在の関心にかなり一致した部分があり、また執筆者もよくあるように網羅的ではなく、明確な意図にしたがって、選ばれている感じです。実は昨日の朝、会に出かける前に最初のナンシー・パートナーの文章を読みましたが、かなり期待してよさそうな本です。12月の会ではこの本を含めて最近の本を具体的に紹介できればと思います。
 昨日の会で驚いたのは、このブログを読んでいて参加してくれたという人が何人かいたこと。プロジェクトとして自分が企画したものは参加者が少ないと発言者にも失礼なので、こうしたメディアととおして宣伝しています。対して自分の話すものは、あまり「人には知られたくない」。ということで、昨日の会もここでは具体的に書きませんでしたが、自分にプレッシャーをかけることも必要。「敗戦投手」の弁としては、「今度は頑張るので、ぜひ聞きに来てください」と、今日はここで書いておきます。、
by pastandhistories | 2013-11-17 07:59 | Trackback | Comments(0)

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