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アメリカに歴史はない?

 7月27日の会の各機関へのポスター発送を昨日はしました。ということで手伝いの学生と一緒に食事。そのため予定していた記事を書けなかったので、今日は時間のあるうちに。
 アメリカ史の話ということですが、この間かなり継続的に正月に開かれるアメリカ史学会に参加していました。今年は参加しませんでしたが、このブログもアメリカ史学会への参加がきっかけ。しかし、この話をすると、結構色々な人から「本来はイギリス史が専門であったはずなのに何故?」と聞かれることがあります。「アメリカは歴史研究がさかんで、テーマも面白いから」と答えると、ますます不思議な顔をされることもあります。
 以前書いたことがありますが、アメリカの歴史研究だけでなく、カナダやオーストラリアの歴史研究も面白い。自分がこの10年くらいで一番ショックを受けたのは、モーリス・テッサ・スズキ(オーストラリア国立大学)の『過去は死なない』。いい意味での心地よいショックで、自分が書きたいと思っていたことが7~8割かた書かれていたからです。最近岩波から復刻されたようですが、当然のことです。
 多くの人が「アメリカの歴史」に違和感を感じるのは、15世紀の「発見」、17世紀の植民の本格化以前にはヨーロッパや日本とは違って「歴史はなかった」と考えるから。そうした考えはおかしいことに気づいても、生み出されるのはせいぜいそれ以前のネイティヴのことも取り上げるべきだという議論にとどまっています。前者は「アメリカ社会」そして「アメリカ国家」の歴史を考えの起点にするもの、後者は「アメリカ大陸」というような地理的空間を根拠とするものです。多くの日本人が15世紀以前にアメリカには歴史が無かったと考えてしまうのは、「社会」「国家」と地理的空間とを接合して過去について論じるのが歴史だと思っているからです。言うまでもなくこうした考えは、「政治的単位」と「地理的空間」が歴史的な一貫性をもつという神話によって、とりわけ日本においては強力なかたちで、構築された歴史観です。
 しかしこれは本当は奇妙な考えです。15世紀以前に遡る歴史がアメリカにはないとするなら、いま北アメリカに住んでいる3億人の人は、15世紀以前には祖先のいなかった人なのでしょうか。もちろんそんなことはありません。アメリカという政治的単位や地理的単位を基準としてではなく、アメリカ人(もちろん北アメリカの居住者全員がナショナリティを保有しているわけでなく、こうした言い方は不正確で、現在アメリカに住んでいる人と言った方がよいでしょうが)一人一人を単位とすれば、以前ファミリーヒストリーの意味についての紹介をした時に指摘したように、もちろん彼ら・彼女たちには15世紀にも祖先がいて、それは世界各地に散在していたことを想像できるはずです。「アメリカ人」の祖先の多くが、15世紀以降次第にアメリカ大陸に定住するようになった人々であるにしても、彼ら・彼女たちは突然地上に出現したわけではありません。共同的なものでなく、個を単位とすれば、過去は従来とはまったく別のものとして見ることができるはずです。
 このように「アメリカの歴史」という問題を考えると、近代以降に構築されてかなりの支配力を持っていた一つの歴史の見方に代わる可能性をもつ歴史の見方、ある種のコスモポリタンな歴史の見方(グローバルヒストリーというものがあるとすれば、それはおそらくはこうした方向に向かうはずです)を構想することができます。自分がアメリカ、そしてカナダやオーストラリアの歴史研究に面白さを感じるのはこのためです。
by pastandhistories | 2014-06-26 20:26 | Trackback | Comments(0)

「ヨーロッパ中心主義」再論

 昨日書いた(というよりあまり書かなかった)ヨーロッパ中心主義(批判)について議論を進めると、同僚であったイスラーム史の後藤明さんは、学生に「君たちの習っている歴史は世界の人口の10億人の歴史で、残りの70億人が無視されたいい加減な歴史だ」とよく言っていました。学生はきょとんとしてしまうのですが、昨日触れたことと関連させると、大事なのはこの10億人の歴史と、70億人の歴史という問題の立て方です。この数字の差は昨日触れたジェンダー間の数字の差(というよりこれば40億人と40億人のほぼ同数ですが)よりはるかに大きなものです。
 という批判には、最近の教科書は両者のバランスがとれるように配慮しているという反論が聞こえそうです。確かに、教科書には最近は「よく知られていないアフリカやアジアの王国や王朝」の名前が、随分と登場しています。入試にも最近は結構出題されても(多分出題者もよくは知らないことだけど、教科書には掲載されているからでしょう)いるようです。
 しかし、このことは昨日書いたジェンダーの問題とよく似た部分があります。つまり従来のメインナラティヴの構造をそのままのものとして、登場する王国や王朝の数のバランスをとっても、それはなぜ従来の歴史が国名などを中心としていたのかという、その根本への疑問を欠いているからです。それを無理に覚えなければいけない高校生にとってははなはだはた迷惑なものです。
 昨日も書きましたが、従来の歴史、ここではヨーロッパ中心主義となりますが、そうしたものと同じ構造のカウンターナラティヴをいくら作っても、そしてそうした作業にもとづく「共同教科書」を作っても、それは従来の歴史に対する根本的な批判を欠いたものでしかありません。本当に大事なことは、「10億人の歴史と、70億人の歴史」という問題の立て方です。そうした問題の立て方をすれば、歴史をこれまでとは異なったものとして組み立てることが出来ます。それはどういうことかということを、明日は「アメリカ史」を例にとって説明します。随分と話が飛躍する感じがしますが。
by pastandhistories | 2014-06-24 19:16 | Trackback | Comments(0)

ジェンダーとヨーロッパ中心主義

 昨日は関西で研究会。歴史研究の国際性とかジェンダー史の話を聞きました。ジェンダー史は最近出た本の内容を踏まえた報告。その内容がやはりヨーロッパ中心的なものとならざるを得なかったという話がありました。
 この本の内容と、報告と議論を聞いて少し思ったことがあります。事実の紹介を中心に本は随分と丁寧に作られていて、かなりの読者を獲得できそうな内容ですが、少し気になったのは男性中心であったこれまでの歴史、とりわけ教科書的な歴史へのカウンターナラティヴという側面があること。そのことは多くのジェンダー史にも共通しますが、執筆者がある時期まで(そして現在でも)歴史研究者の多数を占めていた男性に対して、ほとんどが女性研究者であることに反映されています。その意味で歴史を分業化し、少数派の視点?(という言い方は全然おかしいですね。なぜなら女性は過去も現在も人口の半分を構成していて、人種的・社会的少数者とは議論のなかでは本来的には区別されるべきものだからです。もちろん研究者としては少数派というなら、それは事実認識として誤っているわけではありません))から書かれています。
 本がヨーロッパ中心主義的であるという批判も、教科書などの主流を占めるメインナラティヴにとりわけ本の構成が結局は従っているのではということのようです(章構成がそもそも山川の詳説世界史に準拠しているようです)。自分はそのことに発言したわけではありませんが、自分が気になったことはそうした章構成ではなく、従来の歴史のメインナラティブ(政治の変化でも文化的変容、科学の発達など何でもいいのですが)を前提として(それらを中心的に担ったとされる男性に対して)初めてそうした場に登場した女性を取り上げるというアイディアがあることです。しかし、これは新聞やテレビを読んでいればわかりますが、きわめて日常的に繰り返されているメタナラティヴであり、その前提はこれまでの歴史理解にあるメインナラティヴです。その意味ではこうした語りはカウンターナラティヴではあるけど、同時にこれまでのナラティヴを補完する、「分業」的なものであるという側面があります。
 これに対して自分は会では唐突な発言をしました。それは「教科書が男性中心なのは、索引や山川の歴史用語集を見ればすぐにわかる。人名索引の9割以上は男だから。だとしたら人名索引の半分を女にした教科書を考えたらいいのではないか。女性からみた歴史をジェンダー史として対抗的に構築するのなら、男性を中心としたそれまでの歴史と合わせた「共同」教科書を作ることを考えてみれば」という提案です。
 こうした提案をした理由は、そうした「共同」教科書はおそらくは男性を中心としたメインナラティヴに対して「初めて」の女性の名前を列挙して、人名索引の数を合わせるものにはならないだろうということです。想像してみるとわかりますが、それはかえってバランスを欠いた奇妙なものになるからです。従来のメインナラティヴをそのままのものとして、登場する女性の数を同じにしても、なぜ従来の歴史が男性を中心としていたのかという、その根本への疑問を欠いたものになるからです。
 現在では男女平等が基本でも、「歴史」上は大きな役割を果たしてこなかった女性が人名索引の半分を占める歴史は「過去の事実」と乖離したバランスを欠いたものであるというような考え方は、そもそも過去の事実とか歴史についての想像力や理解を大きく欠いたものでしょう。人名索引の半分を女性にしようとすれば、それは当然のことながらgreat men(women)を中心とした歴史に対する根底的な批判が生じるはずです。なぜ今までの歴史は、人口の半分を占めた女性を取り入れる構造ではなかったのか、という批判です。たとえば偉人ではなく、パーソナルナラティヴを取り入れた歴史を構想すれば、男女をまったく平等のものとして扱うことは「歴史」においても可能ですし、そうした教科書をつくることも可能です。そこからは当然のことながら「人名」を暗記するのが歴史であるというアイディアも失われていくはずです。男性中心の歴史に対してカウンターナラティヴをさしあたって作っていくことは着実な努力として否定すべきではありませんが、ジェンダー史が生み出している議論の可能性はもっと大きなところにもあるはずです。
by pastandhistories | 2014-06-22 07:06 | Trackback | Comments(0)

プロジェクト後始末

喜安さんの本の公開セミナーについては、コメントを依頼していた二人の方から承諾してくれるとの返事をもらえました。ともに忙しい人たちですが、大いに内容を期待できる人たちです。書類提出などの最終的な詰めをして、明日・明後日にポスター作成に入ります。この件については何人かの方々が日程を早々とネットで告知してくれて感謝しています。
 ここ2週間ほどはこの会の設定とともに、プロジェクトの後始末として出版計画が生じたので、その準備作業をしていました。結局海外から8人ほどを招聘したので、そのそれぞれの報告やあるいは最近の(あるいは代表的な)論文を集めて、プロジェクトの基本的枠組みであった最近さらには今後の歴史研究・歴史叙述の方向性について、言語論的転回・歴史の表象形態の変化(映像などへの転回)・文化史・グローバルヒストリーとナショナルヒストリーといったような問題を軸にして、プロジェクトに協力してくれた、さらには参加してくれた日本人研究者の原稿も集めて本を出版するという計画です。
 その手始めとして、まずは海外の研究者にメールを送り、翻訳する報告や論文のリストアップを相談しました。多くの人が好意的な返答をくれていますが、版権などの問題もあるので、そのあたりをつめてから翻訳作業に入る予定です。
 もともとプロジェクトは上にあげたことが本来的なテーマだったわけですが、喜安さん、谷川さんを招いたセミナーが予想外の反響があり、そこからスピンオフした『歴史として、記憶として』の出版計画が生じ、それにかなりの時間を取られ、またホワイトやバークについても『思想』の特集としてスピンオフしてそれにもやや時間が取られ、プロジェクトとしてまとまったかたちで成果を整理していないので、それをまとめるのが今回の出版計画の意図です。
 執筆者間の調整、版権の問題、さらには翻訳者の確保、というようないろいろ大変な問題があり、実現にいたるかはわかりませんが、この夏に計画を進行させていきます。国内の研究者からも関連したテーマで30枚程度の原稿を寄せてもらうつもりです。関心のある方は連絡してください。
by pastandhistories | 2014-06-09 07:27 | Trackback | Comments(0)

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