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啓蒙と物理的強制

 自分が質問したのは、啓蒙と物理的強制の関係の問題。コンラートもその点を指摘したけど、近代ヨーロッパを起源とする啓蒙がグローバルに拡延するにあたっては、帝国主義といった問題のような物理的な強制と一定の関係があったことは事実。そのこともまた彼は指摘したけど、啓蒙の複相性の一つとして日本を主体とし、近隣アジアが啓蒙化されていったという過程にもまた物理的な強制が関連していたことも、否定できない事実でしょう。あるいは戦後民主主義にもそうした面があることも否定することはできません。
 しか、し同時に第二次世界大戦後の世界というのは、そうした物理的強制を推進した(古い意味での)帝国主義が表面的には明確に否定された時代です。そのことは民族解放闘争を媒体としたアジアアフリカの独立によって、1960年代後半までには明確なものとなりました。しかし、ここで忘れてはならないのは、そうした流れが冷戦構造と関連していたこと。非ヨーロッパの多くの社会でそうしたヨーロッパ中心的な世界体制への批判は、同時にたとえばヨーロッパにおいて啓蒙の延長として成立したマルクス主義の影響を受けていました。多くの反植民地主義運動・思想のなかにマルクス主義の影響は見られたし、日本における批判的な運動もまたそうした側面を強く持っていました。つまりアジア・アフリカ社会は、同調的な近代化を推進した支配層ばかりでなく、自立的・批判的な運動を含めて「啓蒙」の枠のなかにありました。
 こうした枠組みの有効性を失わせたのが、冷戦構造の崩壊です。皮肉なことに冷戦構造の崩壊は、マルクス主義の影響力の後退とともにアジアアフリカ社会における「啓蒙」の役割を後退させた。同時に、もちろん新帝国主義・新植民地主義という問題はありますが、それでもかつてのような西欧の側からの物理的な強制力は少なくともその正当性を持ちえない。そのことが、現在イスラーム社会に見られるような「啓蒙」と非和解的な原理主義の台頭という問題を生じさせています。
 しかし、このことの問題は、もちろん「啓蒙」を受け入れない側にだけあるわけではもちろんありません。物理的強制の根拠を喪失したがゆえに、逆にその根拠を生み出そうとする根強い衝動が西欧社会に生まれて、それがナショナリズムへの衝動として、ネオナチや新レイシズムを生み出し、そのことによってますます両者の対立を深め、両者を取り結ぶべき「合理的な知」が排除されるという状況が、それこそグローバルに生み出されているというのが、現在世界のもっともアクチュアルな問題です。日本の社会もまたその例外ではなく、というよりそれがむしろティピカルなかたちで生じていると自分は考えています。
 今日は時間がなく、急いでの走り書きですが、この問題は大事なことなのでもう少し整理して書き直そうと思っています。
by pastandhistories | 2015-01-27 23:38 | Trackback | Comments(0)

世界史とグローバルヒストリーはどこが違うのか?

土・日曜に会合と仕事が入って、逆に今日は休み。といっても卒論読み(全部で24本)と相変わらずの本箱の組み立て、郵便物の発送、そんな感じで一日がすみました。郵便物の発送はおとといの会の報告者のセバスチャン・コンラートへ。昨日帰国ということだったし、自分が招いたわけでもないので、本を送る約束だけをしておいたからです。日本語が読めるので、時間を見て読んでくれるのではと思います。
 そのコンラートの報告ですが、歴史研究者らしく具体的な事実を本当に丁寧に追って、自分の考えを理論的に整理しようとしたもの。その意味では一般的な理論的レベルだけで論じるのはよくないような気がしますが、昨日の予告したので、簡単に紹介し自分の考えを書いておきます。
 まずはタイトルから紹介すると、「グローバルヒストリーのなかの啓蒙」。このブログでも何度か書いてきましたが、「グローバルヒストリー」という言葉を使うときは、やはりそれがこれまでの「世界史」とどう違うのかを説明してほしいという感じがあります。コンラートの視点は、「18世紀の啓蒙はヨーロッパの自律的な産物ではなく、つねにまたグローバルな重なり合いの関係性のなかに結びつけられていた。それはトランスナショナルな共同生産の成果であり、数多くの成果をもっていた」という点に要約されるもので、さらに言えばそれは起源においてだけではなく、空間的にばかりか、時間的にも特定されずに、現在においても地球上のさまざまな場において遭遇・応答・対立・相互干渉・融和を繰り返しながら継続されている、というものです。一言でいえば啓蒙を「18世紀のヨーロッパ」や「ヨーロッパ起源的なもの」に限定せず、「グローバル」な枠組みで、相互的な、多様なものとして考えているということでしょう。さらに言えば、文化史的に論じているということかもしれません。
 十分に説得的な考えかたですが、そうした考え方が従来の「世界史」になかったのかというと、それは疑問です。たとえば従来の世界史理解の中心的テーマとなっていた「産業革命」を例にとると、前段の文章は、「『産業革命』はヨーロッパの自律的な産物ではなく、つねにまた『世界的』な重なり合いの関係性のなかに結びつけられていた。それはトランスナショナルな共同生産の成果であり、数多くの成果をもっていた。さらに言えばそれは起源においてだけではなく、空間的にばかりか、時間的にも特定されずに、現在においても地球上のさまざまな場において遭遇・応答・対立・相互干渉・融和を繰り返しながら継続されている」、としても通じそうですし、「工業化」という言葉を使用すればもっと適合するような気もします。
 最近よく思うことなのですが、世界史に代えてグローバルヒストリーという言葉を使用するのなら、それがこれまでの世界史とどう異なるのかを説明してほしいというのが自分の考えです。そのためには、近年のグローバリゼーション理論をきちんとフォロウし、そのうえで議論を積み立てるのが現在歴史研究者に課せられている最低の義務です。その点に関してコンラートの議論には配慮が行き届いた点がありましたが、自分が疑問に思ったのは、あまりにも議論が包括的で、そのために「啓蒙」が現在抱えている問題点が示されていないのではということです。自分はそのことを質問したのですが、その内容はまた明日書きます。
by pastandhistories | 2015-01-26 21:36 | Trackback | Comments(0)

明示性と構築性の違い

 10月0本、11月2本、12月1本、1月1本、というのがこのブログの記事数です。にもかかわらずアクセスは安定して続いています。その意味では本当に申し訳なく感じています。
 言い訳をするとやはり忙しい。毎年繰り返される学年末の繁忙期。加えて今年は多くの大学でもそうだと思いますが、大学の「管理」「改革?」問題、さらには入試関係の雑務の膨大化で大学は混乱気味です。今年はこれに個人的事情が重なりました。最大のことは仕事場の整理。退職後に大学の研究室の書籍の一部を引き取る準備という意味もあります。本箱の入手が遅れていて、書籍・コピー・本・メモ・ノートいろいろなものが段ボールに入ったままの状態。幸い先週あたりから本箱が入手でき、おとといはまる一日組み立てをしていました。来週から中身の本格的な整理に入れるでしょう。そんな中で昨日は、現代史研究会の会合、セバスチャン・コンラート(ベルリン自由大学)の話を聞きに行きました。夜は懇親会。帰宅が遅く、そのまま就寝。今日は午後からまた所用があるので、これから入浴して出かける準備をします。ということなので、会では久しぶりにいろいろな刺激を受け、メモも取ったのですが、この件についてはまた明日書こうと思います。
 今日はせっかく書き始めたので、正月の記事についての補足を少し。遺伝による外見の明示的な相違について書こうと思います。もっとも今日書く話は分かりやすいことは分かりやすいのですが、たとえとして適切かというと微妙なところがあります。それは外観上の明示的な相違を動物(馬)を例として論じるからです。
 馬の外見(皮膚ではなく、毛の色)には明確な違いがあります。多数派を占めるのは鹿毛(やや濃い茶色)、そのヴァリエーションが栗毛(明るい茶色)、そして青毛(黒)、葦毛(灰色、黒、白のまだら)、そして白毛(白)などです。競馬馬の世界では、葦毛と白毛は区別されていて生まれたときからの白馬というのは遺伝的にはきわめて稀少で、多くの白馬は葦毛馬が成長・老化する過程で白毛化したものです。
 馬(競馬馬)には外見的にはこのような明示的な遺伝的差異がありますが、そうした差異を理由に人間が馬を差別する(個人的な好みの違いはあるかもしれないけど)というのはあまり聞いたことがありません。多分馬同士でもないのではないかと思います(そもそも馬は人間の色覚を基準としたような色の差異を認知してはいません)。
 このことは今日なぜ書いたのかというと、明示的な遺伝的差異も、それだけでは意味を持たないということを説明するためです。色(人間の場合は皮膚の色となりますが)による差別化があるとすれば、それは間違くなく構築されたものであるということです。記号と意味の関係はそうしたものです。譬えとして適切なものか迷うところがありますが、明示的なものが意味を持つのは、やはり意味が構築されるからであり、必ずしも明示的なものそのもののなかに意味が内在しているからではありません。
by pastandhistories | 2015-01-25 07:07 | Trackback | Comments(0)

遺伝子の不平等

 このブログは多分書き始めて今年で満5年です。その間にツイッターの時代となって、ブログはもう時代遅れという感じですが、「時代遅れ」というのは自分の好きな言葉。「時代遅れのアットランダム」をもう少し書き続けるつもりです。といっても、年賀状にも書きましたが、「何もしなかった一年」なのに、ただひたすら「忙しさに追われてしまう」ということで、このブログも本当に滞りがちになりました。
 年末は校正が一つ、これが終わったと思ったら100枚以上のレポートの採点とコメント、さらに11月の末に引っ越した仕事場が結局は本棚の入手の都合で全く片付かず、さらには正月明けの来年度のシラバスなどの書類書き、さらにはためてしまった海外からのメールへの返事、ということであまり休みという感じがしません。それでもこのブログを書くきっかけになったアメリカ歴史学会は今年は不参加なので、その点は楽です。今日は家族が「妖怪ウォッチング」を見に行ったので送りがてら郊外の大型書店を久しぶりにのぞきました。最近はこうした書店に立ち寄ることはほとんどありませんでしたが、西川長夫さんの最後の仕事である『戦後史再考』などを購入しました。
 といった感じで今年も始まりましたが、年末に感じたことを今日は少し書いておきます。20日にあった歴史知研究会に関して。若い研究者の興味深い発表が多かったのですが、その一つが最首悟さんの子育て論に関するもの。ハンディをもった子供の育児をとおして、ジェンダーの役割(自らの無能さ)を感じるようになったという問題に触れたものです。報告を受けての議論は当然のように、本質論と構築論をめぐるものへと向かいました。
 自分が感じたことは、子育てということに議論の重点を置くと、ジェンダーをめぐっての議論はしやすいけど、介護およびそれとかかわるアルツハイマーやその他の身体的、精神的不全の問題に視点を向けると、必ずしもジェンダーの役割分担が議論の軸とはならないのではということです。たとえば夫婦間の老々介護の問題は、ジェンダーの役割分担ではなく、どちらが先に発症するかという問題です。
 もう一つこの問題に関連して自分が考えていることは、年末の朝日新聞の書評欄でさらりと触れられていた「遺伝子の不平等」という問題。性の区分けも人種も、遺伝子(と染色体)によって規定されているものです。そうした差異は現象的な特徴が明示的だということもあり、その点で本質論か構築論かという議論がしやすい。しかし、たとえば顔立ちとか、精神的肉体的能力というのは、明確に類別化することができるものというよりグラデーションをともなう差異(本当は性別すらそうしたものかもしれないという議論も成り立つけれど)、にもかかわらず性別や人種以上に個人を拘束し、差別化し続けるという要素があります。
 明示的であるがゆえに(それゆえ本質主義的な議論を根拠とした差別が歴史的に行われてきた)、性別や人種が、平等主義が近代以降社会的に認証されるようになると、その構築性を批判され、そのことが今なおきわめて不十分なものだけど差別の解消に向かいつつあることは事実ですが、と同時に忘れてはならないことは、同じように人々を差別化する要因となっている「遺伝子の不平等」という人々にあるグラデーションだという指摘には、頷かされる点が少なくはありません。もっとも年末に行っていた100人以上のレポートの採点というのは、学生の知識量・思考能力を、あるグラデーションの中に枠づけていく作業だったのですが。
by pastandhistories | 2015-01-01 22:16 | Trackback | Comments(0)

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