歴史についてこれまで考えてきたことを書いています


by pastandhistories

プロフィールを見る
画像一覧

<   2015年 09月 ( 11 )   > この月の画像一覧

植民地体験

 暦の上では連休ですが、大学の授業はすでに始まっています。幸いにして今年は週前半を授業日とはしていなかったので、多少の時間が取れました。久しぶりの墓参りなど。もっとも明日からの授業準備にだいぶ時間をとられていますが、それでも先週末から今週にかけては、『歴史を射つ』が刊行されたということもあり、ややのんびりできました。ということで久しぶりにテレビで映画の鑑賞。ちょうどBSで放映していた山田洋次監督の初期作品である『馬鹿まるだし』と『馬鹿が戦車でやってくる』(多分『いいかげん馬鹿』もやっていたのでしょうが、これは見落としました)。
 いずれも一部では今でも高い評価を得ている作品ですが、これらの作品で読み取れるのは、山田洋次監督にある奔放なアナキスティックな精神。『男はつらいよ』にも(とりわけ初期作品には)底流として流れているものですが、なんといってもそれが生き生きと示されたのが『馬鹿が戦車でやってくる』。今回見直してもそのことを強く感じました。
 そうした山田監督の志向がよく示された作品が、なべおさみが主演した『吹けば飛ぶよな男だが』という作品です。いわゆるチンピラやくざを扱った作品。今ではまずは見られないと思っていたら、DVD化されているようです。この作品で面白いのは主人公の母親役がミヤコ蝶々であること。つまり寅さんと同じ、『男はつらいよ』の原点の一つがこの作品にはあります。山田監督がその後有名になったということもあるかもしれませんが、DVD化されたということは一部に高い評価があるからなのでしょう。見て損のない作品です。
 時々思うことは、こうした山田監督のある種のアナーキーさは、やはり少年期の植民地体験と引き揚げ体験に求められるのではということです。安部公房や、赤塚不二夫の作品にも共通するものがあります。作品的にはやや異質かもしれませんが、初期作品に「非行」少年を素材とした作品の多い藤田敏八も同種の体験をもった監督です。そして前回の記事で書いた西川長夫さんも。もちろん戦後の文化は色々な要素から構成されましたが、その中で重要な、そして良質な役割を果たしたのは、(とりわけ少年期の)植民地経験とそれへの批判的意識だっただったと自分は考えています。
 少し時間があったので、今日は息抜き的なことを書きました。このブログは個々の記事への累積アクセス数が出る機能がありますが、『歴史を射つ』の目次を紹介した「本の編集」という記事には770ものアクセスがありました。連休ということでやや手間取りましたが(版元は完全な休みでした)、すでに本は完成しているので、明日の連休明けからは実際の配本が行われ始めるでしょう。期待に応えられるような評価が出るか不安もありますが、このブログで書いてきたようなことを基本として編集された本です。実物を手に取って内容を確認してもらえたらと思います。
by pastandhistories | 2015-09-23 05:31 | Trackback | Comments(0)

西川長夫さんへ

 『歴史を射つ』はすでに完成していて、書店などへの配本はまだのようですが、版元には納本されています。昨日は直接受け取ったものを海外へと送りました。書籍送付用のA5封筒にきっちり入れるのが大変で結構手間取りました。送本先の住所確認メールをそれぞれに事前に入れたところ、ほぼ全員からすぐに返事がありました。ホワイトは元気なようです。バークはいま Colombia にいるので、本はケンブリッジに送ってほしいという連絡がきました。ニューヨークのコロンビア大学か、それとも中南米のコロンビアにいるのかそれはわかりません(スペルからは後者のような気がしますが)。ピヒライネンはビーヴェルナージュに招かれてゲントで三か月ほど教えるようです。
 なんといっても日本語なので、イムやワンを除けば全体を直接読むことはできないでしょうが、それぞれ日本語のわかる知人が周辺にいるようで、ある程度内容は理解してくれるようです。本の送付といえば、今度の本は西川長夫さんに読んでもらいたいところがありました。西川さんには大学院時代から関心がありました。そもそも自分の卒論のテーマはフランス史(「フランス人民戦線内閣へのフランス共産党の参加問題」)で、大学院入試で今後の課題を聞かれて答えたのが、「ボナパルティズム―ナポレオン3世と選挙」というテーマだったからです。以前このブログに書きましたが、自分にとって譲ることができないことは、「民主主義によって選出された」とする人間が、「民主主義をもっとも憎悪する」、ということへの怒りです。これは「民衆の意思を代表するとして革命権力を打ち立てたとする指導者が、民衆の意思をもっとも憎悪する」という言葉に置き換えてもいいかもしれません。
 おそらく19世紀以降の民主主義の最大の問題はこの点にあって、それを端的に予示した歴史的事件がナポレオン3世の統治であり、その20世紀における具体化がファシズムに代表される権威主義的統治であり、そして現在の日本で生じている(あるいは戦後一貫して継続されている・・・成田龍一さんにしたがえば大正デモクラシー以来の)政治的状況であり、さらには同種の問題がミクロ的には大学においても現在生じていると、自分は考えています。その一つの媒体がナショナリズム。その意味で歴史はナショナリズムとの接点に批判的であらねばならないというのが、西川さんの戦後歴史学への批判の根拠だったのだと思います。
 そうした関心はあったのですが、京都と東京ということで、西川さんと本当に長く話をする機会を得ることができたのは、立命館がアラン・コルバンを集中講義に招いたときに、その予備講義を行うよう3人ほどの歴史研究者が東京から京都へ招かれ、その一人に自分がなった時が初めてです。その際に最初に書いた本を送ることになりました。
 その後亡くなる1年ほど前だったと思いますが、別用で京都に行ったときに京都にいると連絡をしたら、夜中にホテルに連絡があり、食事の誘いがありました。翌日同志社の近くのフランス料理屋で4時間ほどいろんな話をしました。その時は全然異常を感じなかったのですが、翌年新著を送ったら、自分もそこに書かれているようなことをぜひ書きたいけど、難しいかもしれないので残念だという手紙がきました。
 以上のような感じで、直接深い付き合いがあったというわけではありませんが、完成にあたって改めて『歴史を射つ』をぱらぱらとめくっていると、この本は西川さんにはぜひ読んでもらいたかったという思いがします。
by pastandhistories | 2015-09-18 10:59 | Trackback | Comments(0)

『歴史を射つ』刊行されました

 今日は我が家には誰もいませんが、一足先に帰宅しました。多くの人に関心を寄せてもらった『歴史を射つ』(御茶の水書房)は今日完成しました。さっそく版元で配本の手配に入ったようです。休み明けの24日にはきちんと店頭やネット販売の場に出そうろうだろうとのことです。価格的にはもう少し抑えたかったのですが、それなりに立派な本になっています。評価は読み手に委ねますが、それなりに色々な問題提起や、今後の歴史研究にとってヒントとなるようなことが、含みこまれた本になっているのではと思います。
 この本に関しては、おととい[9月13日)の記事にあるように10月24日に公開合評会を予定していますので、内容について議論したいという人は、ぜひ参加してください。また同じ記事の末尾にあるように、多少の割引で直接購入する方法もありますので、希望のある人は問い合わせていただければと思います。
by pastandhistories | 2015-09-15 20:06 | Trackback | Comments(0)

『歴史を射つ』出版と公開合評会

 昨日まで済南でのCISHについての記事はあまりうまくかけないところがありました。5年前のアムステルダムでの会に比べると、自分の中にあまり高揚感がなかった。色々忙しく、準備不足も大きかったと思います。その理由。学務と出版、それから招聘セミナーの最終準備。シュテファン・バーガーとエルヴェ・アングルベールを招いての招聘セミナーも終わり、学務からも解放され(その間は体調不良でどうなるかと思いました)、そして出版は15日に完成することになりました。書店などへの配本の時期については自分にはわかりませんが、多分予告より早まってその前後に行われるのではと思います。
 ということで昨日は、すでに企画してあった公開合評会のポスター作成をしました。内容をここに書くと
 日時 10月24日(土)13時半より、 場所 東洋大学白山キャンパス8号館125記念ホール 
 (司会) 道重一郎 (コメンテーター) 成田龍一・小田中直樹 
 (応答) 岡本充弘・鹿島徹・長谷川貴彦・渡辺賢一郎、他執筆者

となります。いつもと同じラウンドテーブルでフリーディスカッション形式にしますので、多くの人の参加を期待しています。

以前の記事と重複しますが、『歴史を射つ』の内容は、
第一部 歴史を問いなおす
ヘイドン・ホワイト
 「歴史的な出来事」
ピーター・バーク
 「歴史記述における関わりと切り離し」
ロバート・ローゼンストーン
 「映画製作者が歴史家として歴史に対して行っていることについての諸考察」
シュテファン・バーガー、ビル・ニーヴン
 「国民の記憶の歴史を書く」
イム・ジヒョン
 「グローバルに連鎖するナショナルヒストリーに現れた東洋と西洋」
エドワード・ワン
 「世界のなかのアジアを理解しなおす―東アジアにおけるグローバルヒストリーの出現」
ペニー・コーフィールド
 「歴史家と大きな歴史像への回帰」
カレ・ピヒライネン
 「構築論と最近の歴史の欲求について―実在の果てしない回帰」
第二部 言説としての歴史、表象としての歴史
鹿島徹
 「日本社会における歴史基礎論の動向 二〇〇四―二〇一四」   
長谷川貴彦
 「言語論的転回と西洋史研究―受容のコンテクスト」
平井雄一郎
 「伝記叙述の「型」と未遂の「他者」―たとえば「渋沢栄一伝」は水戸天狗党に躓く」     
北原敦   
 「映画表現における現実と歴史―ネオレアリズモをめぐって」
渡辺賢一郎
 「少女マンガの表現技法と歴史叙述としてのマンガ」
池尻良平
 「学習者から捉え直した歴史の可能性」          
内田力
 「社会史にみる世界史の歴史研究と言説―国際的な史学史の叙述をめぐって」
長野壮一
 「現代歴史学の出発点― 社会運動史における「主体性」と「全体性」」
岡本充弘
 「転回する歴史のなかで」
となります。出版事情から価格設定が高くなっていますが、執筆者枠で多少の割引購入も可能ですので、ご希望の方は、okamoto.toyo.university@gmail.com に問い合わせていただければと思います。
by pastandhistories | 2015-09-13 11:05 | Trackback | Comments(0)

CISH⑥

 今回の国際歴史学会議の正式の最終日は次期開催地(結局はポーランドになったようです)などを決定する総会がある29日でしたが、実質的な最終日は28日。この日は朝から会議に合わせて個別的な会合をアフィリエーションとして開いたそれぞれの国際学会の総会が開催されました。
 国際歴史学会議の運営実態については自分は直接関与したことはないのでよく知らないのですが、基本的にはナショナルな代表組織と、個別的な国際研究組織の二本立てになっているようです。ナショナルな単位を代表する組織といってもそれがそれぞれにおいてどのようなかたちで組織化され運営されているのは国によってどうも違うようで、そのあたりが今回の会合がそれぞれを代表するような研究者を欠いた理由だったのかもしれません。いっぽう、国際的な個別的研究組織についても、その総会にいくつかを選んで参加してみて、多少の問題を感じるところがありました。
 28日の午後にまず参加したのは、国際社会史学会の会合です。集まったのはメンバーではない自分を含めて10人程度。とにかく人数が少なく、その中で次期の役員や計画を決定しようということなのですが、具体案はなかなかでず、議論が前後してしまうところがありました。一言も発言しなかったのに会議が終了したら呼び止められて、 newsletter の editor になってくれないかという話。 いくらが人が足りないとは言っても、無理な話です。これはその後に参加した国際史学史歴史理論学会でも同じ。参加者はやはり10人程度。なんとかエヴァ・ドマンスカとシュテファン・バーガーを次期執行部に決めましたが、今後についての議論はなかなかまとまりませんでした。
 こうしたことの理由は厳しく言えば、アフィリエーションとして参加した組織の多くがが歴史的には蓄積があるものもありますが、中心メンバーが次第に高齢化し、活動力を失っているためのようです。あるいは新しい国際組織も多少思いつき的に作られて、独自の活動力がなく、国際歴史学会議に合わせてアフィリエーションとして会合を開いているためのようです。
 逆に言うと、国際文化史学会や歴史とメディア国際学会、国際歴史理論ネットワークといった新しい問題意識に基礎を置いた組織・運動体は、独自に国際学会をそれなりの規模で開催する能力があるので、別に国際歴史学会議を利用する必要がない。そのためにそうした新しい問題意識が、国際歴史学会議には反映されにくいといった問題を今回は感じました。もっともこれはアフィリエーションが中心となった後半の会議に参加した印象で、大会自体が設定したテーマが議論された前半には面白そうな内容も並んでいたので、それに参加できなかったのは残念でした。
 最後になりますが、会議の討議の最後を締めたのは、多分イム・ジヒョンが中心になって組織した History and Ethics というセッション。マティウス・ミデルが冒頭にテーマに沿って大会を振り返る報告を行い、それにシュテファン・バーガー、パトリック・マニング、そして小田中直樹さんらがコメントを加えるという形式。その内容については小田中さんが今後紹介すると思うので、それに譲ろうと思います。ただここで印象的だったことは、やはりシュテファンの整理の巧みさ。それからユルゲン・コッカがフロアから発言してすでに紹介したpartial synthesis という主張を繰り返したことでした。
 海外の学会を素材に最近の研究の流れを紹介することの多いこのブログの基本的方針は、同席した日本人研究者には言及しないこと。プライヴァシーもあるし、それぞれが自分なりのメディアをとおして報告するだろうと思うからです。実は今回参加したセッションには、今までとは異なって、基本的には一人か二人だけでしたが、つねに日本人研究者が数名同席していました。そうした人たちの報告もまた参考にするとよいでしょう。
by pastandhistories | 2015-09-12 09:09 | Trackback | Comments(0)

CISH⑤

 遅れて参加したため、CISH は参加三日目が早くも最終日、午前中は Themes and Methods : Trends an Innovations というセッションに出ました。多分名称は国際社会史研究会でよいのではと思いますが、基本的にはアムステルダムの国際社会史研究所のメンバーなどを中心とした会合。最初の報告の記録がないのですが、それを除くと報告者は3人、時間は3時間以上ですから、報告者数に対してこのくらい時間をとると十分な議論ができるし、今回自分が参加したセッションの中では報告の質も議論の内容も安定したものでした。にもかかわらず、ここでも参加者は10人少し。大会最終日にくわえて後で記すような事情があるにせよ、国際会議としては残念でした。
 報告はアムステルダムの国際社会史研究所から二人、そしてユルゲン・コッカ。なんといっても安定した研究の蓄積の上に立って行われた報告で、その意味でも説得力がありました。最初の報告者はカリン・ホフミースター、タイトルは e-Humanities and Social History 、内容はタイトル通りデジタル化の時代における社会史について。 なお(文化的なものより)社会的、経済的データに偏る傾向があるとはいえ、デジタル化に伴いデータが巨大化しつつあることを前提に、それがどう扱われるべきかを論じました。といっても総花的ではなく、国際社会史研究所のスタッフらしく労働の問題にかなり問題を集約しての議論。
 つづいてマルセル・ファン・デア・リンデンが New Themes in Social History というタイトルで報告。これは本当に網羅的で、すべてを書ききれませんが20世紀以降の社会史のながれについて、人類学的・文化史的方向性や体や心の問題への流れを丁寧にたどったうえで(ここまでは日本でもよく行われた社会史論の紹介と同じですが、本当に多くの著作の紹介があり参考になりました)、さらにはmoneyの問題についての社会史、そしてホフミースター同様、労働の社会史について論じました。
 ここで少し問題にされたのは、奴隷労働と賃金労働との関係を含めての free labour の問題、さらには労働の自由化に伴って生じた precariousness of employment という問題です。precariousness という考え方は、固定的な社会関係と流動的な社会関係をどう考えていくのかという問題と関係しますが、(たとえば Precariousness will give both male and female more free sexual relation というように) 、労働にしても、婚姻にしても、制度がもたらす安定性との関係でどう考えていくべきかには、議論に差異が生じる問題のような気がします。
 このセッションの最後は、Social History: substantive and methodological prospects というコッカの総括的な話。これもきわめて整理されたもの。まずは、社会史が当初はクリティカルな内容を伴う魅力的なものとして、1.伝統的な政治史への批判、2.事件から構造へ、3.研究の断片化、特殊化への批判(全体史よりもミドルレンジの統合を目指した) というものとして、マルクス主義やマックス・ヴェーバーの影響をうけながら、社会改革への志向を含むものとして形成されたことを論じました。しかし、それが成功したのかというと、同時に失望も生じているというのが、コッカの総括です。もちろんのミクロヒストリーや日常生活史、文化史的な転回、ジェンダーや環境への着目自体は否定されるべきではないけど、コッカは歴史研究を取り囲む現在的傾向として1、グローバリゼーション、2.歴史知識の断片化、3.社会経済史の後退をあげ、そのことに懸念を示しました。一言でいえば、彼の主張は、歴史研究はやはり現在的な問題、たとえば不平等などへの関心を失うべきではないということです。同時にたとえば断片化が進行することによって全体的な理解への可能性が後退したとしても、部分的な総合化(partial synthesis)への努力までも放棄すべきではないというものです。
 以上、このセッションはある意味では常識的な議論が基本でそれほど目あたらしさがあったわけではありませんが、報告の安定性という点では随分と参考になった会でした。
by pastandhistories | 2015-09-11 09:13 | Trackback | Comments(0)

CISH④

 涼しいのはいいけど秋の長雨。さすがに憂鬱です。昨日はセバスチャン・コンラートを招いての会があったようですが、自分は退任する学務の引き継ぎ。これでやっと平常に戻ることができます。自分がもはや関与することではないけど、この半年あらためて感じたのは大学の置かれた深刻な状態。ここで何度か繰り返して書いてきましたが、「30年前よりはるかに自由が失われた大学」で、自分の研究だけが「30年前の水準よりおおきく発展した」と考えているのだとしたら、それはあまりに自省を欠いた考えでしょう。
 さてCISHの報告に戻ると、参加2日目の午後は、Cross-Regional Counters and Global History というセッションに出ました。これはマティウス・ミデルなどが中心となった Network on Global and World History Organization のメンバーを中心とする会合。司会はパトリック・マニング。ミハエル・リプキン、ドミニク・ザクセンマイアー、イム・ジヒュン、ロクハヤ・フォールんの4人が報告しました。参加者はあまり多くなく20人を欠けるくらい。
 リプキンの報告はロシアの各地で歴史研究の違いを説明したうえで、世界史の刊行計画についての話。ザクセンマイアーは彼らしく歴史家が自らをコンテクストの中に置いて考えることの必要性を指摘したうえで、グローバルな統合はフラットの世界を生み出したわけではなく、その中にも差異があること、とりわけ知識がグローバルな枠組みの中で階層化していることを主張しました。彼が一貫して主張している問題です。イムはグローバルヒストリーについて、アジアにおけるグロ-バルヒストリー論はヨーロッパ研究者から始まったこと、その根拠にナショナルヒスオリーへの批判があることを要領よく説明しました。海域史などの紹介もするなど、要点をついた巧みなプレゼンテーション。フォールは今回自分が出たセッションでは珍しいアフリカ(セネガル)からの報告。フランス語での報告でマニングが英語で要約したのですが、聞き取れない部分があって残念でした。
 参加者も比較的少なく時間もあったので、ほとんどの参加者が質問をするということで議論は活発でしたが、ファールには質問がほとんどなく、自分はマルク・フェローに紹介されているセネガルの少女のエピソードを彼女に質問しようと思ったのですが、デンマークの女性研究者が質問をしてくれたので、内容が報告と食い違ってもと思い、質問はしませんでした。全体としては出席者の半分くらいが既知のメンバーで、議論の内容も自分が聞きなれたものが少なくありませんでしたが、その分新味に乏しいところがありました。そのあたりが国際的な会議に参加した際に会議を選ぶ難しさです。
 この会の終了後、夜はエドワード・ワンと二人で山東師範大学史学科の招待で、中華料理店のディナーレセプションに出席。エドワードを除けば初対面の人ばかり。さらにはナマコに鳩を人生で「初めて」食べることになります。
by pastandhistories | 2015-09-10 12:05 | Trackback | Comments(0)

CISH③

 参加2日目朝はHistory Wars: History Education between Politics, Scholarship, and the Media というセッションに出ました。組織者はシモーヌ・レーシックですが、ディスカッサントを務めたのはルイギ・カヤーニで、この人物はシドニーの大会で西川正雄さんが報告をしたセッションでたしか総括的な話をした人物。その時の西川さんの話は、自分で書いた教科書と『日本国民の歴史』を対比させながら、イデオロギー的な歴史教育を学問的歴史の立場から批判するものでした。結局はこのセッションの基本的なコンテクストもそうしたもの。しかし、サブタイトルにあるように、教科書だけではなく、メディアの問題からも問題が論じられました。
 国際歴史学会議についての報告をした際に書いたことがありますが、「科学」を論ずる場であるなら、「ロシア」ではとか「中国」ではとか、「日本」ではというように、議論の単位としてナショナルな枠組みが枕詞として用いられるのは本当はおかしい。にもかかわらず教育の場にある歴史、あるいはパブリックな場にある歴史を論じる時は、それが当然のことのように前提とされ、その前提からの紹介・比較が行われる。このセッションの議論はまさにそうしたもの。歴史がいかにナショナル・プレースと関係が深いのかを端的に示したセッションでした。
 逆にこうした問題はきわめて明確な対比的な例示がしやすい。その意味で議論にはわかりやすいところがありました。それぞれを「国別」に紹介すると、Bartal (イスラエル)は、2000年に起きたことを事例に文部大臣の言明、メディアの影響と集合記憶の関連、それに対する学問的歴史の問題を説明、Bentorvato (所属はドイツ)は、ルワンダとブルンジを例に民族的少数派との間でどのような交渉と譲歩があるのか、Koren (ウクライナ)は様々な記憶の単位やコメモレーションについて、Shnrelman(ロシア) はソ連、ロシアでタタールの扱いがどう変化したのかという問題、Wassermann(南アフリカ) は、アパルトヘイト後の1994年以降の南アフリカの教科書について、楊彪(中国)日中の教科書の違いをフランス革命や日露戦争の扱いを例に、最後にPingel (ドイツ)がマンチェスター、ドレスデン、北京、南京、広島、靖国などの博物館のあり方を比較しました。
 それぞれ例示された内容はいい意味での図式性があってわかりやすかったのですが、自分としては最後のPingel のものが、それぞれの博物館の特徴をうまくとらえているところがあり、面白く感じました。ただ全体として感じたことは、具体的なのはいいのですが、ある意味ではこの議論は、教科書などを通じた恣意的な共同化へのクリティカルな批判を繰り返している部分があって、またそのアンティテーゼとしてなんらかのトランスナショナル化(あるいはその困難さ)を図式的に対置する傾向があって、メディアの問題を意識的に取り上げたという新しさはありますが、それでも同じ議論の繰り返しという部分を今回も感じました。
 History Wars にとって大事なことは、「国」際的な場で学問的歴史の優位性を確認することではなく、個々のナショナルな場で、政治の場でもパブリックな場でも優位性を持つナショナルヒストリーをどのようにして打ち破っていくか、そのための必要な議論はどのようなものかを考えることだと自分はいつも考えています。そこまでは今回も議論はいかなかったという感じがしました。
by pastandhistories | 2015-09-08 13:34 | Trackback | Comments(0)

CISH②

今回の国際歴史学会への参加で、やや重点を置いたことは、ユニヴァーサルヒストリー、グローバルヒストリー、ワールドヒストリー、ナショナヒストリー、トランスナショナルヒストリーといったことが、どのように議論としては整理されるのかということ。しかし、人によってさまざまに論じられていて、結論的にはよくわからなかったという感じです。
 参加初日の午後に出たWhat World for World History でもそんな感じ。このセッションの司会は、エドアルド・トルタロロ、さらにはセバスチャン・コンラート、そしてアムステルダムで同じセッションで報告したポール・デュエダールなどが報告ということで、勇んで出かけたところ、なんとセッションの参加者は自分を含めて10人少し。地元(とは言っても南京師範大学)からの発表者もいたのでボランティアの中国人学生はいたけど、それにしても少ない参加者でした。まずトルタロロが4点ほどに論点を整理。彼の議論でなんとなくわかったことは、ユニヴァーサルヒストリーには、たとえばprovidential なもの実現といった、普遍的な方向性へのイメージがあることです。南京師範大学の女子院生の発表とデュエダールの発表は、前者が異なった地域の古代史にあるイメージの共通性、 後者がユネスコによる歴史の共同化の試みを中国との関係から論じてそれぞれ面白いところがありましたが、やはりこのセッションでの注目は、コンラートがどんな主張をするのかということです。
 彼の考えは自分に近いところもあり、自分に引き付けて聞いてしまうので、果たして以下が正確な紹介になるかはわかりませんが、コンラートもユニヴァーサルヒストリーはたとえば文明といったような一つの統合的な目的を持つものと考えているようで、そうしたものと現在のグローバルヒストリーは区別されるべきもの(断絶のあるもの)と考えるべきだとしているようです。
 メモではここで、現在のグローバリゼーションというシンクロ二シティが現在のグローバルヒストリーを作りだしているとあって、これが彼の主張だったのか、自分のメモだったのかは正確には思い出せません。しかし、彼の主張は20世紀半ば(までの)の頃とは異なって、現代の歴史家は新しい統一的な方向を見いだせないというところにあるようです。コカコーラライゼーションという言葉をもちいましたが、グローバリゼーションがそうした統合性を生み出したことは事実ですが、同時にそうした共同化は衝突を生み出し、また西洋中心的なグローバライゼーションに対してパティキュラライゼーションも生み出しているとも彼は主張しました。
 コンラートの優れたところは、議論をつねにきちんと整理された整序的なものとして展開していくところです。グローバルヒストリーをこれまでの歴史理解の統一性を志向した様々な世界史論は異なるものとして拡散的な見方を生み出すものとして理解していこうとするのは、無理のない理解です。ただ少し気になったのは、彼も最後にそうしたことをほのめかしましたが、そうしたグローバルヒストリーの方向がミクロ的研究と共通するという考え方です。確かにこのように「論理化」することはできるのですが、本来はかなり異なる内容をそれぞれが伴っているわけで、それを抜きにして安易に二つを結合してよいのかは議論です。大きな「法則」と個別的な「実証」が結合するという議論は、古い歴史学においてもつねに論じられていたことなわけですから。
by pastandhistories | 2015-09-07 20:28 | Trackback | Comments(0)

CISH①

 今回の国際歴史学会議(CISH)は参加が遅れたこともあり、また近いということで日本からも80人近くが参加していたということなので、具体的な内容はそうした人たちがやがて書くものをとおして明らかになるはずです。自分は参加できなかったけど、会議が前半で中心的に取り上げたテーマはかなりアップ・トゥー・デートなもので、その意味では国際会議の役割を果たしていたところがありました。自分が残念に感じたのは、中国で行われたにも関わらず、中東やアフリカからの参加者が目立たなかったことと、日本からの若い研究者の参加者が少なかったことです。会議の性質からしていろいろな議論が持ち寄られるわけで、旅費滞在費もあまりかからないわけだから、こうしたチャンスを生かしてほしかったと思うところがありました。
 自分の参加は三日目から。今回は直後で招聘セミナーが控えていたので、関連するテーマがどのように議論されるのかという関心からセッションを選んで参加しました。したがってテーマとして、ユニヴァーサルヒストリー、グローバルヒストリー、ワールドヒストリー、ナショナヒストリー、トランスナショナルヒストリーといったことが議論された場ということになります。
 こうした観点から参加初日午前に参加したのは、アントニス・リアコスとクリス・ロレンツが組織した Crisis and Social Representations of History in the Post-1989 Era というセッション。要するに 1989以降歴史のあり方がどう変化したのかを議論しようということなのですが、これに参加したのはカレ・ピヒライネンが報告する予定だったから。しかし80人収容程度の会場が満席になってもいつまでも現れない、要するに飛行機が満席で乗れなかったということです。「1989年」以降歴史への考え方が変わったということはもう耳タコの事柄。常套的な枕詞。しかし、このことについていつも思うことは、自分がそうした変化をどのように主体的に捉えるのかという発想をまったく欠いた議論の多いこと。一応リアコスの冒頭の報告は聞いてみましたが、同じような議論が繰り返されそうな気がしたので、シュテファン・バーガーが組織したWriting History in Exiles というセッションに移りました。
 これは収穫がありました。ここでも紹介したことがある マレク・タム の報告は、戦後編纂された13巻のエストニア史に亡命者の影響があったことを指摘、エドアルド・トルタロロは、中世史研究者であり社会主義者であったGaetano Salbemni (1925年にパリに亡命し、のちシカゴ大学で教えた)を取り上げて報告しました。もっともトルタロロが指摘したことは、ファッシスト政権はアカデミズムとの妥協を図ったので彼の事例は例外的であったということです。
 しかしここで何と言っても面白かったのは、最後の9点にわたる整理。歴史家が自らの根拠を置く場が「強制的」に変化したことが、歴史家自身に、彼らが作り出した歴史にどのような影響を与えたのかということ。歴史家が本来根拠を置いていたナショナルな場から離れ、それとは異なる場に自らを置いて歴史研究を持続することによって、歴史家や歴史にどういう側面が生じたのかということが以下のような視点から議論されるべきだと指摘されました。
 ここから先はメモは英語でそのまま書いた方がより正確だとは思いますが、日本語化すると、それは1)亡命者を受け入れる制度の存在、2)亡命者に生じた利益と精神的トラウマ、3)新しい環境の中での文化的資本、4)伝統的ナショナリズムや全体主義的ナショナリズムへの対応、5)トランスナショナルなブリッジ・ビルダーとしての活躍、6)ポストコロニアリズムとの関係、7)スペースの変化による時間の観念をどう考えたのか、8)祖国と亡命先についての記憶の問題、9)亡命歴史家のパーソナルヒストリー、といったような問題です。
 実はこの問題、「歴史家の場の移動」という問題は、もうすぐ出版される『歴史を射つ』でもピーター・バークが取り上げています。問題はそうした移動が自発的なものであった場合と強制的なものであった場合にはどのような違いがあるのかということ。このことを質問しようと思っていたら、トルタロロだった思いますが、自発的な移動と異なって、亡命は元の場に戻れないという大きな違いがあるという明確な答えを議論の過程で示してくれました。
by pastandhistories | 2015-09-05 21:20 | Trackback | Comments(0)

カテゴリ

全体
未分類

以前の記事

2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 01月

フォロー中のブログ

最新のコメント

先生は、「「民主主義」擁..
by 伊豆川 at 19:57
先生は、「歴史が科学であ..
by 伊豆川 at 17:18
『開かれた歴史へ 脱構築..
by 伊豆川 at 13:28
3月18日の会に参加させ..
by 伊豆川 at 08:33
セミナーで配布・訳読され..
by 伊豆川 at 14:44
先生の議論には、大筋で同..
by 伊豆川 at 17:10
私も今回のセミナーに参加..
by 伊豆川 at 18:55
先生が制度化された「真実..
by 伊豆川 at 00:29
先日、ヘイドン・ホワイト..
by 伊豆川 at 20:53
人間に関心や理解を促す語..
by 伊豆川 at 22:33

メモ帳

最新のトラックバック

「変化する可能性」
from 右近の日々是好日。
プラグマティズム
from 哲学はなぜ間違うのか?

ライフログ

検索

タグ

その他のジャンル

ブログパーツ

最新の記事

目次②
at 2017-12-14 20:03
目次①
at 2017-12-05 23:40
エピソード
at 2017-11-12 20:09
短期主義への批判
at 2017-11-05 21:08
1月13日
at 2017-11-02 16:57

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

歴史
哲学・思想

画像一覧