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Writing the Nation

 週末は韓国にシュテファン・バーガーが来るというので、昨年のお礼ついでに会いに行きました。彼が中心的に編集したWriting the Nation の書評会をイム・ヒジョンが組織。韓国、日本から10人を超える研究者が参加して、他にもマティアス・ミデル、クリス・ロレンツ、マレク・タムというおなじみのメンバーとも会えることができました。
 相変わらずパソコンでネットがつながらず。ホテルからもらったWIFI の ID をたった一度だけ間違えて入力したら、ワイヤレス機能が飛んで、XP だったせいか修復できませんでした。ということで会の内容は書くことができず、また日本人の参加者も多かったので、その点は人に任せようと思います。
 ただ自分にとっては本当に収穫がありました。とくに Writing the Nation の各巻に直接携わった編集者のコメント。どこまでが明らかにされて、どういう点が問題として残されたのか、そのことがすごくよくわかり、それが自分がこれまで考えてきたこととほぼ一致していて、自分が今後なすべき仕事が見えてきたところがありました。宿で少しメモ的な文章を書いたけど、ずっとつかえていた書き下ろしの結論部分をまとめていけそうです。
 『歴史を射つ』でも簡単に書いたけど、National History への批判の根拠は、その構築性におかれています。また近代とのオーバーラップという問題。それともかかわるけど、制度化と専門化という問題です。制度化と専門化はとりわけバーガーの問題意識の基本となっているようですが、こうしたことへの批判が出てきたのは『歴史として、記憶として』のトーンにあるように、1960年代の流れと大きく関連しています。バーガーは世代的にはより新しい世代に属していますが、Writing the Nation が一番問題にしているのは、現在でもなお歴史にナショナルな要素が強いこと。これを構築論的な議論から図式的に批判したり、あるいはグローバルヒストリーやトランスナショナルヒストリーを一面的に対置することなく、具体的なナショナルヒストリーのあり方の検討をとおして考えていくということです。
 自分が『歴史を射つ』のサブタイトルにグローバルヒストリーという言葉をもちいなかったのもそのため。また制度化され、専門化された場ではなく、一般の人々の間にある歴史(History in Public Place)を考えていくことが重要だということからパブリックヒストリーという言葉をもちいたのもそのためです。この点に関してはWriting the Nation シリーズの最終巻である The Past as History をバーガーを補佐するかたちで執筆したクリストフ・コンラートが熱を込めて論じてくれました。彼と会うのは今回が初めてでしたが、彼の議論を含めて自分がしてしてきた仕事、あるいはこのブログを通じて論じてきたことが、パイオニアリングなものであり、海外の研究動向にもきちんと対応したものであったと、今日は自信をもって書いておきます。若い研究者に参考にしてもらえるとうれしいのですが。
by pastandhistories | 2016-04-26 21:43 | Trackback | Comments(0)

二時間ドラマの構造②

 随分と以前に2時間ドラマの構造について書いたことがあります。最終的場面での断崖や広間での犯人の自白。この時の犯人の語りは、「語り」であって「言語的な回想」に過ぎないのに、何故かドラマでは「再現フィルム」として描かれる。「語り」だけでは過去の事実をリアルなものとして視聴者が理解しないだろうからです。逆に言えば、「語り」でしかないものから、告白の場に居合わせた人は「再現フィルム」をみているように過去を理解するということなのでしょう。実はこれは「歴史」理解の構造と同じです。「語り」でしかない歴史記述から、再現フィルムをみているように、多くの人は過去をリアルな事実であるかのように捉えがちです。
 二時間ドラマにはいくつかの基本的な構造があります。その一つが、連続殺人。美人女優が犯人の場合は、最初の殺人は「正当性のある」「やむにやまれぬ」動機にもとづくもの、その次の殺人は現場を目撃した「脅迫者」を殺害するというのが、その基本的文法です。
 本当に被害者の側に非のある殺人ならば、裁判でそのことを立証できれば情状酌量でそれほどの刑にならないかもしれない。といっても二時間ドラマの場合、多くの殺人は周到な計画にもとづくアリバイ工作をふまえて行われるわけで、この点は情状をくみとりにくい。それでも死刑判決を受けることはまずないでしょう。しかし、連続殺人となると、かつそれに計画性があるとなると、現在の日本の科刑基準では死刑判決の対象に十分になります。対して第二、第三の殺人で殺されてしまう脅迫者については、脅迫は最高刑が懲役10年ですから、その程度の量刑に対応する犯罪をしただけで、殺されてしうまうのは問題があるでしょう。
 それでもこうした筋書きが視聴者の支持を得ているのは、目撃した事実を警察に告げて公的な捜査に協力することはせずに、脅迫して私的に金銭を得ようとした人間は「殺されても仕方がない」という論理が一般には受け入れられているからでしょう。脅迫はもちろん犯罪ですが、個人の利益が行動の判断基準であることは絶対に間違いというわけはないはずです。しかし、二時間ドラマでは、個人的利益を求めることは死のリスクに値するものでとして描かれています。
by pastandhistories | 2016-04-21 15:31 | Trackback | Comments(0)

許容されているもの、許容されていないもの

 段ボールに入った荷物の片づけには当分かかるでしょうが、毎日机に向かえる生活にはなりました。記事も少しは書けそうです。新しくアクセスしてくれる人がいるようで、なかには以前の記事も見てくれる人がいるようです。最初は理論的な問題をエッセイ風に書いていたのですが、だんだん記事が途絶えるようになり、海外の学会やプロジェクトの内容の紹介が最近では中心になっています。人によって関心の対象は異なるでしょうが、このブログは初期の方に読みやすい記事があるかもしれません。
 今日も先週の土曜日の会にちなむことを書くと、会では『朝日新聞』に掲載された俳優の佐藤浩市さんのインタヴュー記事に関して少しコメントをしました。「昭和30年代の会社での会議シーンで当時の内容を伝えようとして喫煙シーンを放送すると、視聴者から抗議が来る。最近のテレビの制作現場は委縮していて、そうした抗議があると喫煙シーンを避ける」というものです。「現在」の価値が「過去」が現在に表象される内容を規制するという問題です。
 コメントでも指摘しましたが、この問題は「現在」の価値によって過去の表象は「規制」されているという面からだけ考えるのではなく、逆に「現在」の価値によって「放送」することを「許容」されていることは何かということを考えることによって、「過去」が「現在」によっていかに「歴史」として恣意的に表象されているのか、つまり過去がどのように abuse されているのかという問題を明らかにします。
  たとえば戦争による殺人です。大河ドラマは毎年のように、戦国武将たちによる大量の「殺人」を映し出しています。そのことはさほど視聴者からの抗議を招かない。そればかりか、毎年の大河ドラマのロケ地は、ローカルヒストリーとローカルヒーローの顕彰の場となる。「歴史研究者」の中にもこれを機にと「一般書」や「研究書」を出す人がいます。
 同じ過去の事実であっても、「喫煙」シーンは許容されず、「殺人」シーンは許容される。なぜそんな奇妙なことが起きているのかというと、それは現在がなお「国家」による殺人を許容している社会だからです。あるいは集団化された殺人を暗黙裡に是とする社会であるからといってよいかもしれません。普段気づくことが少ないけど、「歴史」の有害性を象徴する端的な事象です。「歴史」がどのように語られているのかをとおして「現在」を見ていくこと、それが歴史の脱構築論が提起したものです。
by pastandhistories | 2016-04-20 10:39 | Trackback | Comments(0)

オーディアンスの問題

 土曜日の会は基本的には歴史研究者と歴史教育者、つまり歴史の作り手や伝え手とされる人々だったので、歴史の受け取り手、つまりオーディアンスとの関係をどう考えるのかということを少し話しました。「知」を媒体としたヒエラルヒーの問題です。逆に言えば、そうした問題を考えなおしていくためには、従来は受け取り手とされていた側から歴史を考えていくことが重要だということです。
 この問題は『開かれた歴史』のなかで保苅実さんの言葉を借りて、冒頭で論じてあります。保苅さんはフィールドワーク的な視点からアプローチしているのでインフォーマントという言葉を使用していますが、「かれら自身を歴史家とみなしたら、彼らはどんな歴史実践をしているのだろう、というふうに考えたわけです。僕は僕で歴史家ですけれども、かれらはかれらで歴史家であると、そういうふうに発想をかえてみると考えてみると、歴史はどんなふうにみえてくるでしょうか。このあたりが、さしあたりの出発点です」という問題です。
 実はこの後に、中心に対しては周縁(というよりも辺境、さらには未開)にあると扱われてきた人々が行っている「近代の知」とは異なる歴史認識のあり方の意味が論じられています。ここで論じられていることは、歴史研究者が「対象」の側から自らをレフレキシヴに考えていくことの重要性です。「一般的な場にある歴史」に対して自らを安易に上位に置くのではなく、「一般的な場」に自らをもおいて、考えていくということの重要さです。
 こうした考え方は間違いなく歴史を「民主化」します。保苅さんは、近代の側から未開として位置づけられたマイノリティ(本当は近代の側こそマイノリティなわけですが)を問題としたわけですが、受け手から歴史を考えれば、受け手だとされている人々を歴史の作り手〈保苅さんの言葉を借りれば歴史実践の行い手)と考えれば、たとえば世界の人口の半分は女性なわけですから、そうした歴史は自動的に歴史にあるジェンダーの問題を解決することになるはずです。ヨーロッパ中心主義も間違いなく克服されるでしょう。当たり前すぎる議論です。
 どのように歴史を作り出すのか、教えるのかは歴史研究者や歴史教育者にとってその職分上きわめて重要ですが、同時に受け手の側からも考えていくことは、歴史の意味を考えていくにあたっては欠かせません。
by pastandhistories | 2016-04-19 10:42 | Trackback | Comments(0)

ローカル・ナショナル・リージョナル・グローバルヒストリー

 大阪から帰って、夜はレスターの試合をチラチラ見ながら久しぶりに記事を書いて布団に入ったけど、新幹線のなかで寝たせいかあまり寝付かれず、4時起床。ちょうどMLBのヤンキーズとマリナーズの試合中で、6回から。そこまでは4対3で二人とも随分と打たれたのかと思ってたら、6、7回はそれぞれ安定した投球。特に田中のボールの回転は縦にも横にも鋭くて、全盛期に調子を戻した感じ。岩隅もそれほど悪いわけではなく、まだボールの伸びや勢いを確かめているようなところがあるけど(そのためにまだ自信をもてないボールの外し方が大きく、カウントを悪くし打たれている)、その点に自信が持てるようになれば、今年もそれなりにやっていきそうです。
 レスターの試合は、人間が複数で行うことのいろいろな「法則」が絡み合って面白く見られました。まずはいくらリードしていたからと言って、ホームでエースストライカーが倒れたら、倒されたという判定ではなくシミュレーションで退場(基本的法則の逆転)、退場で人数が減った方が不利になり逆転〈法則通り)、しかし最初のペナルティーはボールの直接的な奪い合いとは関係ないところでのホールディングが理由(ホームの側がこうした反則を取られるのは非法則的)、ロスタイムで今度はボールに絡むところでアウェイの側が同じような反則(ヘディングシュートの態勢に入ったフートに対するプレー)をしたのにここでは笛は吹かれず、このまま終わるのかなと思ったら最後はより軽微な反則に笛が吹かれてペナルティ、同点で終了(ここはミスジャッジ埋め合わせの法則)。法則にかなったところもありますが、それ以上にレフリーの主体的作用(human agency)が際立った試合でした。というように、結果論的には批評的な因果的説明ができますが、2-2のドローというのは、この5試合ほどでもレスターには1点以上の失点はなかったわけですからく、10倍以上のオッズになったのではと思います。単純な法則の存在が多々議論できるサッカーの試合でも、人間の主体的行動によって結果が左右される、そうした相互関係が、サッカーの試合結果を単純には予想できない、複雑系に属する出来事、つまりギャンブルの対象としているということです。
 前置きが長くなってしまったけど、今日は会でやはり質問の出た表題のことについて触れます。やや答え方が悪く申し訳ないところがありました。自分は一般的には区分け的な議論の仕方、その代表は二元論的な議論ですが、そうしたものには批判的です。常に区分けには「恣意性」が付きまとうからです。同じように羅列論的な議論にも批判的です。たとえば「フランス革命の原因は、・・・・のような4つあった」とか、「明治維新が成功した主たる理由を3つ大事なものからあげなさい」というような議論の仕方です。たしかに「議論」や「叙述」においては便利ですが、しかし論理的な厳密性には疑問があるからです。とくにこうした区分けをした場合、区分けされたものの中間にあるものをどう考えるか、また歴史であれば時間的変化の中で流動性が必ず伴っていて、区分けされたものは時間的に変化していくわけですから、厳密に考えれば議論はそう簡単には単純化できないからです。
 「恣意的な分割」という問題です。ということで虹の色を例にとって「虹は7色ではなく、256色×1024色である」と答えました。精度の高いコンピュータであれば色はそのように分割されているわけで、視力がきわめてよい人が「構築された先見」にとらわれず、虹を率直に見ればそう見えるかもしれません。「裸の王様」の子供のようにです。したがって、最近では段階的な変化を示すのに、しばしば spectrum という言葉がもちいられています。一定の範囲の中でのどこでも区切ることができるような様々なヴァリエーション。そのことを質問に合わせて会場に問題提起しようと思いました。しかし、この答え方は、質問内容とはずれた部分がありました。質問は「区分け」の問題ではなく、アプローチの方法の差異についてどう考えているのかというものだったからです。
 異なる角度からのアプローチはそれ自体として否定されるべきことではありません。その意味ではローカル・ナショナル・リージョナル・グローバルヒストリーという異なるアプローチが、現在の歴史研究における基本的なものであることは当然です。また安易にグローバルヒストリーとナショナルヒストリーを対置するだけではなく、ローカルヒストリーやリージョナルヒストリーをも組み込んで議論をすべきだという主張は間違っていません。その点について報告に欠けるところがあるという印象を与えたのは申し訳ない感じがします。ただこの問題について一つコメントを加えると、報告ではグローバルヒストリーとナショナルヒストリーの共通性を論じましたが、アプローチとして異なるものの中に「問題とすべき」共通性が内在しているとしたら、それは歴史研究者の問題意識の欠如として、やはり批判を留保すべきだということです。
 海外の研究者と山梨の歴史博物館に行った時のことですが、この博物館は網野善彦さんが展示の内容についての議論に加わったとのことでした。網野さんのアイディアらしく内容、人々の生活のジオラマが豊富で、また佐倉の歴博もそうした形式をとっていますが、時代順ではなくランダムアクセスができるようになっていて工夫があります。しかし、この博物館の展示に関して、地元から大きな異論もあったとのことです。それは武田信玄の扱いを小さくしようとしたからです。当然です。ローカルヒストリーがローカルヒーローを称揚するものであれば、それはナショナルヒストリーとレベルとしては同じです。そうしたローカルヒーロー〈多くは戦国時代の武将)を中心とした歴史をいくら作り出しても、それは本来のあるべき歴史ではないという網野さんの考えは間違っていないでしょう。
 逆に言えば、ローカルヒストリーは一見ナショナルヒストリーと区別されるものであるように見えても、同時に類似した内容を含んでいます。やや質が異なる問題ですが、自分が主張したことはグローバルヒストリーとナショナルヒストリーもモダニティを媒介として、やはり同じような内容があるのではないか、あるとしたらそのことに歴史研究者はもう少し意識的であってほしいということです。
by pastandhistories | 2016-04-18 10:26 | Trackback | Comments(0)

複雑系の考え方

 昨日は報告で大阪。結局は3月末までにチャーティスト運動について文章を一つ。返す刀で今度は方法論の報告ということで、くわえて色々と整理しなければならないことも多く、またまたブログは長期の休み。今月後半もまだ雑事がありますが、少しは時間が取れそうなので、いくつか記事を書く予定です。まずは昨日の報告に関して。随分と意外な人が参加していて驚きましたが、同時に感謝しています。でも相変わらず話をまとめるのは苦手。そこで質問があったことについて、いくつか補足的に書いておきます。
 書きやすそうなことから書くと、まずは因果関係・法則性について、歴史は複雑系だとしたらどのように法則が抽出できるのか、あるいはできないのか、という質問に対して。以前プレミアでのレスターの優勝可能性について「ギャンブルと歴史」という記事を書きましたが、ちょうど今レスターの試合中なので、その試合を見ながら書いていきます。
 複雑系を考える場合は、逆に自然科学の一部にある単純系(自然科学すべてが単純系ではもちろんありません)のことを考えるとわかりやすいかもしれません。たとえば「水は百度で沸騰する」という法則。これはギャンブルの対象になるでしょうか。おそらくならないでしょう。このことが示していることは、法則にもとづいて結果が予測できるものは、ギャンブルの対象にはならないということです。
 これに対してスポーツの試合結果はギャンブルの対象になります。色々な与件が入り混じっていて、結果がその都度変わるからです。だとしたら複雑系?。でもたとえばサッカーの試合を複雑系というのはオーバーです。なぜなら参加する人間は審判を含めて僅か30人程度、時間もたったの2時間程度に限定されていて、かつ「ルール」もあります。「歴史」の複雑さにはとても比較できkない。それでも「結果」を「法則」的に予想することはできません。だからギャンブルの対象になるわけです。つまり単純なサッカーの試合ですら実は複雑系に属しています。このことからも分かるように、人間が集団的に行う行為の結果を決定論的に予測することはきわめて難しいことです。そう考えれば、膨大な人々が様々な与件を前提として関係しあう歴史が「複雑系」に属するかという問いは、問うまでもないことでしょう。
 しかし、サッカーの試合がどういう結果になるのかということに関して、因果関係がないわけではけっしてありません。それはサッカーの試合でも、あるいは競馬の結果でも、翌日の新聞を見ればよくわかります。いわく「チームワークが」「エース不在が」「戦術ミスが」あるいは「天候的条件が」等々、勝敗の結果に関して実に多くの「原因」が説明されます。そして翌週の試合、あるいはレースの前には、「結果」に対する「予想」が、そうした様々な「原因」を挙げるかたちで論じられます。もちろんそれは次の週の結果をみれば理解できるように、結果は「当たるも八卦」「当たらぬも八卦」でしかありません。
 アイロニカルに言えば、サッカーや競馬が大衆的なギャンブルになって100年ほどの間に、勤勉な実証的歴史家たちが積み上げてきたデータのおそらくは数万倍以上のデータが蓄積されてきているにもかかわらず、試合の結果はギャンブルの対象としてとどまり続けています。つまり出来事が結果論的には因果的にいくら説明できることが多くても、それがいくら蓄積されても、サッカーのような単純な出来事の結果ですら、「水は百度で沸騰する」というような因果関係で説明できるわけではないということです。だからギャンブルの対象としてとどまり続けているということです。
 しかし、すべての自然科学的法則が単純系に属しているわけではないように、抽出される結果を限定すれば、人間が集団的に行う行為でも、ある程度の蓋然性や傾向性を予測することが絶対できないというわけではありません。たとえば時間軸を恣意的に設定したり、求める答えを意図的に単純化したり(たとえば意図的な二元論的な選択を導入したり)すれば、問題によってはそのことは可能〈にみえる)かもしれません。それが社会科学や人文科学が成立している根拠です。
 しかし、歴史学に関して因果関係の問題を考えるときに重要なことは、その理由を上述したように、結果論的な因果的説明(歴史は起きたことを説明するにとどめるべきだといえば、歴史叙述における因果的説明はそれにとどめるべきだということになります)は、けっして厳密な意味での法則的説明とはなってはいないということです。
by pastandhistories | 2016-04-17 22:44 | Trackback | Comments(0)

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