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7月30日

 タイトルにもあるように、今日は会のお知らせです。
日時は、7月30日〈土)13時半~17時。
場所は東洋大学白山キャンパス2号館16階のスカイホール。
企画内容は、長谷川貴彦さん、喜安朗さん、小野寺拓也さんを招いての、長谷川貴彦さんの近著『現代歴史学への展望―言語論的転回を超えて』の公開書評会です。
 この間の歴史研究の流れをきわめて明解に整理した、かつ本当にどこからでも議論できる研究状況の豊富な紹介を含んだ書物ですし、コメンテイターも論客に引き受けてもらえたので、かなり面白い会になるのではと思います。ここで名前は記しませんが、コメンテイター以外にもきちんとした議論をしてくれる人が参加の意思を伝えてくれているので、その点でも楽しみです。
 なお当日は場所や時間が許せば、会の終了後、歴史研究をめぐる色々な状況や、今年の今後の企画などについて、自由に議論ができればと考えています。この時期は大学の行事や他の研究会のいろいろな行事と本当にバッティングする時期ですが、もし関心があるようでしたら、ご参加ください。
  
by pastandhistories | 2016-07-25 23:04 | Trackback | Comments(0)

プレセンスという問題

 ボーフムの会についての紹介は、色々なことを羅列的に書いているので伝わらないところがありそうです。逆に言えば、統一性を持たせようとしたけど、結局は拡散したというところが会での議論にはありました。最終日の総括的議論はそれぞれが自分の考えをはっきり述べてよかったのですが、ここでも枕詞的に使われたのはヘイドン・ホワイト。ホワイトの議論は相対主義に帰結するという批判は常に繰り返されているわけで、そのことを逆手にとって歴史叙述に関する統一的な方向性を模索したけど、逆に議論は拡散化した。ヒューマニティーズへの回帰を感じたと書いたのはそのためです。この辺りは本当に難しいことだけど、また折に触れて書いていこうと思います。
 今日はガラッと話を変えて、会でも問題となった「時間」の問題について少し書きます。historical time という言葉がある時期から盛んに使用されているように、「歴史」と「時間」の問題は、歴史をナラティヴとして叙述する際には、時間的推移との関連付けはきわめて重要な要素ですから、随分と議論されてきました。そのなかで出てきた問題は、昨日も書いたけど、時間の複層性、それから時間的距離の喪失、あるいは時間の遡行性という問題です。
 自分は歴史における時間の問題は、いわゆる歴史の科学的認識とは相いれないと考えています。たとえば、ブローデルの3区分、厳密な意味で決して科学的なものではないでしょう。多くの歴史の側からの時間についての説明は、叙述や認識にとって有用なものとしてもちいられているものです。しかし、時間が叙述にどのように組み入れられているのかは、とても重要な問題です。
 時々このブログではサブカルチャーとして扱われている分野の代表である漫画、その代表的作家である手塚治虫のことを取り上げていますが、手塚治虫は時間意識についても重要な問題を提起していました。そのなかで、過去と未来が現在に同時的にプレゼンスしているという問題を提示したのが、自ら代表的作品であるとした『火の鳥』です。この作品は「不死」をテーマとした作品として扱われがちですが、それ以上に重要なのは時間へのアプローチ。結局は未完に終わりましたが、人類の死滅という超未来から始まって、古代に戻り、また未来から時代を遡り、一方では現在に向かって過去から順次ストーリーが辿られているというこの作品の構造は、手塚治虫が「過去」と「未来」の現在における「同時的プレゼンス」というテーマから時間の問題を考えていたことを見事に示しています。さらに書き加えれば人々の意識になかでの時間の短縮という問題。これは『火の鳥・未来編』で描かれた暗黒な背景に星が点滅するというたった一枚の絵にふされた、「そして何十億年がたった」という言葉に端的に示されています。
 手塚治虫は単純に分類すれば近代主義者として捉えられがちです。しかし、こうした時間意識は彼が過去から現在への進歩、そしてその未来への延長という、順行的なクロノロジカルな流れとして時間を捉えていた近代のメタナラティヴとは大きく異なった立場に立とうとしていたことを示しています。そして彼が抱いていたそうした視点から歴史の問題を見ていくことは、とても重要なことだと自分は考えています。
by pastandhistories | 2016-07-12 11:36 | Trackback | Comments(0)

歴史と物語

 前回の英語のタイトルを日本語にしただけのようなタイトルだけど、同じボーフムの会のことなのでそれでいいいでしょう。実は前回の続きのけっこう長い記事を宿で書いたけど、送信しようと思ったらネットが切れておシャカ。似たようなことが今回の発表にもあって、朝一番という役割を与えれたので30分前に会場に行き、入念にパワポの作動を確認したはずなの、発表を始めたらパワポが作動せず、担当の人がいろいろ試みたけど10分ほど動かず。時間が15分と言われていたので、焦ってしまい途中からは十分な発表とはなりませんでした。
 本来は事前にペーパーは全員にオンラインで配布されているので(すでに書いたように自分のところに来たのは7月2日)、発表は要旨だけでよいということだったのですが(そのためにパワポを用意しました)、かなりの人が自分の発表の準備でそれが難しく、悪いことに前夜がドイツが残っていたヨーロッパカップの準決勝。皆そちらを見ていたようです。最も準備した文章の内容はそれなりに自分では納得しているし、今回はそれぞれの発表に対するコメントを添えて、自分の書いた英文ペーパーを2点ほどは初対面だった各参加者に送ったので、自分の考え方はある程度伝えることができるのではと思います。さっそく何人かからは返答メールがありました。
 こうした方法は便利ですが、それに相手側の論文を付されているので読んで感想を送り返すのが大変。さらに今回は皆メールがプロフェッサー宛になっていることに妙に感心しました。ドイツならではということなのかもしれません。会場でもそうしたところがあり、普通はこうした会ではファーストネームで呼ばれていたので、奇妙な感じがします。こちらから送ったコメントにも記しましたが、刊行計画のある論文集への寄稿であり、またそれなりの準備期間があったようなので、それぞれの発表はまとまりのあるもの多かったのですが、歴史と物語というテーマをを論じるのなら、もう少し厳密な論理構成や比較内容がほしいと思わせるところがありました。
 たとえばドイツ赤軍派を例にとった分析では、その流れの叙述が、「テロリズム」、「クライム」、「人質」、「犠牲」といたメディア的表現をつなぎ合わせて説明されましたが、もともと物語論はテキストを構成する記号の恣意性を批判的に論じているわけで、ノーム・チョムスキーが「テロリズム」という言葉を例に批判的に論じているように、そうした個々の記号への分析がやはり必要なはずです〈最もこの報告は後半はパーソナルナラティヴによる事件の見直しの問題を指摘して、それなりに興味深い問題提起をしていました)。
 また何人かの人が触れた歴史教科書の比較(移民者への歴史知識を求めるための歴史テキストの比較というもの興味深いものもありました)は、これは国際歴史学会議のこうした問題を扱ったセッションの紹介でも触れましたが、発行時期の違いによる内容の違いを指摘するのだけなら、それはある意味では「コンテクスト」や「アプローチ」が変化したという自明の結論になってしまうわけです。むしろ同じ本の中で、同じ著者たちによって同じ時期に書かれたはずの叙述が、厳密に見ていくと地域や時期によって実はどのような差異があるのか、その根拠は何なのかということを論じることも必要ではと思うところがありました。
 また1960年代の運動を公民権運動というかたちで「成功」した物語の一部として捉えることにより、併存していたブラックパワーの運動がそうした物語からは排除されているとした興味深い発表もありました.。実はこうした問題は社会運動史評価にとっては基本的な問題として繰り返されてきた問題でもあるので、そうしたことへの理解もほしいと感じました。
 さらに物語的叙述にとtって基本的な問題である時間性の問題、もちろんこれは時間の複層性と、時間的距離の消滅、過去と未来の現在における同時的ブレセンスということから論じられることになりますが、この辺りも議論としては蓄積のあるところです。
 また会では何人かが物語分析を、その構造や個々の要素の系列的関係を図表化することをとおして試みました。これもまた近年は多くの学問分野で、文芸理論ばかりでなく、政治学や社会学でもとられている方法です。しかし、それがどのような論理的厳密さを持つかは、なお多くの議論の余地があります。戯画化して申し訳ないのですが、最近では自分の名前をネットで検索すると「スパイシー」とされる図表に出会います。これは笑えるほど楽しい。コンピューターのオートノマス作業なのでしょうが、相関図表というものが必ずしもの信用に足らない一例です。もちろん学問的世界での試みはこれほどいい加減ではないでしょうが、それでも図表をとおしての相関関係、系列関係の提示を、緻密なかたちで行うのは本当はかなり難しい作業です。
 いずれにせよ、テーマのためだとは思いますが、三日間の議論で感じたことは、歴史が Humanities の一部として議論されるという流れです。ヘイドン・ホワイトはそのことを論じて近代歴史叙述・歴史学を批判したわけで、歴史が Humanities の一部であることを認めるなら、ホワイトの議論は正しかったことになります。前回も書いたけど、厳密な物語分析を行い、たとえ物語構造を持つものであってもそうした作業をふまえた緻密な歴史叙述をすれば、現在の歴史の危機は克服できるのではということなのですが、その作業はそれほど簡単なことではないでしょう。
by pastandhistories | 2016-07-11 22:21 | Trackback | Comments(0)

Historical Narrative

 ボーフムでの会は二日目が終わりました。例によって発表は頼まれたけど、正確な会の意図はあまり伝えられていなかったのですが、会のタイトルは Analysing Historical Narrative: Theory and Practice というもの。シュテファンとクリス・ロレンツ、それから Nicola Brauch, Joanna Seiffert という4人の研究者によって組織されたものです。
 まだ一日を残しているけど、内容はタイトルにかなり忠実、すでにぺーパ-がオンライン上にあげられているものを含めて簡単に紹介すると、歴史(実際の個別的歴史叙述、具体的には歴史教育や歴史小説、あるいは個別的問題についての叙述)に、物語的な枠組みがどのように用いられているのかを、物語論をふまえて議論していこうというものです。何人かの年輩者(さすがに経験的なものもあって、報告内容は安定しています)も参加しているけど、基本的には30代ー40代の中堅・若手研究者が中心(物語論を応用した分析となると歴史研究者の年はどうしても若くなります、もちろん本来は文学研究者、メディア論という人もいるようです)、個別的なテーマを素材に上述のような視点からの報告が行われています。具体的には、ドイツとイタリアの歴史教科書におけるペルシャ戦争の叙述、フランスの教科書におけるシーザー、中世の歴史小説が広く受けられていることを踏まえた時間的意識の短縮論(時間的意識の短縮が統合的な歴史意識に重要な役割を果たしていることは、このブログでも何度か紹介・議論したことがあります)、イギリスへの移住者受入れテスト用の歴史教材の内容の変化の分析、さらには『ニュー・ブレーブ・ワールド』を素材とした未来論(こうした問題も安部公房を素材に自著で論じたことがあります)、ドイツ赤軍派の叙述のされかた、それからアメリカにおける公民権運動の叙述をブラックパワー的視点からの理解と比較した発表、さらには日本からは世界史教科書の時代的比較、といったものがその内容です。さらにはこれはまだ読んでいないけど(聞いてもいない)、シークや南米の独立についてのナラティヴについての発表が今日あります。それにグローバルヒストリー論や、時間論といった理論的問題も含まれています。自分は言語とオーディアンスの問題を中心に、歴史の科学性とナショナリティの問題を論じました。
 組織者の力量もあって、かつ以前からかなり準備が進んでいるということもあって、発表のレベルはそれなりに安定しているし、面白く聞けるものが多いけど、やなり一つ抜け出した印象があったのは、このブログで何度か紹介したことのあるウルフ・カンシュタイナーです。「歴史と映画」論もこれから盛んになっていけば、あるいはすでにIAMHISTについての紹介で書いたように、すでに制作された映画は膨大だから、無限の批評的議論が生み出されてしまう。その意味では(日本の)大学の文学研究と同じです。しかし、歴史家が「歴史」を種にそれを論じても、映画批評というのは十分に蓄積のある領域なので、それとのレベルの差が出てしまう(歴史家自体はあまり意識しないけど)。カンシュタイナーの議論はそうしたことを前提としながらも、本来は歴史叙述の限界性を指摘した物語論を逆手にとって、厳密な理論的意識に支えられた緻密な物語的構造を歴史叙述に用いていけば、物語論が登場した以降の歴史の隘路を切り開いていく可能性があるのではというものです。というよりそうしたことがシュテファンをはじめとした今回の組織者の意図でもあるようです。
 たしかに大事な発想ですし、そうした可能性を探ることはかなり重要な感じがします(日本でもこれからはやるかもしれません)。しかし、文芸批評にはきわめて大きな独自の歴史的蓄積があります。物語論もそうしたなかで論じられているものです。それを歴史に対する批判的言説を形成するために用いたところにヘイドン・ホワイトのアイディアの秀逸さがあったわけですが、それを歴史に対してポジティヴに用いていくためには、歴史研究者の側にかなりの努力と能力を必要とするはずです。
 報告の多くもそうした問題に踏み込もうとして、文体構造や時間性、あるいは枠組形成の問題といった理論的問題を組み込む努力をしていましたが、この問題は本当に難しい。しかし、そのことが真剣に議論されて、その難しさが分かったことが(単なる論文集を作るのなら、それは簡単な作業だけど)今回の大きな収穫でした。
 でも収穫といえば、二日目のディナーで席がシュテファン、それから北京社会科学院から参加した Xupeng Zhang, そして Lucian Holscher という人と一緒になったことです。この Lucian(1948年生まれ)はコゼレクの弟子、3時間以上話しましたが半分は個人的なことを含めてコゼレクの話で、本当に面白く聞けました。実はある人からコゼレクを翻訳するという計画を立てようという話をされていますが、その点でも参考になりました。

by pastandhistories | 2016-07-09 13:34 | Trackback | Comments(0)

蚊との共生

 日程のバッティングに加えて、最初に会場を間違えてしまい(同じゲントでのINTHは大学での開催だったけど、今回は別の場所だった)WHA(世界史学会)への参加は最終日の一日にとどまってしまいました。それも最後は総会的な会合とレセプションが中心で、参加できたセッションは National Identities Reconsidered というもの。ここではロマニ、クルド、そしてハイティ革命についての報告がありました。対象とされた事例からもわかるように、nation をいわゆる近代国民国家の枠を作ったものとは別の視点からとらえた報告です。この事例からもわかるように、プログラムをみると、南米、東南アジア、アフリカ、中東についてのケーススタディーズが多く、「世界史」の対象とするものが日本での関心とはかなり異なること、また日本ではこれらの領域研究で歴史教員として就職することはかなり困難だけど、アメリカではそうではないということを感じさせられました。こうした地域研究とともに、プログラムとみるとグローバルヒストリー論を意識したうえでのワールドヒストリー論を作り出そうということがいろいろ試みられていた感じです。 
 もともとこの会は基本的にはアメリカの世界史教育者を中心としたもの。したがって最初は大会も初期にはアメリカで行われていたわけですが、それを広げるために今回のヨーロッパ開催ということになったようです。しかし、ここでも紹介したことのある北京で行われた時の大会参加者やAWHA関連の参加者はほとんど姿がなく、これもまたここで紹介したENIUGH関連の参加者はほとんどありませんでした。国際学会同士の相互協力は必ずしも円滑ではないのでしょう。もっともここでもキースピーカーはスヴェン・ベッカート。前半で帰ったらしく会えませんでしたが、こうした領域ではどこからも第一人者として評価されているということなのだと思います。
 こんな感じで、今回のWHAに関しては報告らしいことをきちんと書けないで申し訳ないところがあります。今日は日程の上では1日空白ですが、ボーフムの会の発表原稿が2日にいちどきに11本、それから追加が1本送られてきて、、以前にすでに入手しているものが何本かということで、それを今日中に読み終えなければなりません(会は明日午後から)。ホテル(というより民宿で滞在者は4人、これが定員のようです)の部屋は広く居心地はいいのですが、なぜか蚊が一匹。時々食事の時間になるようです。南米だったら大変ですが、まあ少しくらいはよいだろうということで蚊と共生しながら過ごしています。ほかの生命体との共生というのも、エコロジカルな視点からの最近の歴史学の一つのテーマなわけですから。
 

by pastandhistories | 2016-07-06 14:18 | Trackback | Comments(0)

議論の進め方

 昨日がロンドンでの集まりの最終日。三つのセッションに出ました。最初は、the Politics of Doing History Online という会です。予想外に参加者は少なかったけれど、昨日の記事に書いたことと基本的には重複した内容。ここでは Broddie Woddell という人がかなり整理された話をしました。デジタル化は、一部の研究者を特権化している、また優先的にデジタル化されるものは、基本的には議会文書や公的資料、あるいは大メディア、さらには手稿であってもたとえば有名政治家や偉人のものがまずはデジタル化されているという意味で、今までの歴史研究以上に偏った部分もある、しかし、その一方では普通の人々を自らについての情報をオンライン化している。そうしたものを利用すれば、歴史を変えることができるかもしれないというのがその内容でした。 
 次は「グローバルなラディカリズムへのロンドンの影響」という会に出ました。このセッションでの報告は、19世紀半ばのロンドンでの亡命者の活動、あるいは19世紀末のドイツの新聞でそれがどう報道されていたのかという個別的な研究という内容。今回の会は昼休みの時間がとられていないので休む暇なく、ホールで行われた歌とデモのパフォーマンスに見に行きましたが、これは楽しめました。内容は二つ、一つはチャーティストの詩についての著書があるマイケル・ソウンダーズがチャーティスト運動の経緯を説明し、それに合わせてそれぞれの時期の詩を歌手が曲をつけて歌うというものです。厳密には音符が残されているわけではないので、曲づけや参考とされたと思われる hymns などに合わされて歌われました。「音」として当時の内容を伝えようという試みです。さらに面白かったのは、デモのパフォ-マンス。楽隊を中心に、女性や子供が参加した行進。過去のパフォーマティヴな representation です。こうした問題はチャーティスト運動研究について最近書いた紹介でも触れてありますが、ある意味では当然の歴史へのアプローチです。
 最後は総括的な集会。まずは会にかかわるツイッターが映し出され、それをもとにアリスン・ライトが司会進行役を務めました。ツイッターはフリーアクセスなわけですが、会の進行も基本的にはそうしたもの。誰もが自由に発言し、声の大きな人が繰り返し発言することを避けるという形で議論は進行しました。当然大学に籍のある研究者ではない人も同等の発言権。内容的には History Workshop が目指しているものを実現するにはむしろ大きな困難があることを感じさせましたが、しかしその解決は、平等な議論の場を提供すること以外からは生じないという発足以来の強い信念を感じさせるところがありました。

by pastandhistories | 2016-07-04 13:26 | Trackback | Comments(0)

歴史研究の競争的独占

 History Workshop の会合は二日目を終えました。今回この会合に参加して感じたことの一つは、予想通り Alternatives の喪失、あるいはそれが明確には見えにくくなったことをどう考えていくのかという問題。 社会全体や、政治について、そして歴史研究についても(前者についてそうした問題があるから、後者についても同じ問題が生じているということだと思うのですが)、そのことが議論されています。困難な課題ですが、少なくともそうした議論が幅広い人々を交えた場で議論されていることには救いがあります。
 もう一つは、これは意外だったけど、デジタル化への批判がかなり議論されていること。会場では History Workshop Journal のバックナンバーを無料で入手することができ、これはオンライン化に伴って紙媒体が役割を喪失しつつあることを反映したものです。その意味ではオンライン化には歴史研究へのアプローチを容易化する面もあるわけで、そのことへの批判が少なくなかったのは、随分と意外でした。
 批判の一つの根拠は、デジタル化による歴史研究の過度の専門化が History Workshop が目指してきた歴史研究の民主化とは逆行するものではないのかという疑問です。たとえば一部の大学や研究機関において進められている商業化されたデジタル史料の独占化は、一部の人にしかアクセスできない歴史研究を生み出している。そのことには大きな問題があるのではという批判です。
 でも史料の独占化というのは、よく考えてみると昔からあった問題。あるいは今でも別のかたちで生じている問題です。たとえば西洋史研究の場合、一部の「エリート」的研究者が海外研究の機会を与えられ、そのことをとおして他人はアクセスできない史料を独占し、「業績」を作り出し、「地位」を築いてきました。しかし、このことは自分たちが批判しているふりをした資本主義の持つメカニズム(独占化への競争)と質的には極めて似通ったもの。競争者さらには一般の人々を同等の地位には立たせないという点できわめて非民主的なものです。場は異なりますが、そうした研究のあり方への批判から形成された History Workshop の参加者が(その中には多くの専門的研究者ではない人たちがいます、今回もそうした人々からの発言が行われています)デジタル化に流れにそうしたにおいをかぎとっているということなのだと思います。 
 なんとなくデジタル化への流れを当然だと考えていた自分にとっては、今回の non academic career の人を交えた会でこうした議論を聞いたのは大変参考になりました。「歴史」がナショナリズムと結合するものであることは随分と議論されてきたけど、実は「歴史研究」には資本主義のメカニズムと、あるいはエリート主義的な統治システムと一体性を持つものがあったということへの自覚もまた必要だということを今回改めて感じさせられました。 History Workshop の運動は、歴史研究のそうした側面への批判から生じ、現在もなお継続している運動だということです。

by pastandhistories | 2016-07-03 13:32 | Trackback | Comments(0)

radical histories /histories of Radicalism

昨晩ロンドンに着いて、ロンドン滞在の二日目を終えました。今回のロンドン滞在は、タイトルにある会議に参加するため。ヒストリーが複数形になっている。それはこのブログの英文タイトルと同じです。会のサブタイトルは、A Major Conference & Public History Festival というもので、自分が編著のサブタイトルにもちいたパブリックヒストリーという言葉も使用されています。こうしたタイトルにも示されているように、ラディカリズム、ヒストリーズ、パブリックヒストリーは結び合わされて使用されることのある言葉です。
 実は集会の母体はHistory Workshop Movement。今年がHistory Workshop Journal 刊行40年、ラファエル・サミュエル没後20年ということで、かなり力を入れたらしく、200人以上の参加者。イギリス以外からも、ジェフ・イリー、ジュディス・ヴァルコヴィッチ、エリック・フォーナー、それから自分の知っている名としてはエフィ・ガツィが姿を見せています。
 場所はクイーン・メアリー・コレッジ。地下鉄マイル・エンドから徒歩ですが、そこから近道をして校内に入ったのが大間違い。会場にいる何人かの人に聞いても参加登録の場所が皆わからない。いずれも近道をしたため。あれやこれやで午前のセッション、午後の最初のセッションが終わって、別の建物での会に参加しようとしたら、そこが参加登録の場所。そこで詳細なプログラムを入手。やっと会に参加している気分になりました。
 結局は朝9時半から夜8時まで、ぶっとおしで6つのパネルに参加しました。自分にとって一番役立ったのは、Radical London というパネル。ソホのエクレクティク・ホールを扱ったSarah Wise という人の報告が実質的には1848年以降のブロンテール・オブライエンの活動を論じたものだったからです。紹介はindependent scholar。ヒストリーワークショップの会合ならです。 最後の総括的なパネルでの議論も参考となるところがありました。歴史を批判的、急進的な視点から構築しようとしてきた努力が、現在ではどのような状況にあるのかが率直に議論されたからです。
 参加していた日本人は初日を見る限りは自分ともう一人。この人が会の内容を日本で紹介する予定があるということなので、これまでのように個別的内容をここでは紹介しません。しかし、残念だったのはやはり日本からの参加者がほかになかったこと。開催場所はロンドンだし、ヒストリーワークショップは、大学での歴史研究に対する批判として重要なもの。なんといってもジェンダーやエスニシティ、さらには歴史のかたちや場の問題を継続的に論じ続けている試みであって、そうしたものへの関心がこれだけ増加した海外滞在中の日本研究者の関心の対象外にあることは残念です。

by pastandhistories | 2016-07-02 15:49 | Trackback | Comments(0)

7月30日

 今予定通りロンドンです。出発前にある程度内容を固めなければいかないということで少し準備作業が大変でしたが、予定していた月末の会は7月30日(土)ということでほぼ内容が固まりました。取り上げるのは長谷川貴彦さんの新著『現代歴史学への展望ー言語論的転回を超えて」(岩波書店)、長谷川さん他、喜安朗さん、小野寺拓也さんに評者として参加してもらえることになりました。日程がやはりバッティングが多い時なのでそれが残念ですが、内容的には期待できるので多くの人が参加してもらえればと思います。
 またこれもここで書いてよいのではと思いますが、ヘイドン・ホワイトの著作や論文についていくつかの計画が現在進捗しています(『メタヒストリー』とは別の話です)。また近くラトリッジからヘイドンホワイト論(論文集)を出版する予定のカレ・ピヒライネンが今日本に滞在中なので、彼や関係者を招いて会をしたいと考えていますが、やはりヘイドン・ホワイト論となると準備が必要なので、それは秋くらいになるのではと思います。

by pastandhistories | 2016-07-01 16:33 | Trackback | Comments(0)

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