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パブリックな場の歴史とのかかわり

 キャサリン・ホジキンによるラファエル・サミュエルとヒストリー・ワークショップについての話は、コンパクトによくまとめられていて、とてもわかりやすいものでした。院生クラスだけでなく、学生にも聞いてほしいような話でしたが、日程的なこともあってそうした準備ができず、時期的にもいろいろな重なりから参加者が少なかったのは残念です。ホワイト論の時など、今年度のプロジェクトは理論的な問題の時は予想外に多い参加者があったのとはある意味では対照的で、現在の歴史研究者の関心のあり方、とりわけ非アカデミズム的なものに対しての関心の薄さを感じました。
 質疑でも出ましたが、ヒストリーワークショップ運動が提起した問題を考えるときは、practicing history, doing history と、making history, constructing history を少し区別して考えるのがよいのではと思います。前者はすべての人々が行うこと、後者は専門的な歴史家や state にその権限が委ねられているというようにです。そう考えれば、後者に対する批判としての前者の持つ意味が理解できるのではと思います。
 ところで、今日の『朝日新聞』の書評欄では、人類史(ビッグヒストリー)が大きく取り上げられ、クリスチャンやハラリの本が改めて紹介されていました。その理由はきわめて明確です。ベストセラーだからです。つまりパブリックな場でそうした大きな歴史が大きな関心を集めているからです。自画自賛になりますが、このブログはたぶんビッグヒストリー論を日本でもっとも早く紹介したものの一つのはずです。アメリカ歴史学会や世界史学会で行われていた小さなセッションの内容を紹介してきたからです。いずれも参加者は20人足らずで、それがこれほどの広がりを持つようになるとは記事を書いたときは正直予想できませんでした。
 逆にヒストリーワークショップ運動は小さな歴史の試みの一つです。問題は、ビッグヒストリーのような大きな歴史、ヒストリーワークショップ運動のような小さな歴史、そうしたものが伝統的な学問的な歴史の外部に位置するものとして扱われ、アカデミックな場にある歴史がそれを自らの内部にあるものとすることができないことです(実は小さな歴史でも、いわゆるミスロヒストリーとして、その実証性を根拠に学問的世界に位置しているものもありますが)。その点でアカデミックな歴史がパブリックな場での関心とかけ離れたものとなっていることです。
 という議論にはもちろん反論が成り立ちえます。たとえば最近の歴史研究は、戦国期やお城、あるいは武士の日常生活などをめぐる歴史ブーム、ヨーロッパ社会の貴族や庶民の暮らしへの関心、といったようなパブリックな場にある関心と結びついているというような議論です。しかし、そうした関心は何に支えられているのでしょうか。そうした関心の背後にあるのは、ナショナリティに基づく歴史意識、あるいはヨーロッパを日常的な趣味的な関心の対象とするモダニティへの同化意識ではないのでしょうか。
 その意味では同じパブリックな場での関心といっても、ビッグヒストリー論や、普通の人々にとっての歴史への関心は、前述のようなものとは質的に異なるものです。こうした関心にどうかかわっていくのかということこそが、現在の歴史研究にとっては、より重要な問題です。

by pastandhistories | 2017-02-26 09:04 | Trackback | Comments(0)

大きな歴史と小さな歴史

 今から宣伝してもと思いますが、今日のワークショップで話してくれるキャサリン・ホジキンはすでに来日しています。火曜日に簡単な打ち合わせをしました。今日は近世イギリス史について、25日はヒストリーワークショップ運動の歴史について話してくれます。普通の人から見た小さな歴史についてです。やや専門的な話も入るので、参加者数が心配ですが、午後は天気も良くなりそうなので、関心のある人は参加してください。場所は大学の敷地の中ではなく、正門の向かい5階建ての建物の3階です。
 関心といえば、ハラリの『サピエンス全史』はすでに38万部売れたそうです。いわゆるビッグヒストリーの流れにあるものです。デイヴィッド・クリスチャンも同じように売れたようで、一般の場の歴史への関心のあり方をうかがわせます。このブログで初めてビッグヒストリー論を紹介した際は、自分にも戸惑いがあって、紹介に足りないところがありました。ここまでこうしたいわゆる大きな歴史が高い関心の対象になるとは、予想していませんでした。
 今日の夜は連続番組となったファミリーヒストリーがNHKで放送されるようです。ファミリーヒストリーはかなり難しい問題があるはずで、テレビ番組をとおしてそこまでの厳密な構成はできませんが(これまでの放送でもそうでした)、こうした放送をとおして大きな関心の対象となっていくでしょう。こちらは個人を起点としたいわば小さな歴史です。
 残念ながらこうしたパブリックな場での大きな歴史と小さな歴史への関心の広がりに、現在の日本の学問的歴史はほとんど対応できていません。その理由がどういうところにあるかを考えることは、学問的な場にある歴史にとって重要な問題ではと思うのですが。

by pastandhistories | 2017-02-23 09:56 | Trackback | Comments(0)

ファミリーヒストリーとグローバルヒストリー

 23日と25日の会で配布する予定の小冊子ができました。この2年間のプロジェクトでの英文報告をまとめたものです。それなりに面白いのではと思います。ジェローム・デ・グルートのペーパーも入っています。
 グルートといえば、ある研究会で彼のことを紹介したら、名前から判断してオランダ系かと質問されました。もちろん名前から判断して一世代前は二分の一、二世代は前は四分の一、三世代前には八分の一ほどのオランダ系のDNAが入っていることは確かかもしれません。実はブラジルでのINTHで彼が行ったキースピーチで、彼がそのことをデ・グルート・エスニシティというかたちで論じたことを紹介したことがあります。円グラフを用いて、オランダ系40%、さらにはフランス系、イギリス系、等々がそれぞれなん%くらいかを図示したのですが、当然会場からはオランダ、フランス、イギリスというように分けるのはおかしいという声が飛んで、グルートももちろんそうだと答えていました。はるかに細分された地域をとおして示すほうがより正確だからだからです。そもそも地域を今ある国家に固定的に連結させるのは、奇妙な歴史観であって、個人的なエスニシティをそうしたものに結び付けるのも、さらに不正確なものだからです。そうした誤った認識を子供に与えるような歴史教育は正されていく必要があるでしょう。 
 このことと関連して思うことは、この間報道された教科書への領土問題の記載という問題です。領土の範囲を「国民」教育で教えることは、確かにそれ自体としては全面的に否定されることではないかもしれません。しかし、その根拠が「固有の領土」であるからという文章はおかしなところがあります。なぜなら「固有」とは何に対するものとして用いられているかわからないからです。「固有」に対比される言葉は「共有」なのでしょうか。「本州は日本の領土である」という表現はあっても、「本州は日本の固有の領土である」という表現はあまり聞いたことがありません。自明のことだからです。だとすると「固有の領土」であるとすることは、「共有地ではない」ということを強調することによって、わざわざ係争地であることを認定しているような印象を受けます。その意味では奇妙な表現です。
 おそらくこれは政治家などがしばしば過って用いる「歴史的な領土」ということが使用しきれないことを誤魔化すものためなのだと思います。いうまでもなく、問題となっている土地は、古来からのという意味でけっして「日本」の「歴史的」な領土ではないからです。そもそも歴史的には、日本という国は、平安期までは北海道も琉球も歴史的に領土としていたわけではありません。したがってその延長にある島も、当時は日本の領土であったわけではありません。
 最近では一部で琉球独立論が主張されるようになりました。その根拠の一つはかつては独立した地域であったという歴史の事実に置かれています。だとするように、同じように、北海道は独立してよいのでしょうか。歴史的には日本の支配にはおかれていなかった地域だからです。しかし、北海道独立論というのは、それほど目立ったものとして主張されているわけではありません。北海道に現在居住している人のファミリーヒストリーをたどると、そのエスニシティを高い割合で北海道に置く人は、きわめて少数だろうからです(このことは和人の現在的な多数派形成を全面的に正当化しうるものではありません。それはアメリカやオーストラリアにおけるネイティヴに対する問題と同じです。しかし、アメリカもオーストラリアもイギリスから独立しました。その意味では北海道に独立権があるという考えも成り立ちえます)。
 こうしたことから言えることは、領土問題というのは、歴史的な問題でも、エスニックな問題でもなく、現在的な政治問題であるということです。歴史的なものとして語られるにしても、それはあくまでも第二次大戦後の歴史に基本的には限定して論じられるべき問題であるということです。
 

by pastandhistories | 2017-02-16 22:04 | Trackback | Comments(0)

ファミリーヒストリーについての誤解

 昨日寝しなになんとなくテレビをつけたら、『ゴッドファーザー partⅢ』が放映されていました。いわゆる「ファミリー」の話です。グローバルヒストリーの一つのテーマとして論じられることがある、immigration に伴う問題がわかる部分が描かれています。移住に、家族的な結合や、あるいは人種的な、地域的な結合がそのような役割を果たしたのか、というテーマです。もちろんそうしたテーマは、『ゴッドファーザー』に限らずアメリカ映画でしばしば扱われるテーマ。アメリカ社会にある過去認識のあり方、とりわけパブリックな場にある歴史の一つのかたちです。というより、現在の世界的な、つまりグローバルな現象だということでしょう。この映画が多くの観客を集めたのもそのためではと思います。
 しかし、この映画でファミリーヒストリー全体を論じるとすると、それはやや誤りです。先祖をたどるという意味での現在のファミリーヒストリーは、この映画が描いたような「ファミリー」ではなく、より「個人的要素」を重視しているからです。具体的に言うと、ファミリーヒストリーは同じ家族であっても個人によって異なるものです。たとえば夫と妻は家族ですが、それぞれの個人的なファミリーヒストリーはまったく異なったものです。子供たちも、母親側のファミリーヒストリーが混在しているわけですから、彼ら・彼女たちは父親とは異なったパーソナルなファミリーヒストリーを有しているわけです。親戚同士が結婚しあう族内婚ではなく、族外婚であればそういうことになります。個人的ななこととなりますが、自分の父親と母親は出身地が異なるにもかかわらず、血縁関係のない従兄妹でした。こうした婚姻は自分から見ると1~3世代の間では随分と繰り返されていたようです。明治維新以降の都市集中によって、随分と大きな移住のあった時代ですが、そうした移住があったがゆえに、伝統的な血縁的、あるいは地縁的関係を維持するために族内婚的な枠組みが一時的に行われていたのでしょう。しかし、現在の日本ではおそらくはそうした枠組みは薄れて、族外婚的な結合が一般化しているのではと思います。そこでは、パーソナルなファミリーヒストリーは、この場合にファミリーというのは、シンクロニカルな結合関係にある人々ではなく、ダイアクロニカルにジェネティックに辿ることのできる人々を指すことになりますが、それは夫婦間でも大きく異なるものとなります。
 少しわかりにくいかもしれませんが、わかりにくかったら自分の配偶者が外国人である場合を考えるとわかりやすいかもしれません。しかし、それほど極端な例をとらなくても、自分個人のことを考えれば理解できることなのではと思います。


by pastandhistories | 2017-02-13 11:55 | Trackback | Comments(0)

ファミリーヒストリー

 予告していたようにファミリーヒストリーの話を書きます。理由は、最近NHKの地上波で主として芸能人を素材に取り上げられ、大きな関心の対象となっているからです。またこのテーマは自分が歴史理論の問題をいろいろ考えはじめた時に、基本的なテーマの一つとしたことだからです。
 このブログでも何度か紹介したように、『国境のない時代の歴史』という本を1993年に出版したことがあります。タイトルからもわかるように、グローバリゼーションと歴史のかかわりを論じた本です。その第一章は以下のような文章で始まります。
「私はよく講義で学生に、『両親の名前を言えますか』と尋ねる。もちろんこの段階で『いいえ』と答える勇気のある学生はいない。次に『祖父母の名前を四人とも正確に言える学生はいますか』と尋ねる。ぱらぱらと『答えられない』という学生がでる。実は私も母方の祖父母は居住していた地域が異なり、また早死にしたこともあってよくは知らない。さらに『その上の曽祖父母の名前を八人いる場合は、全部を答えられますか』と尋ねる。多くの学生はこの質問にまずはほとんどが完璧には答えられない。彼らが知っているのは、せいぜい父方の曽祖父の名前程度である。
 このことはいろいろなことを教えてくれる。まず言えることは、認識の対象として男性に比し、女性の方が忘却されやすい、ということである。このことは、現在の日本の社会がなお父系的要素の強い社会であることを物語っている。さらに言えることは、個人が自分の家族を単位として実感としてもつ過去への認識は、せいぜい三世代、時間にして百年前後くらいなものである、ということである。
 こうした質問にくわえて、私は、『それでは三世代前の祖先に中国人や、韓国人、朝鮮人がいる人はいますか。それより遡れば、自分の祖先には中国大陸や朝鮮半島に出自を持つという人はいますか』とも質問する。この質問には、学生はとまどう。すでに混血化し、日本人としての国籍を取得した人にとっては、二重性をもつ自分のアイデンティティをあえて明示することのデメリットが、日本の社会ではいまなお少なくないからである。・・・・現在の日本の社会のなかで、そのルーツを部分的に大陸や半島に持つ人はかなりの数にのぼるはずである。私自身もその一人だと思うのだが、残念ながらその痕跡を明確に過去に辿ることはできない。多くの日本人にとってそうであるように、そうした事実が恣意的に自分の過去から消去されているからである。
 私はまた逆の観点から、『ヨーロッパ系の人が自分の祖先に混じっているいる可能性のある人はいますか』と質問することもある。これには結構『イエス』と答える人もいる。もっともその混入の度合いは、八分の一と十六分の一とか、かなり希薄である場合もあるのだが、にもかかわらず、そうした特殊性をむしろ強調する人も多い。
 しかし、常識的に考えれば、日本の社会では、部分的にそのルーツを大陸や半島にもつ人々のほうが、ヨーロッパにもつ人より圧倒的に多いはずである。にもかかわらず、前者が捨象されがちで、後者がむしろ実際以上に強調されるというところに、現在日本人がいだいているある種の歴史認識が端的に示されている。自分の個人的ルーツという点からもかかわりの深いはずの東アジア世界への認識が希薄であるのにたいして、個人的にみれば直接的関係はけっして密接でないヨーロッパとの結合関係が過度に強調されている歴史意識が、である」
 長い引用ですが、自分が20年前以上に書いていたのはこうした文章です。今週の夏木マリさんのファミリーヒストリーを見た人は思い当るところがあるのではと思います。
 引用が長くなってしまったので、今日はここまでにして、宣伝を加えておきます。『国境のない時代の歴史』(1993)は、日本でもっとも早い時期に書かれた?(世界的にも早かったかもしれません)グローバルヒストリー論として、興味深い本です(自画自賛)。当然もう絶版になっていますが、AMAZONでは「安く」古書として入手できます。一時期ものすごく安くなったのでみっともないと思って、学生に購入してくれたらサインすると言ったら(基本的には抜き刷りや献本には署名をしないのが自分の考え方です)、すぐに買ってくれた学生がいて、値段が持ち直しました。実はいまもかなり値段が下がっているので、もし関心を持って、購入してくれる人がいるとと嬉しいです。直接会わないと、サインはできませんが(笑)。
 ついでにもう一つ宣伝。この間出版した3冊の自著、編著はそれなりに捌けたようです。『歴史を射つ』はんまだアマゾンにはあるようですが、昨年で版元は品切れになりました。残りの2冊も「残部僅少」?だと宣伝しておきます。

by pastandhistories | 2017-02-11 12:52 | Trackback | Comments(0)

キャサリン・ホジキン

 23日と25日の会は実際の歴史研究者の人たちからそれなりに反応があるようです。講演してくれるホジキンが実際的なフィールドをもつ研究者であるからかもしれません。今は研究者の研究内容はネットで容易に知ることができますので、詳細はそれに譲りますが、キャサリン・ホジキンに関して簡単に紹介すると、今回の企画に関して彼女に来てもらうことになった最大の理由は、主題であるヒストリーワークショップとラファエル・サミュエルをきわめてよく知る人物だからです。
 その一端は当日配布する予定の彼女から送られてきたペーパーでもふれられています。具体的に言うと、ラファエルは彼女の母親であるアナ・ホジキンとちょうど彼女が少女期にあたる時期にパートナーとして同居していました。つまりラファエルの義理の娘であるという時代があったということになります。詳しくは当日話してくれると思いますが(あるいは話す必要のないことかもしれませんが)、そののちの歴史研究者としての活動と合わせて、話の内容には期待してよいのではと考えています。。
 今日も宣伝となりましたが、読むのに多少つかえていた本が今日読み終わったので、明日からは多少書くことに重点を置こうと考えています。もちろん自分の原稿を書くことを優先しますが、ここでもヒストリーワークショップの活動ともかかわりのありテレビでも取りあげられるようななったファミリーヒストリーの話や、これもいろいろな本が出て話題として定着し始めた大きな歴史、ビッグヒストリーについて、少し書いていこうかなと今は思っています。予告してうまく書き進められたことはあまりないのですが。

by pastandhistories | 2017-02-09 22:45 | Trackback | Comments(0)

2月23日、25日

 当初の予定と変更があったために、準備に随分と時間がかかり告知が遅れましたが、2月のプロジェクトの内容が以下のように決まりました。招聘者は、東ロンドン大学ラファエル・サミュエルセンター所長キャサリン・ホジキンとなります。また全体タイトルは、「すべて人の歴史の歴史」とその方法、です。趣旨はホワイト同様、意外なほど日本では論じられなかったラファエル・サミュエルと彼が中心となったヒストリーワークショップ運動、およびそこから派生した歴史への具体的なアプローチ(今回は self の問題)を議論していくことです。なおこの間その作成作業に追われていたプロジェクトでの報告を中心とした英文報告集完成が間に合いそうなので、参加者には配布する予定となっています。

  日時 223日(木)14:30

  会場 東洋大学白山キャンパス甫水会館301

  報告 キャサリン・ホジキン ※通訳なし

  ‘Constructions of the self: memory, time and space in seventeenth-century English autobiography'

  司会 道重 一郎

  日時 225日(土)1330~ (1300受付開始 ※事前申込等不要)

  会場 東洋大学白山キャンパス2号館 16階スカイホール

  報告 キャサリン・ホジキン ※通訳あり

  ‘Unofficial Histories: Raphael Samuel and the History Workshop movement'、

  司会  道重 一郎  岡本 充弘 



by pastandhistories | 2017-02-08 12:24 | Trackback | Comments(0)

壁のない教室

 早くからこのブログで宣伝していたプロジェクトの最後の招聘研究会、2月23日と25日のワークショップの内容が最終的に決まりました。たぶん今週末から来週にかけて、遅ればせながらポスターと案内状の配布に入れると思います。早くから日程が決まっていたのに連絡が遅れたのは、当初予定されていた人の都合が悪くなり、途中で招聘者の変更があったからです。といってもいろいろ尽力してくれる人があって、テーマを変更することなく会は催せることになりました。宣伝活動が動き始めましたら、ここでも内容を記すようにします。テーマは「『すべての人の歴史の歴史』とその方法」というものです。気づいた人があるかもしれませんが、イギリスのヒストリーワークショップ運動と、その考えに基づく実際の歴史研究へのアプローチが中心となります。いわば「開かれた歴史」です。
 「開かれた歴史へ」というのは、これも宣伝になりますが。自分の本のタイトルです。人間は親を選ぶことはできないし、受ける教育も自分では選べません。その意味では決して自由な存在ではありません。しかし、自分が運がよかったと思うのは、小学校が戦後の実験教育のモデル校で、様々な当時の「自由」な教育の実験の対象となっていたことです。なんといってもその当時は日本のどこにもなかった(一部のミッション系の小学校を除いては)土曜日は休みという超「ゆとり」教育。教室も特別教室への移動が多く、また授業でもグループ学習が随分と重視されていました。何年か前に同窓会があって、現在の教室を見せてもらいましたが、なんと教室と廊下の間に壁がない。したがって教室が随分と広い空間になっていて、その一部におもちゃなどが置いてある。どうしてそうなっているのかと尋ねると、子供は時間中ずっと授業に集中できるわけではないので、飽きたら部屋(といっても壁はないのですが)の隅で遊んでいてもいいということでした。いわば「開かれた教室」です。実験的な教育を受けた自分にとっても、随分と大胆な試みだなという感じがしました。
 

by pastandhistories | 2017-02-02 12:13 | Trackback | Comments(0)

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