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数量的データに裏付けられた結論

 今日は「比較史」の続きを書こうと思っていたのですが、ネットサーフィンをしていたら、おおいに笑わせられる、かつ同時に考えさせられる記事が出ていたので、今日はそれにつぃて。
 内容はきわめてシンプルなもの。「犯罪者の95%は男なので、男がいなくなれば犯罪はなくなる」というものです。なるほど。統計的な事実、それも覆すことができないような有史以来の豊富なビッグデータに基づく議論。クリオメトリックスで様々な数量的統計を持ち出して、結構恣意的な結論が出されるけど、この議論ほど確実な統計的根拠に基づく議論はありません。この議論に基づけば、目指すはプロレタリア革命ではなく、アマゾネス革命ということになります。自分は犯罪者ではありませんが(正直数々の犯罪歴はあると思うけど)そうした時代に生き延びるためには、あるいは革命に参加するためには、性転換が必要かもしれません。
 という揶揄的なことではなく、この議論には統計を根拠に何を論じるのか、実証とは何かを考えていくための重要なヒントがあるような気がします。大学の小論文の問題によいかもしれません。あるいは中学の入試問題にも。本当に様々な回答がありそうですが、どのような答えが本当に正しいのか、事実から議論を論理的に組み立てるとはどういうことなのか、いいろいろなことを考えさせてくれそうです。

by pastandhistories | 2017-05-31 17:04 | Trackback | Comments(0)

比較史①

 マルク・ブロックなどを援用するかたちで、歴史の基本は比較史であるということがよく言われます。これを厳密に議論するのは意外と難しい。基本的には比較史は、現在と過去の比較、過去同士の比較、の二つに類別できます。 
 前者の場合は比較の一方の対象は現在ですから厳密には比較「史」とは言えないかもしれません。しかし、歴史は比較史であるいう主張は、比較の根拠の一方が現代であるから不正確というのではなく、むしろ現在におかれていることによって根拠づけられています。その理由は、人間が現在に関して持っている知識や情報が過去に持っている情報に比較して、量的にも質的にも比較にならないほど大きく、かつ正確だからです。「実証」のレベルで、現在についての知識・情報と過去についての知識・情報を比較することは、問い自体がナンセンスです。現在に生きていて、現在より過去の情報のことをよりよく知っているのは、浦島太郎くらいなものです。多くの人は、歴史研究者も含めて、より正確で豊富な現在についての知識・情報に基づき、それを残された史料をもとに推測された過去についての乏しい知識、情報と比較しているわけです。あらゆる歴史は現代史であるというような考えが、コリングウッドのような懐疑主義的な歴史家によって唱えられたのは、彼が現在と過去につての知識にあるそうした差異を認識していたためでしょう。
 やや似たところがありますが、歴史は比較史であるという考えが受け入れられやすいのは、こうした時間的な差異だけではなく、空間的な差異、つまり場の違いからこの問題が議論されるからです。わかりやすく言うと、「日本」の歴史研究における日本と欧米との違い、あるいはアジア・アフリカとの違いといったような議論。つまり歴史認識の場が、自らが育った、あるいはそこで生きているものとして措定され、当然量的にも質的にもより大きな、正確な知識を持つそうした場に対する認識を基準として、相対的には知識や情報が不足している社会が比較されるという問題です。つまり日本史と外国史の比較といったような議論です。
 どちらの場合にも言えることは、比較の対象が、知識・情報の量的・質的内容において、パラレルではないということです。パラドキシカルに言うと、パラレルでないがゆえに、メタフォリックなものとして成立している、今日論じたような比較史にはそうした側面があります。

by pastandhistories | 2017-05-27 11:48 | Trackback | Comments(0)

政治と知

今日は日本西洋史「学会」。それにちなむことを書こうと思っていたのですが、話題を変えて政治的な事柄について。現在起きていることが、日本の社会の政治的劣化が激しいことを象徴するような事件であることは、多くの人が同意していると思います。何度か書いてきたけど、政治的劣化が進んでいるのは事実だけど、自分の知は新しい時代の状況に応じてますます進歩しているとするのは、批判的な精神さえあれば、議論としては両立しないということに気づくはずです。ましてや、現在話題になっていることは、教育の内容や、大学の設置に関する事柄。竹林の七聖人ではなく、現在の事件に象徴されるような、政治的コントロールがますます強化されている大学に籍を置いているわけだから、そうした大学における学問がますます進歩していると考えているとすれば、そこにあるのは自らを客観化する自省の欠如です。
 このことと関連して痛感させられるのは、知的社会層の劣化です。大学関係者も残念ながらそのなかに入る。しかし間接的には権力との一体性を強めているとはいえまだ消極的な段階。それに比較すると、知的な能力を持つことを根拠に、官僚やメディアに職を得た人々の劣化は本当に酷い。平然と虚偽を語り、事実を隠ぺいする。悪意を持った恣意的な情報操作・管理で社会をコントロールしようとする。本来は社会に対してもう少し誠実であるべき知的社会層の劣化には本当に慄然とさせられます。
 他山の石かもしれません。知的能力を根拠に一定の地位を得ている研究者が同じように劣化してはいないか、そのことをつねに考えていくべきでしょう。このブログは、基本的には歴史に対する考え方へのアイディアを提供し、少しでも前向きな理解を進めていくことへのヒントを提供できればということを目的として書かれています。しかしいくら前向きに考えようとしても、そうした考えは後ろ向きな社会では結局は排除されてしまいます。その意味で政治のあり方は、当たり前すぎることですが、人文系や社会系の知にとっては、あるいはそこで得られた知を教育することにとって、きわめて重要な関係があります。今日この記事を書いたのもそのためです。

by pastandhistories | 2017-05-20 06:47 | Trackback | Comments(0)

史学科の区分方法

今週末は日本西洋史学会です。随分と人の集まる会ですが、その一方で多くの人がある種の違和感をこの会には感じ始めているのではと思います。一つは、「日本」西洋史学会であることに、もう一つは、いわゆる三史区分がなお継続していることにです。歴史研究者がそうした枠組みで組織され続けていていいのだろうかという疑問です。 
 人文学・社会科学の危機という問題に関して、哲学・史学・文学というより上位の三区分に対して圧力がかかるようななったのは随分以前からです。学会組織はなおそうしたかたちで継続していますが、実際の学部・学科組織に関しては、多くの大学が再編を余儀なくされました。文学部が廃された大学もありますし、哲・史・文という学科区分を廃した大学も少なくはありません。史学科に関しては、高校教育において日本史、世界史が科目として立っていることもあって、受験生にもなじみやすく志願者が多いので、私立大学などでは幸いにしてなお学科継続が認められています。
 もっとも三史区分の継続に関しては、歴史研究者のなかにも異なった意見があります。自分は一貫して継続には反対の立場です。しかし、史学科内ではほとんど同調者はいませんでした。自分の史学科の編成に関しての意見は、その編成区分を、社会史、文化史、経済史、政治史、などのような研究方法の違いを基準とするものにすべきだというものです。
 その最大の理由は、現状のような区分では、個別実証を盾にした研究の停滞が促進される傾向がますます強まっている感じがあるからです。現状では、日本史研究者は日本史だけをすればよい。東洋史研究者も西洋史研究者もそれぞれの領域だけをすればいいだけです。しかし、方法による区分をすれば、多くの研究者は日本と外国の異なる領域をともにカヴァーしていくことになります。歴史研究の基本は比較史だということが随分と主張されますが、もしそうであるなら、こうした区分の方がよりベターな研究方法です。最低二つの異なる地域を研究することが、当然化するからです。またこうした区分をとれば、歴史研究者は当然のように、それぞれの専攻に関わる方法論的な問題、たとえば、社会学、文化理論、経済学、政治学が理論的に提示している問題を、海外での最新状況をふくめて十分に理解していることを、専門的研究者であることの必須条件として要求されます。そうした領域の専門的研究者との学際的な国際的な議論を行う能力を持つことを求められます。歴史が科学であるというのなら、そうしたことは研究者の最低の義務です。
 正直に評価すると、そうした能力を有する歴史研究者は、現在では皆無といっていいかもしれません。大学での歴史研究がそうしたレベルにとどまっていていいのでしょうか。あえて言えば、大学での歴史研究は文書館や史料館における歴史研究とは異なるべきものだ、と自分は考えています。文書館や史料館での歴史研究が不要というわけではなく、そうしたものを土台としたより高度なレベルの実証研究と理論的展開が大学に属する研究者には求められるということです。また学生に提示されるべきものは、そうした質の高いものでなければならないということです。
 今日書いたことには大分反論がありそうです。しかし、人文学の危機を感じるなら、重要なことは自分を被害者の立場に置くだけではなく、自分に課せられた義務を前向きに考えて、それに立ち向かっていくことです。アイロニカルに言えば、現状の歴史研究はただちに過去の遺産となってしまうようなものを次々と生み出しているようなところがあります。過去の遺産を研究する歴史研究が、自ら歴史遺産になるものでしかない。そうである限り、人文学の有力分野の一つであった歴史学の危機はさらに進行していくような気がします。

by pastandhistories | 2017-05-15 15:54 | Trackback | Comments(0)

世界史の「研究」へ

 実際的には時期的にやや並行したところがあったけど、以前『歴史として、記憶として』(御茶の水書房、2013年)という本を編集した時に参考にしたのは、アラン・マンズローが編集した Authoring the Past です。歴史研究者が自分が歴史研究者となる過程の記憶を振り返りながら、それが自分の歴史研究の内容にどういう影響を与えたのかを記した文章を集めたものです。それぞれの筆者の自省をとおして、脱構築論的な視点からの歴史研究がなぜ生じたのかが理解できるところがあって、興味深く読める本です。 
 世界史の研究や教育が対象なので、ややテーマは異なりますが、Kenneth R. Curtis & Jerry H. Bentley eds, Architect of World History、Wiley Blackwell. 2014 も似たようなコンセプトで編集された本で、現代の歴史研究・教育の問題を考える参考になります。ジェリー・ジェントリーが共編者とされていますが、実際には世界史学会(World History Association)のもっとも中心的な組織者であったジェントリーの死後に、彼の追悼論文集として出されたという側面のある本です。
編者をはじめとしてマクニール、ポメランツ、クリスチャン、ザクセンマイヤー、さらにはベントン、ウォードらの現在を代表する世界史論者が、自らが研究者としてその研究対象を切り開いていく過程を回想したこの本が参考になることは、それぞれが最初は院生として学位取得のために、それに必要とされるきわめて詳細な実証研究を従事していたこと、しかし機会を得て最初は若手教員として何らかの教育機関での教育職の仕事に就くにしたがって、そこで要求されるきわめて包括的な、概説的な歴史教育に従事するようになり、その過程でそれまで自分を枠づけていた研究の枠組と、一般的な学生というオーディアンスを対象とした歴史の関係を考えるようになったということが論じられていることです。その過程で、執筆者の多くがたんなる「世界史」のパートタイム的な教育者にとどまらず、さらには「世界史」の研究の可能性を考えるようになった。専門的「研究」には必ずしも位置づけられていなかった、世界史を研究として位置付け、自らがそうした立場に転じたことが論じられています。
 専門的な実証にますます特化する傾向のある現在、とりわけ若手研究者に対しそのことが学位取得の絶対条件として強要されている時代、そして多くの研究者がそのことが自明であるかのように考えている時代にあって、この本で行われている議論は参考になります。若手研究者は、院生時代は個別研究に特化することを強いられ、運よく就職できた場合は(運悪く非常勤職についた場合はさらにいっそう)、一転してかなり幅広い領域を教育することを強いられる。教育者としての義務に忠実であろうとする誠実な人物なほど、そのギャップに苦しめられる。逆にそうしたギャップを感じない研究者の講義は、今度は圧倒的多数の学生を、たとえ彼らが史学科の学生の場合であっても、自分たちの関心と教員の関心の違いのギャップによって苦しめているというのが、歴史教育の現実の場で生じている問題です。
 歴史研究が実証を基本とするものであるということは、あえて近代以降と言う必要はなく、古くから繰り返し論じられてきたことです。近代以降大学においてそれがディシプリン化されて以降そのことはいっそう強調されるようになりました。さらにそうした実証のための様々なツールの進展によって(広義に言えば外国史研究の場合は、留学機会の飛躍的な増大によって)、さらにその傾向を拡大させています。そのこと自体は否定されるべきではありません。しかし、歴史研究者は同時に大学という場において歴史教育者として在する限りは、その場との関係から歴史がいかなるものかを考える義務をもちます。そうした義務の自覚から大きな歴史への関心が生じたことを Architect of World History からは理解することができます。

by pastandhistories | 2017-05-14 10:42 | Trackback | Comments(0)

未来のイメージとしての過去

 明確な根拠に乏しいはるかな過去にさかのぼって、現在を正当化する。そのことを明治憲法を例に説明しました。別にこれは現状肯定的な保守的なイデオロギーに限定されているわけではなく、変革的な主張もまたそうしたロジックを用います。たとえば、「自然に還れ」とか、「原始、女性は太陽であった」というような主張の仕方です。現状への根底的批判をするにあたっては、こうしたロジックはきわめて有用だからです。しかしそれはロジカルな主張であっても、過去の事実に基づくといった意味での歴史的な主張ではありません。
 発展段階論において初期的な段階として設定された原始共産制という考えは、厳密にはあまり単純化しない方がよいかもしれませんが、基本的には人類が始原的には平等な共同生活をしていたということを措定しています。しかし、人類が始原的には平等な生活を行っていたというのは、動物の行動や生態への分析が進んだ現在ではかなり無理のある主張です。
 たとえば進化論に従うとすると、人類は類人猿もしくはそれに類する種から進化したものです。だとすると、原始人類は平等であったとすると、それと主としては近親関係にある類人猿も平等な社会生活を送っていて、人類は誕生した時にそれを継承したということになります。あるいは人類に近い種である猿も平等な社会を営んでいるということになってしまいます。猿の社会にそんなことはないわけですから、猿が知性を持って人類になった時、ボス猿支配を解体する革命が行われて、共産主義的社会が形成されたということになってしまいます。いくらなんでも、この考えには無理があります。
 今日こうしたことを書いたのは、急進的な社会批判的な思考を、その根拠にさかのぼって批判するためではありません。現状批判的な思想においては、来るべき未来のイメージがしばしば過去に結び合わされて説明されたという「歴史的事実」を示すためです。

by pastandhistories | 2017-05-13 21:22 | Trackback | Comments(0)

根拠としての歴史

 憲法問題が話題になっているので、今日はそれに関連することを簡単に。
教育勅語に対する対応のように、保守派が論拠にしようとしていることは明治体制への回帰。ではいわゆる明治憲法(大日本帝国憲法)はどのようなことを根拠としていたのかというと、それは憲法発布勅語の「朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス」という言葉に象徴されています。この文章の少し後に、「光輝アル国史」という言葉が続いています。
 ここで理解できることは、天皇制を前面に押し出した戦前の政治体制が根拠としていたことは「歴史」であったということです。当たり前すぎることですが、歴史はこのようにネガティヴにも利用されました。
 いずれにしても、「教育勅語」にしても、「軍人勅諭」にしても、明治憲法の基本的枠組みであった天皇大権との関連において、その役割を果たしたものです。そのことへの自覚が欠如した議論が平然と行われている。あまりにも奇妙です。

by pastandhistories | 2017-05-09 10:22 | Trackback | Comments(0)

プロフェショナリズム

 スポーツの世界に関していつも思うことは、徹底したプロフェショナリズム。激しい競争での選抜が徹底しているけど、それもまた一時的な評価を受けるにすぎないということです。よく昔の選手と今の選手のどちらが優れているかという議論があるけど、記録を基準とすればこのことはほとんど意味がない。現在の選手の方が、過去の選手に比してすぐれているのは、データ的にはあまりに明らかなことだからです。そうしたこともあって、いかなる名選手であってもそれが評価されるのは、たとえば当時に相手に対してどのような対戦上のデータがあるのかという点においてだけです。
 研究者の世界もまた同じようなプロフェショナリズムに基づいているところがあります。日本人研究者によるものもそうですが海外の研究者の論文を読むと、ジャンルによって多少の違いがあるといっても、20年以上前の論文が参考文献にあげられたり、引用される例は驚くほど少ない。おそらくそういう指導を受けているからだと思いますが、あくまでの現在の研究者同士の対戦(論争)だけが意味あるものとされています。
 プロフェッショナルが求められていることの一つは、同じジャンルで競合する対戦者に勝利して観客の喝采を得ることです。スポーツや碁や将棋、チェスの場合はそうなります。では社会科学や人文学の研究者の場合はどうなるのか。多くの研究者は自分をプロフェッショナルと考るけど、自分の意味をそうした限定的なものとは考えていない。自らの残すものが、もう少し長期的な継続性を持つものと考えている人が圧倒的でしょう。しかし、そうしたことがありうるのは、競争が少ないからかもしれません。層の厚い研究領域では次から次へと新しい成果が出されていて、特定の業績が継続的に評価されることは少ない。プロフェショナリズムの原則に照らせばそのことは当然のことなのかもしれません。歴史理論の最近の動向を追っていると、そんな気がします。
 時々ツイッターの動きなどを検索することがあるのですが、研究者が忘れられるスピードの早さには、残念に思うところがあります。

by pastandhistories | 2017-05-08 22:55 | Trackback | Comments(0)

事実のレベル

 昨日書いたことを少し補足すると、基本的には関心のある人は誰でも自由に参加し、発表できるようにしたいと考えています。そういうことですので、発表を希望する人は連絡してください。ペーパーは読み手を広げ、海外へ日本の歴史理論の現状を紹介するという点で将来的には英語でということになりますが、会での発表は日本語で構いません。イーサンには通訳をつければいいだけで、一人の参加者のために、参加者全体の間口を狭める必要はないからです。何度か書いてきましたが、横文字でペーパーを読んだり書いたりするのは、より幅広いオーディアンスを対象とすることによって、自らの思考を相対化していくためです。横文字で書かれたものが、閉ざされた仲間だけに占有されるものであり、閉ざされたオーディアンスだけに向けられるものであるなら、それは進歩ではなく、むしろ学問的とされるものをさらに後退させていくだけでしょう。 
 話変わって、最近つくづくほっとすることは、入試なるものとの縁が切れたことです。多くの人がそうであるように、精神的に本当に疲れました。その一つの理由は、教科書についての疑問にありました。多くの教科書で、過去の事実がきわめて並列的に記されていることに対してです。たとえば、古代も中世も、現代も、個々の事柄が同じような確定的事実として書かれています。そのために正誤問題の選択肢の一つとして「イクナートンは一神教を導入した」という文章が出題されたりします。
 しかし、こうした問題を出題することは適当でしょうか。たしかに古代史研究者の間では定説化しているかもしれません。しかし、古代史研究者の間で定説化していること、中世史研究者の間で定説化していること、近代史研究者の間で定説化していること、そして現代史研究者の間で定説化していることは、それほど厳密に考えなくてもレベルがまったく異なっています。根拠とする史料の量、質的内容が基本的にはまったく異なるからです。碑文史料あるいは口承史料しか残されていない時代、わずかの写本しかなかった時代、パピルスや木簡が用いられていた時代、紙が使用されるようになり文書による記録が本格化した時代、印刷された文献が流布するようになった時代、そして音声や映像によって記録が保存されるようになった時代では、「過去の事実」が認識される手続きはまったく異なったものだからです。
 教科書からは、とりわけそれを使用している中学生や高校生にとっては、こうしたことはほとんど読み取れません。きわめて並列的に古代から現代までが、同じように確たる事実であるかのように、固有名詞を中心に、一定の解釈を交えながら教科書では叙述されています。それを事実として覚えなければよい点がとれない。とりわけ正誤問題はそうした強迫観念を増進させています。
 いつも思っていたことですが、教科書が歴史研究者によって執筆されたものであるならば、歴史において事実とされているものはけっしてフラットなものではなく、個々のレベルにかなりの違いのあるものだということがきちんと伝わるようなものとすべきでしょう。そのことが中学生や高校生の間でより正確な歴史への理解を生み出すものとなるはずです。

by pastandhistories | 2017-05-02 21:29 | Trackback | Comments(0)

日本の歴史理論、史学史

 3月は1回、4月は2回しか書かなかったのに、アクセスし続けてくれる人がいるようで、申し訳ない感じです。一番の理由は、何度か書いてきたけど他の原稿を執筆中のため。テーマの重なることは書きたくない。他にこの間いろいろ思いつくことはあるけど、それを書き始めると、原稿の仕事が止まってしまう。そういうジレンマ状態です。今月中には仕上げるということで、今日から再点検しようと思うけど、この間量的な処理に追われてほとんどノートを取らなかったので、その点が心配。特に欧文を見直す時間があるか少し不安です。
 というのが個人的な現状ですが、それとは別に、History and Theroy の編集長であるイーサン・クラインバーグに日本に来てもらうということで計画を進めています。以前から考えていたことですが、多忙な人物でかなり難しいところがありました。なんとか日程の都合がついて、今年の9月の上旬から中旬ということで実現できそうです。
 今回の計画は、クラインバーグに講演をしてもらうだけではなく(編集者として最近の歴史理論について考えていることを話してもらうつもりです)、もう一日を日本の研究者による発表に充てる予定です。テーマは「日本の歴史理論、史学史」。それが実際に掲載されるかは別として(当然査読があるので)、日本の歴史理論の状況を可能であれば History and Theroy などを通して海外に発信したいので、英語でのペーパーとなります。原文が日本語であっても必要な場合は翻訳することも考えていますので、この計画に関心のある人は是非論文を準備してもらえればと思います。
 日本における歴史理論は固有の問題意識に支えられ、それなりの質的に高い成果を生み出してきたとは思うのですが、残念ながら海外にはその内容が伝わっているとは言い難い。そうしたギャップを少しでも埋められればということが今回の計画の趣旨です。

by pastandhistories | 2017-05-01 11:42 | Trackback | Comments(0)

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