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二時間ドラマの構造③

 久しぶりに二時間ドラマについて書きます。二時間ドラマで重要な役割を果たしているのは過去の出来事。しばしば登場するのが、20年前の出来事への怨念とか復讐心というものです。そうした筋立ての中で過去はどのように登場するのかというと三つの形式。
 一つは、大体が子供の時期に、親兄弟や知人が自殺に追い込まれた、あるいは殺害された事件を目撃した、あるいはそうした人々の死の間際に「恨み」「怨念」を伝えられた、というものです。
 もう一つは、そうした事件についての記憶や、あるいは真相は知らなかったけど、それを伝える証拠を偶然見つけた、証言を偶然立ち聞きしたことによって過去の事実を知るにいたったというもの、
 さらには、前の二つが重なっているような場合。具体的には記憶はおぼろげだったけど、その記憶を蘇らせる何らかの事件があったというものです。
 いずれにせよ、二時間ドラマにおける犯人の動機は、とりわけ美人女優が主役なら、多くの場合はその殺人の動機はほとんどが「過去」の事件に基づくものとして説明されます。「謎」を作り出すための文法です。しかし、歴史研究者の立場からすると、過去がこんなに殺人を正当化していいのかという疑問があります。逆説的に言えば、過去への知識である歴史は、そうした行為を正当化するためにもちいられてきたのかもしれません。
 二時間ドラマの場合は、そのように過去に根拠を置いて行われた行為、つまり殺人は必ず発覚し、犯人は自殺するか、罪を悔い改めるために逮捕されます。なぜなら、それは個人的行為だからです。個人的行為としての殺人は、いかに過去に基づく正当性を保持していようとも、処罰の対象となります。
 しかし、集団で学ばれる過去認識、つまり歴史がそうした行為を正当化するものであった場合は、その行為者は処罰されません。個人として過去を認識し、それに基づく行為を行えば処罰の対象となる。しかし、集団として過去を認識し、それを行っても処罰の対象とはならない。二時間ドラマ(サスペンスドラマ)と戦争映画の違いです。

by pastandhistories | 2017-10-25 21:56 | Trackback | Comments(0)

政治指導者の理性

 このブログにはどの記事にアクセスが多かったということを示す機能があります。昨日それを見て驚かされたのは、今月は「政治の逆説的転回」という記事に一番アクセス数が多かったことです。そこでも書きましたが、自分の本来的関心は政治の問題ですが、このブログは基本的には歴史に対する考え方が中心。読んでくれている人の関心が政治にあったことは意外でした。
 そこで今日は政治の逆説的転回という問題から書いてみます。最近そうした角度から政治史を分析した本が出ました。長谷川貴彦さんの『イギリス現代史』[岩波新書)です。この本の内容はまずは、第二次世界大戦期に労働党が内閣に加わり、そこで作成した戦争遂行のための経済統制プランが実は戦後の福祉国家の起点となったということが指摘されています。社会民主主義政党の戦争協力は第一次世界大戦に関してはレーニンが強く批判したことなわけですが、戦争協力が福祉国家の起点となるという逆説的な転回が、政治にはこのようなかたちで生じることがあります。
 同じような逆説的転回は現在の日本政治にも見られます。たとえば経済政策としてはネオリベにもっとも近いはずの自民党の安倍首相がしきりに強調してしているのは、幼児教育の無償化であり、維新の松井党首が主張しているのは、大阪府では高校教育を私立も含めて無償化したということです。つまり彼らは、ネオリベとは必ずしも結び合わない福祉の実績を強調しているわけです。
 実はこうしたアイディアが日本の社会に本当に定着したのは、戦争直後の社会党政権においてではなく、美濃部都政に代表される革新自治体によって本格的な福祉政策がすすめられて以降です。以来、福祉政策は保守派ですら選挙において無視できな社会的合意となっている。そうした逆説的な転回の一端が今回の選挙でも見られています。
 それにしても昨日の秋葉原の状況は酷かったですね。日の丸を振って、安倍万歳。森友学園の幼稚園と同じ光景だということで、ネットでは安倍晋三記念秋葉原幼稚園と揶揄されている。それ以上に問題なのは、気に入らないメディアを取り囲み、攻撃したということです。そういう支持者が一部に出ることはあったとしても、それを諌めるのが理性的であるべき政治指導者の役割。それが先頭に立って気にいらないメディア攻撃を煽っている。本当に残念です。
 残念と言えば、ホワイトの会で成蹊大学で教えたことがあると言ったけど、それを依頼してきたのはナチズムの問題に本当に誠実に取り組んだ村瀬興雄さんです。村瀬さんの授業に、間違いなく安倍首相は参加していたはずです。安倍首相の頭の中には村瀬さんの誠実な訴えは入らなかったのでしょうか。

by pastandhistories | 2017-10-22 10:55 | Trackback | Comments(0)

praciticality

前回書いたのが10月10日。ということで久しぶりということでもないけど、久しぶりという感じがします。その理由はこの10日ほどは、原稿書きに集中していたから。以前少しふれたことのある書き下ろし。どうしてもまとめられないところがあってずっと棚ざらし。もう断念しようかなと思っていたのですが、外語の会が終わったのでとりかかりました。ある出版社が企画に載せてくれていてその締切が11月15日。ただそこまで延ばすと他の仕事ができない。ということで一気に。全体で400字詰め、486枚。かなりの量です。まだ締め切りは先なので、もう少し見直しますが、それが今日終わったので、ほっとしているところです。これだけ一気に書きあげられたのは、外語の会で触発されることがあったから。研究会というのは、物を考えるきっかけになるということで、役立つところがあります。
 その外語の会にちなんで『メタヒストリー』の翻訳についての話題。自分が大学院生だった頃、指導教員がある本の訳書のコピーをとってくれないかと依頼してきたことがありました。有名な本。原書を持っているはずだし読んでいるはずなので、どうしてですかと聞いたら、授業のノートを作るには訳書の方が早いという返事。変に納得した記憶があります。そうした点で訳書は便利です。人によって違うとは思うけど、自分の場合は原書と訳書だとかかる時間は5倍以上。それ以上のこともあります。時間を節約してくれるという点で訳書は便利。その点で訳者のことをいつもリスペクトしています。要するに訳書にはプラクティカリティがあります。
 自分はそうした点で翻訳はある種のサーヴィスだと考えています。ただ訳書をめぐっては、訳語や表記の問題で批判が繰り返される。そのなかには随分と虚しく感じさせるものがあります。ということで自分が専門のチャーティスト運動に関しては、訳書を出すのなら同じ専門的研究者と一緒にということで古賀秀男さんとずっとその候補を探していました。幸いにしてもっとも代表的な研究者であるドロシー・トムスンがゲラの段階で原稿を送ってくれて、さらにはある人が出版社を紹介してくれて、500頁ほどの本で二人で訳語を統一しながら作りました。そうした協力が、訳書をさらにプラクティカルなものとすると考えたからです。
 そうした考えからすると今回のアマゾンのブックレビューはすごく残念です。断っておきたいことは、自分は監訳者である岩崎さんとは、ほとんど会ったことはありません。ヘイドン・ホワイトを招いた時にセミナーに参加してもらったのが初めて、その後一回あったような気がしますが、それから今回外語の会に招かれるまでまったく会ったことがなく、連絡をしたこともありません。いわば部外者です。そういう立場からこのブログは書いています。自分が研究者として一番大事だと思うのは、プラクテカリティ。このブログもそうした意味で書いています。読んでいる人の実際的な参考になればいいということです。
 今回のアマゾンへの書き込みは一部を取り上げるかたちで匿名で行われた。それでいいのでしょうか。少なくとも、名前を明らかにしてさらに具体的に内容を示す。可能であればそれを今回の訳者との協議で、もし再版される機会があれば、それにいかす。それが読み手が求めるプラクティカリティに対応するものです。ホワイトの本を読んでいてわかることは、随分と論争的に見えるけど、学者的な論争をけっして自己目的化はしていないということです。あくまでも読者が問題をさらに考えていくための問題提起、そうした読者に対する姿勢です。
 あえて厳しく言いますが、学問は学者同士の自己目的な論争のためにあるのではないということが、ホワイトのもっとも基本的な考えだと自分は考えています。もっとお互いにリスペクトしあうべきです。

by pastandhistories | 2017-10-19 22:33 | Trackback | Comments(0)

19世紀的な形式

 昨日少し長く書きました。この記事には多分こんな反論があると思います。「資料自体が映像を媒体としたより事実的なものである以上、現代史を対象とした再現前化・表象を行う場合は、文字的ではなく映像的なものですべきだという議論はわからないでもない。でもその場合、封建制とか資本主義、あるいは上部構造や下部構造、歴史の発展法則というようなことは、どうやって論じることができるのか」という問題です。
 実はこのことは現在ではすでに「折衷的」に行われています。歴史を「教育」している人は、そのことに自覚的であったか、非自覚的であったかはともかくとして、パワーポイントなどを駆使しながら、図像的な、あるいは映像的な資料を媒介として、「言語的」な論述を行ってきているからです。啓蒙的な一般「書」において現在図像的資料が用いられていないものはまずは見当たりません。最近ではもちろん「図像論的転回」というように、図像的資料をもちいた学術的論文も出現し始めています。
 しかし、そうした「折衷的」な方法で事足れりとしていいのかというと、そこには大きな問題があります。実はそうしたさいにもなお使用されている概念の多くは、19世紀的な歴史、つまり文字的なものを媒体として成立していた歴史にあったイデオロギーや論証の形式を多くは継承したものだからです。とりわけ歴史叙述の一部が歴史学としてディシプリン化されるにともなって生み出されてきたものを継承したものだからです。
 ホワイトが批判しているのはそのことです。20世紀に入ってからいわゆる近代的技術の発展、さらにはそれに伴った人々の意識の変化によって芸術においても、科学とされるものにおいても、大きな変化が生じました。たとえは小説を例にとれば、意識の流れやアンティストーリーといった形式、そのことは小説というジャンルを例にとった一つの例なわけですが、芸術一般においては対象を忠実に模写するのではなく、直観的な、抽象化した表象を通しての対象をむしろ解体・分解していくという表象形式がとられるようになりました。ホワイトが19世紀的なリアリズムに対してモダニストというかたちで論じているものは、そうした形式をもつ芸術や、あるいは科学のあり方です。あるいは人々の意識のあり方です。
 おそらくそうした技術的・知的革新を受けて生ずるべきものは、別の言い方をすると、形式の変化を受けて生じるべき、内容(歴史の場合は過去の実在)への理解は、これまで支配的なものであったものに代わる幅広い可能性を持つべきものだ、というのがホワイトの主張です。ホワイトの議論をめぐって、それでは事実はどのように認識できるのかと議論することも、重要なことかも知れません。しかし、自分がそこだけに議論を集約してはならないと思うのは、そうした議論は結局は問題を「学者」の間の議論にとどめてしまうからです。ではなくて、普通の人々の間にある過去認識のことをもう一度考えてみる。自分が最後に『歴史実践」ということを提起したのもそのためです。ホワイトが「歴史学的過去」(historical past・・・この訳語は佐藤啓介さんが付けてたものですが名訳だと思います)に対して、広く人々の間にある実用的な過去に立ち返ることを主張しているのもそのためだと自分は考えています。

by pastandhistories | 2017-10-10 09:43 | Trackback | Comments(0)

歴史の一部

 おとといの会で出版社の人に『メタヒストリー』の初刷りの部数を聞いて少し驚きました。価格が高いので部数を限定したのかと思ったのですが、予想を超えた数でした。今どき人文系の学術書でそんなに刷っていいいのかと思うところもあるけど、かなりの勢いで捌けているようです。
 でも買ったはいいけど読者はどう読むのでしょうか。最初が面倒くさいですね。喩法「トロウプス」の説明。多分以前からあったメトニミーを換喩、シネクドキを提喩と訳すのはこれで定着していくと思いますが(今パソコンで入力したら一発で変換してくれました。すでに十分に定着していたということかもしれません)、いったいなぜそのことをホワイトは問題とするのか。これまでも多くの解説でそれが「誰の考え」に「依拠」しているのかは、説明されてきているわけですが、「どうして」という問題は意外と説明されていないような気がします。自分はこの問題はシンプルに考えています。部分が全体を代表するとして、残りの部分を無視するのはおかしいし、恣意的に選び出された部分をつなぎ合わせれば全体が形成されるという考えも論理的には厳密さを欠いている。逆に全体が措定されれば、それが部分を代表しうるとするのも、飛躍があります。ホワイトの発想の起点となっているのは、そうした安易な立論への批判なのでしょう。
 少し議論がずれますが、ホワイトの歴史学への批判は、部分が全体であると称していることに対するものだと自分は考えています。ホワイトを議論すると、歴史は事実かということに、あるいはどうしてフィクションが事実になるのかというところへ議論が向かってしまう。おとといの議論にもそんなところがありました。こうした議論の仕方は、もっと大事なことを見落としているのではと自分は考えています。
 歴史とされるものもその一部ですが、人々の過去認識には多様な形態があります。そのことは自分がどのようなものを媒体として過去を認識しているのかを考えれば、すぐに理解できることです。現在大学をはじめとする研究機関で行われている歴史研究が事実性を根拠としていることは確かなことです。相当に恣意的な内容が含まれるようになったとはいえ、学校教育における歴史はなお事実性をその根拠としています。その点では一定の虚構を許容するとされる小説や映画とは違いがある、それも確かなことです。
 これからも大学などの研究機関や、専門的な歴史研究者とされる人々の間では、事実性に根拠を置くかたちで歴史が論じられていくはずです。そのことは人々の過去認識を助けるはずです。また文書間や資料館での資料の収集や保存も行われていくでしょう。そのことも人々の過去認識を助けるからです。そうした営為自体を否定する必要はありません。しかし、大学のような本来は開かれた真理の追究の場であるところの歴史が、そのようなかたち限定化されることには大きな問題があります[「文書」館であれば、本来の目的からして、それでも構わないのですが)。
 なぜなら、そうした作業は広く歴史とされるものの一部、広く人々がもつ過去認識の一部にしか過ぎないからです。その一部が歴史研究の可能性を阻害すべきではありません。たとえば現在では圧倒的多くの歴史研究者は、歴史を文字で表象している。ほとんどの大学では、卒業論文を「書かなければ」史学科を卒業できない。歴史研究者になろうとするなら、博士論文を書かなければ歴史研究者になれない。なぜならそうした研究の場を支配している「権威ある」歴史研究者は、それだけを「事実的」な歴史と考えているからです。しかしよく考えればすぐにわかるように、歴史「叙述」というのは、本来的にありうる歴史のほんの一部に過ぎません。事実に沿ったより正確な表象をしようとすれば、映像や音声が伴わなければいけないということは自明のことです。なによりも現代史を対象とするなら、より正確に過去を伝える史料自体が、圧倒的に記録・保存された音声や映像なわけだからです。事実をより正確に表象することが歴史研究の成果であるべきだというのなら、学生や大学院生に課せられるべきは、卒業論文ではなく、卒業映像であるべきでしょう。
 つまり歴史は事実であると主張する現在の歴史学は、文字的な歴史を絶対化している「一部」によって支配されている。したがってそのことに根拠を置くかたちで人々に強いられている過去認識もまた「一部」によって支配されているものでしかありません。「歴史の事実」ではあっても「過去の実在」とはほど遠いものということになります。ホワイトが批判したのはそうしたことだったのだと思います。ホワイトが「過去の実在」自体を否定しているわけではないと繰り返しているのもそのためです。こうした意見は極端でしょうか。自分の経験を振り返りながら、よく考えてください。たとえばテレビニュースと新聞は、どちらがより事実的なのか、どちらがより構築的なのかというようにです。実はそのどちらも構築的です。そう考えた時、フィクショナルなるなものとされる映画や小説から、ある種の現実の社会についての認識を、あるいは過去の実在についての想像的理解を、私たちが作り出していることに気づくはずです。

by pastandhistories | 2017-10-09 21:54 | Trackback | Comments(0)

昨日について

 昨日の外語大の会はテーマとしては一般的なものが設定されていたわけですが、「メタヒストリー」の翻訳出版に開催を合わせたという部分があったので、自分としては「日本では」これまでほとんど論じられてこなかった、ホワイトの思想的経歴や議論の基本的な枠組みを紹介することに中心を置きました。しかし与えられた時間は短いということで、いくつかのインタビューを翻訳紹介したわけです。翻訳は自分のために以前作成していたノート的なもので、今回は正式には二週間前の依頼ということで、点検する時間も全くなかったのですが、参加したとりわけ若い人が(若い人が多かったことには随分と力づけられました)参考にしてくれればと思います。
 ホワイトが日本に来た時も、実は事前に自分の手元には5本のペーパーが送られてきました。同時に、未発表であったものが多いペーパーを添付したメールには、「お前が自由に誰に対しても配布してよい」と書かれていました。何度かここに記してきましたが、ホワイトは学問に対してそうした考えを持っている人です。自分も研究会での発表者や質問者の役割は、自分の正しさを論じることではなく(それが絶対に、誤っているというわけではありませんが)、限られたものではあっても参加者にとって有益なものを提供することだと考えています(このブログもそうしたものとして書いています)。不十分なものですが、多少でも役に立ててもらえばと思います。
 ただ予想されたように時間が全然足りなくて、実際の歴史研究に対するホワイトの影響という問題を、具体的な形で紹介することはできませんでした。会が終わってからイム・ジヒョンが話かけてきて「ホワイトのバイオグラフィとして知らなかったことを知ったので有益だった」と言ってくれましが、そうした印象を多くの人に与えるのにとどまってしまったのは少し残念でした。
 そのイムジヒョンの発表と質問については少し残念なところがありました。イムがホロコーストを映画(フィクション)のあり方にホワイトの議論を結びつけたのは、イムらしいシャープな問題提起でしたが、その後の質疑はやや一般的なレベルにとどまっていました。一番残念だったのは、そこで議論されたような内容は、すでにポストモダニズム的な歴史論の系譜な中での重要な人物であり、『リシンキング・ヒストリー』の創立編集者としてポストモダニズムの立場からの歴史のあり方を議論する場を作ってきた、ロバート・ローゼンストーンが「映画と歴史」「映像と歴史」という問題としてすでにきちんと議論してきた問題だからです。
 イムヒジョンも自分の報告でそのことに気付いたようで、後でローゼンストーンは読んでいなかったのでこれから読んでみると言っていました。自分の責任だとも思いますが、ローゼンストーンの議論に関しては、『歴史を射つ』のなかで彼がこの本のために書いてくれた要約的な文章が翻訳されていますし、自分の『開かれた歴史へ』でも紹介論文が掲載されています。またテッサ・モリス・スズキの『過去は死なない』でもローゼンストーンは紹介されていたはずです。
 ローゼンストーン以外にも Marnie Hughes-Warrington, History Goes to the Movies (2007), ジェローム・デ・グルートの一連の著作、など方法論的に優れたものも随分とあるし、何よりもインデアナ大学を中心とした Film and History や、ここでも紹介したことのある IAMHIST などの活動(すでに1980年代から始まっていた)をとおして映像と歴史の問題は随分と議論されてきました。日本の歴史研究がそうした歴史の方法に対する関心をほとんどたどれていないために議論が基本的なことの繰り返しにとどまっているのは、本当に残念です。

by pastandhistories | 2017-10-08 10:45 | Trackback | Comments(0)

10月7日

今日は昨日の続きのようなことを書こうかとも思ったのですが、もう日にちもないので、今週の土曜日の予定を書いておきます。ヘイドン・ホワイトのいくつかのインタビューの紹介をとおして、彼の考えの一端を紹介する予定です。今日からはその準備をします。

    国際シンポジウム「『メタヒストリー』の射程で考える歴史叙述と記憶の問題系」

時間:2017107日(土)13時~17時半

場所:東京外国語大学(府中キャンパス)、本部管理棟、中会議室

趣旨説明 岩崎稔(東京外国語大学教授・訳者代表)13:00-13:15

第一部 《ホロコーストと表象の限界》 13:00-14:45 モデレーター:岩崎稔

「『メタヒストリー』とアウシュヴィッツのアポリア」林志弦〈韓国・西江大学教授〉

「ホロコーストをどう表象するか――「実用的な過去」の見地から」上村忠男〈東京外国語大学名誉教授〉 

第二部 《思想家、ヘイドン・ホワイト》 15:00-15:45

「インタビューのなかのヘイドン・ホワイト」岡本充弘〈東洋大学名誉教授〉

第三部《『メタヒストリー』論争の現在》 16:00-17:30 モデレーター:成田龍一 

「物語論的転回2.0 『メタヒストリー』と現代歴史学」長谷川貴彦(北海道大学教授)


by pastandhistories | 2017-10-04 06:27 | Trackback | Comments(0)

政治の逆説的転回

 ある時期からやたらに研究領域の自己規定を求められるようになりました。結構面倒くさいけど、自分の場合はイギリス史・歴史理論あるいは政治史だけで済ましていましたが、次第にグローバリゼーション論が入るようになりました。さらに細かく求められる時には、社会運動史、議会制度史、グローバルヒストリーと記したりしています。
 というように、自分の本来的専攻は議会改革を求めた民衆運動の歴史。したがって政治理論の本は随分と読みました。可能なら、とりわけ退職後はそうしたことについて書きたいとは思っていたのですが、残念ながら歴史理論関係の注文が先行していてしまい、なかなかそこには手が回りません。このブログもタイトルは「歴史の諸問題」。でも基本的には自分が関心を持つ続けていることの一つは、政治の理論的分析(そして実際的な改善)です。
 そこで今日は現在の政治状況についてコメントしておきます。昨日今日の最大の問題は、民進党からのリベラル派の離脱。簡潔に言えば保守・保守・革新[あるいはリベラル)の三極体制が、少なくとも今回の選挙では成立したということです。この問題について、一部には民進党の分裂は安倍政権に利するという報道・分析がありますが、これは虚偽です。むしろすでにとられた世論調査が示すように、安倍首相の支持率は再び後退しました。
 なぜこのようなことが起きるのか。それは1960年代以降の日本政治を考えるとわかります。1960年代以降の日本に生じたのは野党の多党化現象です。民社党の形成、公明党の成長、共産党の支持拡大、中選挙区制度のせいもあって、このことは加速化され、ついには自民党の過半数割れという現象が生じました。実はこの時この現象を引き起こしたのは、中道保守としての新自由クラブの結成です。しかしこののち進行したのは、新しい補完的な保守政党の形成です。小池都知事や前原議員が参加していた日本新党、小沢議員が率いた新進党、後は限りがないのですが、みんなの党、維新など多くの新しい保守党が出現したわけです。しかし、そのことによって起きたのは自民党の衰退ではなかった。逆に社会党、社会民主党の後退に象徴される革新政党の衰退です。さらにもう一つの現象が同時に進行します。それはかつての自民党の指導者であった長老たちが嘆いているような、自民党の超保守化です。その象徴が安倍首相です。
 なぜそのような現象が起きたのか。それは保守の分極化が逆に中間層を引き寄せ、自民党のさらなる保守化を可能にする働きをしたからです。政治の逆説です。このように考えれば、今回の民進党の分裂は、実際にはきわめて保守的な内容の政党の出現ですが、形式的には反自民党という選択肢を拡大したという点で、安倍首相への支持をさらに下げる役割を果たすはずです。そのままでは安倍首相が退陣する可能性が生じたとはいえ日本政治の危機はさらに進行する可能性もあったわけですが、リベラルな部分が新党を立ち上げ第3極への流れを作ったことによって、補完的保守政党の形成による政治全体の保守化というこれまでの動きとは異なる現象が起きるかもしれません。政治学的に見ると、政治はしばしばそうした逆説的な転回を示すことがあります。

by pastandhistories | 2017-10-02 18:26 | Trackback | Comments(0)

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