人気ブログランキング | 話題のタグを見る


歴史についてこれまで考えてきたことを書いています


by pastandhistories

第16回パブリックヒストリー研究会

 今日の第16回パブリックヒストリー研究会は4人の報告者の熱の入った報告によって、随分と収穫の多い会でした。自分に与えられた時間は5分でしたので、個々の報告への十分なコメントはできませんでした。ただ気づいたことはメモしましたので、明日からは個々の報告について自分が考えたことを書くようにようにしますが、今日は事前に送ってあった短いコメントをここに掲載しておきます。

 今日の役割はそれぞれの視点から発表される4人の報告者へのコメントを先頭バッターとして行うということですので、報告者の発表を聞いてからでないと、事前にレジュメのようなものは用意できませんし、発表時間も5分ということですので、それほど多くのことを提示することはできません。 

ただ保苅の議論を取り上げたことについて、参加者から出そうな質問は、(1)なぜ彼の議論がパブリックヒストリーと関係するのか、(2)実証できない事実を歴史実践として受容することは歴史修正主義に道を開くのではないか、という点にありそうなので、その二点についての自分の考えを報告に対するコメントとは別に提示しておきます。 

まず(1)としては、「グリンジのカントリーで営まれていた歴史実践は、いつでも、どこでも、誰にでも平等にアクセスできる標準的で教科書のような「歴史」を生み出さないし必要ともしない。そうではなく、特定の人々に、特定の場所で、特定の時間に生じるのが歴史である。またこのように特定の位置を与えられる歴史は、いつでも、どこにでも、誰にでも繰り返し生じうる」(御茶の水書房版、87頁)という保刈の言葉を参照するのがよいでしょう。文字どおりここでは標準的な「歴史」は専門家が生み出し、しばしば学校で教えられるものだが、ではなくて歴史はすべての人がそれぞれのかたちで行っているというパブリックヒストリーが論じている議論との共通点を見いだすことができます。 

(2)に関しては、第1章の質疑応答(2245頁)で保苅は周到に回答しています。彼はこの回答で十分だと考えていたのではと思いますが(だからこそ本の冒頭に置かれた)、おそらく質問者は理解できなかったのではと思います。

あまり図式的(二元論的)な議論は避けるべきですが、端的に言えば近代歴史学は史料に基づく事実と議論を建前として、(とりわけ文字的な)史料を残さなかった人々の過去を「歴史」からは捨象した(したがってそれらは人類学や民俗学という「学問的」分野に押しやられた)。ここまでは多少の批判的意識を持てば気づくことですが、実はそうした「歴史」と並立するかたちで「啓蒙」「文明化」といったことを軸とした支配関係が世界的に普遍化しつつあるし、したことに大きな問題があるわけです。

近代歴史学は帝国主義や植民地支配を外面的には批判してきましたが、たとえばオーストラリアの歴史を論じるにあたっては、圧倒的に取り入れられるべき truth には眼を向けることができない。そうした truth を、近代歴史学は事実ではないとして退けてしまう。 (先住民に対する一方的な迫害などの、あるいは18~19世紀が一方的な植民地拡大の時代であったという) truth を示唆するものは、実はジミー爺さんの語りのほうにあるにも関わらずです。

近代化された社会で確立された歴史は、日本の歴史学もその一つとなるわけですが、そうした傾向を内在させています。たとえばそれは日本の西洋史学のありかたを見ればわかりますし、そもそも欧米の歴史が日本の社会においてもっているプレゼンスを考えればわかることです。そうした傾向が無視し続けてきたものを、保苅はジミー爺さんにある歴史として拾い上げたわけです。もちろんジミー爺さんの語りは、無数に行われている「歴史する」の一例に過ぎないのですが。
# by pastandhistories | 2023-12-26 23:51 | Trackback | Comments(0)

言語論的転回とパブリックヒストリー

インドネシアから帰国後、今度は昨日の歴史科学協議会。色々得たヒントを100頁くらいノートに気づいたことを書き込んだけど、何から手を付けてよいのかわからない。ほおっておくとそのままになってしまうので、記憶のあるうちに少し書いておきます。昨日の歴史家科学協議会、菅豊さんの報告は圧巻でした。海外の研究を中心にかなり幅広く読んできたつもりでしたが、菅さんが報告したような内容への着目というのは思いつかなかった。自らの知をパブリックの知と同等のものと考えていくことによってはじめて生まれる視点、というよりも誰もが持つべき視点なのだけれど、なかなか気づかないですね。
 歴史科学協議会と言えば、もう10年ほど前に突然『歴史評論』に史学科新入生向けの原稿を依頼されて書いたのが「開かれた歴史へー言語論的転回と文化史」という論文です。書き出しに苦労して、最初は結論部にあった保苅実の文章引用を冒頭に置いた。これが印象的だったのか、何年か後に菅さんのパブリックヒストリーの科研プロジェクトの最初の会に講演を頼まれた。のはいいけど、菅さんが司会で、司会のほうが講演者より話が長い(?)という熱の入れ方で、本気感を感じました。その後一緒にパブリックヒストリー研究会を立ち上げ、来年3月に5周年記念大会をします。
 ということなのですが、昨日も感じたのは最後にも少し発言しましたが、パブリックヒストリーについての議論や理解がまだあまり整理されておらず(これについては来年3月刊行の文章でも論じなおしましたが、さしあたっては今年の4月にここで連載したパブリックヒストリーウエビナー報告を参照してくれればと思います)、そのせいかかつての言語論的転回論と同じように、学問的歴史に対する歴史修正主義やポストトゥルーースの媒体となるのではという印象がかなり持たれてように感じられることです。
 だけど、昨日も少し発言しましたが、歴史修正主義とかポストゥルースを合言葉のように使用してはいけない、というのが自分の考えです。かつての言語論的転回への反応もそうでしたが、これらの言葉を符丁ののように用いると、それだけで連帯感が生じてしまう。しかし、大事なことは、その連帯感は仲間内だけのもので、本当に対社会的な有効性を持っているのだろうか、ということを考えるべきでしょう。歴史が何故これほど問題となるのかというと、それは本当に幅広い領域における通有性を持つものだからです。これは自分自身のことを考えればわかることです。多少は歴史に対して専門的立場から接しているとしても、自分自身が本当に身体化・精神化している歴史というのは、他の多くの人とほとんど同じに、大衆文化をとおして接したもの、ナショナリティの枠組みの中で年少時から自己の中に組み入れられてきたものです。その中の一人であると自己と考えれば、自らも決して孤立した存在でないことがわかるはずです。そこから「歴史」なるものへの思考を組み立てていけば、菅さんの昨日のような議論が生じます。
 なぜ歴史研究者あるいは歴史教育者、さらには多少の学問知を持つとする人は、自己を竣立させて孤立化させようとするのか。その媒体としてなぜ歴史修正主義とかポストゥルースという言葉を合言葉のように使用してしまうのか、そのことに自分はいつも疑問を持っています。

# by pastandhistories | 2023-12-03 10:44 | Trackback | Comments(0)

(タイトル未入力)

 今2時半くらいです。今日は4時からアンア・クラークとマーニー・ヒューズ・ウォリントンがゲスト参加してくれるウェビナーがあります。平日の夕方ということで参加者数が心配。ということで、インドネシアからの帰国後はいりいろメールを送るなどの作業で忙殺されました。慌てたせいか、クラークの仕事紹介の後半にターニャ・エヴァンズの内容が入ってしまったのですが、もう訂正には遅い感じ。クラークはローゼンツヴァイク、シーレンの試みをオーストラリアで継承し、同じようなオーラル・インタービューをとおして人々の歴史意識を論じている研究者です。したがってメモリースタディーズとの接点があるわけですが、あくまでも証言をクォリテイティヴなものとして扱い、それをクォンティファイすることには留保的です。立場的にはあくまでも歴史研究という視点に立っていて、政治家、評論家、コメンテイターが持ち出すナショナルな歴史観を批判するという立場に立っていて、だからこそ個人を歴史認識の出発点とすべきだというのが彼女の考え方です。ローゼンツヴァイクもそうですが、ここまで個人個人の過去認識を強調してもよいのかという批判が生じるかもしれませんが、ヒストリーウォーズにおける保守的な歴史修正主義への批判は明確で、日本の歴史研究者にとっても受け入れやすい考えです。
 対してウォリントンは日本の歴史研究者からは、相反した反応がありそうです。リアリティへの回路としてエシックスを重視していることがおそらく一つの理由となると思いますが、もう一つは、歴史修正主義の根拠をランケ的な議論に置いているためです。(ランケ的な方法にもとづく)実証的な事実の無視が歴史修正主義だとしている多くの日本の歴史研究者からすると、この議論は意外かもしれません。しかし、この議論は一読に値するのではと思います。詳しくは、Marnie Hughes=Warrington, Revisionist Histories, Routledge, 2015. 

# by pastandhistories | 2023-11-30 14:42 | Trackback | Comments(0)

ポスト・トゥルース?

12月2~3日の早稲田の会はかなり反響があるようです。参加者との相談があるので出かけますが。少し気になることは「ポスト・トゥルースの時代」という言葉が議論の前提とされていることです。トランプのような政治家が世界的に頻出し、またネット空間がそうした場になってるのではないかというから、この言葉はもちいられるようになっているわけです。
しかし「ポスト・トゥルースの時代」というような言い方は、「トゥルースの時代」と言ってよい時代があったかのような錯覚を作りだします。本当にそうだったのでしょうか。そうではないことは、「フェイク」を語る政治家やその同調者の多くが、典型的な保守主義はであることからもわかります。つまり彼らは過去を擁護しその時代の価値を維持しようとしているわけですが、そうした時代は決して「トゥルースの時代」ではありませんでした。皇国史観しかり、大本営発表然りです。そしてまた戦後から現在に至るまで、日本の社会は本当に「トゥルースの時代」と言えるような社会だったのでしょうか。あるいは西欧諸国も。このような批判意識を持てば、「ポスト・トゥルースの時代」という言葉の使用には、一定の躊躇が必要だと思うのですが。

# by pastandhistories | 2023-11-26 18:18 | Trackback | Comments(0)

ユーザビリティ、アプリカビリティ、

 「続パブリックヒストリー研究序論」という原稿を書いてから、ほぼ一か月ほど個別のパブリックヒストリー関連論文の紹介が止まっています。その理由はもう1本論文を書いていたことや、海外研究者をゲストとして招いているZOOMでののウェビナーの準備に時間をとられていた(今日午後本人たちと打ち合わせをZOOMでします)ことにもありますが、大きな理由は、少しノートをまとめてから連続的に紹介した方がよさそうなので、その作業をしているためです。これはもう少し時間がかかりそうです。
 パブリックヒストリーと言えば、それが生み出された根拠の一つは、歴史のユーザビリティ、アプリカビリティです。それが不足しているのではと疑問からです。しかし、自分はあまりそういう考えはしていません。ウクライナ問題でも、パレスティナ問題でも、さらには中国問題でも、歴史研究者は随分とメディアに登場しています。メディアにとっては、ユーザブルな存在だからです。批判的に言えば、その背後にある権力にとっても。でなければ、自分たちがその時々の必要に応じて「選択される」わけがないからです。
 かつて「近代の超克」という議論がありました。西欧近代への批判としてです。今もそうした批判が繰り返され、さらに言えば今だからこそ強調されるようになっているように、批判自体が知的判断としてまったく間違っていたわけでも、いないわけでもありません。しかし、この議論は当時の政治権力が大衆統合の手段として用いた「鬼畜米英」とオーヴァ―ラップし、戦争の媒体となりました。参加者の多くが、太平洋戦争への快哉を叫んだのはよくく知られているとおりです。
 自らの考えをパブリックへと伝える手段としては、メディアに登場することが絶対悪とは言いきれません。しかし、自分の主張が戦争を進めるためにユーザブルなものとなって、アプライされてはいないかと問うことを、歴史研究者は忘れるべきではありません。

# by pastandhistories | 2023-10-12 10:21 | Trackback | Comments(0)

カテゴリ

全体
未分類

以前の記事

2024年 03月
2024年 02月
2024年 01月
2023年 12月
2023年 11月
2023年 10月
2023年 09月
2023年 08月
2023年 07月
2023年 06月
2023年 05月
2023年 04月
2023年 02月
2023年 01月
2022年 12月
2022年 09月
2022年 08月
2022年 07月
2022年 06月
2022年 04月
2022年 03月
2022年 02月
2022年 01月
2021年 11月
2021年 10月
2021年 09月
2021年 07月
2021年 06月
2021年 04月
2021年 03月
2021年 02月
2021年 01月
2020年 12月
2020年 11月
2020年 10月
2020年 09月
2020年 08月
2020年 07月
2020年 06月
2020年 05月
2020年 04月
2020年 03月
2020年 02月
2020年 01月
2019年 11月
2019年 08月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 06月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 09月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 07月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 10月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 01月

フォロー中のブログ

最新のコメント

恐れ入ります。いつも勉強..
by とくはら at 14:37
『思想』の3月号ですか。..
by 川島祐一 at 23:39
先生は、「「民主主義」擁..
by 伊豆川 at 19:57
先生は、「歴史が科学であ..
by 伊豆川 at 17:18
セミナーで配布・訳読され..
by 伊豆川 at 14:44
私も今回のセミナーに参加..
by 伊豆川 at 18:55

メモ帳

最新のトラックバック

ライフログ

検索

タグ

その他のジャンル

ブログパーツ

最新の記事

アームチェアー「パブリックヒ..
at 2024-03-17 21:04
MFSC
at 2024-03-11 10:43
何を問うのか
at 2024-03-01 10:45
待ってろ、辰史
at 2024-02-27 08:46
低関心化
at 2024-02-26 09:37

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

画像一覧