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ベストテン入り

 北京ではヤフーの検索機能があまりよく使用できず(ただし裏ワザは発見しました)ネットサーフィンがあまりできなかったので、帰国後少しネットを見ていたら、以下のような情報にぶつかりました。

駒場書籍部 
20184月ランキング≪人文≫

書名 叢書名 著者名 出版社

1 東大生が身につけている教養としての世界史   祝田秀全 河出書房新社

2 大人になるためのリベラルアーツ   石井洋二郎 東京大学出版会

3 リベラルアーツの学び方エッセンシャル版   瀬木比呂志 ディスカヴァー・トゥエンティワン

4 大学で勉強する方法   アーサー・W.コーンハウザー 玉川大学出版部

5 Lexicon現代人類学   奥野克巳 以文社

6 エンドレスエイトの驚愕   三浦俊彦 春秋社

7 表象 12   表象文化論学会 表象文化論学会

8 ショスタコーヴィチ引き裂かれた栄光   亀山郁夫 岩波書店

9 グローバル化と世界史   羽田正 東京大学出版会

10 過去と歴史   岡本充弘 御茶の水書房

 これにはびっくりさせられたけど、嬉しかったですね。上位はいかにも新入生が読みそうな一般書。8位が亀山さんで、9位が羽田さん。知名度も高いし、それぞれ出版社も大きい。ランク入りして当然。それに次いで、東大駒場とは直接接点のない自分が10位に入った。別に書評が出ているわけでもない。こんなことがどうしてあるのかという気持ちです。
 多くの人がそうだと思うけど、大学に入って最初に読んだ本は記憶に残りやすい。自分が入学祝いで駒場生協で買ったのは丸山真男の『現代政治の思想と行動』。いつも持ち歩いていて、なくした時に備えてわざわざ住所まで本に書いてありました。サルトルの『汚れた手』への言及があって、それを契機に白水社のサルトル全集を読むというきっかけにもなりました(ふつうは逆の順番のような気がするけど)。 
 この本を書くにあたっては随分と迷いがあって、「死後出版禁止」とまで遺書めいたものには書いてあったけど、こうしたかたちで読まれているというのとなら、やはり出してよかったという気持ちがあります。自分の書いたものが誰かに「主体的」に読まれるということは、自分が他者にとっての存在、サルトル的に言えば「対他的存在」であるということかもしれません。まずは見ず知らずの「購買者」に感謝しておきます


# by pastandhistories | 2018-05-25 16:11 | Trackback | Comments(0)

オンライン化と注の付け方

 帰国してから、今度は急いで英文論文の注を付ける作業をしています。保苅実さんの文章の引用があって、下書きでは自分で英文を勝手に作ってあったので、その確認が必要。ということで、ハワイ大学から出版された英文化された書籍(Gurindji Jourmey) はどこにあるのだろうと思って NACSIS を見たら、なんと日本には3冊しかないことがわかりました。早速購入。人のことは言えないけど、いまの日本の関心状況にはがっかりさせられます。といっても今回の岩波から復刻には、かなり若い世代からの関心が集まっているようで、その点には期待するところがあります。なおあ英文本の表紙にはディペシュ・チャクラバルティの推薦文がのっていて、本の中にはモーリス・テッサ・スズキの小論が掲載されています。パラッと眺めましたが、17頁のポストモダニズムとポストコロニアリズムについての指摘は、ポイントをついていて参考になります。
 注をつけていて思うことは、もはや文献名を付すより、URL を付記した方がよい部分が随分とあるということです。とりわけ統計的なものはそうなります。ネット上にかなりのデータが、データを集約・整理したかたちで掲載されているからです。最近は雑誌は多くがオンライン化されています。読み手の立場からすると、文献である場合はその現物が手元にはない場合が圧倒的に多い。といっても図書館内でそうした論文を読むケースはそれほど多くはない。しかし、URL が付されていれば、パソコンを作動しておきさえすれば簡単に確認できます。注は本来は読み手が真偽性を確認できるように付すものなわけですから、このことを考えると、文献名を記したものより URL を記したものの方が、読み手にとっては、便利な誠実な論文ということになります。多くのデータベースには英語ヴァージョンがあるものもあるので、何よりも国際性をもちます。
 成果の公表のスタイルも、日々急速に変化しているということなのだと思います。

# by pastandhistories | 2018-05-23 14:14 | Trackback | Comments(0)

近代化、グローバル化

 今日帰ります。社会科学院で、近代史研究所の人たちの前でグローバルヒストリーについて、『思想』に書いたことを軸に英語で話しました。もちろんほとんどの人は在外経験があるけど(残念ながらに在日経験のある人は京都大学に6年いた人だけ。アメリカが多く、後はドイツなど。このことは市内の車にも反映されていて、タクシーのほとんどがWRC で今やトヨタを凌駕しつつあるヒュンダイ、一般車は圧倒的にドイツ製です)、すべて質問は中国語、多分せっかくの会なのでこちらの話を参考にしながら、所員同士で議論しあいたいということなのだと思います。もちろん英語が完全も人もいて、その人たちが間に入って通訳してくれました。
 ほとんどの人が丁寧な質問をしてくれて、自分にも参考になりました。そのいくつかを紹介すると、一つは中国でのグローバリゼーションへの批判は、それがアメリカナイゼーションだという点にも置かれていること。自分がグローバリゼーション論やグローバルヒストリーは欧米中心主義への批判という面があると論じたことへの質問です。たしかにそうした部分はあって、たとえばスーパーグローバル大学に代表される大学の英語化は文字通り従属的な面すらもつアメリカナイゼーションですらあるわけです。その意味ではこの間すすめられている研究の「英語化」があまりにもナイーヴなとところがあることには、もう少し自覚的であった方がいいかもしれません。
 もう一つは、逆にグローバリゼーション、モダナイゼーションを一体化して批判的に論じることは、たとえばフェミニズムが1960年代のアメリカで本格化し、それが世界に一般化しつつあるという肯定的な問題をどう考えるのかという問題が生じるのではないかという質問です。この質問はジェンダー史をしている女性研究者から出されました。これは答えにくい問題です。自分としては近代化論は日本のナショナリズムの重要な要素で(現在のグローバリズム論もそうですが)、第二次大戦後のある時期までは戦前の天皇制批判への素材として有効に用いられたけれど、現在ではその影響を後退させているし、むしろ欧米への翼賛的同化という否定的な要素も根強いと説明したのですが、このあたりは伝わらなかったかもしれません。
 何度も中国は何回目かと聞かれました。実は最初に来たのは1989年、初めての在外経験でした(この後この年にイギリスに行ったのが初めての滞欧経験)。30年前です。天安門事件の直前。まだ外貨券しか使えず、買い物もそれが使用できる店だけ。バスからもあまり自由に降りられない。その時と王府井の風景があまりに変わっているのには本当にびっくりさせられます。30年で社会はとてつもなく変容する。その少し前だったと思うけど、『史学雑誌』の「回顧と展望」に、「労働党は退潮しサッチャー政権に代表されるネオリベラリズムの政権が永久化する」という趣旨の政治史研究者の文章に触れて、「視点が肯定すれば、物事は固定したものに見える、自由な視点を持てば、物事は様々に動くものとして見ることができるはずだ」と書いたことがあります。
 アメリカナイゼーションもまたそうですが、世界が未来永劫に同じ方向に向いて動くはずがありません。開かれた視点を持てば、多元的なものの絡み合いの中で、世界が変化していくことが理解できるはずです。そうした動きのなかに自分の研究は位置しているのかを考えることは、とても重要です。

# by pastandhistories | 2018-05-17 09:26 | Trackback | Comments(0)

国際化の貧困

 今北京です。招聘先から提供された立派なホテルにいます。以前上海でも感じたし、韓国に行った時も感じたけど、中国や韓国では各大学や研究機関に海外からの研究者用の招聘用の立派な宿泊施設があります。正直日本とは比べものになりません。大学の国際競争力とかグローバル化を言うのなら、なぜそれに予算をつけないのか、首相のコネで国粋的な教育をしようとした小学校や、どうでもいいような大学に膨大な予算を不正につける(それを一部の大学教員と称する連中が審議会委員として支援した)、そんなことをしていたら日本は学問的世界ではどんどんと国際競争から遅れていくでしょう。国際化と言うなら、最低3ケタ、可能なら4ケタの海外からの研究者を常時収容できるきちんとした施設が各大学には絶対必要です。 
 もっとも中国ではグーグルが利用できません。自分の勤めていた大学が教員や学生に提供する共通メールは gmail だったので、それでは中国に行った時に使用できないし、コミュニケーションも取りにくいので国際化には適合しないと意見を言ったら、東洋研究者の学長は平然とそれでもかまわないと言ったことがあり、唖然とさせられたことがありました。Yahooの検索も動かないのですが、これは今回裏技を発見できたので、適当に利用しています。このブログもそれで書いています。
 ただ困ったことは英部のチェックです。以前書いたことがあるかもしれないけど、自分は英文のチェックはYahooの検索機能の「前後を含めて一致」という機能を使っています。自分の書いた英文のセンテンスをここに入力すれば、使用数がわかるし、使用例もわかります。使用例がなかったり微小な場合は誤文の可能性が高いので、その部分は修正すればいいわけです(自分で思いついたことですが、このブログは研究上のアイディアを大学院生レベルの研究者に提供することも目的としているので、関心を持った人は自分でやって確かめてください。かなり便利なはずです)。これが現在は使用できないということで、最終的なチェックにやや苦戦していますが、発表までには何とかなるでしょう。
 今回は自分の発表だけなので、海外の研究状況についてここで書けるかどうかはわかりませんが、17日に帰ります。

# by pastandhistories | 2018-05-12 18:30 | Trackback | Comments(0)

機械とグローバル

 急に入った二つの仕事。30000字以内という英文は草稿をほぼまず書き終えました。後は講演の準備。中国でなので日本語で通訳付きかと思ったのですが、英語でということなので1時間程度の話を準備していきます。大変と言えば大変だけど、今は日本の大学でも英語での授業が要求される時代。一週間毎に1時間半の英語授業の予習をしなければいけないわけで、似たようなことだと思えば妙に納得できるところがあります。 
 以前も書いたと思うけど、自分は英文での発表や英語論文を準備する時、現在の段階ではコンピューターは二つの使い方をします。一つは、口述発表予定原稿を読み上げソフトに入れること。発表に必要な時間がある程度予測できるので、スピードを調整したり、量を調整するのに便利です。機械音声なのでイントネなどにまだ問題があるけど、個々の単語の発音はある程度正確なので、その点でも利用しています。
 もう一つは作文の際の分量の確認です。最初に日本語で書いて機械翻訳をかけると大体の文字数がわかります。最初に文字数が決まっている仕事には便利です。もっとも翻訳の方は、実際にはまだ使用不可能でしょう。時々機械翻訳をそのままうっかり使用したとみられる企業のホームページを見かけますが、これは企業の信用を損ないます。もちろん学術論文には100%現在の段階では使用できません。
 ただ問題はこれからですね。すでに欧文同士の場合はかなり精度を高めているように、機械翻訳もまた将来は精度を増して、碁・将棋のように人間の能力を上回るでしょう。10年から20年先とは言えないかもしれないけれど、50年後、100年後には必ずそういう時代が来るはずです。そのなことはない、と言い張るのは、機械が碁・将棋で人間に勝てっこないと予測していたのと同じことです。その予測はわずか週十年という単位で、裏切られたわけです。機械は人間の天才を凌駕したわけです。言葉は普通の誰もが話せるわけですから、天才に打ち勝つ能力のある機械に、それができないはずがないからです。
 そう考えると100年後に本当のグローバルな世界が訪れることが予想されます。別に英語を話せなくても、それぞれの人がそれぞれの言語で話せば互いにコミュニケートできる。学問的世界でも言語による欧米優位のヒエラルヒーはなくなり、様々な言語で発信された知が平等に対峙しあい、そのなかで相互がより正しい真理に向けて共同しあうという時代です。そうした本当にグローバルな世界で作り出される真理は、現在の日本の学問的世界で多くの人が真理であると思い込んでいるものとは、大きく異なるものでしょう。
 今回の仕事は偶々英語ですが、何回も書いてきたように英語で書くのは、現在の現実の中で自分の書いたもののオーディアンスをほんの少し広げるためです。もし自分が中国語ができたら、今回の機会はもっと有効に利用できたはずです。
 外国語での発表を試みるのは、異なるオーディアンスを対象とすることによって、相対化するためです。オーディアンスを狭め、自己を絶対化するためではありません。英語で書くのは、ある特定の時代の狭い枠組みの中で現在的には要請されているけれど、将来的にもそうしたことが絶対に必要であるとは、機械の将来的な発展を考えれば、必ずしも断言することはできません。、

# by pastandhistories | 2018-05-01 20:07 | Trackback | Comments(0)

IFPHに関する募集

 パブリックヒストリー国際連盟(IFPH)の会長のトマス・コーヴィンから以下のようなメールが来ました。事務的な手伝いをしてくれる学生<院生>を募集しているようです。積極的に応募してくれる人がいるとよいのですが。 

I hope you are doing well. I am trying to recruit students to help the International Federation for Public History to keep track with various events, conferences, projects that connect with Public History. I was wondering whether you would know some students in Japan who might be interested?

Thank you for your help、 Thomas
という内容です。この組織は魅力的なところがあって、将来の発展が見込めるし、中心メンバーもフランクな人が多いので、こうした機会を生かすことは若い研究者にとって必要だと思います。希望者は tsyokmt@hotmail.com に連絡をください。


# by pastandhistories | 2018-04-28 22:12 | Trackback | Comments(0)

二つの仕事

 だいぶブログを書いていませんが、体調などに異常があるわけではありません。2月末に二つほど仕事が印刷されて、その後は読みかけの本のノートの作り直しなどをしていました。いろいろなことを考え直させられたので、そろそろ次の仕事をと思っていたところに、二つ注文が入りました。本当は刊行された仕事の続きにあたる注文が来るかなと思っていたけどそうではなく海外からの注文。一つは5月中旬に1時間ほどの問題提起的な講演をしてほしいという依頼。もう一つは10日ほど前にきた、英文で30000字程度の文章を今月末までに書けるかという依頼。  
 それぞれ能力を超えた難しい依頼だけど、他人がそうした評価をしてくれるなら思い、その作業を今しています。ということでブログの方は中断していたわけです。今日も朝からその作業をしていましたが、けっこう2000字くらい書いた英文原稿がクリックミスでパー。さすがにがっくりということで、気晴らしにこのブログを書いています。
 いうことで、体調的にも精神的にも変わりはありません。それにしても次々と良い本が出ていて、自分の仕事など霞んでしまいそうです。與那覇潤さんの本も賛否はありそうですが、研究室でやっていた小さな研究会に参加してくれていた人だし、良い仕事をしていると思います。復刻の出た保苅実さんも自分が『歴史評論』に書いた時に引用させてもらいました。下書きをしたら文章全体が硬くなって読みにくい。どうしたらいいのかと考えていたら、倒叙法的に書くことを思いついて、結論に置いてあった彼の文章を冒頭にもってきたら、随分と印象的な書き出しになりました。そういう点で自分のとっては思い入れのある本で、復刻されたのは嬉しいですね。

# by pastandhistories | 2018-04-25 17:46 | Trackback | Comments(0)

遺稿

 以前その経緯を書いたことがありますが、ヘイドン・ホワイトは来日に際して当時用意していた5つの原稿を、free to distribute と付記して自分に送ってくれました。そのうち「ポストモダニズムと歴史叙述」「実用的な過去」が結果的に日本で話されたわけですが、残りの3つははリクール論、トルストイの『戦争と平和』論、などです。そのお後に発表されたかということなどを含めて内容を確認したうえで、distribute する方法を考えてもと思っています。少し時間をください。
# by pastandhistories | 2018-03-11 05:49 | Trackback | Comments(0)

アマゾン

 ヘイドン・ホワイトに関しては何人かの海外の研究者からメールがありました。今後なにか催しがある時は知らせてくれるとのことです。もしそうした連絡が入った場合は、このブログでも告知しようと思います。
 『過去と歴史―「国家」と「近代」を遠く離れて』は配本があまり円滑でなかったようですが、今日やっとアマゾンに配本されたようです。驚いたのは18冊も仕入れたこと。アマゾンはコンピューター管理で売れる見込みのある部数しかし入れないとのことですが、本当にこんなに捌けるのか他人事ながら心配です。逆に都内の書店の店頭にはまだ出ていないようで、そのあたりの事情は分かりません。
 本を書き終えてから少しスランプだけど、明日・明後日は研究会、21日の研究会も予定通り行ないます。週明けに関心をもってもらえそうな人に個人的に連絡するつもりです。
 
 

# by pastandhistories | 2018-03-09 21:44 | Trackback | Comments(0)

訃報

 このブログは2010年から始まりました。その間いくつかの優れた研究者、知人の訃報に接してきましたが、いっさいコメントを書いたことはありませんでした。しかし、今日はやはり書いておくことにします。ヘイドン・ホワイトの訃報です。
 昨年『メタヒストリー』の翻訳に際して、彼と連絡を取ってほしいと依頼され、その時に返事のメールをもらったのが最後となりました。その後は連絡が途絶え、メールでの連絡は早い人だったので心配していましたが、残念です。
 ここでも書きましたが、彼の誠意のある人格には本当に感謝しています。

# by pastandhistories | 2018-03-07 06:20 | Trackback | Comments(0)

いくつか

 一時期に比較するとアクセス数がだいぶ落ち着いてきました。考えてみると告知的な記事が多く、この間は問題提起的なことをあまり書いていないためかもしれません。内容的な重複を避けるために書き下ろしの出版までは関連する記事を差し控えたこともあります。メモやノートは大分たまっているので、落ち着いたらまたいろいろ書いていくつもりです。
 ということなのですが、今日はまた告知的なこと。『過去と歴史』は20日に刷り上がり、予定通り23日に出版されています。ただ取次からの配本は現在のシステムでは版元はタッチしないということで、ネットなどへの出荷はまだ不十分なようです。週明けくらいに改善されると、入手しやすくなるのではと思います。著者割引分を多少確保しているので、それをお送りすることもできるので、入手を希望する人は連絡してください。
 それから『過去と歴史』にちなんだフリートークの研究会を予定しています。科研費などの予算の処理(?)で日程が立て込む時期ですが、3月21日に設定しました。たまたまジェローム・デ・グルートが来日中の時期なので、彼にもパブリックヒストリーについてのフリートークに参加してくれないかと頼んだら快諾してくれました。詳しくは来週初めにポスターを作成する予定です。小さな会ですが、フリートークですので、関心のある人は参加してください。
 『思想』3月号の「世界史をいかに語るか」は、グローバルヒストリー論のみを焦点化しないようにというかたちで編集されています。そのために逆に自分の役割は、グローバルヒストリー論についての整理ということになりました。多少は違いを出したかったのですが、あまり出せませんでした。でも他の原稿がカヴァーしてくれているので、全体としては問題提起的なものとなったのではと考えています。

# by pastandhistories | 2018-03-02 10:30 | Trackback | Comments(0)

反動

 今は2月下旬。国立大学の二期校が勤務先であった時は、この時期が一番まとまった仕事ができる時でした。一期校の合格発表が終わるまでは入試事務がない。入試もすぐに終わるので、論文執筆や新学期に備えた準備ができたからです。やたらに入試が複雑になった現在からは、夢のような時代です。
 当然なことだけど、複雑になればなるほどミスも出やすい。それを防ぐための負担も増大します。ミスにどう対応するかは大学にとって大変な仕事。この間話題になっているように、その発覚が遅れれば遅れるほど修正が難しくなります。その一つの解決策として正解の発表ということが議論されているようですが、踏み込めばもっと重要なのは答案の返却です。予備校が行う模擬試験では当たり前のことです。
 という問題を随分以前にその時の入試部長(事務部門)から個人的に相談されたことがあります。この人は誠実な人で真剣にこの問題を考えていたようで、その相談相手に自分がなったということです。その時の自分の返答は、「すべき」です。それに見合うほどの高額の「受験料」を取っているからです。このことは正解もまた公表するということを意味します。大学側の当然の義務。返却後の加筆などという問題は、答案へのコーティングをすれば防止できるから技術的にも難しくはないと伝えました。ただ難しいのは返却に要する時間と、クレームの受付期間。あわせて1週間程度が最低必要。発表までに要する時間を含めると入試実施日から2週間程度のタイムラグが生じます。ということで、この問題は実施には至りませんでした。他大学との重複受験生の多い私立大学にとっては、正式な合格発表日の遅れは入学手続き者の確保に致命的な影響が出てしまうからです。
 このことは実現できなかったのですが、マーク式なら各問題についての受験生の正答率が統計的にわかります。基本的には正解とされている解答をマークした受験生が比率としては多いはずで、それにずれがあるようなら正答とされている答えと教科書などの記述にずれがあるはずだということで、そのチェックを行う。ということで随分とミスのチェックができるようになりましたが、実はこのチェック法は同じ時の入試部長の相談に対して自分が提案し、その後採用されるようになったようです。作業量が増えて教員からは不満があったようなのですが。
 とにかく退職後は入試を始めとした雑用から縁が切れて、多少まとまった仕事ができるようになりました。もっとも、正直退職後も何故仕事を続けているのだろうかという疑問もありますが、雑用が多かった在職時の反動からも知れません。その反動を利用した本が昨日完成しました。ここで内容を紹介した『過去と歴史―「国家」と「近代」を遠く離れて』(御茶の水書房)です。正式の発売日は23日なので、その頃に店頭に並び始めるようです。直接版元に注文すれば、早く入手できるかもしれません。

# by pastandhistories | 2018-02-21 10:20 | Trackback | Comments(0)

個人・事実

 鴻上尚志さんの『不死身の特攻兵』(講談社)がベストセラーになっているようです。広告によれば既に13万部。この勢いはしばらく続くでしょう。このことはいろいろなことを考えさせてくれます。
 なによりもこの本が大きな関心を集めた理由。それは出来事の解釈にあった諦念を打破したことです。特攻については随分と数多くの映画が作られ、本が書かれて来ました。代表的なものとしては、家城巳代治監督による『雲ながるる果てに』、それから少し趣きを変えた岡本喜八監督の『最後の早慶戦』という佳作もあります。他方では、近年の『永遠のゼロ』のような意味内容を含むものも少なくありません。しかし、両者に共通していたのは、状況には抗いがたいというある種の諦念です。状況が抗い難いとすれば、残された道はかつて小田実が論じたように、疑問を持ちながら死に赴くという「難死」か、あるいは死を美化する「散華」しかないことになります。
 『不死身の特攻兵』が明らかにしたのは、実はその両者でもない第三の選択肢があったということです。時代がきわめて強迫的なものとして生み出す同調圧力に対して、徹底的な合理的判断を基礎として抗う。それが自らを守ることにもなるし、そしてまたその同調圧力にしたがって他者の抑圧に加担する、この場合他者への圧力というのは、個人としての最も基本的な権利である生死への権利を剥奪するということですが、そのことへの加担を断固として拒否するということ生み出すということです(逆に政治家も上官もメディアも御用知識人も時代に同調し、個人の最も基本的な権利である生死に関する権利を奪ったわけです)。
 逆に鴻上さんの本は、状況がいかなるものであれ、人間として最も守らなければならない倫理的なルールに従うという道はつねに選択肢として残されているということを明らかにしたわけです。おそらくそれが『永遠のゼロ』が闊歩するような時代状況の中で、ある種の諦めを感じていた人に勇気を与えるものだったということが、この本がベストセラーになっている理由でしょう。有力な書き手への忖度から出版社として姿勢を失いかけていた講談社からこの本が出されたことも、今後に意味を持つのではと思います。
 もう一つこの本で重要なことは、歴史研究という視点から言えば、戦争を必然とするようなマクロ的な解釈に対して、一人の個人の行動のあり方というミクロ的な「事実」を対置したことです。「解釈」に対する「事実」の対置。それが歴史研究者ではなく、劇作家によって行われたということは、とても大事なことです。そこでは、過去に対するミクロ的な視点は、むしろフィクションをとおして行われてきたことの方が多かったということが示唆されています。もちろん今回鴻上さんはそれを事実として描いたわけですが、今回この作品が示している問題は、歴史研究者に対しても大変示唆的です。
 最後にもう一つ大事なことは、なんといっても事実を描いた『不死身の特攻兵』がベストセラーになっていることです。その理由は、最初にも書いたように、この本が現在の状況の中で多くの人々がその解答のあり方を求めてアクチュアルな問題に対する答えの一つのあり方を提示するものだからです。ただミクロ的な事実を書けば研究として優れているというわけではありません。現在的な状況を問い、人々の関心へ答えていくものあれば、多くの人に読まれうるものになるということを、『不死身の特攻兵』がベストセラーとなったことは示しています。

# by pastandhistories | 2018-02-18 10:01 | Trackback | Comments(0)

『思想』特集号

 今日のタイトルはこんな感じです。『思想』の特集号と言えば、2010年8月号として出されたヘイドン・ホワイトの特集号。なかなか古本が市場に出なかったけど、アマゾンで昨日確認したら3800円くらいでした。この経緯についてはここでも何度か記したけど、自分は編集の際のアドヴァイスを求められ、何人かの執筆者と翻訳者を紹介したということです。自分は翻訳担当ということだったのですが、最後になって解題も書いてほしいと言われ、それも書くことになりました。
 今度の3月号に関しても同じで、自分が最初に求められたのは編集のアドヴァイス。最初は「グローバル・ヒストリー」が企画の柱だったようですが、であるなら言うまでもなく著名な執筆者も多く、その人たちが中心であるべきだと提案したら、今回はやや別の角度から特集を組みたいということで、特集のタイトルは、世界史〉をいかに語るか――グローバル時代の歴史像 となり、巻頭が小川幸司、成田龍一、長谷川貴彦さんによる「世界史』をどう語るか」という鼎談、以下、岡本充弘「グローバル・ヒストリーの可能性と問題点――大きな歴史のあり方」、長谷川貴彦「物語論的転回2.0――歴史学におけるスケールの問題」、岸本美緒グローバル・ヒストリー論と『カリフォルニア学派』」という3論文と、キャロル・グラック「転回するグローバル・ターン」、スヴェン・ベッカート「綿と資本主義のグローバルな起源」、ディペシュ・チャクラバルティ「気候と資本」という3論文の翻訳、それから小田原琳さんによるセバスティアン・コンラートの『グローバル・ヒストリーとはなにか?』についての書評論文ということになりました。

 ということなのですが、「思想の言葉」に関して、これもこの特集であるならふさわしい人が他にいると伝えたのですが、今回の執筆者からということで自分が書くことになり、また翻訳の解題についても、訳者の希望もあって編集にタッチした人が書いてほしいということで、これも自分がということになりました。

 この特集号に関しては昨日連絡があって、閲了となったようです。自分としては自分の能力を超えたところがあったと思うところがありますが、自分に依頼があったのは、グローバル・ヒストリーがトレンドであることは確かでも、そのことへの批判的議論が少ないということだと思うので、そのあたりを率直に書きました。このブログを読んでくれていた人には理解してもらえると思います。紹介される海外の研究者も十分に紹介に値すると考えています。


# by pastandhistories | 2018-02-09 11:53 | Trackback | Comments(1)

history goes public

 読んでいた本のノート取りを途中でやめるのは、いくつかの理由があります。書いていたこととあまり関係がないから、他の仕事が忙しいから、さらにはノートを取るながら読み続けるほどの価値がないと判断したから、さらに部厚すぎて時間がかかりすぎるから、といったような理由です。その意味では、あえてほおっておいてもいいわけで、そのままになってしまう。なかなかもう一度手を付ける機会はないけど、この前も書いたように、二つほどの仕事の校正が終わったということで、時間が少しあり、今月はその整理をしているわけです。
 でもノートの中断が以上の理由なので、あえてその内容をあらためてここで紹介するまでもないということもあります。ということなのですが、今日は今度『過去と歴史』に書いたこととも関連することがあるので、ジョン・トッシュの Why History Matters? (2008)を紹介しておきます。『過去と歴史』と少し関連するところは、2001年にイギリスで学生に行われたインタビューで、「1948年のイスラエルによるパレスチナ人の強制移住のことを知っていたのは、4%に過ぎなかった」ということ。実は『過去と歴史では』最初の「知らない事実・存在していなかった事実」で、別のことを例として同じような問題を書いておきました。
 もう一つのトッシュの本で紹介しておきたいのは、『過去と歴史』で取り上げたパブリックヒストリーの問題が別の視点からですが、取り上げられていることです。本全体が歴史をパブリックな場にどう生かしていくのかという問題設定を前提としているところがありますが、そのことが特に強調されているのが History goes public という章題から始まる99頁以降の部分です。この言葉はこれも『過去と歴史』で紹介しているようにカレ・ピヒライネンもポストモダニズム的な視点から論じていますが、トッシュの議論は普通の人々にある歴史を重視しようとするピヒライネンとは異なって、学問的な歴史が、パブリックな場においていかに有効に機能していくのか、具体的には citizenship の形成や、それにもとづく熟議的な民主主義にどのように役立てて行くべきかという視点に立つものです。いわば (Academic) history should go public というような考え方です。あくまでも過去の事実を正確に認識する(批判的に言い換えると構築する)のは、学問的な歴史であって、それがどのように一般の人々によって有効に応用されるべきかというのが、トッシュの議論の立て方です。
 自分の問題の立て方とは少し違うというのが途中でノートづくりをやめてしまった理由のような気がしますが、同じ history goes public
という言葉をもちいていても、ピヒライネンの議論とは対照的で、歴史をめぐる現在的な論争点の一つを理解することができます。

# by pastandhistories | 2018-02-07 11:20 | Trackback | Comments(0)

ウィリー・トムスン

 二度にわたって内容と目次を紹介した『過去と歴史―「国家」と「近代」を遠く離れて』は2月23日出版ということで、アマゾンなどでも予告が出ているようです。とにかく内容点検・校正が大変だったので、先日も書いたように今はたまっていたノート作りの整理をしています。同じ経験も持つ人も多いでしょうが、原稿を書きながらノートつくりをすると、ノートが途中のままという本が多くなります。とりわけ欧文の本は随分とそういう状態になる。いったい何冊あるのかというくらい途中でノート作りが止まっている本があるので、その片付けに入りました。といっても、もう関連した論文や本は書き終えているわけだから今更という感じがなくもないけど、逆に多少時間的余裕がないとそうした仕事はできない。やっとそのための時間ができたということです。
 整理し終えた本のいくつかをここで紹介しますが、今日は Willie Thompson, Postmodernism and History (2004) について。そのものずばりのタイトルだけど、このことがテーマの一つである『過去と歴史』では1行も触れていません。発行年次からもわかるように内容的に少し古い。しかし、逆にこの時期の問題の捉え方や論争の状況を知るのには便利です。1960年代の流れ、そして1989年の政治的変化の影響からマルクス主義的な歴史理解には大きな変化が生じるわけで、著者もまた思想的にはマルクス主義的立場をなお擁護しつつ新左翼的な立場にたっていたようで(この本ではトロツキーが何度か引用されています)、そうした立場からポストモダニズム的な歴史論が批判されています。
 残念ながら一般的な議論が多く、また議論の流れが時々ずれるところがあって正直あまり深みは感じさせませんが、便利なのはおそらくは世代的なこともあって、E・P・トムスンから生じた議論の枠組みと、G・S・ジョーンズ、パトリック・ジョイス、ジェイムズ・ヴァーノン、あるいは History Workshop の関連がわかりやすく論じられていることです。きわめて簡単に整理すると、E・P・トムスンが階級を forming ではなく making という視点から、つまり階級を経済関係などに規定される即自的なものとしてではなく、consciousness の自己形成としてとらえたことが、階級への文化的アプローチを生み出し、そのことが逆に言語分析を媒体としてどのような意識が人々の間にあったのかということを問題とするジョーンズらの流れを生み出したという議論です(マルクス主義を基本的枠組みとしたイギリスの社会史からなぜ文化史への流れがなぜ生じたかもこうした観点から説明されています)。
 他にもポストモダニズムによるメタナラティヴ批判がミクロヒストリーを生み出したという興味深い指摘(だとするとギンズブルグはどう位置づけるのかという問題が生ずるわけです。もちろんその問題にも多少触れています)もあります。なおこの本は Palgrave が出した History and Theory シリーズの1冊で、簡単な用語説明がついています。そこではこの間のディーンの会でも翻訳しにくい言葉としてあげた agency は、postulates the ability of human beings individually or collectively to consciously intervene in the historical process であると説明されています。これもまたわかりやすい説明です。  

# by pastandhistories | 2018-02-02 22:16 | Trackback | Comments(0)

『過去と歴史―「国家」と「近代」を遠く離れて』目次

 昨日紹介した書き下ろしの目次は以下の通りです・

(まえがき)
(序章)
(第1章 歴史の事実?)
 アウシュヴィッツ・南京・広島・長崎、疑うことのできる事実・疑うことのできない事実、知らない事実・存在していなかった事実、歴史認識の相対性
(第2章 記憶と歴史をめぐる闘い)
 歴史をめぐる戦い、ホロコーストの実在?、非実在論の論拠、過ぎ去ろうとしない過去、ナチスの相対化論、相対化論への批判、南京虐殺事件、捕虜と民間人の殺害、象徴としての数、数の認識の恣意性、忘却の穴・忘却の海、表象の相対性、ジャストワンウィットネス、様々な証言・様々な歴史
(第3章 ポストモダニズムが論じたこと)
 モダニズムとその批判、記号表現・記号内容、通時的・共時的、作者の死、差異と差延、表象、テクスト論、言葉の支配、エピステーメー、再記述
(第4章 歴史のかたち)
 学問としての歴史、歴史の構築論、マルクス主義とアナール派、歴史の物語論、形式分析、比喩、個々と全体、遡及的な因果的説明への批判、モダニストイヴェント、制度のなかの歴史学
(第5章 記憶と物語)
 記憶の役割、過去の制作、ストーリーとナラティヴ、物語の共同化、集合的記憶論、記憶の他者性、言語の対他者性・共同性、実在を構築するもの、日常性とアイデンティティ、構築されたものの相対性、身体的記憶、文化的記憶、記憶の場
第6章 異なる視座)
 近代歴史学への問い、歴史を保守する、植民地支配の擁護、歴史はフィクションか、ジェノサイドとホロコースト、歴史学の擁護、ヴァーチュアルなリアリティ、サブカルチャーのなかの過去、統合への疑問
第7章 私たちの歴史、私の歴史)
 ファミリーヒストリー、パブリックヒストリー、ビッグヒストリー、コンピューター時代の歴史、共同性についての補遺―和解、ナショナリティとモダニティを越えて、結論として
(あとがき)

それなりに現在的なテーマについて、これまでの議論をふまえながら書いてみました。なお小見出しだけ紹介してありますが、章はそれぞれ節に分かれています。

# by pastandhistories | 2018-01-25 09:49 | Trackback | Comments(0)

『過去と歴史―「国家」と「近代」を遠く離れて』

 このブログで何度か書いていた書き下ろしの校正が終わり、印刷・製本の準備に入ったようです。出版は2月中旬か、あるいはその少し後のようですが、出版社のホームページに予告が出ました。 

 内容(目次)は明日また書きますが、タイトルと宣伝文句はこんな感じです。

 『過去と歴史―「国家」と「近代」を遠く離れて』御茶の水書房、本文267頁(2,800円、税抜き)

 情報を伝える主たる場がネット空間へと移動した時代に生じたことは、真偽の区別の曖昧化である。ポスト真実の時代と呼ばれる状況において、歴史はさらに不可知性を高めている。その問題をどう考えていくべきかというきわめて現在的な問いに、言語論的転回やポストモダニズムが提示した問題をふまえ、歴史研究者が切り込んだのが本書である。本書を読了した時に読者は、従来の歴史研究に欠落していたものを見出し、現在の政治的状況において跳梁跋扈する歴史修正主義に対する鮮やかな批判を見出すだろう。ヘイドン・ホワイトの訳書が相次いで刊行され、ポストモダニズムが提示した議論への関心が再び高まっている現在にあって、本書はそうした関心にこたえる絶好の書である。

 ネットを見ていると、ホワイトへの関心も高いようですし、それ以上に歴史修正主義への批判的なコメントが驚くほど多いようです。現在の思想状況や政治状況への関心が強いからだと思います。その意味ではタイムリーな出版ではと自分では考えています。ということなのですが、昨年末以来校正と内容点検に追われていたので、今はほっとしています。少し落ち着いたので、この間は途中で中断していたノートが随分とあるので、まずはその整理を始めました。そうした作業を通して気づいたことをこれからも書いていければと考えています。

# by pastandhistories | 2018-01-24 16:23 | Trackback | Comments(0)

下からの修正

 パブリックヒストリーをめぐる会で議論されたいくつかのことについて、気づいたことを書きます。一つは歴史修正主義の問題。歴史修正主義というと、ナショナリズムに支えられた権力的なものがどうしても前面化します。かつそれが相対主義的な議論に支えられているとして、進歩主義的な歴史に立つ立場からは、相対主義への批判としてもちいられることが少なくありません。しかし、この議論が見落としがちなことは、実は歴史の修正という問題は、下からのいわゆるボトムアップ的なものとして提起されたという面のあることです。
 たとえばアメリカインディアンと呼ばれた人たちや、アボリジニなどの先住民の問題。1960年代までの西部劇を見れば一目瞭然のように、彼らはナショナルナラティヴの敵対者として扱われ、排除され、あるいは無視されてきました。しかし、1960年代の様々なラディカルな運動を通して、従来のナショナルナラティヴとしての歴史が批判され、逆にそれまで無視されてきた人たちの扱いはパブリックな場でも、アカデミックな場でも劇的に変化しました。黒人や女性、さらには様々な少数派の人々もまたナショナルナラティヴにその位置を占めるようになった。つまり下からの歴史修正が行われたわけです。
 従軍慰安婦の問題もその一つです。ある時期まではその存在は当然のものとして、パブリックな場でも(多くの戦争映画を見ればそのことは理解できます)、さらには学問的な場でさえもナショナルナラティヴに無批判的に組み入れられていました。あるいは無視されていました。それが1980年代になってようやくにして、異なる民族の人々を含めてその掘り起しが行われたわけです。それに付随するかたちで、従来の学問的な手法が排除しがちであった記憶や語りの意義、あるいはテキスト的な証拠以外のパブリックな空間にある過去が、たとえ相対的なものであるにせよそれを歴史に取り入れるべきだという考えが生じたいうことです。いわば「下からの」歴史修正です。それをある意味では極点まで進めたのが、アボリジニ自身にある歴史を「歴史実践」と呼んだ保苅実さんです。
 もちろんこのことが従来のナショナルナラティヴを維持しようとする保守派の強い反発を生み出し、その後の大きな問題となり、そうした保守派の主張が学問的世界の側から、あるいは一般的にも「歴史修正主義」と呼ばれるようになっているわけですが、逆にそれだからこそ、古いナショナルな枠組みにとらわれた歴史を修正することが現在ではますます必要なわけです。
 パブリックヒストリーという考えが重要なのは、歴史を下から修正する可能性をもつものだからです。そのことは、パブリックヒストリーが形成されてきた経緯を知れば理解できるはずです。

# by pastandhistories | 2018-01-15 11:09 | Trackback | Comments(0)

International Public History

 センター入試などとぶつかって残念ながら参加者は少なかったけど、デヴィッド・ディーンのパブリックヒストリーのセミナーは、その後の懇親会での交流も含めて内容的にはとてもよかったと思います。表現は少し悪いけど、「鬼の居ぬ間に洗濯ジャブジャブ」。歴史研究の新しいトレンドの意味が、それが生み出された背景とともにわかるところがありました。事前宣伝のさいの説明不足があったのは自分の責任でもあるような気がするけど、ケンブリッジ大学で学位をとっていて本来は世代的にもヒストリーワークショップ運動の流れの中にいた歴史研究者。最後のコメントでも少し紹介しましたが、パブリックヒストリーとポストモダニズムの関係が意外なほど近いことも聞いていてわかる部分がありました。ヘイドン・ホワイトがにわかブームみたいだけど、このあたりのことを視野に入れていないでいて、老婆心ながら本当に大丈夫かなと思います。
 ディーンもそうですが、正直言ってパブリックヒストリーはその現在の組織者たちの能力がかなり揃っている。その点でもかなり発展力のある流れだと自分は思っています。そうした中でいよいよ国際的な組織(International Federation for Public History - IFPH) の機関誌として雑誌(International Public History)が今年の6月から年2回発行されます。その共同編集者の一人がディーンです。オンラインジャーナルで基本的にはレフリー制をとって「英語」というかたちになりますが、これまで他の言語で発表されたものも掲載可、さらにはこのウェブサイトでは他言語のものでもそれを紹介していこうという方向もあるようです。歴史をパブリックなものにするなら当たり前のことかもしれません。英語のみとすれば、英語圏以外の読者は特権的な知的(?)社会層に限られてしまうからです。でも英語以外で書かれたものを誰が読むのかという質問が当然出そうです。もちろんその言語を読める人と、機械翻訳によってです。
 という話をすると、機械翻訳なんて正確ではないから、厳密な読み方にはならないから歴史研究にはそぐわないという意見が当然出てきそうです。しかし、この意見は一体いつごろまで有効でしょうか。永久にでしょうか。そんなことはないはずです。ネットを見ていればわかるように、欧米語系同士の言語であれば、すでに多くのものが機械翻訳でかなりの精度をもって読めます。英語さえ読めれば、本来はフランス語のものでもロシア語のものでもある程度読むことができます。逆にフランス語ができれば、英語が読めなくてもある程度のことを機械翻訳されたかたちで読むことができます。そしてこうしたサポートはわずかこの20年間に急速に進歩しました。あと100年と言わず、50年もたてば、それが何語で書かれていても、ネット上の情報はすべての人に読むことができるものになっていくでしょう。そう考えれば、オンライン上の知的コミュニケーションは、仮にそれが高度の知的内容(?)を伴うものであっても、それぞれの独自の言語で書かれていてもいいというわけです。
 はたしてそうした状況に本当に向かうのか、さらにはそうした技術的進歩があっても厳密な正確さという点では問題が残り続けますが(でもそんなことを言ったら、「有名学者」が訳した海外の文献の翻訳は厳密にはほとんど役立たないし、さらには誰もが自分がふだん外国語文献を厳密に正確に読んでいるかを反省すべきでしょう)、それでも本当の国際化、グローバル化というのは、むしろそうした流れの中にあると自分は考えています。ふつうの人々、つまりそれぞれの場にいるパブリックス(一般の人々)の誰もが本当に知的な交流を平等にできるからです。
 現在の段階ではそれほど容易なことではなく、IFPHの試みもまた紆余曲折していくはずですが、歴史へのアプローチとしてこうしたアイディアがパブリックヒストリー論という流れの中から生み出されつつあるのは注目してよいと自分では考えています。

# by pastandhistories | 2018-01-14 20:58 | Trackback | Comments(0)

デヴィッド・ディーン

 13日(土)にパブリックヒストリーについて話してくれるデヴィッド・ディーンが無事日本につきました。多分直行としては日本便で一番長時間にわたる13時間強のフライト。ということですが、食事をしながら多少の打ち合わせをしました。非常にわかりやすい議論の仕方をする人で、13日の会の質疑もきちんと対応してくれそうです。
 残念なのは、勤務先の大学の都合でセンター入試と日程がバッティングしたこと。それなりに反響はあるようなのですが、センターとぶつかると多くの大学関係者は時間の都合がつきにくい。博物館関係の人も正月休み明けの土曜日ですので、都合のつかない人が多いようです。
 本人も日本には多少の好印象を持ってくれたようです。なんといってもカナダより暖かい。ではカナダは今何度くらいかと聞いたら、マイナス30度という返事。聞き違えたのかと思ってネットで確認したら今年の冬のオタワは昨年の12月下旬から1月上旬にかけて、ほぼ毎日最低気温がマイナス25度、最高気温でもマイナス10度くらいが平均。確かに1月1日の最低気温はマイナス30度だったようです。こうなるといったん凍った自動車を解凍して動かすには、超大型のオーブントースターがいりそう。そうしたなかで無事到着ということでほっとしました。
 色々面白い話(カナダでの熊であった時の対応など)もしましたが、少し驚かされたのはパブリックヒストリーの国際大会の開催地。今年の夏はおととしのボコタについで南米のサンパウロということは既に決定していますが、来年はなんとネパールで開催されそうだということです。正直ネパールでの国際学会というのはあまり聞いたことがないですね。このことは逆にパブリックヒストリーの国際化が欧米を基準とはしていないということ、別の言い方をするとある意味ではパブリックヒストリーには本当の国際的思考があるということが示されているのかもしれません。

# by pastandhistories | 2018-01-10 22:49 | Trackback | Comments(0)

パブリックヒストリーセミナー 1月13日

 既に何度か予告したけど、1月13日(土)に以下のような内容でセミナーを行います。

招聘するのは、Blackwell から今年3月に刊行予定のパブリックヒストリーのアンソロジー(Companion to Public History)の編集者である David Dean (カナダ・カールトン大学教授)です。タイトルは「パブリックヒストリー:過去・現在・未来」、日時は2018113日(土)13時半~17時半、場所は東洋大学白山キャンパス5号館5104教室(※一部ポスターに「5014教室」とありますが、正しくは「5104教室」)となります。

ということで、今日はペーパーの一部の和訳を宣伝がてら掲載しておきます。

パブリックヒストリーに従事する人々は、記憶の政治、社会と諸個人がいかに想起するのか、歴史遺産と保存、共同記憶化などについての議論の前線にとどまり続けてきた。パブリックヒストリーに従事する人々は記憶のブローカーである。したがって彼らがその仕事において、文化地理学者、社会科学者、社会理論家の仕事に対してとりわけ敏感であったのは、驚くことではない。「記憶の場」(ピエール・ノラ)、「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)、「日常生活の実践」(ミシェル・ドゥ・セルトー)、「集合的記憶」(アルヴァクス)などは、パブリックヒストリーのなかで共通の語彙となった他の学問分野からの洞察のほんの一部の例である。読者はこの本(Companion to History)の諸頁において、より多くの理論的な洞察に出会うことになるだろう。

一般の人々からの感情的な反応を生み出す歴史を表象することを任務とすることはまた、感情史、感覚史を考えるにあたってパブリックヒストリーに従事する人々に指導的な役割を果たさせることになった。実際の環境とその身体化に焦点を当てる感情史、聴覚、視覚、臭覚、味覚、触覚に注意を払う感覚史は、パブリックヒストリーにおいて、もっとも中心的な領域となった。部分的にはそれがパブリックヒストリーを実践するものだからである。歴史解釈を受け入れ、博物館の展示や映画や舞台による歴史にある感覚を自分のものとし、博物館、テレビの歴史再現番組、歴史のシミレーションゲームの登場人物を実在のように思うことは、新しい洞察に帰結した。「感情論的転回」に対応し、パブリックヒストリーに従事する人々は、さらにまた人文科学における「パフォーマティヴターン」の前線に位置することになった。日常生活の実践、あるいは劇、音楽、映画、舞踏といったより形式化された枠づけの実践のどちらと考えるにせよ、あらゆる人間の諸活動は身体化された表象として遂行されているという立場から出発することをとおして、パフォーマンスとパフォーマティヴィティは、パブリックヒストリーについて考える価値のある方法となった。感情史、感覚史、パフォ-マンスをとおしての身体史は、パブリックヒストリーという分野の制度化の以前から行われている表象の諸形式を含みこんでいる。それらはつねに一般の人々のいかに過去とかかわっているか、歴史が地球でいかに遂行されているかということの重要な要素であった。」

いかがでしょうか。日本ではまだパブリックヒストリーという言葉自体なじみがないので、どれほど関心をもってもらえるかわかりませんが、今後の歴史研究、というより歴史全体をどう考えていくのかということに関して、かなり重要なことだと自分では考えています。

# by pastandhistories | 2018-01-09 17:16 | Trackback | Comments(0)

マンガの優位性

 昨年末は近刊書の校正に最後まで追われたけど、一応は終え今年の正月はいい休みになりました。もっとも別の雑誌論文の校正と、1月13日の会のデビッド・ディーンのペーパーの訳が年初めの仕事として入っています。そのうち後者は一応の粗訳を終えました。テーマ(パブリックヒストリー)は基本的には一般の人々向けの歴史ということで、英語的にもやさしいのですが、意外なほどの苦戦。どうしてかなと思ったら、一般向けの平易な内容の歴史についての文章であるがゆえに、使用されている言葉に適切な定訳がないことに気づきました。というより定訳を使用すると、かえって理解しにくくなってしまう部分が随分とでてしまうということです。それだけ日本の歴史研究のあり方には偏りがあったということかもしれません。明日からもう一度手を入れて当日までに間に合わせるつもりです。
 少し時間があるので今日は昨年末の手塚治虫についての記事の補足を書きます。マンガのコマと映画のカットの違い。マンガのコマをそのまま映画にすることは難しいと書いたけど、そのことは実験的なかたちで、大島渚監督が白土三平の『忍者武芸帳』を使って行なっています。マンガに動きを入れず、原画をスティル画として映し出すという手法で興味深い試みなのですが、ストーリーの「時間的流れ」を音声セリフで補ったために、かえって中途半端なものになってしまったところは否定することができない作品です。そのために漫画における異なるコマの同時性という長所、いってみればポリフォニックな側面が逆に表現されていないからです。
 マンガのモブシーンの意味についても書いたけど、漫画にある表現方法の一つの優位性は、シマルテイニアスなかたちで多声性が表現できることです。手塚治虫のモブシーンもそうですが、同じ時間におこなわれていることを、別々のコマで伸縮自在な形で描けるということです(飛雄馬が球を投げる瞬間とそれを待ち構える花形、あるいはジョーと力石が互いにカウンターを打とういう瞬間が、他の人たちのものも含めて、同じ瞬間の感情やセリフが別々のコマで表現されます。『明日のジョー』はその典型ですが、極端な場合には、同じ瞬間の出来事が数ページにわたって描かれたりします)。
 手塚治虫があれほどまでに執念をもってアニメを追い求めたのは、本人の説明によると基本的には二つです。一つは、静止しているものに動きを与えることは、命を与えることだということ(アニメイトの本来的意味)。もう一つは、マンガに動きをともなわせることによって、言語的な壁を越えられるのではと考えたため。しかし、逆説的なことに、アニメは時間性と言語性をむしろ拡大してしまったという部分があります。つまり登場人物の言語的な表現を通して、時間の流れとともにストーリーが進行することがその基本的形式となったということです。
 今日もまた結論はやや飛躍するけど、物語性は個別性や多声性を排除する。あれほど内容的にも深さがあり、面白さもある手塚治虫の漫画が、アニメとしてほとんど失敗しているのは、アニメ化にともなって個別性や多声性が排除されてしまっているからかもしれません。逆に言うと、しばしばストーリーマンガの創始者と言われるように、そのストーリー性で高い評価を得ている手塚治虫は、ストーリーの書き手であったのではなく、個別性や多声性を何よりも尊重していた作家なのかもしれません。

# by pastandhistories | 2018-01-04 21:48 | Trackback | Comments(0)

モブの描き方

 今年は、今月も先月も実質的なことは書いていませんでした。何度か年末はこうしたことがありました。年度末に合わせた原稿の仕事の締め切りがこの時期になるからです。今年は単著の校正の締め切り。11月中旬から本格的な作業をはじめて結局40日ほどかかり、一昨日に終えました。年初めに最後の手直しをして、出版は2月になりそうです。それと入れ替わるようにこれも2月末出版の雑誌原稿の校正、1月12日締め切りということですが、こちらはかなり編集者がチェックしてくれていて、それほど時間はかからなそうです。ということで昨日はのんびりと、久しぶりの読書。夏目房之介さんの『手塚治虫はどこにいる』(1992年)を読みました。
 ここでも時々漫画や映画の話題を書きますが、個人的にはあまり画像的、映像的な分野を論じる資格は自分にはないと考えています。絵が描けないから。絵のことがよくわからないからです。マンガ評論をするならやはり自らも絵をかく能力がなければならない。その点では夏目さんの漫画評論は、レベル的に評価されていいものです。この本も、眼の描き方やコマ割りの意味、そして何よりも描線をきっちり論じていて説得力を感じさせます。
 そうしたこと以上にこの本の指摘で鋭いと思ったのは、手塚治虫の特徴の一つとしてモブシーンがあげられていることです。かつそのモブの一人一人が勝手な動きをしているということです。確かにそうですね。こうしたシーンには子供心にも妙な印象があって、よく憶えています。夏目さんによれば、それは手塚治虫が個人個人の差異を大事なものとしてことを反映したものだということです。そのとおりかもしれません。モブシーンは大量のエキストラを使って(最近ではCGをもちいて)映画でも頻繁にも描かれる。しかし、パニック映画に典型なように、そこに登場する群衆は同じ方向にむかって画一的に行動している。つまり個人個人ではない。手塚治虫の漫画は明らかにそうしたものとしては異なるものとして、個人個人が勝手な表情を持ち、勝手なセリフを言う個人として描かれています。ある点では、漫画だからとりうる描き方です。
 もう一つ夏目さんの指摘で興味深いのは、コマ割りが作り出している空間と時間の意味です。コマの変化は時間と空間の変化を示します。しかし、これも映画と比較するとわかりますが、そのコマの変化(映画でいえばカットの変化)は変幻自在で、映画と比較するとはるかに多い。このことは漫画を同じカットの映画がありえないことからも理解できます。コマ割りと同じにカット割りをしたら、めまぐるしすぎて映画の観客はついていけないはずです。なぜ漫画においてそうした手法が可能であるかというと、観客が画面の流れとシマルテイニアスでなければならない映画にたいして、漫画の読み手にはそうしたことが要求されないからです。時間選択の任意性が漫画の方が受け手にとってははるかに高いということです。
 おそらくこの二つの問題は、手塚治虫の作品があれほど情熱を燃やしたアニメでは成功せず、漫画的な世界にとどまり続けたということの大きな理由だったのだと思いますが、そのことは追い追い機会を見て書くことにします。
 今日は最後に夏目房之介さんに関わるエピソードを一つ。多分2001年の頃だと思いますが、少子化のための大学再編に備えるために新学部を作るということで、どのような学部を作るのかという企画委員の仕事をしたことがあります。そのとき有力な意見として出されたのが、サブカルチャーに関する学部、たとえばアニメや漫画を専門とする学部を作ろうという話です。では誰を中心にするかということになり、自分は委員会で夏目房之介さんを推薦しました。他の人たちが知らなかったうえに、結局別の学部を作るということになって、この話は立ち消えになってしまいました。その後彼が学習院に招かれた時は少し残念な気持ちがしました。

# by pastandhistories | 2017-12-29 11:32 | Trackback | Comments(0)

目次②

 二つほどお知らせです。以前お伝えした1月13日の会に関して、報告をしてくれるデヴィッド・ディーンからペーパーが来ました。タイトルは、Public History: Past,Present,Future というものです。自分が近世イギリス史研究から研究を始めたことに始まって、パブリックヒストリーへの関与の、その国際化の流れ、affective and performative turn に至る最近の歴史研究の流れ、そしてディーンが編集する A Companion to Public History の内容紹介となっています。いつもと同じに希望者には英文ペーパーを事前に送りますので、希望する方は伝えてださい。

 それから書き下ろしの校正にめどが付き始めました。引用が多かったので、原点との対照が結構大変でした。年内には校正を終えます。出版は出版社の都合によると思いますが、来年3月頃までには出るのではと思います。

 この仕事に目途がつきそうなので、来年からは新しい仕事を出来ればと考えています。今日は少し時間があったので目次の続きを作りました。


研究の根拠2011/03/28

歴史学研究・報告集2011/03/22

コメモレーション2011/03/21

真実の制度2011/03/19

中止2011/03/13

トランスナショナルカルチュラルヒストリー2011/03/09

今日の日記2011/03/03

「場」の制約性2011/03/02

プロジェクト報告書2011/03/01

生きていたことへの不安2011/02/28

単系説・複系説2011/02/26

historicized2011/02/25

identitary2011/02/24

間主観性・客観性2011/02/23

英語読み英語書き2011/02/22

コンテクスト・事実の固い芯2011/02/21

ワールドヒストリー2011/02/20

グローバルヒストリー2011/02/18

3142011/02/17

今日の日記2011/02/15

事実性と構築性2011/02/12

テレビと歴史2011/02/07

しばらく再開します2011/02/06

実在の権利、フィクションの機能2011/02/02

サウスゲートとウィンドシャトル2011/01/31

プロフェッショナリズム2011/01/30

発表への責任2011/01/29

変化と規則2011/01/28

研究の前提としての教育2011/01/27

ある種の抵抗感2011/01/26

繁忙期2011/01/16

消去されたホームページ2011/01/15

ガンとヴァーノン2011/01/13

象徴化すらされえないもの2011/01/12

東部と西部2011/01/10

transnatinalization, visualiza...2011/01/09

外国研究、外国での研究2011/01/08

climate change2011/01/07

reflexivity2011/01/06

歴史の言語負荷性2011/01/05,

全世界2011/01/04,

「過去」2011/01/03,

歴史を「歴史的」に考える2011/01/02,

社会歴史2010/12/31,

歴史知のハイアラーキー,2010/12/30,

他者についての知2010/12/29,

商業道徳2010/12/28,

言葉の理解2010/12/27,

電子的な研究2010/12/26,

歴史への回帰20111/12/19,

国語とナショナルヒストリー2010/12/12,

文化の複層性,2012/05

constructedness2010/11/28,

読み方2010/11/21,

ナショナルヒストリーと国語の形成2010/11/14,

12112010/11/07

まとまりませんが2010/10/30

理由2010/10/29

おしまい2010/10/28

イフヒストリー2010/10/27

同一性、同時性という錯覚2010/10/26

事実への近似性2010/10/25

カナダの歴史研究2010/10/24

前提として想像されているもの2010/10/23

ization al history2010/10/22

ホブズボームについて2010/10/21

なぜ「歴史の死」なのか2010/10/20

歴史をもつ2010/10/19

経験・記憶・想像2010/10/18

相対性の考え方2010/10/17

プロジェクトの再申請2010/10/16

記憶の集合化・歴史2010/10/15


# by pastandhistories | 2017-12-14 20:03 | Trackback | Comments(0)

目次①

 しばらく記事を書いていなかったら、またアクセスが増えてきました。不思議なブログです。更新していなかった理由は、校正に追われているため。徐々に目途がついてきたので、集中的に処理しています。引用箇所の再チェックでだいぶ苦労してしまいました。ということなので、初めてのことですが、目次を作成してみました。集中的に書いていた2010年の分です。整理していないので読みにくいですが、以前の記事を見るときの参考にしてもらえればと思います。時間がある時に次の分も作ります。


認識の構造・対象の構造/10/14、D・カーとミンク/10/13、同一性/10/12、第三者からの理解/10/11、先生が教えた嘘/10/10、プロフィール①/10/09I knowed/10/08、アーサー・ペンと『小さな巨人』/10/07、二つの家系図/10/06artifacts/10/05、史料の多様化/10/04、ホライゾンタル・ヴァーティカル、/10/03、文化的断絶/10/02、個人の変化・世代的要素/10/01、書くということ/09/30、メモの整理として/09/29、時間性/09/28、授業とテキスト/09/27、形式・内容/09/26、残余の復讐/09/25、鏡の中の姿/09/24、通時的な思考の意味/09/23、価値としての客観性/09/222時間ドラマの文法/09/21、記号の事実化/09/20、その当時の真実/09/20、「民衆」の「怒り」/09/19、パブリック・スペースの歴史/09/18、スポーツと映画/09/17、記号への還元/09/16、近代科学と歴史/09/15、魔女の実在/09/14、事実と主観/09/13、ネットの辞書的機能/09/12、ノンフィクションと歴史/09/11、グレグ・デニング/09/09、歴史の抑圧性/09/08、自己の歴史化/09/07、モダニティ・ナショナリティ・オーディアンス/09/06、コンテクスト性と個人性/09/05、「日本では」「日本での」という枕詞/09/04、英語と差別化/09/03、グローバリゼーションと歴史/09/02、概念の遡行性/09/01、ホワイトのペーパー/08/31、次回開催地/08/30practical past/08/28、歴史のキャノン/08/27、死者の権利・記憶の構築/08/26、発表と著作権/08/25、歴史のトランスナショナル化への疑問/08/24、ラウンドテーブル/08/24great men と common persons/08/23、歴史のミクロ化/08/22、パソコン不調/08/22Globalization and its Disconte/08/21History, Science, and Practica/08/20、自閉性と国際性/08/19、フランス革命の歴史化/08/18nationalという言葉の象徴化、nationalなものの/08/16、クラシカルなものの象徴化/08/15、象徴と言語/08/14、言葉の循環性/08/13、返事/08/12、歴史を消費する/08/10、機械の利用/08/09、歴史を聞く/08/08、ハワード・ジン/08/07、「下から 」と「下へ」/08/06、時間がない/08/05、ヘイドン・ホワイトと西川正雄さん/08/04、マイクロフィルム/08/04、アラン・マンズロウ/08/03、電子化の中の歴史/08/01、ヘイドン・ホワイトの件/07/31、ロンドン/07/30、ヒストリオグラフィカル・ターン


# by pastandhistories | 2017-12-05 23:40 | Trackback | Comments(0)

エピソード

 今日の朝日新聞の書評欄は一番目目立つところにか柄谷行人さんによる『メタヒストリー』の書評。びっくりしました。話題になりすぎている感、なきにしもあらずという感じですが、ネットでも書評者が妥当か、あるいはその内容が妥当かということで早速コメントがあるようです。今日はこのことについて一言だけ。
 ヘンドン・ホワイトが日本に来る前に、ホワイトに日本人の思想家・歴史家で誰が知っている人物はあるか、また著作を読んだことがあるか、聞いたことがあります。その時、一人だけ名前を挙げたのが柄谷行人さんです。どうしてかと聞いたらスタンフォードに来たからだと言っていました。本も読んだことがあるということで、褒めていました。
 以前書いたことがありますが、その後日本に来る準備として英語で読める色々な人のものを読んだようですが、ホワイトが自分に対し最初に名前を出した日本人は柄谷行人さんです。、

# by pastandhistories | 2017-11-12 20:09 | Trackback | Comments(0)

短期主義への批判

 『メタヒストリー』『実用的な過去』という初期の著作と最新の著作が相次いで訳出されたことでヘイドン・ホワイトへの関心が高まっている感じです。ネットを見ても随分と反響があるようです。歴史研究者によるものだけではないという感じもしますが、ホワイトの議論の意味を歴史の立場から考えてほしいということで、このブログでもいろいろと紹介してきた立場からすると、時代が多少は変化しているのかなという感じもします。
 しかし、自分としてはやや意外なのは、ほぼ時期を同じくして訳出されたデヴィッド・アーミテイジとジョー・グルディの『これが歴史だ』への反響が意外なほど小さいことです。ホワイトの訳出本に比較すると安価だし、内容を読みやすい。なんといっても海外では歴史研究者の間では、その出版形態もあって大きな反響を呼んだ本なわけですから、もう少し大きな反応があってもよいはずです。
 内容はきわめてシンプルに短期主義への批判。研究対象をきわめて限られた時間と場に限定した詳細な実証に歴史が陥っていることへの批判です。歴史に特有な長期的なパースペクティヴを生かした歴史研究を行うべきだし、コンピューターの発展によってビッグデータの利用が可能になった現在こそ(あるいは今後は)そうした方向性に歴史研究は向かうべきだという主張です。そのことが歴史の社会的有用性を取戻し、人々の関心を呼び寄せるものになるはずだということです。念のために捕捉すると、こうした主張をしているからといって、実証的な研究やミクロ的な歴史をそれ自体として否定しているわけでありません。
 先日文化功労者に高名な歴史研究者が選ばれました。自分でもさすがに驚いたのは、この人物は昨年か一昨年かに刊行された本の中で、「筆者自身以外は誰も読まないような論文」が大量に生み出されていると書いていました。他の歴史研究者はこんなことを書かれて悔しくないのでしょうか。といっても、この批判に反論できる歴史研究者はどれくらいいるのでしょうか。
 そうした問題を考えるためにも、この本は歴史研究者の間でもう少し話題になってもよいような気がします。よい解説的な紹介が出るという話もあるので、それを期待しています。


# by pastandhistories | 2017-11-05 21:08 | Trackback | Comments(0)

1月13日

 今日は会の告知となります。
いつもここでお知らせしているプロジェクトの招聘セミナーは, Blackwell から今度でる(来年3月) パブリックヒストリーのアンソロジー(Companion to Public History)の編集者である David Dean を招いておこなうことが決まりました。日時はセンター入試とぶつかる1月13日(土)です。この時期は既に予定が入っている人も多いのではと思いますが、都合がつくようならご参加ください。予定としては、上記の本の序文の執筆を終えていると思うので、パブリックヒストリーの現状と今後について総括的な話をしてもらえたらと考えています。多分テーマとしては、博物館、サブカルチャーと歴史、デジタルヒストリーというようなことを話題にしてくれるのではと思います。
 それから以前プロジェクトで招聘したカレ・ピヒライネンの本が9月に立て続けに出たようです。リシンキングヒストリーへの投稿を集めて編集した編著が2冊、それからヘイドン・ホワイトの議論をふまえてパプリックヒストリーへの流れを論じた単著が1冊です。単著はキンドルでも読めますが、それぞれまだハードカヴァーだけなので、値段は高めです。予算がある人には購入できるかもしれません。


# by pastandhistories | 2017-11-02 16:57 | Trackback | Comments(0)

二時間ドラマの構造③

 久しぶりに二時間ドラマについて書きます。二時間ドラマで重要な役割を果たしているのは過去の出来事。しばしば登場するのが、20年前の出来事への怨念とか復讐心というものです。そうした筋立ての中で過去はどのように登場するのかというと三つの形式。
 一つは、大体が子供の時期に、親兄弟や知人が自殺に追い込まれた、あるいは殺害された事件を目撃した、あるいはそうした人々の死の間際に「恨み」「怨念」を伝えられた、というものです。
 もう一つは、そうした事件についての記憶や、あるいは真相は知らなかったけど、それを伝える証拠を偶然見つけた、証言を偶然立ち聞きしたことによって過去の事実を知るにいたったというもの、
 さらには、前の二つが重なっているような場合。具体的には記憶はおぼろげだったけど、その記憶を蘇らせる何らかの事件があったというものです。
 いずれにせよ、二時間ドラマにおける犯人の動機は、とりわけ美人女優が主役なら、多くの場合はその殺人の動機はほとんどが「過去」の事件に基づくものとして説明されます。「謎」を作り出すための文法です。しかし、歴史研究者の立場からすると、過去がこんなに殺人を正当化していいのかという疑問があります。逆説的に言えば、過去への知識である歴史は、そうした行為を正当化するためにもちいられてきたのかもしれません。
 二時間ドラマの場合は、そのように過去に根拠を置いて行われた行為、つまり殺人は必ず発覚し、犯人は自殺するか、罪を悔い改めるために逮捕されます。なぜなら、それは個人的行為だからです。個人的行為としての殺人は、いかに過去に基づく正当性を保持していようとも、処罰の対象となります。
 しかし、集団で学ばれる過去認識、つまり歴史がそうした行為を正当化するものであった場合は、その行為者は処罰されません。個人として過去を認識し、それに基づく行為を行えば処罰の対象となる。しかし、集団として過去を認識し、それを行っても処罰の対象とはならない。二時間ドラマ(サスペンスドラマ)と戦争映画の違いです。

# by pastandhistories | 2017-10-25 21:56 | Trackback | Comments(0)

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