歴史についてこれまで考えてきたことを書いています


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遺稿

 以前その経緯を書いたことがありますが、ヘイドン・ホワイトは来日に際して当時用意していた5つの原稿を、free to distribute と付記して自分に送ってくれました。そのうち「ポストモダニズムと歴史叙述」「実用的な過去」が結果的に日本で話されたわけですが、残りの3つははリクール論、トルストイの『戦争と平和』論、などです。そのお後に発表されたかということなどを含めて内容を確認したうえで、distribute する方法を考えてもと思っています。少し時間をください。
# by pastandhistories | 2018-03-11 05:49 | Trackback | Comments(0)

アマゾン

 ヘイドン・ホワイトに関しては何人かの海外の研究者からメールがありました。今後なにか催しがある時は知らせてくれるとのことです。もしそうした連絡が入った場合は、このブログでも告知しようと思います。
 『過去と歴史―「国家」と「近代」を遠く離れて』は配本があまり円滑でなかったようですが、今日やっとアマゾンに配本されたようです。驚いたのは18冊も仕入れたこと。アマゾンはコンピューター管理で売れる見込みのある部数しかし入れないとのことですが、本当にこんなに捌けるのか他人事ながら心配です。逆に都内の書店の店頭にはまだ出ていないようで、そのあたりの事情は分かりません。
 本を書き終えてから少しスランプだけど、明日・明後日は研究会、21日の研究会も予定通り行ないます。週明けに関心をもってもらえそうな人に個人的に連絡するつもりです。
 
 

# by pastandhistories | 2018-03-09 21:44 | Trackback | Comments(0)

訃報

 このブログは2010年から始まりました。その間いくつかの優れた研究者、知人の訃報に接してきましたが、いっさいコメントを書いたことはありませんでした。しかし、今日はやはり書いておくことにします。ヘイドン・ホワイトの訃報です。
 昨年『メタヒストリー』の翻訳に際して、彼と連絡を取ってほしいと依頼され、その時に返事のメールをもらったのが最後となりました。その後は連絡が途絶え、メールでの連絡は早い人だったので心配していましたが、残念です。
 ここでも書きましたが、彼の誠意のある人格には本当に感謝しています。

# by pastandhistories | 2018-03-07 06:20 | Trackback | Comments(0)

いくつか

 一時期に比較するとアクセス数がだいぶ落ち着いてきました。考えてみると告知的な記事が多く、この間は問題提起的なことをあまり書いていないためかもしれません。内容的な重複を避けるために書き下ろしの出版までは関連する記事を差し控えたこともあります。メモやノートは大分たまっているので、落ち着いたらまたいろいろ書いていくつもりです。
 ということなのですが、今日はまた告知的なこと。『過去と歴史』は20日に刷り上がり、予定通り23日に出版されています。ただ取次からの配本は現在のシステムでは版元はタッチしないということで、ネットなどへの出荷はまだ不十分なようです。週明けくらいに改善されると、入手しやすくなるのではと思います。著者割引分を多少確保しているので、それをお送りすることもできるので、入手を希望する人は連絡してください。
 それから『過去と歴史』にちなんだフリートークの研究会を予定しています。科研費などの予算の処理(?)で日程が立て込む時期ですが、3月21日に設定しました。たまたまジェローム・デ・グルートが来日中の時期なので、彼にもパブリックヒストリーについてのフリートークに参加してくれないかと頼んだら快諾してくれました。詳しくは来週初めにポスターを作成する予定です。小さな会ですが、フリートークですので、関心のある人は参加してください。
 『思想』3月号の「世界史をいかに語るか」は、グローバルヒストリー論のみを焦点化しないようにというかたちで編集されています。そのために逆に自分の役割は、グローバルヒストリー論についての整理ということになりました。多少は違いを出したかったのですが、あまり出せませんでした。でも他の原稿がカヴァーしてくれているので、全体としては問題提起的なものとなったのではと考えています。

# by pastandhistories | 2018-03-02 10:30 | Trackback | Comments(0)

反動

 今は2月下旬。国立大学の二期校が勤務先であった時は、この時期が一番まとまった仕事ができる時でした。一期校の合格発表が終わるまでは入試事務がない。入試もすぐに終わるので、論文執筆や新学期に備えた準備ができたからです。やたらに入試が複雑になった現在からは、夢のような時代です。
 当然なことだけど、複雑になればなるほどミスも出やすい。それを防ぐための負担も増大します。ミスにどう対応するかは大学にとって大変な仕事。この間話題になっているように、その発覚が遅れれば遅れるほど修正が難しくなります。その一つの解決策として正解の発表ということが議論されているようですが、踏み込めばもっと重要なのは答案の返却です。予備校が行う模擬試験では当たり前のことです。
 という問題を随分以前にその時の入試部長(事務部門)から個人的に相談されたことがあります。この人は誠実な人で真剣にこの問題を考えていたようで、その相談相手に自分がなったということです。その時の自分の返答は、「すべき」です。それに見合うほどの高額の「受験料」を取っているからです。このことは正解もまた公表するということを意味します。大学側の当然の義務。返却後の加筆などという問題は、答案へのコーティングをすれば防止できるから技術的にも難しくはないと伝えました。ただ難しいのは返却に要する時間と、クレームの受付期間。あわせて1週間程度が最低必要。発表までに要する時間を含めると入試実施日から2週間程度のタイムラグが生じます。ということで、この問題は実施には至りませんでした。他大学との重複受験生の多い私立大学にとっては、正式な合格発表日の遅れは入学手続き者の確保に致命的な影響が出てしまうからです。
 このことは実現できなかったのですが、マーク式なら各問題についての受験生の正答率が統計的にわかります。基本的には正解とされている解答をマークした受験生が比率としては多いはずで、それにずれがあるようなら正答とされている答えと教科書などの記述にずれがあるはずだということで、そのチェックを行う。ということで随分とミスのチェックができるようになりましたが、実はこのチェック法は同じ時の入試部長の相談に対して自分が提案し、その後採用されるようになったようです。作業量が増えて教員からは不満があったようなのですが。
 とにかく退職後は入試を始めとした雑用から縁が切れて、多少まとまった仕事ができるようになりました。もっとも、正直退職後も何故仕事を続けているのだろうかという疑問もありますが、雑用が多かった在職時の反動からも知れません。その反動を利用した本が昨日完成しました。ここで内容を紹介した『過去と歴史―「国家」と「近代」を遠く離れて』(御茶の水書房)です。正式の発売日は23日なので、その頃に店頭に並び始めるようです。直接版元に注文すれば、早く入手できるかもしれません。

# by pastandhistories | 2018-02-21 10:20 | Trackback | Comments(0)

個人・事実

 鴻上尚志さんの『不死身の特攻兵』(講談社)がベストセラーになっているようです。広告によれば既に13万部。この勢いはしばらく続くでしょう。このことはいろいろなことを考えさせてくれます。
 なによりもこの本が大きな関心を集めた理由。それは出来事の解釈にあった諦念を打破したことです。特攻については随分と数多くの映画が作られ、本が書かれて来ました。代表的なものとしては、家城巳代治監督による『雲ながるる果てに』、それから少し趣きを変えた岡本喜八監督の『最後の早慶戦』という佳作もあります。他方では、近年の『永遠のゼロ』のような意味内容を含むものも少なくありません。しかし、両者に共通していたのは、状況には抗いがたいというある種の諦念です。状況が抗い難いとすれば、残された道はかつて小田実が論じたように、疑問を持ちながら死に赴くという「難死」か、あるいは死を美化する「散華」しかないことになります。
 『不死身の特攻兵』が明らかにしたのは、実はその両者でもない第三の選択肢があったということです。時代がきわめて強迫的なものとして生み出す同調圧力に対して、徹底的な合理的判断を基礎として抗う。それが自らを守ることにもなるし、そしてまたその同調圧力にしたがって他者の抑圧に加担する、この場合他者への圧力というのは、個人としての最も基本的な権利である生死への権利を剥奪するということですが、そのことへの加担を断固として拒否するということ生み出すということです(逆に政治家も上官もメディアも御用知識人も時代に同調し、個人の最も基本的な権利である生死に関する権利を奪ったわけです)。
 逆に鴻上さんの本は、状況がいかなるものであれ、人間として最も守らなければならない倫理的なルールに従うという道はつねに選択肢として残されているということを明らかにしたわけです。おそらくそれが『永遠のゼロ』が闊歩するような時代状況の中で、ある種の諦めを感じていた人に勇気を与えるものだったということが、この本がベストセラーになっている理由でしょう。有力な書き手への忖度から出版社として姿勢を失いかけていた講談社からこの本が出されたことも、今後に意味を持つのではと思います。
 もう一つこの本で重要なことは、歴史研究という視点から言えば、戦争を必然とするようなマクロ的な解釈に対して、一人の個人の行動のあり方というミクロ的な「事実」を対置したことです。「解釈」に対する「事実」の対置。それが歴史研究者ではなく、劇作家によって行われたということは、とても大事なことです。そこでは、過去に対するミクロ的な視点は、むしろフィクションをとおして行われてきたことの方が多かったということが示唆されています。もちろん今回鴻上さんはそれを事実として描いたわけですが、今回この作品が示している問題は、歴史研究者に対しても大変示唆的です。
 最後にもう一つ大事なことは、なんといっても事実を描いた『不死身の特攻兵』がベストセラーになっていることです。その理由は、最初にも書いたように、この本が現在の状況の中で多くの人々がその解答のあり方を求めてアクチュアルな問題に対する答えの一つのあり方を提示するものだからです。ただミクロ的な事実を書けば研究として優れているというわけではありません。現在的な状況を問い、人々の関心へ答えていくものあれば、多くの人に読まれうるものになるということを、『不死身の特攻兵』がベストセラーとなったことは示しています。

# by pastandhistories | 2018-02-18 10:01 | Trackback | Comments(0)

『思想』特集号

 今日のタイトルはこんな感じです。『思想』の特集号と言えば、2010年8月号として出されたヘイドン・ホワイトの特集号。なかなか古本が市場に出なかったけど、アマゾンで昨日確認したら3800円くらいでした。この経緯についてはここでも何度か記したけど、自分は編集の際のアドヴァイスを求められ、何人かの執筆者と翻訳者を紹介したということです。自分は翻訳担当ということだったのですが、最後になって解題も書いてほしいと言われ、それも書くことになりました。
 今度の3月号に関しても同じで、自分が最初に求められたのは編集のアドヴァイス。最初は「グローバル・ヒストリー」が企画の柱だったようですが、であるなら言うまでもなく著名な執筆者も多く、その人たちが中心であるべきだと提案したら、今回はやや別の角度から特集を組みたいということで、特集のタイトルは、世界史〉をいかに語るか――グローバル時代の歴史像 となり、巻頭が小川幸司、成田龍一、長谷川貴彦さんによる「世界史』をどう語るか」という鼎談、以下、岡本充弘「グローバル・ヒストリーの可能性と問題点――大きな歴史のあり方」、長谷川貴彦「物語論的転回2.0――歴史学におけるスケールの問題」、岸本美緒グローバル・ヒストリー論と『カリフォルニア学派』」という3論文と、キャロル・グラック「転回するグローバル・ターン」、スヴェン・ベッカート「綿と資本主義のグローバルな起源」、ディペシュ・チャクラバルティ「気候と資本」という3論文の翻訳、それから小田原琳さんによるセバスティアン・コンラートの『グローバル・ヒストリーとはなにか?』についての書評論文ということになりました。

 ということなのですが、「思想の言葉」に関して、これもこの特集であるならふさわしい人が他にいると伝えたのですが、今回の執筆者からということで自分が書くことになり、また翻訳の解題についても、訳者の希望もあって編集にタッチした人が書いてほしいということで、これも自分がということになりました。

 この特集号に関しては昨日連絡があって、閲了となったようです。自分としては自分の能力を超えたところがあったと思うところがありますが、自分に依頼があったのは、グローバル・ヒストリーがトレンドであることは確かでも、そのことへの批判的議論が少ないということだと思うので、そのあたりを率直に書きました。このブログを読んでくれていた人には理解してもらえると思います。紹介される海外の研究者も十分に紹介に値すると考えています。


# by pastandhistories | 2018-02-09 11:53 | Trackback | Comments(1)

history goes public

 読んでいた本のノート取りを途中でやめるのは、いくつかの理由があります。書いていたこととあまり関係がないから、他の仕事が忙しいから、さらにはノートを取るながら読み続けるほどの価値がないと判断したから、さらに部厚すぎて時間がかかりすぎるから、といったような理由です。その意味では、あえてほおっておいてもいいわけで、そのままになってしまう。なかなかもう一度手を付ける機会はないけど、この前も書いたように、二つほどの仕事の校正が終わったということで、時間が少しあり、今月はその整理をしているわけです。
 でもノートの中断が以上の理由なので、あえてその内容をあらためてここで紹介するまでもないということもあります。ということなのですが、今日は今度『過去と歴史』に書いたこととも関連することがあるので、ジョン・トッシュの Why History Matters? (2008)を紹介しておきます。『過去と歴史』と少し関連するところは、2001年にイギリスで学生に行われたインタビューで、「1948年のイスラエルによるパレスチナ人の強制移住のことを知っていたのは、4%に過ぎなかった」ということ。実は『過去と歴史では』最初の「知らない事実・存在していなかった事実」で、別のことを例として同じような問題を書いておきました。
 もう一つのトッシュの本で紹介しておきたいのは、『過去と歴史』で取り上げたパブリックヒストリーの問題が別の視点からですが、取り上げられていることです。本全体が歴史をパブリックな場にどう生かしていくのかという問題設定を前提としているところがありますが、そのことが特に強調されているのが History goes public という章題から始まる99頁以降の部分です。この言葉はこれも『過去と歴史』で紹介しているようにカレ・ピヒライネンもポストモダニズム的な視点から論じていますが、トッシュの議論は普通の人々にある歴史を重視しようとするピヒライネンとは異なって、学問的な歴史が、パブリックな場においていかに有効に機能していくのか、具体的には citizenship の形成や、それにもとづく熟議的な民主主義にどのように役立てて行くべきかという視点に立つものです。いわば (Academic) history should go public というような考え方です。あくまでも過去の事実を正確に認識する(批判的に言い換えると構築する)のは、学問的な歴史であって、それがどのように一般の人々によって有効に応用されるべきかというのが、トッシュの議論の立て方です。
 自分の問題の立て方とは少し違うというのが途中でノートづくりをやめてしまった理由のような気がしますが、同じ history goes public
という言葉をもちいていても、ピヒライネンの議論とは対照的で、歴史をめぐる現在的な論争点の一つを理解することができます。

# by pastandhistories | 2018-02-07 11:20 | Trackback | Comments(0)

ウィリー・トムスン

 二度にわたって内容と目次を紹介した『過去と歴史―「国家」と「近代」を遠く離れて』は2月23日出版ということで、アマゾンなどでも予告が出ているようです。とにかく内容点検・校正が大変だったので、先日も書いたように今はたまっていたノート作りの整理をしています。同じ経験も持つ人も多いでしょうが、原稿を書きながらノートつくりをすると、ノートが途中のままという本が多くなります。とりわけ欧文の本は随分とそういう状態になる。いったい何冊あるのかというくらい途中でノート作りが止まっている本があるので、その片付けに入りました。といっても、もう関連した論文や本は書き終えているわけだから今更という感じがなくもないけど、逆に多少時間的余裕がないとそうした仕事はできない。やっとそのための時間ができたということです。
 整理し終えた本のいくつかをここで紹介しますが、今日は Willie Thompson, Postmodernism and History (2004) について。そのものずばりのタイトルだけど、このことがテーマの一つである『過去と歴史』では1行も触れていません。発行年次からもわかるように内容的に少し古い。しかし、逆にこの時期の問題の捉え方や論争の状況を知るのには便利です。1960年代の流れ、そして1989年の政治的変化の影響からマルクス主義的な歴史理解には大きな変化が生じるわけで、著者もまた思想的にはマルクス主義的立場をなお擁護しつつ新左翼的な立場にたっていたようで(この本ではトロツキーが何度か引用されています)、そうした立場からポストモダニズム的な歴史論が批判されています。
 残念ながら一般的な議論が多く、また議論の流れが時々ずれるところがあって正直あまり深みは感じさせませんが、便利なのはおそらくは世代的なこともあって、E・P・トムスンから生じた議論の枠組みと、G・S・ジョーンズ、パトリック・ジョイス、ジェイムズ・ヴァーノン、あるいは History Workshop の関連がわかりやすく論じられていることです。きわめて簡単に整理すると、E・P・トムスンが階級を forming ではなく making という視点から、つまり階級を経済関係などに規定される即自的なものとしてではなく、consciousness の自己形成としてとらえたことが、階級への文化的アプローチを生み出し、そのことが逆に言語分析を媒体としてどのような意識が人々の間にあったのかということを問題とするジョーンズらの流れを生み出したという議論です(マルクス主義を基本的枠組みとしたイギリスの社会史からなぜ文化史への流れがなぜ生じたかもこうした観点から説明されています)。
 他にもポストモダニズムによるメタナラティヴ批判がミクロヒストリーを生み出したという興味深い指摘(だとするとギンズブルグはどう位置づけるのかという問題が生ずるわけです。もちろんその問題にも多少触れています)もあります。なおこの本は Palgrave が出した History and Theory シリーズの1冊で、簡単な用語説明がついています。そこではこの間のディーンの会でも翻訳しにくい言葉としてあげた agency は、postulates the ability of human beings individually or collectively to consciously intervene in the historical process であると説明されています。これもまたわかりやすい説明です。  

# by pastandhistories | 2018-02-02 22:16 | Trackback | Comments(0)

『過去と歴史―「国家」と「近代」を遠く離れて』目次

 昨日紹介した書き下ろしの目次は以下の通りです・

(まえがき)
(序章)
(第1章 歴史の事実?)
 アウシュヴィッツ・南京・広島・長崎、疑うことのできる事実・疑うことのできない事実、知らない事実・存在していなかった事実、歴史認識の相対性
(第2章 記憶と歴史をめぐる闘い)
 歴史をめぐる戦い、ホロコーストの実在?、非実在論の論拠、過ぎ去ろうとしない過去、ナチスの相対化論、相対化論への批判、南京虐殺事件、捕虜と民間人の殺害、象徴としての数、数の認識の恣意性、忘却の穴・忘却の海、表象の相対性、ジャストワンウィットネス、様々な証言・様々な歴史
(第3章 ポストモダニズムが論じたこと)
 モダニズムとその批判、記号表現・記号内容、通時的・共時的、作者の死、差異と差延、表象、テクスト論、言葉の支配、エピステーメー、再記述
(第4章 歴史のかたち)
 学問としての歴史、歴史の構築論、マルクス主義とアナール派、歴史の物語論、形式分析、比喩、個々と全体、遡及的な因果的説明への批判、モダニストイヴェント、制度のなかの歴史学
(第5章 記憶と物語)
 記憶の役割、過去の制作、ストーリーとナラティヴ、物語の共同化、集合的記憶論、記憶の他者性、言語の対他者性・共同性、実在を構築するもの、日常性とアイデンティティ、構築されたものの相対性、身体的記憶、文化的記憶、記憶の場
第6章 異なる視座)
 近代歴史学への問い、歴史を保守する、植民地支配の擁護、歴史はフィクションか、ジェノサイドとホロコースト、歴史学の擁護、ヴァーチュアルなリアリティ、サブカルチャーのなかの過去、統合への疑問
第7章 私たちの歴史、私の歴史)
 ファミリーヒストリー、パブリックヒストリー、ビッグヒストリー、コンピューター時代の歴史、共同性についての補遺―和解、ナショナリティとモダニティを越えて、結論として
(あとがき)

それなりに現在的なテーマについて、これまでの議論をふまえながら書いてみました。なお小見出しだけ紹介してありますが、章はそれぞれ節に分かれています。

# by pastandhistories | 2018-01-25 09:49 | Trackback | Comments(0)

『過去と歴史―「国家」と「近代」を遠く離れて』

 このブログで何度か書いていた書き下ろしの校正が終わり、印刷・製本の準備に入ったようです。出版は2月中旬か、あるいはその少し後のようですが、出版社のホームページに予告が出ました。 

 内容(目次)は明日また書きますが、タイトルと宣伝文句はこんな感じです。

 『過去と歴史―「国家」と「近代」を遠く離れて』御茶の水書房、本文267頁(2,800円、税抜き)

 情報を伝える主たる場がネット空間へと移動した時代に生じたことは、真偽の区別の曖昧化である。ポスト真実の時代と呼ばれる状況において、歴史はさらに不可知性を高めている。その問題をどう考えていくべきかというきわめて現在的な問いに、言語論的転回やポストモダニズムが提示した問題をふまえ、歴史研究者が切り込んだのが本書である。本書を読了した時に読者は、従来の歴史研究に欠落していたものを見出し、現在の政治的状況において跳梁跋扈する歴史修正主義に対する鮮やかな批判を見出すだろう。ヘイドン・ホワイトの訳書が相次いで刊行され、ポストモダニズムが提示した議論への関心が再び高まっている現在にあって、本書はそうした関心にこたえる絶好の書である。

 ネットを見ていると、ホワイトへの関心も高いようですし、それ以上に歴史修正主義への批判的なコメントが驚くほど多いようです。現在の思想状況や政治状況への関心が強いからだと思います。その意味ではタイムリーな出版ではと自分では考えています。ということなのですが、昨年末以来校正と内容点検に追われていたので、今はほっとしています。少し落ち着いたので、この間は途中で中断していたノートが随分とあるので、まずはその整理を始めました。そうした作業を通して気づいたことをこれからも書いていければと考えています。

# by pastandhistories | 2018-01-24 16:23 | Trackback | Comments(0)

下からの修正

 パブリックヒストリーをめぐる会で議論されたいくつかのことについて、気づいたことを書きます。一つは歴史修正主義の問題。歴史修正主義というと、ナショナリズムに支えられた権力的なものがどうしても前面化します。かつそれが相対主義的な議論に支えられているとして、進歩主義的な歴史に立つ立場からは、相対主義への批判としてもちいられることが少なくありません。しかし、この議論が見落としがちなことは、実は歴史の修正という問題は、下からのいわゆるボトムアップ的なものとして提起されたという面のあることです。
 たとえばアメリカインディアンと呼ばれた人たちや、アボリジニなどの先住民の問題。1960年代までの西部劇を見れば一目瞭然のように、彼らはナショナルナラティヴの敵対者として扱われ、排除され、あるいは無視されてきました。しかし、1960年代の様々なラディカルな運動を通して、従来のナショナルナラティヴとしての歴史が批判され、逆にそれまで無視されてきた人たちの扱いはパブリックな場でも、アカデミックな場でも劇的に変化しました。黒人や女性、さらには様々な少数派の人々もまたナショナルナラティヴにその位置を占めるようになった。つまり下からの歴史修正が行われたわけです。
 従軍慰安婦の問題もその一つです。ある時期まではその存在は当然のものとして、パブリックな場でも(多くの戦争映画を見ればそのことは理解できます)、さらには学問的な場でさえもナショナルナラティヴに無批判的に組み入れられていました。あるいは無視されていました。それが1980年代になってようやくにして、異なる民族の人々を含めてその掘り起しが行われたわけです。それに付随するかたちで、従来の学問的な手法が排除しがちであった記憶や語りの意義、あるいはテキスト的な証拠以外のパブリックな空間にある過去が、たとえ相対的なものであるにせよそれを歴史に取り入れるべきだという考えが生じたいうことです。いわば「下からの」歴史修正です。それをある意味では極点まで進めたのが、アボリジニ自身にある歴史を「歴史実践」と呼んだ保苅実さんです。
 もちろんこのことが従来のナショナルナラティヴを維持しようとする保守派の強い反発を生み出し、その後の大きな問題となり、そうした保守派の主張が学問的世界の側から、あるいは一般的にも「歴史修正主義」と呼ばれるようになっているわけですが、逆にそれだからこそ、古いナショナルな枠組みにとらわれた歴史を修正することが現在ではますます必要なわけです。
 パブリックヒストリーという考えが重要なのは、歴史を下から修正する可能性をもつものだからです。そのことは、パブリックヒストリーが形成されてきた経緯を知れば理解できるはずです。

# by pastandhistories | 2018-01-15 11:09 | Trackback | Comments(0)

International Public History

 センター入試などとぶつかって残念ながら参加者は少なかったけど、デヴィッド・ディーンのパブリックヒストリーのセミナーは、その後の懇親会での交流も含めて内容的にはとてもよかったと思います。表現は少し悪いけど、「鬼の居ぬ間に洗濯ジャブジャブ」。歴史研究の新しいトレンドの意味が、それが生み出された背景とともにわかるところがありました。事前宣伝のさいの説明不足があったのは自分の責任でもあるような気がするけど、ケンブリッジ大学で学位をとっていて本来は世代的にもヒストリーワークショップ運動の流れの中にいた歴史研究者。最後のコメントでも少し紹介しましたが、パブリックヒストリーとポストモダニズムの関係が意外なほど近いことも聞いていてわかる部分がありました。ヘイドン・ホワイトがにわかブームみたいだけど、このあたりのことを視野に入れていないでいて、老婆心ながら本当に大丈夫かなと思います。
 ディーンもそうですが、正直言ってパブリックヒストリーはその現在の組織者たちの能力がかなり揃っている。その点でもかなり発展力のある流れだと自分は思っています。そうした中でいよいよ国際的な組織(International Federation for Public History - IFPH) の機関誌として雑誌(International Public History)が今年の6月から年2回発行されます。その共同編集者の一人がディーンです。オンラインジャーナルで基本的にはレフリー制をとって「英語」というかたちになりますが、これまで他の言語で発表されたものも掲載可、さらにはこのウェブサイトでは他言語のものでもそれを紹介していこうという方向もあるようです。歴史をパブリックなものにするなら当たり前のことかもしれません。英語のみとすれば、英語圏以外の読者は特権的な知的(?)社会層に限られてしまうからです。でも英語以外で書かれたものを誰が読むのかという質問が当然出そうです。もちろんその言語を読める人と、機械翻訳によってです。
 という話をすると、機械翻訳なんて正確ではないから、厳密な読み方にはならないから歴史研究にはそぐわないという意見が当然出てきそうです。しかし、この意見は一体いつごろまで有効でしょうか。永久にでしょうか。そんなことはないはずです。ネットを見ていればわかるように、欧米語系同士の言語であれば、すでに多くのものが機械翻訳でかなりの精度をもって読めます。英語さえ読めれば、本来はフランス語のものでもロシア語のものでもある程度読むことができます。逆にフランス語ができれば、英語が読めなくてもある程度のことを機械翻訳されたかたちで読むことができます。そしてこうしたサポートはわずかこの20年間に急速に進歩しました。あと100年と言わず、50年もたてば、それが何語で書かれていても、ネット上の情報はすべての人に読むことができるものになっていくでしょう。そう考えれば、オンライン上の知的コミュニケーションは、仮にそれが高度の知的内容(?)を伴うものであっても、それぞれの独自の言語で書かれていてもいいというわけです。
 はたしてそうした状況に本当に向かうのか、さらにはそうした技術的進歩があっても厳密な正確さという点では問題が残り続けますが(でもそんなことを言ったら、「有名学者」が訳した海外の文献の翻訳は厳密にはほとんど役立たないし、さらには誰もが自分がふだん外国語文献を厳密に正確に読んでいるかを反省すべきでしょう)、それでも本当の国際化、グローバル化というのは、むしろそうした流れの中にあると自分は考えています。ふつうの人々、つまりそれぞれの場にいるパブリックス(一般の人々)の誰もが本当に知的な交流を平等にできるからです。
 現在の段階ではそれほど容易なことではなく、IFPHの試みもまた紆余曲折していくはずですが、歴史へのアプローチとしてこうしたアイディアがパブリックヒストリー論という流れの中から生み出されつつあるのは注目してよいと自分では考えています。

# by pastandhistories | 2018-01-14 20:58 | Trackback | Comments(0)

デヴィッド・ディーン

 13日(土)にパブリックヒストリーについて話してくれるデヴィッド・ディーンが無事日本につきました。多分直行としては日本便で一番長時間にわたる13時間強のフライト。ということですが、食事をしながら多少の打ち合わせをしました。非常にわかりやすい議論の仕方をする人で、13日の会の質疑もきちんと対応してくれそうです。
 残念なのは、勤務先の大学の都合でセンター入試と日程がバッティングしたこと。それなりに反響はあるようなのですが、センターとぶつかると多くの大学関係者は時間の都合がつきにくい。博物館関係の人も正月休み明けの土曜日ですので、都合のつかない人が多いようです。
 本人も日本には多少の好印象を持ってくれたようです。なんといってもカナダより暖かい。ではカナダは今何度くらいかと聞いたら、マイナス30度という返事。聞き違えたのかと思ってネットで確認したら今年の冬のオタワは昨年の12月下旬から1月上旬にかけて、ほぼ毎日最低気温がマイナス25度、最高気温でもマイナス10度くらいが平均。確かに1月1日の最低気温はマイナス30度だったようです。こうなるといったん凍った自動車を解凍して動かすには、超大型のオーブントースターがいりそう。そうしたなかで無事到着ということでほっとしました。
 色々面白い話(カナダでの熊であった時の対応など)もしましたが、少し驚かされたのはパブリックヒストリーの国際大会の開催地。今年の夏はおととしのボコタについで南米のサンパウロということは既に決定していますが、来年はなんとネパールで開催されそうだということです。正直ネパールでの国際学会というのはあまり聞いたことがないですね。このことは逆にパブリックヒストリーの国際化が欧米を基準とはしていないということ、別の言い方をするとある意味ではパブリックヒストリーには本当の国際的思考があるということが示されているのかもしれません。

# by pastandhistories | 2018-01-10 22:49 | Trackback | Comments(0)

パブリックヒストリーセミナー 1月13日

 既に何度か予告したけど、1月13日(土)に以下のような内容でセミナーを行います。

招聘するのは、Blackwell から今年3月に刊行予定のパブリックヒストリーのアンソロジー(Companion to Public History)の編集者である David Dean (カナダ・カールトン大学教授)です。タイトルは「パブリックヒストリー:過去・現在・未来」、日時は2018113日(土)13時半~17時半、場所は東洋大学白山キャンパス5号館5104教室(※一部ポスターに「5014教室」とありますが、正しくは「5104教室」)となります。

ということで、今日はペーパーの一部の和訳を宣伝がてら掲載しておきます。

パブリックヒストリーに従事する人々は、記憶の政治、社会と諸個人がいかに想起するのか、歴史遺産と保存、共同記憶化などについての議論の前線にとどまり続けてきた。パブリックヒストリーに従事する人々は記憶のブローカーである。したがって彼らがその仕事において、文化地理学者、社会科学者、社会理論家の仕事に対してとりわけ敏感であったのは、驚くことではない。「記憶の場」(ピエール・ノラ)、「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)、「日常生活の実践」(ミシェル・ドゥ・セルトー)、「集合的記憶」(アルヴァクス)などは、パブリックヒストリーのなかで共通の語彙となった他の学問分野からの洞察のほんの一部の例である。読者はこの本(Companion to History)の諸頁において、より多くの理論的な洞察に出会うことになるだろう。

一般の人々からの感情的な反応を生み出す歴史を表象することを任務とすることはまた、感情史、感覚史を考えるにあたってパブリックヒストリーに従事する人々に指導的な役割を果たさせることになった。実際の環境とその身体化に焦点を当てる感情史、聴覚、視覚、臭覚、味覚、触覚に注意を払う感覚史は、パブリックヒストリーにおいて、もっとも中心的な領域となった。部分的にはそれがパブリックヒストリーを実践するものだからである。歴史解釈を受け入れ、博物館の展示や映画や舞台による歴史にある感覚を自分のものとし、博物館、テレビの歴史再現番組、歴史のシミレーションゲームの登場人物を実在のように思うことは、新しい洞察に帰結した。「感情論的転回」に対応し、パブリックヒストリーに従事する人々は、さらにまた人文科学における「パフォーマティヴターン」の前線に位置することになった。日常生活の実践、あるいは劇、音楽、映画、舞踏といったより形式化された枠づけの実践のどちらと考えるにせよ、あらゆる人間の諸活動は身体化された表象として遂行されているという立場から出発することをとおして、パフォーマンスとパフォーマティヴィティは、パブリックヒストリーについて考える価値のある方法となった。感情史、感覚史、パフォ-マンスをとおしての身体史は、パブリックヒストリーという分野の制度化の以前から行われている表象の諸形式を含みこんでいる。それらはつねに一般の人々のいかに過去とかかわっているか、歴史が地球でいかに遂行されているかということの重要な要素であった。」

いかがでしょうか。日本ではまだパブリックヒストリーという言葉自体なじみがないので、どれほど関心をもってもらえるかわかりませんが、今後の歴史研究、というより歴史全体をどう考えていくのかということに関して、かなり重要なことだと自分では考えています。

# by pastandhistories | 2018-01-09 17:16 | Trackback | Comments(0)

マンガの優位性

 昨年末は近刊書の校正に最後まで追われたけど、一応は終え今年の正月はいい休みになりました。もっとも別の雑誌論文の校正と、1月13日の会のデビッド・ディーンのペーパーの訳が年初めの仕事として入っています。そのうち後者は一応の粗訳を終えました。テーマ(パブリックヒストリー)は基本的には一般の人々向けの歴史ということで、英語的にもやさしいのですが、意外なほどの苦戦。どうしてかなと思ったら、一般向けの平易な内容の歴史についての文章であるがゆえに、使用されている言葉に適切な定訳がないことに気づきました。というより定訳を使用すると、かえって理解しにくくなってしまう部分が随分とでてしまうということです。それだけ日本の歴史研究のあり方には偏りがあったということかもしれません。明日からもう一度手を入れて当日までに間に合わせるつもりです。
 少し時間があるので今日は昨年末の手塚治虫についての記事の補足を書きます。マンガのコマと映画のカットの違い。マンガのコマをそのまま映画にすることは難しいと書いたけど、そのことは実験的なかたちで、大島渚監督が白土三平の『忍者武芸帳』を使って行なっています。マンガに動きを入れず、原画をスティル画として映し出すという手法で興味深い試みなのですが、ストーリーの「時間的流れ」を音声セリフで補ったために、かえって中途半端なものになってしまったところは否定することができない作品です。そのために漫画における異なるコマの同時性という長所、いってみればポリフォニックな側面が逆に表現されていないからです。
 マンガのモブシーンの意味についても書いたけど、漫画にある表現方法の一つの優位性は、シマルテイニアスなかたちで多声性が表現できることです。手塚治虫のモブシーンもそうですが、同じ時間におこなわれていることを、別々のコマで伸縮自在な形で描けるということです(飛雄馬が球を投げる瞬間とそれを待ち構える花形、あるいはジョーと力石が互いにカウンターを打とういう瞬間が、他の人たちのものも含めて、同じ瞬間の感情やセリフが別々のコマで表現されます。『明日のジョー』はその典型ですが、極端な場合には、同じ瞬間の出来事が数ページにわたって描かれたりします)。
 手塚治虫があれほどまでに執念をもってアニメを追い求めたのは、本人の説明によると基本的には二つです。一つは、静止しているものに動きを与えることは、命を与えることだということ(アニメイトの本来的意味)。もう一つは、マンガに動きをともなわせることによって、言語的な壁を越えられるのではと考えたため。しかし、逆説的なことに、アニメは時間性と言語性をむしろ拡大してしまったという部分があります。つまり登場人物の言語的な表現を通して、時間の流れとともにストーリーが進行することがその基本的形式となったということです。
 今日もまた結論はやや飛躍するけど、物語性は個別性や多声性を排除する。あれほど内容的にも深さがあり、面白さもある手塚治虫の漫画が、アニメとしてほとんど失敗しているのは、アニメ化にともなって個別性や多声性が排除されてしまっているからかもしれません。逆に言うと、しばしばストーリーマンガの創始者と言われるように、そのストーリー性で高い評価を得ている手塚治虫は、ストーリーの書き手であったのではなく、個別性や多声性を何よりも尊重していた作家なのかもしれません。

# by pastandhistories | 2018-01-04 21:48 | Trackback | Comments(0)

モブの描き方

 今年は、今月も先月も実質的なことは書いていませんでした。何度か年末はこうしたことがありました。年度末に合わせた原稿の仕事の締め切りがこの時期になるからです。今年は単著の校正の締め切り。11月中旬から本格的な作業をはじめて結局40日ほどかかり、一昨日に終えました。年初めに最後の手直しをして、出版は2月になりそうです。それと入れ替わるようにこれも2月末出版の雑誌原稿の校正、1月12日締め切りということですが、こちらはかなり編集者がチェックしてくれていて、それほど時間はかからなそうです。ということで昨日はのんびりと、久しぶりの読書。夏目房之介さんの『手塚治虫はどこにいる』(1992年)を読みました。
 ここでも時々漫画や映画の話題を書きますが、個人的にはあまり画像的、映像的な分野を論じる資格は自分にはないと考えています。絵が描けないから。絵のことがよくわからないからです。マンガ評論をするならやはり自らも絵をかく能力がなければならない。その点では夏目さんの漫画評論は、レベル的に評価されていいものです。この本も、眼の描き方やコマ割りの意味、そして何よりも描線をきっちり論じていて説得力を感じさせます。
 そうしたこと以上にこの本の指摘で鋭いと思ったのは、手塚治虫の特徴の一つとしてモブシーンがあげられていることです。かつそのモブの一人一人が勝手な動きをしているということです。確かにそうですね。こうしたシーンには子供心にも妙な印象があって、よく憶えています。夏目さんによれば、それは手塚治虫が個人個人の差異を大事なものとしてことを反映したものだということです。そのとおりかもしれません。モブシーンは大量のエキストラを使って(最近ではCGをもちいて)映画でも頻繁にも描かれる。しかし、パニック映画に典型なように、そこに登場する群衆は同じ方向にむかって画一的に行動している。つまり個人個人ではない。手塚治虫の漫画は明らかにそうしたものとしては異なるものとして、個人個人が勝手な表情を持ち、勝手なセリフを言う個人として描かれています。ある点では、漫画だからとりうる描き方です。
 もう一つ夏目さんの指摘で興味深いのは、コマ割りが作り出している空間と時間の意味です。コマの変化は時間と空間の変化を示します。しかし、これも映画と比較するとわかりますが、そのコマの変化(映画でいえばカットの変化)は変幻自在で、映画と比較するとはるかに多い。このことは漫画を同じカットの映画がありえないことからも理解できます。コマ割りと同じにカット割りをしたら、めまぐるしすぎて映画の観客はついていけないはずです。なぜ漫画においてそうした手法が可能であるかというと、観客が画面の流れとシマルテイニアスでなければならない映画にたいして、漫画の読み手にはそうしたことが要求されないからです。時間選択の任意性が漫画の方が受け手にとってははるかに高いということです。
 おそらくこの二つの問題は、手塚治虫の作品があれほど情熱を燃やしたアニメでは成功せず、漫画的な世界にとどまり続けたということの大きな理由だったのだと思いますが、そのことは追い追い機会を見て書くことにします。
 今日は最後に夏目房之介さんに関わるエピソードを一つ。多分2001年の頃だと思いますが、少子化のための大学再編に備えるために新学部を作るということで、どのような学部を作るのかという企画委員の仕事をしたことがあります。そのとき有力な意見として出されたのが、サブカルチャーに関する学部、たとえばアニメや漫画を専門とする学部を作ろうという話です。では誰を中心にするかということになり、自分は委員会で夏目房之介さんを推薦しました。他の人たちが知らなかったうえに、結局別の学部を作るということになって、この話は立ち消えになってしまいました。その後彼が学習院に招かれた時は少し残念な気持ちがしました。

# by pastandhistories | 2017-12-29 11:32 | Trackback | Comments(0)

目次②

 二つほどお知らせです。以前お伝えした1月13日の会に関して、報告をしてくれるデヴィッド・ディーンからペーパーが来ました。タイトルは、Public History: Past,Present,Future というものです。自分が近世イギリス史研究から研究を始めたことに始まって、パブリックヒストリーへの関与の、その国際化の流れ、affective and performative turn に至る最近の歴史研究の流れ、そしてディーンが編集する A Companion to Public History の内容紹介となっています。いつもと同じに希望者には英文ペーパーを事前に送りますので、希望する方は伝えてださい。

 それから書き下ろしの校正にめどが付き始めました。引用が多かったので、原点との対照が結構大変でした。年内には校正を終えます。出版は出版社の都合によると思いますが、来年3月頃までには出るのではと思います。

 この仕事に目途がつきそうなので、来年からは新しい仕事を出来ればと考えています。今日は少し時間があったので目次の続きを作りました。


研究の根拠2011/03/28

歴史学研究・報告集2011/03/22

コメモレーション2011/03/21

真実の制度2011/03/19

中止2011/03/13

トランスナショナルカルチュラルヒストリー2011/03/09

今日の日記2011/03/03

「場」の制約性2011/03/02

プロジェクト報告書2011/03/01

生きていたことへの不安2011/02/28

単系説・複系説2011/02/26

historicized2011/02/25

identitary2011/02/24

間主観性・客観性2011/02/23

英語読み英語書き2011/02/22

コンテクスト・事実の固い芯2011/02/21

ワールドヒストリー2011/02/20

グローバルヒストリー2011/02/18

3142011/02/17

今日の日記2011/02/15

事実性と構築性2011/02/12

テレビと歴史2011/02/07

しばらく再開します2011/02/06

実在の権利、フィクションの機能2011/02/02

サウスゲートとウィンドシャトル2011/01/31

プロフェッショナリズム2011/01/30

発表への責任2011/01/29

変化と規則2011/01/28

研究の前提としての教育2011/01/27

ある種の抵抗感2011/01/26

繁忙期2011/01/16

消去されたホームページ2011/01/15

ガンとヴァーノン2011/01/13

象徴化すらされえないもの2011/01/12

東部と西部2011/01/10

transnatinalization, visualiza...2011/01/09

外国研究、外国での研究2011/01/08

climate change2011/01/07

reflexivity2011/01/06

歴史の言語負荷性2011/01/05,

全世界2011/01/04,

「過去」2011/01/03,

歴史を「歴史的」に考える2011/01/02,

社会歴史2010/12/31,

歴史知のハイアラーキー,2010/12/30,

他者についての知2010/12/29,

商業道徳2010/12/28,

言葉の理解2010/12/27,

電子的な研究2010/12/26,

歴史への回帰20111/12/19,

国語とナショナルヒストリー2010/12/12,

文化の複層性,2012/05

constructedness2010/11/28,

読み方2010/11/21,

ナショナルヒストリーと国語の形成2010/11/14,

12112010/11/07

まとまりませんが2010/10/30

理由2010/10/29

おしまい2010/10/28

イフヒストリー2010/10/27

同一性、同時性という錯覚2010/10/26

事実への近似性2010/10/25

カナダの歴史研究2010/10/24

前提として想像されているもの2010/10/23

ization al history2010/10/22

ホブズボームについて2010/10/21

なぜ「歴史の死」なのか2010/10/20

歴史をもつ2010/10/19

経験・記憶・想像2010/10/18

相対性の考え方2010/10/17

プロジェクトの再申請2010/10/16

記憶の集合化・歴史2010/10/15


# by pastandhistories | 2017-12-14 20:03 | Trackback | Comments(0)

目次①

 しばらく記事を書いていなかったら、またアクセスが増えてきました。不思議なブログです。更新していなかった理由は、校正に追われているため。徐々に目途がついてきたので、集中的に処理しています。引用箇所の再チェックでだいぶ苦労してしまいました。ということなので、初めてのことですが、目次を作成してみました。集中的に書いていた2010年の分です。整理していないので読みにくいですが、以前の記事を見るときの参考にしてもらえればと思います。時間がある時に次の分も作ります。


認識の構造・対象の構造/10/14、D・カーとミンク/10/13、同一性/10/12、第三者からの理解/10/11、先生が教えた嘘/10/10、プロフィール①/10/09I knowed/10/08、アーサー・ペンと『小さな巨人』/10/07、二つの家系図/10/06artifacts/10/05、史料の多様化/10/04、ホライゾンタル・ヴァーティカル、/10/03、文化的断絶/10/02、個人の変化・世代的要素/10/01、書くということ/09/30、メモの整理として/09/29、時間性/09/28、授業とテキスト/09/27、形式・内容/09/26、残余の復讐/09/25、鏡の中の姿/09/24、通時的な思考の意味/09/23、価値としての客観性/09/222時間ドラマの文法/09/21、記号の事実化/09/20、その当時の真実/09/20、「民衆」の「怒り」/09/19、パブリック・スペースの歴史/09/18、スポーツと映画/09/17、記号への還元/09/16、近代科学と歴史/09/15、魔女の実在/09/14、事実と主観/09/13、ネットの辞書的機能/09/12、ノンフィクションと歴史/09/11、グレグ・デニング/09/09、歴史の抑圧性/09/08、自己の歴史化/09/07、モダニティ・ナショナリティ・オーディアンス/09/06、コンテクスト性と個人性/09/05、「日本では」「日本での」という枕詞/09/04、英語と差別化/09/03、グローバリゼーションと歴史/09/02、概念の遡行性/09/01、ホワイトのペーパー/08/31、次回開催地/08/30practical past/08/28、歴史のキャノン/08/27、死者の権利・記憶の構築/08/26、発表と著作権/08/25、歴史のトランスナショナル化への疑問/08/24、ラウンドテーブル/08/24great men と common persons/08/23、歴史のミクロ化/08/22、パソコン不調/08/22Globalization and its Disconte/08/21History, Science, and Practica/08/20、自閉性と国際性/08/19、フランス革命の歴史化/08/18nationalという言葉の象徴化、nationalなものの/08/16、クラシカルなものの象徴化/08/15、象徴と言語/08/14、言葉の循環性/08/13、返事/08/12、歴史を消費する/08/10、機械の利用/08/09、歴史を聞く/08/08、ハワード・ジン/08/07、「下から 」と「下へ」/08/06、時間がない/08/05、ヘイドン・ホワイトと西川正雄さん/08/04、マイクロフィルム/08/04、アラン・マンズロウ/08/03、電子化の中の歴史/08/01、ヘイドン・ホワイトの件/07/31、ロンドン/07/30、ヒストリオグラフィカル・ターン


# by pastandhistories | 2017-12-05 23:40 | Trackback | Comments(0)

エピソード

 今日の朝日新聞の書評欄は一番目目立つところにか柄谷行人さんによる『メタヒストリー』の書評。びっくりしました。話題になりすぎている感、なきにしもあらずという感じですが、ネットでも書評者が妥当か、あるいはその内容が妥当かということで早速コメントがあるようです。今日はこのことについて一言だけ。
 ヘンドン・ホワイトが日本に来る前に、ホワイトに日本人の思想家・歴史家で誰が知っている人物はあるか、また著作を読んだことがあるか、聞いたことがあります。その時、一人だけ名前を挙げたのが柄谷行人さんです。どうしてかと聞いたらスタンフォードに来たからだと言っていました。本も読んだことがあるということで、褒めていました。
 以前書いたことがありますが、その後日本に来る準備として英語で読める色々な人のものを読んだようですが、ホワイトが自分に対し最初に名前を出した日本人は柄谷行人さんです。、

# by pastandhistories | 2017-11-12 20:09 | Trackback | Comments(0)

短期主義への批判

 『メタヒストリー』『実用的な過去』という初期の著作と最新の著作が相次いで訳出されたことでヘイドン・ホワイトへの関心が高まっている感じです。ネットを見ても随分と反響があるようです。歴史研究者によるものだけではないという感じもしますが、ホワイトの議論の意味を歴史の立場から考えてほしいということで、このブログでもいろいろと紹介してきた立場からすると、時代が多少は変化しているのかなという感じもします。
 しかし、自分としてはやや意外なのは、ほぼ時期を同じくして訳出されたデヴィッド・アーミテイジとジョー・グルディの『これが歴史だ』への反響が意外なほど小さいことです。ホワイトの訳出本に比較すると安価だし、内容を読みやすい。なんといっても海外では歴史研究者の間では、その出版形態もあって大きな反響を呼んだ本なわけですから、もう少し大きな反応があってもよいはずです。
 内容はきわめてシンプルに短期主義への批判。研究対象をきわめて限られた時間と場に限定した詳細な実証に歴史が陥っていることへの批判です。歴史に特有な長期的なパースペクティヴを生かした歴史研究を行うべきだし、コンピューターの発展によってビッグデータの利用が可能になった現在こそ(あるいは今後は)そうした方向性に歴史研究は向かうべきだという主張です。そのことが歴史の社会的有用性を取戻し、人々の関心を呼び寄せるものになるはずだということです。念のために捕捉すると、こうした主張をしているからといって、実証的な研究やミクロ的な歴史をそれ自体として否定しているわけでありません。
 先日文化功労者に高名な歴史研究者が選ばれました。自分でもさすがに驚いたのは、この人物は昨年か一昨年かに刊行された本の中で、「筆者自身以外は誰も読まないような論文」が大量に生み出されていると書いていました。他の歴史研究者はこんなことを書かれて悔しくないのでしょうか。といっても、この批判に反論できる歴史研究者はどれくらいいるのでしょうか。
 そうした問題を考えるためにも、この本は歴史研究者の間でもう少し話題になってもよいような気がします。よい解説的な紹介が出るという話もあるので、それを期待しています。


# by pastandhistories | 2017-11-05 21:08 | Trackback | Comments(0)

1月13日

 今日は会の告知となります。
いつもここでお知らせしているプロジェクトの招聘セミナーは, Blackwell から今度でる(来年3月) パブリックヒストリーのアンソロジー(Companion to Public History)の編集者である David Dean を招いておこなうことが決まりました。日時はセンター入試とぶつかる1月13日(土)です。この時期は既に予定が入っている人も多いのではと思いますが、都合がつくようならご参加ください。予定としては、上記の本の序文の執筆を終えていると思うので、パブリックヒストリーの現状と今後について総括的な話をしてもらえたらと考えています。多分テーマとしては、博物館、サブカルチャーと歴史、デジタルヒストリーというようなことを話題にしてくれるのではと思います。
 それから以前プロジェクトで招聘したカレ・ピヒライネンの本が9月に立て続けに出たようです。リシンキングヒストリーへの投稿を集めて編集した編著が2冊、それからヘイドン・ホワイトの議論をふまえてパプリックヒストリーへの流れを論じた単著が1冊です。単著はキンドルでも読めますが、それぞれまだハードカヴァーだけなので、値段は高めです。予算がある人には購入できるかもしれません。


# by pastandhistories | 2017-11-02 16:57 | Trackback | Comments(0)

二時間ドラマの構造③

 久しぶりに二時間ドラマについて書きます。二時間ドラマで重要な役割を果たしているのは過去の出来事。しばしば登場するのが、20年前の出来事への怨念とか復讐心というものです。そうした筋立ての中で過去はどのように登場するのかというと三つの形式。
 一つは、大体が子供の時期に、親兄弟や知人が自殺に追い込まれた、あるいは殺害された事件を目撃した、あるいはそうした人々の死の間際に「恨み」「怨念」を伝えられた、というものです。
 もう一つは、そうした事件についての記憶や、あるいは真相は知らなかったけど、それを伝える証拠を偶然見つけた、証言を偶然立ち聞きしたことによって過去の事実を知るにいたったというもの、
 さらには、前の二つが重なっているような場合。具体的には記憶はおぼろげだったけど、その記憶を蘇らせる何らかの事件があったというものです。
 いずれにせよ、二時間ドラマにおける犯人の動機は、とりわけ美人女優が主役なら、多くの場合はその殺人の動機はほとんどが「過去」の事件に基づくものとして説明されます。「謎」を作り出すための文法です。しかし、歴史研究者の立場からすると、過去がこんなに殺人を正当化していいのかという疑問があります。逆説的に言えば、過去への知識である歴史は、そうした行為を正当化するためにもちいられてきたのかもしれません。
 二時間ドラマの場合は、そのように過去に根拠を置いて行われた行為、つまり殺人は必ず発覚し、犯人は自殺するか、罪を悔い改めるために逮捕されます。なぜなら、それは個人的行為だからです。個人的行為としての殺人は、いかに過去に基づく正当性を保持していようとも、処罰の対象となります。
 しかし、集団で学ばれる過去認識、つまり歴史がそうした行為を正当化するものであった場合は、その行為者は処罰されません。個人として過去を認識し、それに基づく行為を行えば処罰の対象となる。しかし、集団として過去を認識し、それを行っても処罰の対象とはならない。二時間ドラマ(サスペンスドラマ)と戦争映画の違いです。

# by pastandhistories | 2017-10-25 21:56 | Trackback | Comments(0)

政治指導者の理性

 このブログにはどの記事にアクセスが多かったということを示す機能があります。昨日それを見て驚かされたのは、今月は「政治の逆説的転回」という記事に一番アクセス数が多かったことです。そこでも書きましたが、自分の本来的関心は政治の問題ですが、このブログは基本的には歴史に対する考え方が中心。読んでくれている人の関心が政治にあったことは意外でした。
 そこで今日は政治の逆説的転回という問題から書いてみます。最近そうした角度から政治史を分析した本が出ました。長谷川貴彦さんの『イギリス現代史』[岩波新書)です。この本の内容はまずは、第二次世界大戦期に労働党が内閣に加わり、そこで作成した戦争遂行のための経済統制プランが実は戦後の福祉国家の起点となったということが指摘されています。社会民主主義政党の戦争協力は第一次世界大戦に関してはレーニンが強く批判したことなわけですが、戦争協力が福祉国家の起点となるという逆説的な転回が、政治にはこのようなかたちで生じることがあります。
 同じような逆説的転回は現在の日本政治にも見られます。たとえば経済政策としてはネオリベにもっとも近いはずの自民党の安倍首相がしきりに強調してしているのは、幼児教育の無償化であり、維新の松井党首が主張しているのは、大阪府では高校教育を私立も含めて無償化したということです。つまり彼らは、ネオリベとは必ずしも結び合わない福祉の実績を強調しているわけです。
 実はこうしたアイディアが日本の社会に本当に定着したのは、戦争直後の社会党政権においてではなく、美濃部都政に代表される革新自治体によって本格的な福祉政策がすすめられて以降です。以来、福祉政策は保守派ですら選挙において無視できな社会的合意となっている。そうした逆説的な転回の一端が今回の選挙でも見られています。
 それにしても昨日の秋葉原の状況は酷かったですね。日の丸を振って、安倍万歳。森友学園の幼稚園と同じ光景だということで、ネットでは安倍晋三記念秋葉原幼稚園と揶揄されている。それ以上に問題なのは、気に入らないメディアを取り囲み、攻撃したということです。そういう支持者が一部に出ることはあったとしても、それを諌めるのが理性的であるべき政治指導者の役割。それが先頭に立って気にいらないメディア攻撃を煽っている。本当に残念です。
 残念と言えば、ホワイトの会で成蹊大学で教えたことがあると言ったけど、それを依頼してきたのはナチズムの問題に本当に誠実に取り組んだ村瀬興雄さんです。村瀬さんの授業に、間違いなく安倍首相は参加していたはずです。安倍首相の頭の中には村瀬さんの誠実な訴えは入らなかったのでしょうか。

# by pastandhistories | 2017-10-22 10:55 | Trackback | Comments(0)

praciticality

前回書いたのが10月10日。ということで久しぶりということでもないけど、久しぶりという感じがします。その理由はこの10日ほどは、原稿書きに集中していたから。以前少しふれたことのある書き下ろし。どうしてもまとめられないところがあってずっと棚ざらし。もう断念しようかなと思っていたのですが、外語の会が終わったのでとりかかりました。ある出版社が企画に載せてくれていてその締切が11月15日。ただそこまで延ばすと他の仕事ができない。ということで一気に。全体で400字詰め、486枚。かなりの量です。まだ締め切りは先なので、もう少し見直しますが、それが今日終わったので、ほっとしているところです。これだけ一気に書きあげられたのは、外語の会で触発されることがあったから。研究会というのは、物を考えるきっかけになるということで、役立つところがあります。
 その外語の会にちなんで『メタヒストリー』の翻訳についての話題。自分が大学院生だった頃、指導教員がある本の訳書のコピーをとってくれないかと依頼してきたことがありました。有名な本。原書を持っているはずだし読んでいるはずなので、どうしてですかと聞いたら、授業のノートを作るには訳書の方が早いという返事。変に納得した記憶があります。そうした点で訳書は便利です。人によって違うとは思うけど、自分の場合は原書と訳書だとかかる時間は5倍以上。それ以上のこともあります。時間を節約してくれるという点で訳書は便利。その点で訳者のことをいつもリスペクトしています。要するに訳書にはプラクティカリティがあります。
 自分はそうした点で翻訳はある種のサーヴィスだと考えています。ただ訳書をめぐっては、訳語や表記の問題で批判が繰り返される。そのなかには随分と虚しく感じさせるものがあります。ということで自分が専門のチャーティスト運動に関しては、訳書を出すのなら同じ専門的研究者と一緒にということで古賀秀男さんとずっとその候補を探していました。幸いにしてもっとも代表的な研究者であるドロシー・トムスンがゲラの段階で原稿を送ってくれて、さらにはある人が出版社を紹介してくれて、500頁ほどの本で二人で訳語を統一しながら作りました。そうした協力が、訳書をさらにプラクティカルなものとすると考えたからです。
 そうした考えからすると今回のアマゾンのブックレビューはすごく残念です。断っておきたいことは、自分は監訳者である岩崎さんとは、ほとんど会ったことはありません。ヘイドン・ホワイトを招いた時にセミナーに参加してもらったのが初めて、その後一回あったような気がしますが、それから今回外語の会に招かれるまでまったく会ったことがなく、連絡をしたこともありません。いわば部外者です。そういう立場からこのブログは書いています。自分が研究者として一番大事だと思うのは、プラクテカリティ。このブログもそうした意味で書いています。読んでいる人の実際的な参考になればいいということです。
 今回のアマゾンへの書き込みは一部を取り上げるかたちで匿名で行われた。それでいいのでしょうか。少なくとも、名前を明らかにしてさらに具体的に内容を示す。可能であればそれを今回の訳者との協議で、もし再版される機会があれば、それにいかす。それが読み手が求めるプラクティカリティに対応するものです。ホワイトの本を読んでいてわかることは、随分と論争的に見えるけど、学者的な論争をけっして自己目的化はしていないということです。あくまでも読者が問題をさらに考えていくための問題提起、そうした読者に対する姿勢です。
 あえて厳しく言いますが、学問は学者同士の自己目的な論争のためにあるのではないということが、ホワイトのもっとも基本的な考えだと自分は考えています。もっとお互いにリスペクトしあうべきです。

# by pastandhistories | 2017-10-19 22:33 | Trackback | Comments(0)

19世紀的な形式

 昨日少し長く書きました。この記事には多分こんな反論があると思います。「資料自体が映像を媒体としたより事実的なものである以上、現代史を対象とした再現前化・表象を行う場合は、文字的ではなく映像的なものですべきだという議論はわからないでもない。でもその場合、封建制とか資本主義、あるいは上部構造や下部構造、歴史の発展法則というようなことは、どうやって論じることができるのか」という問題です。
 実はこのことは現在ではすでに「折衷的」に行われています。歴史を「教育」している人は、そのことに自覚的であったか、非自覚的であったかはともかくとして、パワーポイントなどを駆使しながら、図像的な、あるいは映像的な資料を媒介として、「言語的」な論述を行ってきているからです。啓蒙的な一般「書」において現在図像的資料が用いられていないものはまずは見当たりません。最近ではもちろん「図像論的転回」というように、図像的資料をもちいた学術的論文も出現し始めています。
 しかし、そうした「折衷的」な方法で事足れりとしていいのかというと、そこには大きな問題があります。実はそうしたさいにもなお使用されている概念の多くは、19世紀的な歴史、つまり文字的なものを媒体として成立していた歴史にあったイデオロギーや論証の形式を多くは継承したものだからです。とりわけ歴史叙述の一部が歴史学としてディシプリン化されるにともなって生み出されてきたものを継承したものだからです。
 ホワイトが批判しているのはそのことです。20世紀に入ってからいわゆる近代的技術の発展、さらにはそれに伴った人々の意識の変化によって芸術においても、科学とされるものにおいても、大きな変化が生じました。たとえは小説を例にとれば、意識の流れやアンティストーリーといった形式、そのことは小説というジャンルを例にとった一つの例なわけですが、芸術一般においては対象を忠実に模写するのではなく、直観的な、抽象化した表象を通しての対象をむしろ解体・分解していくという表象形式がとられるようになりました。ホワイトが19世紀的なリアリズムに対してモダニストというかたちで論じているものは、そうした形式をもつ芸術や、あるいは科学のあり方です。あるいは人々の意識のあり方です。
 おそらくそうした技術的・知的革新を受けて生ずるべきものは、別の言い方をすると、形式の変化を受けて生じるべき、内容(歴史の場合は過去の実在)への理解は、これまで支配的なものであったものに代わる幅広い可能性を持つべきものだ、というのがホワイトの主張です。ホワイトの議論をめぐって、それでは事実はどのように認識できるのかと議論することも、重要なことかも知れません。しかし、自分がそこだけに議論を集約してはならないと思うのは、そうした議論は結局は問題を「学者」の間の議論にとどめてしまうからです。ではなくて、普通の人々の間にある過去認識のことをもう一度考えてみる。自分が最後に『歴史実践」ということを提起したのもそのためです。ホワイトが「歴史学的過去」(historical past・・・この訳語は佐藤啓介さんが付けてたものですが名訳だと思います)に対して、広く人々の間にある実用的な過去に立ち返ることを主張しているのもそのためだと自分は考えています。

# by pastandhistories | 2017-10-10 09:43 | Trackback | Comments(0)

歴史の一部

 おとといの会で出版社の人に『メタヒストリー』の初刷りの部数を聞いて少し驚きました。価格が高いので部数を限定したのかと思ったのですが、予想を超えた数でした。今どき人文系の学術書でそんなに刷っていいいのかと思うところもあるけど、かなりの勢いで捌けているようです。
 でも買ったはいいけど読者はどう読むのでしょうか。最初が面倒くさいですね。喩法「トロウプス」の説明。多分以前からあったメトニミーを換喩、シネクドキを提喩と訳すのはこれで定着していくと思いますが(今パソコンで入力したら一発で変換してくれました。すでに十分に定着していたということかもしれません)、いったいなぜそのことをホワイトは問題とするのか。これまでも多くの解説でそれが「誰の考え」に「依拠」しているのかは、説明されてきているわけですが、「どうして」という問題は意外と説明されていないような気がします。自分はこの問題はシンプルに考えています。部分が全体を代表するとして、残りの部分を無視するのはおかしいし、恣意的に選び出された部分をつなぎ合わせれば全体が形成されるという考えも論理的には厳密さを欠いている。逆に全体が措定されれば、それが部分を代表しうるとするのも、飛躍があります。ホワイトの発想の起点となっているのは、そうした安易な立論への批判なのでしょう。
 少し議論がずれますが、ホワイトの歴史学への批判は、部分が全体であると称していることに対するものだと自分は考えています。ホワイトを議論すると、歴史は事実かということに、あるいはどうしてフィクションが事実になるのかというところへ議論が向かってしまう。おとといの議論にもそんなところがありました。こうした議論の仕方は、もっと大事なことを見落としているのではと自分は考えています。
 歴史とされるものもその一部ですが、人々の過去認識には多様な形態があります。そのことは自分がどのようなものを媒体として過去を認識しているのかを考えれば、すぐに理解できることです。現在大学をはじめとする研究機関で行われている歴史研究が事実性を根拠としていることは確かなことです。相当に恣意的な内容が含まれるようになったとはいえ、学校教育における歴史はなお事実性をその根拠としています。その点では一定の虚構を許容するとされる小説や映画とは違いがある、それも確かなことです。
 これからも大学などの研究機関や、専門的な歴史研究者とされる人々の間では、事実性に根拠を置くかたちで歴史が論じられていくはずです。そのことは人々の過去認識を助けるはずです。また文書間や資料館での資料の収集や保存も行われていくでしょう。そのことも人々の過去認識を助けるからです。そうした営為自体を否定する必要はありません。しかし、大学のような本来は開かれた真理の追究の場であるところの歴史が、そのようなかたち限定化されることには大きな問題があります[「文書」館であれば、本来の目的からして、それでも構わないのですが)。
 なぜなら、そうした作業は広く歴史とされるものの一部、広く人々がもつ過去認識の一部にしか過ぎないからです。その一部が歴史研究の可能性を阻害すべきではありません。たとえば現在では圧倒的多くの歴史研究者は、歴史を文字で表象している。ほとんどの大学では、卒業論文を「書かなければ」史学科を卒業できない。歴史研究者になろうとするなら、博士論文を書かなければ歴史研究者になれない。なぜならそうした研究の場を支配している「権威ある」歴史研究者は、それだけを「事実的」な歴史と考えているからです。しかしよく考えればすぐにわかるように、歴史「叙述」というのは、本来的にありうる歴史のほんの一部に過ぎません。事実に沿ったより正確な表象をしようとすれば、映像や音声が伴わなければいけないということは自明のことです。なによりも現代史を対象とするなら、より正確に過去を伝える史料自体が、圧倒的に記録・保存された音声や映像なわけだからです。事実をより正確に表象することが歴史研究の成果であるべきだというのなら、学生や大学院生に課せられるべきは、卒業論文ではなく、卒業映像であるべきでしょう。
 つまり歴史は事実であると主張する現在の歴史学は、文字的な歴史を絶対化している「一部」によって支配されている。したがってそのことに根拠を置くかたちで人々に強いられている過去認識もまた「一部」によって支配されているものでしかありません。「歴史の事実」ではあっても「過去の実在」とはほど遠いものということになります。ホワイトが批判したのはそうしたことだったのだと思います。ホワイトが「過去の実在」自体を否定しているわけではないと繰り返しているのもそのためです。こうした意見は極端でしょうか。自分の経験を振り返りながら、よく考えてください。たとえばテレビニュースと新聞は、どちらがより事実的なのか、どちらがより構築的なのかというようにです。実はそのどちらも構築的です。そう考えた時、フィクショナルなるなものとされる映画や小説から、ある種の現実の社会についての認識を、あるいは過去の実在についての想像的理解を、私たちが作り出していることに気づくはずです。

# by pastandhistories | 2017-10-09 21:54 | Trackback | Comments(0)

昨日について

 昨日の外語大の会はテーマとしては一般的なものが設定されていたわけですが、「メタヒストリー」の翻訳出版に開催を合わせたという部分があったので、自分としては「日本では」これまでほとんど論じられてこなかった、ホワイトの思想的経歴や議論の基本的な枠組みを紹介することに中心を置きました。しかし与えられた時間は短いということで、いくつかのインタビューを翻訳紹介したわけです。翻訳は自分のために以前作成していたノート的なもので、今回は正式には二週間前の依頼ということで、点検する時間も全くなかったのですが、参加したとりわけ若い人が(若い人が多かったことには随分と力づけられました)参考にしてくれればと思います。
 ホワイトが日本に来た時も、実は事前に自分の手元には5本のペーパーが送られてきました。同時に、未発表であったものが多いペーパーを添付したメールには、「お前が自由に誰に対しても配布してよい」と書かれていました。何度かここに記してきましたが、ホワイトは学問に対してそうした考えを持っている人です。自分も研究会での発表者や質問者の役割は、自分の正しさを論じることではなく(それが絶対に、誤っているというわけではありませんが)、限られたものではあっても参加者にとって有益なものを提供することだと考えています(このブログもそうしたものとして書いています)。不十分なものですが、多少でも役に立ててもらえばと思います。
 ただ予想されたように時間が全然足りなくて、実際の歴史研究に対するホワイトの影響という問題を、具体的な形で紹介することはできませんでした。会が終わってからイム・ジヒョンが話かけてきて「ホワイトのバイオグラフィとして知らなかったことを知ったので有益だった」と言ってくれましが、そうした印象を多くの人に与えるのにとどまってしまったのは少し残念でした。
 そのイムジヒョンの発表と質問については少し残念なところがありました。イムがホロコーストを映画(フィクション)のあり方にホワイトの議論を結びつけたのは、イムらしいシャープな問題提起でしたが、その後の質疑はやや一般的なレベルにとどまっていました。一番残念だったのは、そこで議論されたような内容は、すでにポストモダニズム的な歴史論の系譜な中での重要な人物であり、『リシンキング・ヒストリー』の創立編集者としてポストモダニズムの立場からの歴史のあり方を議論する場を作ってきた、ロバート・ローゼンストーンが「映画と歴史」「映像と歴史」という問題としてすでにきちんと議論してきた問題だからです。
 イムヒジョンも自分の報告でそのことに気付いたようで、後でローゼンストーンは読んでいなかったのでこれから読んでみると言っていました。自分の責任だとも思いますが、ローゼンストーンの議論に関しては、『歴史を射つ』のなかで彼がこの本のために書いてくれた要約的な文章が翻訳されていますし、自分の『開かれた歴史へ』でも紹介論文が掲載されています。またテッサ・モリス・スズキの『過去は死なない』でもローゼンストーンは紹介されていたはずです。
 ローゼンストーン以外にも Marnie Hughes-Warrington, History Goes to the Movies (2007), ジェローム・デ・グルートの一連の著作、など方法論的に優れたものも随分とあるし、何よりもインデアナ大学を中心とした Film and History や、ここでも紹介したことのある IAMHIST などの活動(すでに1980年代から始まっていた)をとおして映像と歴史の問題は随分と議論されてきました。日本の歴史研究がそうした歴史の方法に対する関心をほとんどたどれていないために議論が基本的なことの繰り返しにとどまっているのは、本当に残念です。

# by pastandhistories | 2017-10-08 10:45 | Trackback | Comments(0)

10月7日

今日は昨日の続きのようなことを書こうかとも思ったのですが、もう日にちもないので、今週の土曜日の予定を書いておきます。ヘイドン・ホワイトのいくつかのインタビューの紹介をとおして、彼の考えの一端を紹介する予定です。今日からはその準備をします。

    国際シンポジウム「『メタヒストリー』の射程で考える歴史叙述と記憶の問題系」

時間:2017107日(土)13時~17時半

場所:東京外国語大学(府中キャンパス)、本部管理棟、中会議室

趣旨説明 岩崎稔(東京外国語大学教授・訳者代表)13:00-13:15

第一部 《ホロコーストと表象の限界》 13:00-14:45 モデレーター:岩崎稔

「『メタヒストリー』とアウシュヴィッツのアポリア」林志弦〈韓国・西江大学教授〉

「ホロコーストをどう表象するか――「実用的な過去」の見地から」上村忠男〈東京外国語大学名誉教授〉 

第二部 《思想家、ヘイドン・ホワイト》 15:00-15:45

「インタビューのなかのヘイドン・ホワイト」岡本充弘〈東洋大学名誉教授〉

第三部《『メタヒストリー』論争の現在》 16:00-17:30 モデレーター:成田龍一 

「物語論的転回2.0 『メタヒストリー』と現代歴史学」長谷川貴彦(北海道大学教授)


# by pastandhistories | 2017-10-04 06:27 | Trackback | Comments(0)

政治の逆説的転回

 ある時期からやたらに研究領域の自己規定を求められるようになりました。結構面倒くさいけど、自分の場合はイギリス史・歴史理論あるいは政治史だけで済ましていましたが、次第にグローバリゼーション論が入るようになりました。さらに細かく求められる時には、社会運動史、議会制度史、グローバルヒストリーと記したりしています。
 というように、自分の本来的専攻は議会改革を求めた民衆運動の歴史。したがって政治理論の本は随分と読みました。可能なら、とりわけ退職後はそうしたことについて書きたいとは思っていたのですが、残念ながら歴史理論関係の注文が先行してしまい、なかなかそこには手が回りません。このブログもタイトルは「歴史の諸問題」。でも基本的には自分が関心を持ち続けていることの一つは、政治の理論的分析(そして実際的な改善)です。
 そこで今日は現在の政治状況についてコメントしておきます。昨日今日の最大の問題は、民進党からのリベラル派の離脱。簡潔に言えば保守・保守・革新[あるいはリベラル)の三極体制が、少なくとも今回の選挙では成立したということです。この問題について、一部には民進党の分裂は安倍政権に利するという報道・分析がありますが、これは虚偽です。むしろすでにとられた世論調査が示すように、安倍首相の支持率は再び後退しました。
 なぜこのようなことが起きるのか。それは1960年代以降の日本政治を考えるとわかります。1960年代以降の日本に生じたのは野党の多党化現象です。民社党の形成、公明党の成長、共産党の支持拡大、中選挙区制度のせいもあって、このことは加速化され、ついには自民党の過半数割れという現象が生じました。実はこの時この現象を引き起こしたのは、中道保守としての新自由クラブの結成です。しかしこののち進行したのは、新しい補完的な保守政党の形成です。小池都知事や前原議員が参加していた日本新党、小沢議員が率いた新進党、後は限りがないのですが、みんなの党、維新など多くの新しい保守党が出現したわけです。しかし、そのことによって起きたのは自民党の衰退ではなかった。逆に社会党、社会民主党の後退に象徴される革新政党の衰退です。さらにもう一つの現象が同時に進行します。それはかつての自民党の指導者であった長老たちが嘆いているような、自民党の超保守化です。その象徴が安倍首相です。
 なぜそのような現象が起きたのか。それは保守の分極化が逆に中間層を引き寄せ、自民党のさらなる保守化を可能にする働きをしたからです。政治の逆説です。このように考えれば、今回の民進党の分裂は、実際にはきわめて保守的な内容の政党の出現ですが、形式的には反自民党という選択肢を拡大したという点で、安倍首相への支持をさらに下げる役割を果たすはずです。そのままでは安倍首相が退陣する可能性が生じたとはいえ日本政治の危機はさらに進行する可能性もあったわけですが、リベラルな部分が新党を立ち上げ第3極への流れを作ったことによって、補完的保守政党の形成による政治全体の保守化というこれまでの動きとは異なる現象が起きるかもしれません。政治学的に見ると、政治はしばしばそうした逆説的な転回を示すことがあります。

# by pastandhistories | 2017-10-02 18:26 | Trackback | Comments(0)

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