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プロフィール②

 何気なく始めたブログが随分と積み重なってしまいました。最近は一日平均三ケタ前後のアクセスがあって、それだけの数の人に何を書いていいのか戸惑うところがあります。「そもそも」誰が読んでくれているかがわからない。「いわば」暗闇に向かって書いているような感じです。
 ネットへの発信ですが、匿名というかたちをとらず確か最初の頃にプロフィールとして執筆者の名前を明らかにしたことがあったはずです。その時、時々は個人的情報を書いていくということも明らかにしてそれに類する記事をいくつか書きました。その後も多少は書いていますが、基本的には自分が参加しているプロジェクトなどの情報が中心となっています。歴史研究者であれば、その内容で執筆者が誰かはわかっているとは思いますが、格別歴史研究者ではない人や、新しい読者もいると思うので、今日は改めて執筆者のプロフィールを書いておきます。
 名前は岡本充弘です。職業は、現在は庭園管理、果樹栽培、ママチャリ自転車ロードレーサーですが、そこから収入があるわけではありません。東洋大学の史学科に教員として勤務していましたが、現在は退職しています。ただ歴史理論のプロジェクトには参加していて、主としてその企画を手伝っています。他人が自分をどう理解しているのか、それはわかりません。ただ自分が一番気に入っているのは、ある人からもらった「人格温厚、思想極端」という評価です。実際には、「人格極端、思想温厚」のような気がしますが、そうであるがゆえにこの評価は嬉しいところがありました。
 結構宣伝の多いブログですが、今日も宣伝をしておくと、このブログの内容に関わる出版物としては、単著である『国境のない時代の歴史』(近代文芸社、1993年)、『開かれた歴史へ』(御茶の水書房、2013年)、共編著としては『歴史として、記憶として』(御茶の水書房、2013年)、『歴史を射つ』(御茶の水書房、2015年)があります。今年の初めの頃、これらのアマゾンでの販売状況の関して、ここで宣伝的な記事を書いたことがあります。
 『国境のない時代の歴史』はアマゾンでの古本価格が安いので誰か買ってほしいと書いたら売れたらしく、現在では在庫がないようです。実はこれは自分の手元にもありません。この本の内容は自分では気に入っていて、自画自賛ですが「幻の名著」と呼んでいます。
『開かれた歴史へ』は版元ではほぼなくなっているようですが、アマゾンでは中古品が安く出回っているようです。『国境のない時代の歴史』に関しても書きましたが、機会があればサインをしますので(普段は献本にも絶対にサインをしないのですが)、値下げを食い止めてくれる人がいると、嬉しいところがあります。
『歴史として、記憶として』は一時品切れでしたが、現在ではアマゾンに在庫があるようです。これも自画自賛ですが、この本は豪華執筆陣で、貴重な証言も含まれていて、有用ではと思います。
『歴史を射つ』は版元では完売になったようです(返本が多少あるかもしれないけれど)。新刊の値段が高くて自分では心苦しいところがありました。古書としても妥当な価格であってほしいと考えています。
 最後になりますが、自分はフランクな性格で、老若男女誰に対しても分け隔てなく付き合えるのではと思います。最初にも書きましたがブログの不便なところは、誰が読んでいるのかがわからないことです。いくらでも個人的なコミュニケーションには応じますので、気兼ねなく連絡してください。メールは tsyokmt@hotmail.com です。メールのアドレスを公開すると、年齢のせいかヴァイアグラの宣伝が毎日のように入ってきます。もっとも最近は養毛剤の宣伝はまったく入らなくなりました。

by pastandhistories | 2017-07-30 10:10 | Trackback | Comments(0)

比較史②

 昨日は少し落ち着いたけど、相変わらずアクセス数は減らず、先週は一日平均が3ケタ。随分と多くの人がアクセスしてくれるようです。そうした期待に応えるほどのことは書けませんがませんが、今日は一回で中断した比較史の続きを書きます。
 ①で書いたことは、ユルゲン・コッカも指摘している「比較史の非対称性」という問題です。歴史家は自らが現前する時間的な、空間的な場に対する認識を前提に過去を論じる。同時にその論じられた過去が提示される場もまた彼が現前する時間的な、空間的な場です。そうした彼が現前する場に対する知識は、歴史家が議論の対象としている過去についての知識と比較すると、質的にも量的にも非対称的なものです。もちろんオーディアンスは、歴史家以上に非対称的な知識しか持っていません。
 逆説的なことですが、そうした非対称性のうえに、比較史は成り立っているという部分があります。しかし、比較史には歴史家の拠って立つ時間的な、空間的な場をともに離れた二つの対象を設定するという方法もあります。たとえば19世紀の南米と、13世紀の中東との比較というようなテーマ。もちろんそうしたテーマでも同一性と差異は論じられますし、歴史家から見れば対象はともに自己に疎遠であり、知識の質も量も似たようなであるという点でパラレルなものとなります。実はこの場合でも、歴史家の問題意識が前提とされていて、その意味では非対称性は内在していますが、外見的には比較される対象そのものは対称性を留保していることになります。しかしこの場合は、テーマの随意性がかなり高まることになります。
 比較史の問題は、結論が前提的に措定されがちだということです。結論は二つ、もしくはも三つ。比較するものに、①同一性あるいは類似性がある。②差異がある。そして③同一性・類似性もあるが、差異もある、という結論です。それほど単純ではないという批判があるでしょう。検討の結果、当初の措定とは異なる結論が導き出される場合も多いという議論の仕方です。しかし、そうした議論もまた、最初の予測とは異って、「意外にも」同一性があるとか、差異があるという議論をしているわけで、やはり結論は前提的な措定から導き出されたものです。

by pastandhistories | 2017-07-25 10:18 | Trackback | Comments(0)

周縁と歴史

 昨日はプロヴァイダーの点検作業ということで、自分からはアクセスできませんでしたが、アクセスが3ケタを超えたようです。おとといもということで、この間アクセスが高止まりの傾向にあるようです。期待してこのブログを開いてくれる人がいるということでしょうが、正直そうした期待に応えられるかと思うと、気持ちが重くなります。ただ読んでくれる人にとって参考になればということで、今日も思いつくことをメモ的に書いておきます。最初に断っておきますが、あまりまとまった話ではありません。
 その一つは以前授業で自分が用いた史料についてです。「歴史は史料に基づく実証である」ということで、大学の史学科には「史料購読」「史料研究」のような科目が置かれています。自分が担当していた西洋史の場合、この授業のためのテキスト選択には以前は結構苦労しました。しかし、ネットはその改善を随分と助けてくれました。海外の史料が学生にも直接利用できるようになったからです。その一つとして用いたのが、ダクラス・リンダ―という人が作成した Famous Trials (http://famous-trials.com/legacyftrials/ftrials.htm)というサイトです。あくまでもアメリカの学生向けという点で、欧米中心で英文が中心となりますが古今東西の有名な裁判の記録が、そのアウトラインについての説明とともにアップされていて、便利なサイトです。
 もちろん、裁判資料などの公的資料を中心として歴史を組み立てることには、批判があります。史料そのものが本来は社会の統制を目的として作成されたものでしかないからです。しかし、そのことを逆用して斬新な歴史研究が、ミクロヒストリーとしてナタリー・ジーモン・デイヴィスやギンズブルグによって試みられたことも事実です。これらが評価されたのは、従来は歴史の周縁に置かれていた人々を取り上げることを通して、その時代の社会のあり方を合わせて論じたからです。
 厳密には論じていることの意味内容は異なりますが、歴史の周縁という問題をテーマに鋭い指摘をしているのが、今年に入ってから翻訳出版されたラナジット・グハの『世界史の脱構築』(原題は、History at the Limit of World-History )です。欧米に起源をもつ World-History が植民地支配とともに南アジアに入ってきた、そしてそのことを前提として「歴史となりえるもの」は何か(このことは逆に「歴史になりえたもの」は何で、「なりえていないもの」何かという議論でもあるわけですが)を論じたものです。
 面白く読める本ですが、そのタイトルの訳に関してに訳者の竹中千春さんは興味深い指摘をしています。それはタイトルの訳として採用された脱構築という言葉は、原書の中では一度しか登場しないということです。しかし、竹中さんがこの訳語を採用したのは明確な理由からです。グハはサバルタンやポストコロニアリズムの立場に立って、そうしたものを排除するかたちで機能してきた世界-史を脱構築する立場に立っている、と竹中さんが考えているからです。
 今日の話はあまりまとまりませんが、無理に結論すると、同じ周縁に議論を立脚させていても、ギンズブルグとグハは立場を異にしています。ギンズブルグは周縁から歴史を構築することが可能だと考えているわけですが、グハは周縁から歴史そのものへの疑問を提示しているということです。これは重要な論点だと自分は考えています。

by pastandhistories | 2017-07-19 10:56 | Trackback | Comments(0)

セミ・グローバリゼーション

 気づいた人があるかもしれませんが、昨日書いたことは過去に生じた事実を踏まえていないという点で、きわめて非歴史学的な文章です。最大の誤りは、今後の300年の予測として、一家族についての子供数を二人、一世代を30年としていることです。この推定は、歴史的事実に照らして、明確に誤りです。たとえば、日本で出生者数が一カップルあたり二人を切ったのは、20世紀後半に入ってからであって、それ以前は一カップルあたりの出生者数ははるかに大きいなものでした。これは外国でも歴史的には同じで、また現在でも高い出生者数がある地域が存在しています。さらに、一世代が30年というのも固定的なものではありません。はるかに速い世代交代が行われた時代、地域が歴史的にはありました。そればかりか、DNA操作の医療技術が飛躍的に発達して人間の老化が制御されるようになれば、平均寿命が200歳というようになり、人口を調節するために、出生者数を極端に制限するという社会が、意外なほどの近未来に生じるかもしれません。その意味では、人間の社会が同じような文化的枠組みで維持されつづける考えるのは、きわめて不正確な予測です。
 またグローバル化がさらに促進されるというのも、傾向性としてはかなり確実な予想に思えますが、本当にそうなっていくかについては、なお議論の余地があります。そうした問題を論じたものとして、少し興味深いのは、Pankaj Ghemawat が World 3.0: Global Prosperity and How to Acieve It (2011) で論じた現代の世界を 'semi-globalized' という段階にあるものとして捉える考え方です。実はこの本はまだ入手してはいませんが、その紹介はダグラス・ノースロップが編集した Companion to World History (2012) に、ノースロップ自身が付した最後の要約的文章で紹介されています(同書、500~1頁)。
 Ghemawat の主張の要点は、ノースロップによれば、セミグローバライズドという言葉にも示されているように、現在の世界をグローバリゼーションが全面的に行きわたった社会とは考えてはいないということにあります。そしてネオリベラリズムのようにそのさらなる進行を擁護するのではなく、そこから生じる問題を制御する有効な手段が現在の段階では明確ではない以上、国家による規制を支持する立場から Ghemawat は、現在の世界の状況をセミ・グローバリゼーションとして捉えているようです。
 その具体例として Ghemawat は、たとえば現在でも出生した国で死亡する人は人口の90%を占めることをあげています。またネットを経た情報も、国家的枠を超えて流失しているのは20%以下に過ぎないことを指摘しています(ネトウヨが出す情報はまさに国内限定的なものです)。トレンディ化したグローバリゼーション論に釘を刺した主張としてやや興味深い主張です。普通の人々の日常的生活や言語的な制約を考えれば、グローバリゼーションがさらに進行していく場合でも、それは全面的なものとはなりえずに、ローカリティやナショナリティが残されていくということは、大いにありうることでしょう。それがネガティヴなものではなく、いかにポジティヴなものとして機能していくかが大事です。

by pastandhistories | 2017-07-15 17:38 | Trackback | Comments(0)

未来の歴史

 昨日は旅券の更新に行きました。身分を証明する書類はもちろん(現在の旅券があるので)、戸籍抄本も住民票もいりません。どうしてかなと思っていたのですが、受付でその理由がわかりました。その場で一瞬にして住民票のコピーが出てきたからです。
 考えてみれば当たり前の話ですね。各市町村にある原簿を大型のコンピューターに入力してあれば、それがどの端末からも出力できるからです。現在では住民票や戸籍のある特定の市町村にだけ、(かつては文字的な形で保存されていた)データがあるわけではないからです。 
 このことで気づいたことは、ある世代以降の戸籍はすでにビッグデータの一部になっているということです。それが今後も延々と累積していく。つまり自分も含めて戸籍制度のある現代社会に生きている人間の子孫については、たとえば300年後には、子供が平均二人、一世代が30年とすると2の10乗である1000人程度存在しているわけですが、データが消失しない限り、そのすべてがわかるということになります。別の言い方をすると、300年後の人間は300年前にいた1000人近い祖先のすべてを記録上は認識できます。
 おそらく今後の300年というのは、グローバル化の進展に伴い、人々の流動化、それに伴う混血化が一層促進されていく時代でしょう。そうした社会にあって、個々の人々は自らにあるハイブリディティを、明確な記録をとおして認識しえるわけです。そこでは、歴史をナショナルな単位で論じるべきだとする考えは、きわめてナンセンスなものとなるはずです。カーが論じたように歴史を未来から見るという考えが正しいのだとするなら、ナショナルヒストリーから歴史を語り、それを永続的なものとして絶対化しようとすることは奇妙です。未来に生きる人々は、自らに関して残された史料を踏まえて、自らのハイブリディティを認識していて、ナショナリティに帰一化されるような歴史観を抱いてはいないだろうからです。
 このことが示していることは、もちろん相対的には現在のような流動性の高い社会ではなかったことは事実かもしれませんが、ナショナルな枠組みに歴史がある時期まで画一化されがちだったのは、300年前に生きていた1000人ほどの祖先が可視的なものではなかったからです。そうしたものを丹念に可視化していけば、現在の歴史のあり方も少しは変わっていくかもしれません。繰り返し指摘してきましたが、ファミリーヒストリーの意味はそうした点にもあります。

by pastandhistories | 2017-07-14 12:25 | Trackback | Comments(0)

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