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歴史についてこれまで考えてきたことを書いています


by pastandhistories

DPH徒然1

研究会に出た際に考えたことを書くのは書きやすいので、前回に続いて今度は昨日参加したデジタル(パブリック)ヒストリー研究会で考えたことを書きます。
 一つは、パブリックヒストリーとデジタイゼーションの関係について興味深いこと。それはパブリックヒストリーの異なる二つの流れが、デジタイゼーションへの方向という点では一致していることです。ジェームズ・ガードナー、セルジ・ノワレ、トマス・コヴァンという博物館からの流れ、つまり専門的研究の成果をパブリックに伝えるという流れが、最近のノワレの編著に見られるように、デジタイゼーションへの関心を強めている一方で、パブリックの中における過去を重視する、つまり presence of the past に着目したロイ・ローゼンツヴァイクが、いち早く歴史とデジタイゼーションの関係を論じていたことです(Digital History, University of Pensylvania Press,2005)。近年は、前者の後者への同化が進んでいる、つまりクラウド・ソーシングへの評価など、後者が発信する情報をどう取り入れるかということが、問題となっています。
 もう一つは、上述したことと関わりますが、ネットで膨大に提示される情報について、査読というようなかたちで学術誌などにある gate-keepers は必要なのかという問題です。「インターネットが、歴史的噓が増殖するのを可能としている。というのも、インターネット上では、事実上、事前の検閲なしに、そして一切の制裁もなく、誰でも、どのような名前でも、そしてどのような内容でも投稿することが可能だからだ。」(リン・ハント『なぜ歴史を学ぶのか』岩波書店、P4という問題。ここで引用したリン・ハントの文章は、歴史のデジタイゼーションへの留保を示したものとして(歴史修正主義を批判する根拠の一つとして)、歴史研究者によってしばしばもちいられています。ノワレやコヴァンもまた、クラウドソーシングには専門家の協力、チェックが必要だという立場に立っています。
 ここでは結論は出しませんが、おそらく以上の問題はデジタルパブリックヒストリーをめぐる重要なテーマとして今後も論じられていくはずです。


# by pastandhistories | 2022-07-25 07:34 | Trackback | Comments(0)

PH徒然4

 昨日話題になったことについてもう一つ書いておきます。通史的な歴史や個別的な事件を漫画を用いて説明する形式です。最近では講談社や小学館、角川が世界史、日本史それぞれについて刊行しているもの。比較的高名な歴史研究者が監修するというかたちをとります。漫画家が書いた絵の「歴史的事実と異なると思われる箇所」をチェックするのがその役目。パブリックヒストリーに準じて言えば、to the public の歴史です。
 結構議論しやすいことがら。問題はそこでもちいられる歴史がメタナラティヴであるということ。山川の世界史教科書に即した小学館のものがその代表で、基本的には一般化しているナラティヴを踏襲する。商業的には「受験にも役立つ」ということが大きな謳い文句で、教科書に掲載された以外のことは捨象される。教科書に登場しない人物や事件はそこからは排除されています。
 問題は歴史教科書の側にあるわけで、こうした漫画書の側にあるわけではないけど、その辺りは批判的に考えるべきかもしれません。しかしこうした企画に真面目な歴史研究者が協力するのは、本当に基本的な歴史上の事実ですら、人々の中には一般化していない。まずは基本的な一般的事実を伝えていくことを大事な課題と考えているからでしょう。
 パブリックな場にある歴史を考える時に意外と重要なのは、学校教育と歴史の関係となります。大学進学率が50%を超えたと言っても、大学に進学しない人は18歳以降は学問的な場にある歴史との関係は絶たれがちです。歴史教科書が歴史研究者によって書かれていると言っても、受験科目として世界史・日本史の双方を選択するのは本当にごく少数です。つまり実際にはきわめて多くの人は、学問的なものを媒体とした歴史にそれほど接しているわけではありません。織田信長、ナポレオン、ヒトラーのことを知らない人が50%を超えていることはないかもしれませんが、しかしその知識はTV,映画、漫画、あるいは新聞などのメディアを媒体としたものです。歴史研究者の歴史漫画への関与は、そうしたパブリックな場にある歴史に対する認識を、学問的な立場から見てより正確なものとするために、ということなのかもしれません。

# by pastandhistories | 2022-07-23 15:38 | Trackback | Comments(0)

PH徒然3

 映画とマンガのどちらが実際の過去をより写実的に伝えるか、という問題もまたかなり自明です。映像が細かい点までも正確に写し出すのに対して、漫画は略画であり、しばしば作者による対象の大きなデフォルメを伴うからです。reality への近似性・模写性という点では間違いなく漫画は映画に対して劣位にあると考えられがちです。
 しかしあながちそうとは言いきれません。例をあげましょう。田中優子が書いた『カムイ伝』論です。この作品をとおして彼女は『カムイ伝』が多くの人の知識とするところではなかった、江戸時代の百姓の生活をきわめて忠実に再現していることを指摘しています。この歴史像は、前に記事で記した江戸時代、そして日本の歴史をサムライの歴史としてきたを歴史観に大きな修正を迫りました。なぜ形式としては映像表現より劣位にある漫画が、むしろ過去のリアリティをより忠実に再現するものであるのか。その理由は漫画にはある種の批判性、対抗文化の要素が存在しているからです。たとえば昨日も取り上げられた、言及されることの多い『マウス』。そもそも歴史的事件を証言をもとに描いていながら、登場するのは人間ではなくタイトルが示すように動物。写実であれば、人間が動物なわけがない。完全なデフォルメです。しかしデフォルメをとおして過去の事実を伝えることもできる、批判性を内包する漫画だからこそ行いうることです。そしてそうした批判性は、映画に比較すれば漫画の方がはるかに少数の手によって、時には個人単位でも可能であるということによって担保されています。
 パラドキシカルなことですが、歴史研究者による歴史の記述を、歴史研究者が事実性において優位にあると考えるのはこのためです。オーディオヴィジュアルなことに関わる新しい様々なテクノロジーを駆使して制作されているTVや映画に近似化された過去を伝える能力があることは否定できない。しかし、文字を媒体とした歴史の多くは、なお個人的な作業です。漫画がそうであるように、事実の写実性・模写性という点では劣位であっても、それなりの批判性を保持している。そこから映画やTVの歴史は事実ではないという議論を行っているわけです。しかし問題は、そうしたレベルにとどまっている限りは、狭い学問的世界では正当性をもっても、既に映像的な歴史を受け入れているパブリックな場では劣位であることです。歴史研究者はしばしば「本当は」「事実は」という一般書を書きます。それなりの市場性がありますが、いわゆるポピュラーヒストリーを覆すものではありません。それだけでは歴史修正主義やヒストリーウォーに対抗していくことは難しいでしょう。

# by pastandhistories | 2022-07-23 12:24 | Trackback | Comments(0)

PH徒然2

 前の記事で歴史研究者の「能力の不足」と書きましたが、これはかなり重要なことです。博物館でプロジェクトが組まれるような場合は別ですが、ほとんどの歴史研究者は自身の手で歴史映画を作ることはできません(最近はパソコンを駆使して、オーディオヴィジュアルな過去表象を試みる若手研究者も増えつつありますが、歴史を素材とした商業映画やTVのレベルに達することは、個人の力では不可能でしょう)。
 この問題はとても重要です。しばしば「現在が歴史を作る」ということが常識のように語られますが、この言葉は「現在のテクノロジーを支配するものが歴史を作る」というように置き換えたほうがよいところがあります。たとえば文字を媒体とした歴史がなぜある時期まで主流だったのか。おそらくそれは支配層が文字を寡占し、文字を用いた歴史を、支配の正当化・社会の統合のための手段としたからです。この目的のために、支配層は歴史家を保護し、保護された歴史家たちは文字をもちいた歴史を残しました。現在基本的・古典的な史料をして歴史研究者が使用しているものの多くはそうしたものです。
 したがって例えば新聞からラジオ・TV・映画というように、社会統合の手段が文字的なものからオーディオヴジュアルなものへと移行すれば、歴史を作り出すものもまた文字的なものから映像・音声的なものに移行しますし、さらに進んで社会統合の手段がデジタルなものへと向かえば、歴史を作り出すものもデジタルなものへと移行します。現在歴史研究者の多くが、デジタルなものの取入れを競い合っているのもそのためです。「現在のテクノロジーを支配するものが歴史を作る」からです。歴史研究者は意外なほど、そして無批判的に、その時代の統治技術に従属しがちです。
 この問題は前の記事、つまり映画やテレビなどをとおした filmic reality をどう考えるのかという問題と関連します。繰り返すと、間違いなく文字を媒体としたものに比して、映像・音声を媒体としたものは reality を近似的なものとして伝えます。新聞とテレビのどちらが、事実に近似的か、あるいは模写しているかは、議論の必要もないことです。しかし、映像化された歴史の reality には実は大きな問題もあります。たとえば時代劇映画やTV。そこから私たちはどのような歴史認識を得ているでしょうか。例を挙げれば武士道。多くの人は、映像化された歴史をとおして日本はサムライの国であったということを、さほどの疑いもなく認識しています。その前舞台としてのしての戦国時代。仮にそれらが何らかの史料に基づいていたとしても、それは本当の過去の姿でしょうか。この問題はアメリカの西部劇、ヨーロッパの中世や近世を扱った映画に関しても言えますが、それらは決して本当の過去の姿ではありません。その理由は、そうした映画やTVの制作を管理・支配しているのは、間違いなく統治スステムの側だからです。そうした統治システムの側が作り出している歴史が、商業的なシステムをとおしてオーディアンスに植え付けられているわけです(批判的な流れがまったくないというわけではありません)。
 実はこうした問題が、昨日の発表で取り上げられた漫画、演劇、そしてこれらとは一貫関係なさそうに見える、学問的な歴史研究と関係します。

# by pastandhistories | 2022-07-23 10:11 | Trackback | Comments(0)

PH徒然1

 ここがブログだということを今日思い出しました。ブログということは、日々の出来事を記録する場となります。もともとは海外の学会に出た時にホテルではどうしても時間が余るので、学会の報告から得たヒントをもとに、その内容やそれにまつわる理論的なことを書いていました。今日は出発点に戻って、昨日のZOOM研究会で感じたこと、言い足りなかったことを書きます。
 昨日は大学院生がバンド・デシネ(フランスの漫画的なもの)について報告してくれました。丁寧な報告で、随分と参考になりました。当然テーマの一つは歴史とビジュアルなものとの関係について。この問題をここでは少し整理してみます。
 まず、報告もローゼンストーンの紹介から始まりましたが、ローゼンストーンの議論の要旨は、「過去には光景も音声もあった」それを「文字のみによって表象することは、as it was にはならない。歴史が過去を as it was として represent するというのなら、文字のみによってあらわされることはありえない。つまり歴史記述(historiography)には大きな限界がある」というものです。ここから彼は「音声」や「光景」を伴う映画というオーディオ・ヴィジュアルな過去の表象にある reality-like な要素を評価し、それを過去に対するsimilarity を有する filmic reality と呼んだわけです。ヘイドン・ホワイトなどもこうした考えから、ヴィジュアルなものをとおした過去を historiography にたいしてhistoriophoty と呼びます。
 ある意味では当たり前の考えですが、何故これが歴史研究者の側の受け入れるところとならなかったのには、二つの理由があります。一つは、近代以前に関するオーディオヴィジュアルな史料が乏しいからです。オーディオな史料は皆無に近い。ヴィジュアルな史料もまた写真技術の発明以前にはデフォルメを伴っているものが多く、さらには映画技術の発明以前いは、動作を伴うものはやはり皆無に近かったからです。したがって文書史料をそうした時代の事実の根拠とする側からは、そうした史料がなかった過去をオーディオヴィジュアルなかたちで(史料にない)ディテイルにいたるまで表象するのは、fictional な、imaginative なものを伴い、過去の reality から乖離するとされたからです(本当はこの議論には矛盾が内在していますが、ここでは触れません)。
 もう一つは、主として大学などの研究機関に所属していた研究者のが側に、オーディオヴィジュアルなかたちで過去を表象する能力や問題意識が決定的に不足していたからです。何よりも彼らのオーディエンスは同じような研究者仲間であり、また発表媒体も主として文字を媒体とした歴史学雑誌ですから、その必要があまりありませんでした(ただし一般書には随分と図画像が使用されています)。対して博物館などの従事者は、オーディエンスにより広がりがあるので、オーディオヴィジュアルな表象を過去の reality を伝えるための当然の方法としていたわけです。
(長くなるので、続きは次の記事に)

# by pastandhistories | 2022-07-23 09:24 | Trackback | Comments(0)

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